テノリライオン
ルルヴァードの息吹 10
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匿名ユーザー
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「それは、薬とか医者とか、そういったものではそもそもないらしいのです。
黒魔道士ギルドマスターの話によると――」
夜明け前の原生林を、大小四頭のチョコボが駆け抜ける。
乱立するエネルギッシュな草木と複雑に隆起する地面が共謀して作り出す、うねうねと曲がりくねる立体迷路のようなユタンガ大森林を縫うようにして、バルトとヴォルフ、ドリーとそしてイーゴリが、ノーグを目指してひた走っていた。
黙々と先導するバルトの後ろでチョコボを駆りながら、ヴォルフが語る。
「数年前、一人の魔道士が、ドレインやアスピル――いわゆる生体エネルギーや精神力のトランスファーマジックについての研究を始めました。 研究そのものは順調で、様々な新しい発見もあったそうですが、いつのまにかその魔道士は――踏み外してしまったらしい」
『というと?』
今やルカ以外の六人全員が接続している通信パールの向こうから、ノーグにいるルードの相槌が届く。 ヴォルフは続けた。
「理論や必要最低限の証明といった行動範疇を大きく逸脱して、動物や、時には人を使った生体実験に手を染めるようになったそうだ」
「生体実験……」
ヴォルフの背後で、その体に合った小柄なチョコボにまたがるドリーが、生理的嫌悪感を込めた声でつぶやいた。
「当時黒魔道士ギルドに所属していたその魔道士を、マスターは再三再四諌めたそうです。 が、彼は頑として聞き入れず、ついにはその研究に召喚魔法を絡め――更なる実験を、繰り返した。 結果として彼はギルドを追放され、その後逃げるように身一つでノーグに隠遁したという噂だけが残った、と……」
追放。 放逐。 先頭を走っているため誰にも見えないバルトの表情が、更に陰鬱に翳る。
動機も経緯も全く異なるとは言え、学究の場を失ったという点において、その魔道士とバルトの境遇は実に同じだった。
故に――全てを差し置いて。 判ってしまう、その思い。
その気さえあればどこででも学べると割り切って、半ば以上自ら進んでギルドを離れたバルトですら、極限まで恵まれた環境が整うギルドに焦がれ振り返ることは一度や二度ではなかった。
なかったというのに――そのやり方が非道に行き過ぎていた為であれ、順調に進んでいた研究内容を受け容れられずにその庭を追われてしまった彼の、無念は。 憤りは、焦燥は――いかばかりだったろうか――
まとわりつく煙草の煙のような、苦い物思いに身を縛られるバルト。 その周囲では全ての風景がまたたく間に後ろに流れ、逞しい足音を大地に響かせるチョコボ達が狭い木々の谷間をすり抜け疾走する。 咄嗟に避けそこねた細い木の枝が、バルトの頬をぴしっと叩いた。
耳を裂く風音の中で、ヴォルフの説明が続いている。
「そして数ヶ月前、ノーグ奥にある居住区の一角から、その研究の『成果』が発見されました。 最終的に管理にこぎつけたのはシーフギルド。 現在海蛇の洞窟に保有しており、特殊なルートでそこを紹介され訪れる一部の人々の窓口も彼らがしているそうです。 勿論、高額な仲介料を取って」
「……つまりそれが、医者だ薬だと噂されていたものの正体だってことなのか?」
「そうです」
イーゴリの問いかけに、ヴォルフが頷く。 再び通信パールからルードの声が響いた。
『え、ちょっと待って下さいよ。 発見、って――その魔道士が発表した、の間違いじゃないんですか?』
「発見だ。 ノーグ彼の住居に何日も出入りがないのを不審に思った隣人が、鍵も開いたままでもぬけのからの彼の部屋と、残されたそれを見つけたのが最初らしい」
「――ああもう、何だかよく判んないわ! それで結局なんなのよ、その『成果』ってのは?」
あちこちに飛ぶ話に業を煮やしたのか、ついにドリーの苛立ったような声が上がった。
バルト以外の全員が息を詰める気配の中。 つまり――、とヴォルフは口を開いた。
「ドレイン、アスピル。 この魔法が実体を伴って具現化していた、という事らしいです。 ただ、その者自体がエネルギーを吸収したり放出したりするのではなく、ある一方から一方へと流す橋渡しをするというのがその具体的な能力のようです」
「――それで……死刑囚、なのか――」
「はい」
その説明で全てを察したらしいイーゴリが、暗澹とした声を漏らした。 ヴォルフが短く肯定する。
と、通信パールの向こうで『死刑囚!?』と驚くフォーレの声が聞こえた直後、何かを叫ぶ声と共に音声がざざっと乱れた。
「フォーレ!? どうしたの、ルード?」
その様子に、ドリーが慌ててパールに声を送る。 チョコボに乗る全員がはっと耳を傾ける中、しばしの沈黙を経てルードの声が戻ってきた。
『すいません、大丈夫です。 ちょっと怪しげなやつらに声かけられたんで、チョコボで外に走りました――それはともかく、死刑囚がどう絡んでるってんですか?』
ルードの訝しげな問いと同時に、バルトらの乗った四頭のチョコボが勢い良く森を突き抜け、開けた台地に踊り出た。 ノーグはもう目と鼻の先だ。
熱帯の木々の重圧から解放されたヴォルフの声が、すがすがしい未明の大気を切り開く。
「つまり、その能力を仲介して人から人へ直接生命エネルギーを送り込めば、医学の及ばない病気や怪我をも治す――治すと言うよりは、上書いてしまう、と言った方が近いだろうとギルドマスターは言っていたが――そういうことが可能になる。 だが当然、送り込まれる為には送り込むべきエネルギーが必要だから」
「居なくなっても表沙汰になりづらい死刑囚が、裏で集められ『消費』されていた……という訳だな」
ヴォルフの最後の説明を、イーゴリの低い声がが引き継いで締めくくった。
明るく白んでいた東の空に、眩しい南国の朝日がゆっくりと昇ってくる。 しかし彼ら全員を覆っているのは、今にも押し潰されそうな冷たい沈黙だった。
「そんな研究成果を残して、作り手である魔道士が姿を消すというのは明らかに不自然です。 シーフギルドに捕らえられたのでなければ――実験の段階で、その性質の暴走などの不測の事故に遭いでもしたのかもしれない。 いくらバルトの怪我の治療を見込んでの事に違いないとは言え、そんな物騒なものの所に何故ルカさんが単身向かってしまったのかは判りませんが……もしそうなら、急いで止めなくては――」
「……そんな、そんな危ない所に……ねぇ、それはモンスターか何かなの? どうしよう、もしあの子が襲われでもしたら――」
震えるドリーの言葉に、ヴォルフは首を横に振る。 ようやく見えてきた、海蛇の洞窟の入り口を覆う絹糸のような滝の前に、ノーグから逃れて地上で待つルードとフォーレの姿があった。
「いいえ、シーフギルドに御することが出来たぐらいです、その気性自体は荒くないと聞いています。 姿形としてはモンスターではなく、幻獣に分類されるそうです。 そいつの名は――――」
* * *
「僕? 僕はルルヴァード」
外から見張りの怒声がかすかに漏れ聞こえる扉を離れ、ゆっくりと部屋の中央へ歩み寄ったルカの誰何に。
小さな獣は、子供のような声でそう答えた。
その部屋の岩壁に掛かるいくつものかがり火のうち、点いているのはほんの数本。 そんな薄暗い部屋の中、ルカの目の前で、純白のカーバンクルが清冽な光をまとって座っていた。 まるで夜空に浮かぶ荒々しい満月のように、その周りの闇を殊更に深く映している。
カーバンクルと言えば額のルビーだが、この獣の額には何もなく。 代わりに大きな二つの瞳が、燃えるように紅い。
そんなアルビノを思わせる大きな猫ほどの生き物が、ふさふさした尻尾をゆらめかせながら、ルカに向かって人語を語りかけているのだった。
「何だ、今日は多いなぁ。 残りは? 後から来るのかい?」
――多い? 残り? 何を言っているのか――これは、カーバンクル? 何故こんな所に……白いカーバンクルなんか、初めて見た……いや、今はそれどころじゃない。 急がないと――
背後で響き始める、扉に体当たりをするような重い音にはっと我に返ると、ルカは素早く周囲を見回した。
扉を塞いでいるものも含め木箱がいくつか置かれているが、それは皆壊れかけたり朽ちていたり、いかにも打ち捨てられた倉庫の残骸、といった感じだった。 どう見ても大事な薬の類を保管しているようには見えない。 後は部屋の奥に何やら布の塊のようなものが転がっているだけ。 とにかく全てが、薄暗くて判然としない。
繰り返し扉を強く打つ音に、ルカの眉根が険しく寄る。 なりふり構っている場合じゃない。
「ねぇ、この部屋に薬みたいなものは置いてないかしら」
どうにか自らを鼓舞し、見も知らぬ生命体と進んで会話をする戦慄を押さえ込んで、ルカはその獣――ルルヴァードに尋ねる。 背後の見張りたちの殺気もあいまって、焦りと緊張感の板挟みだ。 手のひらに冷たい汗がにじむ。
「薬?」
小さな肉球を揃えて座るルルヴァードが、ちょこんと首をかしげる。 実にかわいらしい仕草だが、それに和むだけの余裕は今のルカにはない。
「ないと思うよ。 見ての通り、いるのは僕だけだ。 こんな所に薬なんか置いといてどうするんだい」
「ど……うする、って――」
あっさりと予想を――希望を突き崩されたルカの頭の中が、一瞬で真っ白になった。 言葉を失いマネキンのように立ち尽くす彼女を、何を言ってるのか、という風情で見上げるルルヴァード。
それは俗に言う八つ当たりのようなものだったが、そんなことを分析する余裕もルカにはない。 かっと湧き上がる怒りにも似た感情に、彼女は我を忘れて声を荒げた。
「いま――今、出て行った人! あの人、ここで何かを治して行ったんじゃないの!? そうでしょ、あれだけ警備がいて、何にもない筈ないわ! ねぇ、今のやたらハデで恰幅のいい人! ここで何をして行ったの!?」
「んー?」
いきなり一人で飛び込んできて、恐る恐る話しかけてきたかと思えば。 ないよ、と答えたとたんカチンと固まり、次いで一転怒りの表情でかみつくように喋り出した妙な娘。
ルルヴァードの瞳に、ふいに好奇の色が浮かんだ。 その目をくりっと開きながら、彼は言う。
「何って。 あの人は、もらって行った方の人だよ」
「もらって――行った?」
「うん、で」
見張り達が扉を開こうと体当たりをする音がいよいよ大きく響く中、ルルヴァードはふるんと一つ首を振った。 すると、消えていた松明の全てにぱぁっと火が灯る。 そして。
「――――っ!!」
ルカが大きく息を呑み、両手で口を抑えて一歩あとずさった。
「あれが、あげた方ね」
部屋の奥にあった、布の塊と思っていたものが、オレンジ色の明かりに照らされて浮かび上がる。
それは、服の山だった。 いや、もっと正確に言うならば――干からびて、折り重なる、人間のミイラの山。
先程の太って色つやのよかった男のそれとは対照的に何の飾りもない、どれもこれも同じように質素で無機質な衣服に包まれた体が、いくつも。 それがまるで中のものを全て吸い取られたかのように、骨に皮をかぶせただけになって――
「ああそうか、治すっていうのはそういう意味でか……。 うん、今の人も、担がれて入って来るぐらいに弱ってたからね。 持ってきた人を二人ほど使って、『治して』行ったよ」
「つ……かっ、て……って……、何……?」
部屋の奥から視線を外せないまま、蚊の鳴くような声でルカが訊いた。 予想だにしなかった凄惨な光景に、足が震え出す。 頭の片隅でおぼろに答えが出ているのが見えるのに、恐怖がそこから必死で目を逸らしている。
「そりゃ、あの人達の」
と言って、事もなげにルルヴァードはミイラの山をくいっと顎で指した。
「エネルギーをだね。 さっきの人に移動するように、僕がしたわけさ。 そうするとそっちは元気になる。 君もその用で来たんじゃないのかい?」
数秒をかけてルルヴァードの言葉を、事の次第を理解したルカの中で、張り詰めていた緊張がぴきんと切れた。
(なんて、こと……)
――薬、じゃ、なかったのか。 『化け物みたいな治癒力』は、『化け物がもたらす治癒力』だったのか。 全てを回復させるという力は、あんな恐ろしい犠牲を払ったうえで、得るものだったのか――
くたくたっ、と、ルカの体がルルヴァードの前にへたり込んだ。
「ん? 今度はどうした?」
再度静かになったルカに小さな獣はとことこと歩み寄り、真紅の瞳が興味深げに彼女の顔を下から覗き込む。 と、その時。
地面に刺さって扉が開くのを食い止めていたルカの短剣が、ついにばきんと折れ飛んだ。 勢いよく蹴り開けられた扉はその前を塞ぐ木箱にがんとぶつかって止まるもすぐにずるずると押し開けられて、気色ばんだ見張りのシーフ達が怒声と共になだれ込んで来る。
「おら貴様! ナメた真似を――」
「うるさいなぁ」
殺気立って向かってくる男達を迎える、忌々しげな声。 それはルカではなく、小さなルルヴァードのものだった。
紅い目がぎっと彼らに向けられる。 するとその瞬間、彼らの体はまるで掃除機で吸い出されるように凄まじい勢いで宙を飛び引き戻されたかと思うと、今まさにこじ開けたばかりの扉からまとめて部屋の外へと吐き出されていった。
そのままどこかに叩き付けられでもしたか、それともずっと遠くまで飛ばされたのか。 突然の喧騒も束の間、彼らの抵抗する悲鳴すら聞こえず、ルカとルルヴァードの二人が残された部屋には何事もなかったかのようなさらりとした静寂があっけなく戻ってきた。
* * *
かがり火の落ち着きのない光がゆらめく中、ぺたんと座り込んだ膝元で、純白の獣がきらきらした瞳で見上げている。
彼が弾き飛ばしたらしい見張り達の消えて行った扉を呆然と振り返っていたルカは、ゆっくりと焦点の定まらない視線を戻して、目の前のルルヴァードをぼんやりと眺めた。
きれい、だった。
こんな湿った洞窟にいるのに汚れの一つもなく、どこまでも白くやわらかそうな毛皮は、その毛先の一本一本まで神々しく輝いて。 液体を満たしたような二つのルビーの下の、つくねんとした鼻と口。 ふわりと白い炎のような尻尾がゆらゆらと揺れている。
――この小さくて、可愛い生き物が――治して、しまう。
でもその為には、この子の所にバルトを連れてこなきゃいけないし――ううん、それ以前に。
こんな恐ろしく、忌わしい方法で……人を犠牲に、何かを犠牲に、彼の喉を治すだなんて。 そんなことは……できない。 できるわけが、ない――
座り込んだルカの全身を、恐ろしいほどの虚脱感がどっと襲った。 立て続けのショックで、奇妙に現実感が薄れている。
薬が、何がしかの手段があると信じて、ここに来るまでずっと強く張り詰めて彼女を動かしていた見えない糸が一気に断ち切れ、体がずしりと重くなったような感覚さえ覚える。
力なく背を丸めて放心し、開いているのに何も見ていないような彼女の瞳から、ぽたり、と雫が一つこぼれ落ちた。
するとそれを皮切りに、二つ、三つ四つと、ゆっくりと春の雨が降り出すように、雫は次々と彼女の膝に優しい点を描き始める。 その落ちる涙の一つ一つを、ルルヴァードの目が忙しく追っていた。
「最近、ね……」
やがて静かな嗚咽と共に、うわ言のようにルカは喋り出す。
「最近、ちょっとずつ、食が細くなって――きてるの……。 前から、そんなに、食べる……っく、食べる方じゃ、なかったんだけど……ここんとこ、段々、ゴハン、残すようになって、きて……の、喉の、ケガのせいだったら、ど、しようか、って――」
うーっ、と小さく唸って、ルカの顔がぐしゃっと歪んだ。 ルルヴァードはそんな彼女を不思議そうに見上げている。
「ほ、本も――魔法関係の、本も、増える、ペースが――ぐすっ、うっく、あ、上がってきて、て……いわ、言わない、けど、だいじょぶだって、言ってるけ、ど……た、多分、ちゃんと自分で……っ、魔法、使いたいんだと、思うの――」
いよいよ溢れる涙を、ルカは右手の甲で押さえて大きくしゃくりあげた。
「でもっ、ひっく、も、どうしたら、いいか……わか、わかんないのよぅ……ほ、星の神子様でも、治せなくて、ぐす、そ、そしたらもう、普通のお医者さんじゃ、ダメだし――っ」
ふえぇぇ――とルカは、いよいよ子供のような頼りない泣き声をあげる。 彼や皆の前では気丈に振る舞い抑えていたものが、この純白の獣の前で堰を切ったように溢れ出していた。
そうして自分の前に力なく座り込んで泣きじゃくる彼女に、じっと視線を注ぐのはルルヴァード。 つぶらな瞳に宿る好奇の色は変わらないが、いつのまにかゆらめく尻尾の動きは止まっていた。
「ねぇ、あと――あと、どこに、行けば、い、いいの? ……治して――うっうっ、治して、くれる人、誰か……えっく、お願い、う――っく、ひっく、誰か、ねぇ――」
もう言葉にならない。 小さく肩を震わすルカのむせび泣く声が、しんと静まる洞窟の床に流れて溶けていく。
ルルヴァードは何も言わない。 ただその真紅の瞳で、神妙に観察するように、小柄なミスラをじっと見つめている。
* * *
――どれだけそうして、泣いていただろうか。
ぐすっ、ぐすっとしゃくりあげるルカの嗚咽が、ようやく少しずつ、収まってくると。
それを静かに見守っていたルルヴァードが、ゆっくりと口を開いた。
「――『治し』たい人が、いるんだね?」
彼の言葉に、ルカはこくりと頷いた。 また涙がこみあげてきて、息がつまる。
「じゃ、やってごらん」
そう言うとルルヴァードは、すっと彼女の左に回り込んだ。
そして、だらりと下げていた彼女の左の手のひらに顔を近づけたかと思うと、ふぅっと息を吹きかけた。
ルカはその冷たさに驚いて、ぱっと手を引く。 目の前の存在が尋常のものではないことを改めて思い出し、ショックで虚脱し抜け落ちていた緊張感が一瞬にして戻った。 そんな彼女の動作に気を悪くした風もなく、ルルヴァードは彼女を見上げて言う。
「それを、治したい所にあてるんだよ。 最初は精神力、それで足りなければ生命力で、相手の体の損失を補完するから」
ルルヴァードの言葉を聞きながら、ルカは自分の左手のひらをまじまじと見つめる。
ぼんやりと赤い、不思議な光が宿っていた。 まるで生きて、うっすらと寝息を立てているかのように、内側からゆっくりと脈打っている。
「え……これ、が……」
彼の力なのか。
「君が『治したい』人は、死にそうという訳じゃないんだろ?」
戸惑ったようなルカに、ルルヴァードは優しい声で答える。
「だったら『使い』切ったりはしないで済むと思うよ。 精神力で終わらなければ体力を消耗して、ぐたっと疲れるぐらいはするかもしれないけど――」
確かに、バルトの怪我は、規模としては小さい。 生命の火を消すようなものでもない。
しかし未知の、そして恐ろしく強い力で、それは彼の喉に定着しているのだ。 彼自身の治癒力はもちろん、ウィンダス連邦元首の星の神子の癒しすらも、食い込むその根を溶かすことも引き剥がすこともできずに今日に至っている。
そんなものを。 たったルカ一人の体力をもって、治せるものなのか――そう、魔法を扱わない彼女には、生命力しかないのだ。
『つかぬ事をお伺いしますが。 魔法の心得は、いかほどおありですかな』
シーフギルドを去り際、幹部の男が言ったセリフが、彼女の脳裏に蘇る。
この事だったのか――と、ルカの視線は左下にある自分の左手から上がり、ルルヴァードの向こうの、かつて人だったものの山に吸い寄せられた。 ぶるっと彼女の体に戦慄が走り、全身が泡立つ。
「自分でない者を治してくれ、と来たのは君が初めてだ」
膝元から、何故だか親しげなルルヴァードの声。 我に返ったようにルカは小さな彼をはっと見下ろした。
「これまでずっと、『あげる方』は眠ったまま来る人達ばっかりだったし、使い切らなくても目を覚まさないまま運ばれて帰っていったからね。 そういうもんなんだと思ってたけど」
真紅の瞳が、こころなしか細まる。 ふさふさの尻尾が、またゆらゆらと揺れはじめた。
「そうでない事もあるんだねぇ。 これまでにない注文で、なかなか興味深かったよ。 君みたいな人もいるとは知らなかった」
一人納得するルルヴァードに追いつけず内心で慌て始めるルカを、今度は淡く白い光が包んだ。
「一日もほっとけばその手の光は消えちゃうから、急いだ方がいい。 とりあえず外までは送ってあげよう。 成功を祈ってるよ」
ルルヴァードの満足げな言葉と共に、ルカの姿はふわりと部屋から掻き消えた。
to be continued
夜明け前の原生林を、大小四頭のチョコボが駆け抜ける。
乱立するエネルギッシュな草木と複雑に隆起する地面が共謀して作り出す、うねうねと曲がりくねる立体迷路のようなユタンガ大森林を縫うようにして、バルトとヴォルフ、ドリーとそしてイーゴリが、ノーグを目指してひた走っていた。
黙々と先導するバルトの後ろでチョコボを駆りながら、ヴォルフが語る。
「数年前、一人の魔道士が、ドレインやアスピル――いわゆる生体エネルギーや精神力のトランスファーマジックについての研究を始めました。 研究そのものは順調で、様々な新しい発見もあったそうですが、いつのまにかその魔道士は――踏み外してしまったらしい」
『というと?』
今やルカ以外の六人全員が接続している通信パールの向こうから、ノーグにいるルードの相槌が届く。 ヴォルフは続けた。
「理論や必要最低限の証明といった行動範疇を大きく逸脱して、動物や、時には人を使った生体実験に手を染めるようになったそうだ」
「生体実験……」
ヴォルフの背後で、その体に合った小柄なチョコボにまたがるドリーが、生理的嫌悪感を込めた声でつぶやいた。
「当時黒魔道士ギルドに所属していたその魔道士を、マスターは再三再四諌めたそうです。 が、彼は頑として聞き入れず、ついにはその研究に召喚魔法を絡め――更なる実験を、繰り返した。 結果として彼はギルドを追放され、その後逃げるように身一つでノーグに隠遁したという噂だけが残った、と……」
追放。 放逐。 先頭を走っているため誰にも見えないバルトの表情が、更に陰鬱に翳る。
動機も経緯も全く異なるとは言え、学究の場を失ったという点において、その魔道士とバルトの境遇は実に同じだった。
故に――全てを差し置いて。 判ってしまう、その思い。
その気さえあればどこででも学べると割り切って、半ば以上自ら進んでギルドを離れたバルトですら、極限まで恵まれた環境が整うギルドに焦がれ振り返ることは一度や二度ではなかった。
なかったというのに――そのやり方が非道に行き過ぎていた為であれ、順調に進んでいた研究内容を受け容れられずにその庭を追われてしまった彼の、無念は。 憤りは、焦燥は――いかばかりだったろうか――
まとわりつく煙草の煙のような、苦い物思いに身を縛られるバルト。 その周囲では全ての風景がまたたく間に後ろに流れ、逞しい足音を大地に響かせるチョコボ達が狭い木々の谷間をすり抜け疾走する。 咄嗟に避けそこねた細い木の枝が、バルトの頬をぴしっと叩いた。
耳を裂く風音の中で、ヴォルフの説明が続いている。
「そして数ヶ月前、ノーグ奥にある居住区の一角から、その研究の『成果』が発見されました。 最終的に管理にこぎつけたのはシーフギルド。 現在海蛇の洞窟に保有しており、特殊なルートでそこを紹介され訪れる一部の人々の窓口も彼らがしているそうです。 勿論、高額な仲介料を取って」
「……つまりそれが、医者だ薬だと噂されていたものの正体だってことなのか?」
「そうです」
イーゴリの問いかけに、ヴォルフが頷く。 再び通信パールからルードの声が響いた。
『え、ちょっと待って下さいよ。 発見、って――その魔道士が発表した、の間違いじゃないんですか?』
「発見だ。 ノーグ彼の住居に何日も出入りがないのを不審に思った隣人が、鍵も開いたままでもぬけのからの彼の部屋と、残されたそれを見つけたのが最初らしい」
「――ああもう、何だかよく判んないわ! それで結局なんなのよ、その『成果』ってのは?」
あちこちに飛ぶ話に業を煮やしたのか、ついにドリーの苛立ったような声が上がった。
バルト以外の全員が息を詰める気配の中。 つまり――、とヴォルフは口を開いた。
「ドレイン、アスピル。 この魔法が実体を伴って具現化していた、という事らしいです。 ただ、その者自体がエネルギーを吸収したり放出したりするのではなく、ある一方から一方へと流す橋渡しをするというのがその具体的な能力のようです」
「――それで……死刑囚、なのか――」
「はい」
その説明で全てを察したらしいイーゴリが、暗澹とした声を漏らした。 ヴォルフが短く肯定する。
と、通信パールの向こうで『死刑囚!?』と驚くフォーレの声が聞こえた直後、何かを叫ぶ声と共に音声がざざっと乱れた。
「フォーレ!? どうしたの、ルード?」
その様子に、ドリーが慌ててパールに声を送る。 チョコボに乗る全員がはっと耳を傾ける中、しばしの沈黙を経てルードの声が戻ってきた。
『すいません、大丈夫です。 ちょっと怪しげなやつらに声かけられたんで、チョコボで外に走りました――それはともかく、死刑囚がどう絡んでるってんですか?』
ルードの訝しげな問いと同時に、バルトらの乗った四頭のチョコボが勢い良く森を突き抜け、開けた台地に踊り出た。 ノーグはもう目と鼻の先だ。
熱帯の木々の重圧から解放されたヴォルフの声が、すがすがしい未明の大気を切り開く。
「つまり、その能力を仲介して人から人へ直接生命エネルギーを送り込めば、医学の及ばない病気や怪我をも治す――治すと言うよりは、上書いてしまう、と言った方が近いだろうとギルドマスターは言っていたが――そういうことが可能になる。 だが当然、送り込まれる為には送り込むべきエネルギーが必要だから」
「居なくなっても表沙汰になりづらい死刑囚が、裏で集められ『消費』されていた……という訳だな」
ヴォルフの最後の説明を、イーゴリの低い声がが引き継いで締めくくった。
明るく白んでいた東の空に、眩しい南国の朝日がゆっくりと昇ってくる。 しかし彼ら全員を覆っているのは、今にも押し潰されそうな冷たい沈黙だった。
「そんな研究成果を残して、作り手である魔道士が姿を消すというのは明らかに不自然です。 シーフギルドに捕らえられたのでなければ――実験の段階で、その性質の暴走などの不測の事故に遭いでもしたのかもしれない。 いくらバルトの怪我の治療を見込んでの事に違いないとは言え、そんな物騒なものの所に何故ルカさんが単身向かってしまったのかは判りませんが……もしそうなら、急いで止めなくては――」
「……そんな、そんな危ない所に……ねぇ、それはモンスターか何かなの? どうしよう、もしあの子が襲われでもしたら――」
震えるドリーの言葉に、ヴォルフは首を横に振る。 ようやく見えてきた、海蛇の洞窟の入り口を覆う絹糸のような滝の前に、ノーグから逃れて地上で待つルードとフォーレの姿があった。
「いいえ、シーフギルドに御することが出来たぐらいです、その気性自体は荒くないと聞いています。 姿形としてはモンスターではなく、幻獣に分類されるそうです。 そいつの名は――――」
* * *
「僕? 僕はルルヴァード」
外から見張りの怒声がかすかに漏れ聞こえる扉を離れ、ゆっくりと部屋の中央へ歩み寄ったルカの誰何に。
小さな獣は、子供のような声でそう答えた。
その部屋の岩壁に掛かるいくつものかがり火のうち、点いているのはほんの数本。 そんな薄暗い部屋の中、ルカの目の前で、純白のカーバンクルが清冽な光をまとって座っていた。 まるで夜空に浮かぶ荒々しい満月のように、その周りの闇を殊更に深く映している。
カーバンクルと言えば額のルビーだが、この獣の額には何もなく。 代わりに大きな二つの瞳が、燃えるように紅い。
そんなアルビノを思わせる大きな猫ほどの生き物が、ふさふさした尻尾をゆらめかせながら、ルカに向かって人語を語りかけているのだった。
「何だ、今日は多いなぁ。 残りは? 後から来るのかい?」
――多い? 残り? 何を言っているのか――これは、カーバンクル? 何故こんな所に……白いカーバンクルなんか、初めて見た……いや、今はそれどころじゃない。 急がないと――
背後で響き始める、扉に体当たりをするような重い音にはっと我に返ると、ルカは素早く周囲を見回した。
扉を塞いでいるものも含め木箱がいくつか置かれているが、それは皆壊れかけたり朽ちていたり、いかにも打ち捨てられた倉庫の残骸、といった感じだった。 どう見ても大事な薬の類を保管しているようには見えない。 後は部屋の奥に何やら布の塊のようなものが転がっているだけ。 とにかく全てが、薄暗くて判然としない。
繰り返し扉を強く打つ音に、ルカの眉根が険しく寄る。 なりふり構っている場合じゃない。
「ねぇ、この部屋に薬みたいなものは置いてないかしら」
どうにか自らを鼓舞し、見も知らぬ生命体と進んで会話をする戦慄を押さえ込んで、ルカはその獣――ルルヴァードに尋ねる。 背後の見張りたちの殺気もあいまって、焦りと緊張感の板挟みだ。 手のひらに冷たい汗がにじむ。
「薬?」
小さな肉球を揃えて座るルルヴァードが、ちょこんと首をかしげる。 実にかわいらしい仕草だが、それに和むだけの余裕は今のルカにはない。
「ないと思うよ。 見ての通り、いるのは僕だけだ。 こんな所に薬なんか置いといてどうするんだい」
「ど……うする、って――」
あっさりと予想を――希望を突き崩されたルカの頭の中が、一瞬で真っ白になった。 言葉を失いマネキンのように立ち尽くす彼女を、何を言ってるのか、という風情で見上げるルルヴァード。
それは俗に言う八つ当たりのようなものだったが、そんなことを分析する余裕もルカにはない。 かっと湧き上がる怒りにも似た感情に、彼女は我を忘れて声を荒げた。
「いま――今、出て行った人! あの人、ここで何かを治して行ったんじゃないの!? そうでしょ、あれだけ警備がいて、何にもない筈ないわ! ねぇ、今のやたらハデで恰幅のいい人! ここで何をして行ったの!?」
「んー?」
いきなり一人で飛び込んできて、恐る恐る話しかけてきたかと思えば。 ないよ、と答えたとたんカチンと固まり、次いで一転怒りの表情でかみつくように喋り出した妙な娘。
ルルヴァードの瞳に、ふいに好奇の色が浮かんだ。 その目をくりっと開きながら、彼は言う。
「何って。 あの人は、もらって行った方の人だよ」
「もらって――行った?」
「うん、で」
見張り達が扉を開こうと体当たりをする音がいよいよ大きく響く中、ルルヴァードはふるんと一つ首を振った。 すると、消えていた松明の全てにぱぁっと火が灯る。 そして。
「――――っ!!」
ルカが大きく息を呑み、両手で口を抑えて一歩あとずさった。
「あれが、あげた方ね」
部屋の奥にあった、布の塊と思っていたものが、オレンジ色の明かりに照らされて浮かび上がる。
それは、服の山だった。 いや、もっと正確に言うならば――干からびて、折り重なる、人間のミイラの山。
先程の太って色つやのよかった男のそれとは対照的に何の飾りもない、どれもこれも同じように質素で無機質な衣服に包まれた体が、いくつも。 それがまるで中のものを全て吸い取られたかのように、骨に皮をかぶせただけになって――
「ああそうか、治すっていうのはそういう意味でか……。 うん、今の人も、担がれて入って来るぐらいに弱ってたからね。 持ってきた人を二人ほど使って、『治して』行ったよ」
「つ……かっ、て……って……、何……?」
部屋の奥から視線を外せないまま、蚊の鳴くような声でルカが訊いた。 予想だにしなかった凄惨な光景に、足が震え出す。 頭の片隅でおぼろに答えが出ているのが見えるのに、恐怖がそこから必死で目を逸らしている。
「そりゃ、あの人達の」
と言って、事もなげにルルヴァードはミイラの山をくいっと顎で指した。
「エネルギーをだね。 さっきの人に移動するように、僕がしたわけさ。 そうするとそっちは元気になる。 君もその用で来たんじゃないのかい?」
数秒をかけてルルヴァードの言葉を、事の次第を理解したルカの中で、張り詰めていた緊張がぴきんと切れた。
(なんて、こと……)
――薬、じゃ、なかったのか。 『化け物みたいな治癒力』は、『化け物がもたらす治癒力』だったのか。 全てを回復させるという力は、あんな恐ろしい犠牲を払ったうえで、得るものだったのか――
くたくたっ、と、ルカの体がルルヴァードの前にへたり込んだ。
「ん? 今度はどうした?」
再度静かになったルカに小さな獣はとことこと歩み寄り、真紅の瞳が興味深げに彼女の顔を下から覗き込む。 と、その時。
地面に刺さって扉が開くのを食い止めていたルカの短剣が、ついにばきんと折れ飛んだ。 勢いよく蹴り開けられた扉はその前を塞ぐ木箱にがんとぶつかって止まるもすぐにずるずると押し開けられて、気色ばんだ見張りのシーフ達が怒声と共になだれ込んで来る。
「おら貴様! ナメた真似を――」
「うるさいなぁ」
殺気立って向かってくる男達を迎える、忌々しげな声。 それはルカではなく、小さなルルヴァードのものだった。
紅い目がぎっと彼らに向けられる。 するとその瞬間、彼らの体はまるで掃除機で吸い出されるように凄まじい勢いで宙を飛び引き戻されたかと思うと、今まさにこじ開けたばかりの扉からまとめて部屋の外へと吐き出されていった。
そのままどこかに叩き付けられでもしたか、それともずっと遠くまで飛ばされたのか。 突然の喧騒も束の間、彼らの抵抗する悲鳴すら聞こえず、ルカとルルヴァードの二人が残された部屋には何事もなかったかのようなさらりとした静寂があっけなく戻ってきた。
* * *
かがり火の落ち着きのない光がゆらめく中、ぺたんと座り込んだ膝元で、純白の獣がきらきらした瞳で見上げている。
彼が弾き飛ばしたらしい見張り達の消えて行った扉を呆然と振り返っていたルカは、ゆっくりと焦点の定まらない視線を戻して、目の前のルルヴァードをぼんやりと眺めた。
きれい、だった。
こんな湿った洞窟にいるのに汚れの一つもなく、どこまでも白くやわらかそうな毛皮は、その毛先の一本一本まで神々しく輝いて。 液体を満たしたような二つのルビーの下の、つくねんとした鼻と口。 ふわりと白い炎のような尻尾がゆらゆらと揺れている。
――この小さくて、可愛い生き物が――治して、しまう。
でもその為には、この子の所にバルトを連れてこなきゃいけないし――ううん、それ以前に。
こんな恐ろしく、忌わしい方法で……人を犠牲に、何かを犠牲に、彼の喉を治すだなんて。 そんなことは……できない。 できるわけが、ない――
座り込んだルカの全身を、恐ろしいほどの虚脱感がどっと襲った。 立て続けのショックで、奇妙に現実感が薄れている。
薬が、何がしかの手段があると信じて、ここに来るまでずっと強く張り詰めて彼女を動かしていた見えない糸が一気に断ち切れ、体がずしりと重くなったような感覚さえ覚える。
力なく背を丸めて放心し、開いているのに何も見ていないような彼女の瞳から、ぽたり、と雫が一つこぼれ落ちた。
するとそれを皮切りに、二つ、三つ四つと、ゆっくりと春の雨が降り出すように、雫は次々と彼女の膝に優しい点を描き始める。 その落ちる涙の一つ一つを、ルルヴァードの目が忙しく追っていた。
「最近、ね……」
やがて静かな嗚咽と共に、うわ言のようにルカは喋り出す。
「最近、ちょっとずつ、食が細くなって――きてるの……。 前から、そんなに、食べる……っく、食べる方じゃ、なかったんだけど……ここんとこ、段々、ゴハン、残すようになって、きて……の、喉の、ケガのせいだったら、ど、しようか、って――」
うーっ、と小さく唸って、ルカの顔がぐしゃっと歪んだ。 ルルヴァードはそんな彼女を不思議そうに見上げている。
「ほ、本も――魔法関係の、本も、増える、ペースが――ぐすっ、うっく、あ、上がってきて、て……いわ、言わない、けど、だいじょぶだって、言ってるけ、ど……た、多分、ちゃんと自分で……っ、魔法、使いたいんだと、思うの――」
いよいよ溢れる涙を、ルカは右手の甲で押さえて大きくしゃくりあげた。
「でもっ、ひっく、も、どうしたら、いいか……わか、わかんないのよぅ……ほ、星の神子様でも、治せなくて、ぐす、そ、そしたらもう、普通のお医者さんじゃ、ダメだし――っ」
ふえぇぇ――とルカは、いよいよ子供のような頼りない泣き声をあげる。 彼や皆の前では気丈に振る舞い抑えていたものが、この純白の獣の前で堰を切ったように溢れ出していた。
そうして自分の前に力なく座り込んで泣きじゃくる彼女に、じっと視線を注ぐのはルルヴァード。 つぶらな瞳に宿る好奇の色は変わらないが、いつのまにかゆらめく尻尾の動きは止まっていた。
「ねぇ、あと――あと、どこに、行けば、い、いいの? ……治して――うっうっ、治して、くれる人、誰か……えっく、お願い、う――っく、ひっく、誰か、ねぇ――」
もう言葉にならない。 小さく肩を震わすルカのむせび泣く声が、しんと静まる洞窟の床に流れて溶けていく。
ルルヴァードは何も言わない。 ただその真紅の瞳で、神妙に観察するように、小柄なミスラをじっと見つめている。
* * *
――どれだけそうして、泣いていただろうか。
ぐすっ、ぐすっとしゃくりあげるルカの嗚咽が、ようやく少しずつ、収まってくると。
それを静かに見守っていたルルヴァードが、ゆっくりと口を開いた。
「――『治し』たい人が、いるんだね?」
彼の言葉に、ルカはこくりと頷いた。 また涙がこみあげてきて、息がつまる。
「じゃ、やってごらん」
そう言うとルルヴァードは、すっと彼女の左に回り込んだ。
そして、だらりと下げていた彼女の左の手のひらに顔を近づけたかと思うと、ふぅっと息を吹きかけた。
ルカはその冷たさに驚いて、ぱっと手を引く。 目の前の存在が尋常のものではないことを改めて思い出し、ショックで虚脱し抜け落ちていた緊張感が一瞬にして戻った。 そんな彼女の動作に気を悪くした風もなく、ルルヴァードは彼女を見上げて言う。
「それを、治したい所にあてるんだよ。 最初は精神力、それで足りなければ生命力で、相手の体の損失を補完するから」
ルルヴァードの言葉を聞きながら、ルカは自分の左手のひらをまじまじと見つめる。
ぼんやりと赤い、不思議な光が宿っていた。 まるで生きて、うっすらと寝息を立てているかのように、内側からゆっくりと脈打っている。
「え……これ、が……」
彼の力なのか。
「君が『治したい』人は、死にそうという訳じゃないんだろ?」
戸惑ったようなルカに、ルルヴァードは優しい声で答える。
「だったら『使い』切ったりはしないで済むと思うよ。 精神力で終わらなければ体力を消耗して、ぐたっと疲れるぐらいはするかもしれないけど――」
確かに、バルトの怪我は、規模としては小さい。 生命の火を消すようなものでもない。
しかし未知の、そして恐ろしく強い力で、それは彼の喉に定着しているのだ。 彼自身の治癒力はもちろん、ウィンダス連邦元首の星の神子の癒しすらも、食い込むその根を溶かすことも引き剥がすこともできずに今日に至っている。
そんなものを。 たったルカ一人の体力をもって、治せるものなのか――そう、魔法を扱わない彼女には、生命力しかないのだ。
『つかぬ事をお伺いしますが。 魔法の心得は、いかほどおありですかな』
シーフギルドを去り際、幹部の男が言ったセリフが、彼女の脳裏に蘇る。
この事だったのか――と、ルカの視線は左下にある自分の左手から上がり、ルルヴァードの向こうの、かつて人だったものの山に吸い寄せられた。 ぶるっと彼女の体に戦慄が走り、全身が泡立つ。
「自分でない者を治してくれ、と来たのは君が初めてだ」
膝元から、何故だか親しげなルルヴァードの声。 我に返ったようにルカは小さな彼をはっと見下ろした。
「これまでずっと、『あげる方』は眠ったまま来る人達ばっかりだったし、使い切らなくても目を覚まさないまま運ばれて帰っていったからね。 そういうもんなんだと思ってたけど」
真紅の瞳が、こころなしか細まる。 ふさふさの尻尾が、またゆらゆらと揺れはじめた。
「そうでない事もあるんだねぇ。 これまでにない注文で、なかなか興味深かったよ。 君みたいな人もいるとは知らなかった」
一人納得するルルヴァードに追いつけず内心で慌て始めるルカを、今度は淡く白い光が包んだ。
「一日もほっとけばその手の光は消えちゃうから、急いだ方がいい。 とりあえず外までは送ってあげよう。 成功を祈ってるよ」
ルルヴァードの満足げな言葉と共に、ルカの姿はふわりと部屋から掻き消えた。
to be continued