テノリライオン
ルルヴァードの息吹 12
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じっとりと薄暗い海蛇の洞窟を、六人の冒険者達が突き進んでいた。
周囲の敵には目もくれず一様に殺気立ち、ときおり何かを喚きながら蹂躙するように洞窟の内部を駆け回る。
やがてそんな彼らの目に、異様な光景が飛び込んできた。 最深部に程近いある一角で、点々と散らばって倒れ伏す男たちの姿だ。 その服装から、一見して冒険者ではないことが見て取れる。
仰向けに倒れる一人の懐から覗く暗器に目を止めた黒い鎧のタルタルが、鋭い声を上げる。 それを聞いて一斉に彼らは周囲に目を配った。
と、更に奥の岩壁の一箇所が、扉のように半開きになっているのをガルカが見つける。
彼が大声で仲間を呼ぶ。 彼がその岩壁を張り倒さんばかりの勢いで蹴り開けると、駆けつけた彼らはその中に一斉になだれ込んだ。
* * *
「居たぞ!」「ルカっ! ルカぁ!」
部屋の床に丸くなって眠るように横たわるミスラからその紅い瞳を上げ、またも現れた騒々しい闖入者をルルヴァードは見やった。 今度は六人だ。
「やれやれ、本当に今日はおかしな日だなぁ……」
小さく呟くルルヴァードの姿を見て、彼らのうち数人は驚いたように、またやや怯むように駆け寄る足を緩めたが。
白い鎧と白いローブのタルタル、そして黒いローブのエルヴァーンは、一目散に彼の前のミスラに駆け寄ると喰らいつくようにしてその傍らにかがみ込んだ。
「――ルルヴァード……?」
後から駆け寄ったヴォルフが足を止め、探るような低い声で問いかけると、そこに鎮座する純白の小さな獣はひょいと目を見開いた。
「へぇ、僕の事を知ってる人もいる。 で? この子と君たちは、知り合いなのかい?」
「そうよっ!!」
ルルヴァードのごく恬淡とした返事に、がばと顔を上げたドリーが叩きつけるように言い放つ。
そして初めて見るかわいらしくも異形の生命体の姿に臆した様子もなく、恐ろしい剣幕でまくしたてた。
「あんたが、あんたがやったのね! 何なのよ、ルカを――あんな、怖い目に――!」
涙混じりの罵声。 フォーレがぐったりと動かないルカの手をさする。 バルトが彼女の顔にかかる銀色に変色した髪をかき上げ、その顔を覗き込む。
「返して! 返しなさいよ! ルカを、この子を返して!!」
両手を振り回し、最後の方はもはや金切り声だ。 その背後でイーゴリやルードも、鬼のような形相で彼を睨みつけている。
ヴォルフが、部屋の奥に積まれた塊に気がついてぎゅっと眉根を寄せた。 イーゴリが張り詰めた声で「囚人服だ」と囁く。
「は……ええっ、と……」
と。 ルルヴァードは、いかにも困ったような不本意なような風情を漂わせ、後ろ足で耳のあたりをぽりぽりと掻いた。 見た目は白いカーバンクル、しかし奇妙に人間らしい仕草。
「何だかずいぶんと誤解されてるみたいだなぁ……彼女が、自分で来たんだよ? 治したい人がいる、って言うから、協力したんだけど……」
「協力、ですってぇ!!」
あくまで穏やかなルルヴァードの言葉に逆撫でされたように、ドリーが更に激昂する。
「人の命をもぎ取って流し込むなんて、そんな非人道的な、そんな恐ろしい事! この子に、させるんじゃないわよ!!」
「えええ……?」
更に更に困惑したような表情を見せるルルヴァード。 小さな鼻の頭に小さなしわを寄せた。
「それを僕に依頼してきたのは、君達人間なんだけど……というか」
今度は純粋な疑問符を浮かべ、小首を傾げると小さな白い獣は彼らを見渡して訊いた。
「君達人間は、そうやって種を維持してるんじゃないの?」
「違うわよ!」「違います!」
ドリーに続き、フォーレも耐えかねたように反論の声を上げた。
「人の命を紙屑のように犠牲にすることで自分だけ助かろうなんて、そんなのは絶対しちゃいけない事です!!」
「へぇ……ふぅん……?」
叱責にも似たフォーレの言葉に、ルルヴァードはくるくると首を傾げる。 何やら小難しい問題を出題されて四苦八苦している子供のようだ。
「どうも……君達は、面白いね。 今まで見てきた人間達とは、言っている事がまるっきり違う。 その子も――ルカって言うのかい? 彼女も、ずいぶんと一生懸命に願っていたよ。 だから……ああ」
幾分独り言のように自分の思いを口にしていたルルヴァードが、ふっと思い出したように足元のルカを目で指した。
「だから、何だかやっぱり見過ごせなくてね。 すぐ上で転送の始まる気配がして、しかも結構ぎりぎりまで消費してたから驚いたんだ。 とりあえず転送が終わった瞬間に引き戻して、それ以上流れ出すのは止めておいたよ」
「――へ? え、っと……」
ルルヴァードの言っている内容が咄嗟に判らずに、ドリーが訊き返す。
「だから、返すも返さないも。 ただ疲れて気を失っているだけだから、回復してやれば目を覚ますと思うけど?」
「……!! フォーレ! は駄目か――っていうか、みんな使い切っちゃ」
「いや」
確かに。 フォーレもドリーもヴォルフも、もう一回たりとも回復呪文を紡ぐ精神力は残っていなかった。
が、もう一人。
そして、ただ一人。
「あまねく命を愛で給うアルタナよ、森羅の息吹を今一度――」
長い長い囚われの時を乗り越えた、懐かしいその声が、海蛇の洞窟の一部屋に朗々と響き渡った――
時が、巻き戻る。
奪われた鍵をもう一度手にして、彼の中で閉ざされていた扉が眩しく笑うように開いていく――
そしてその時。 自分達の失っていたものが、どれだけ大きかったのか、どれだけ悲しかったのか。
彼らはそれぞれの胸の奥底からようやくこみ上げる実感と喜びに、初めて、そして痛いほどに知らされたのだった――
* * *
「――は……」
この上なく暖かい癒しの光が、皆が見守る中優しく溶け入るように消えて。
その中で、胎児のように横たわるルカの瞼が、ゆっくりと開いた。
「……あ……? あ!!」
しばし呆けたように、周囲に視線を泳がせていたルカ。
その先に短い白髪の黒魔道士を捉えた瞬間、頭の中の回路が繋がったのか。 小さく叫ぶと、跳ねるようにがばと身を起こした。
「うわぁん! ルカぁっ!」
そんな彼女の腕に、喜び半分泣き顔半分のドリーが子供のように飛びつく。 小さな友の赤毛に一瞬目をやって、しかしすぐに彼女は、正面に膝をつくエルヴァーンにつかみかからんばかりの視線を戻した。
その先で、迎えるように微笑む彼の唇が開き――
「ルカ」
一言。
その一言で。
「!!……あぁ――――」
小柄なミスラの顔は、ついにへにゃりと綿あめのように崩れて。
果てしなく力の抜けた、無防備な、暖色の陽だまりのような笑顔を、取り戻したのだった――
* * *
「じゃ。 僕はちょっと、外に出てみることに決めたから」
いつのまにかルカの足元にとことこと寄ってきていたルルヴァードが、唐突に言った。 皆の視線がその白く輝く姿に集まる。
「どうもね、この部屋で横着してるのは勿体ないって気になった。 外にはまだ僕の知らないものが沢山あるみたいだ――うん、君達みたいにね」
笑顔でそう言うと彼はふるんと一つ尻尾を振って、そのまますっと宙に浮いた。
「――おい、ちょっと待てよ。 そんな物騒な力を外で振り回されちゃぁ――」
「ああ、大丈夫」
はっと我に返ったように、ルルヴァードを見上げて制止するような鋭い声を投げ掛けるルード。 しかし小さな獣は、穏やかな笑いを含んだ声で言った。
「あれはやたらにやるもんじゃないってのは、君達に教わったからね。 喧伝して回るようなことはしないよ。 とりあえずは平凡な魔獣の一人として、つつましく世界を回ってみようかなと」
それは――どうだろうか。
その場にいる全員が内心でそう思ったが、ついに口に出す者はいないまま、時が流れた。
「それじゃ、この部屋からはお暇するとするか――ええと、ルカ」
少しだけ名残惜しげに、彼は彼のいた部屋をぐるんと見回すと、ふっとルカにそのルビーのような紅い瞳を戻して彼女の名を呼んだ。
「君が来てくれて、楽しかったよ。 縁があれば、またどこかで会おう」
そして。
粉雪のような輝きがぱちんと弾けたかと思うと、真紅の残像が一筋、垂直に天井を貫いて。
魔獣ルルヴァードは、どこへともなく消えていった。
「立つ鳥跡を濁さず」とでも言うように、部屋の奥のミイラも一緒に引き連れて――
* * *
幻想的な姿の魔獣が去った虚空を、しばし全員が、ぼうっと見上げていた。
と。 その中の一人、ぺたんと座り込んでいたままのルカの両肩を、一組の手ががっしと掴む。 びくっとして彼女が視線を正面に戻すと――そこには少し、いや、かなり厳しい、バルトの目。
あ――そうか。 怒られる、かな。
この二日あまりで彼にかけたであろう幾多の心配を思い起こして、ルカは少し体を固くする。
――初めて出会ってから、これまで。
実はバルトは一度として、ルカを怒ったことはなかった。
例えその必要がある時でも、怒るよりは悲しむ、叱るよりは諭すといった対応で、ついぞ彼女に向かって声を荒げたりすることは皆無だったのだ。
(でも、今回ばかりは――)
怒られても仕方ないかな――と、ルカが覚悟を決めて目を伏せた、次の瞬間。
「――ひゃっ!?」
それでもまだまだ、こんなもんじゃまだまだ、彼は彼女を怒らない。
せっかく取り戻した言葉も使わずに、バルトはひしとルカを抱き締めたのだ。 ドリーが、おっと、という風にルカの腕から離れる。 ルードがひゅぅと口笛を吹いた。
「――約束してくれ」
「へっ!?」
「危ないことをする時は、一人で行ったりしないで。 頼むからもう、黙って、居なくならないでくれ。 お願いだから――」
「あ……。 う、は、はい……ごめ、なさい……」
耳元で聞こえる、気が遠くなるほどに懐かしく愛しい声と、自分を包む暖かい体温、そして安らぐ匂い。 それらがようやく緊張の解けた心にリアルに沁み込んできて、ルカの目頭がぎゅっと熱くなった。
が、しかしそれは彼女にとって、ほんの一瞬の安息でしかなかった事を。
それどころか、叱責よりもっと恐ろしい「災難」の始まりだった事を。 すぐにルカは文字通り、いやというほど思い知らされる事となるのだ――
「いやはや一時は焦ったが、声も戻ったし、ルカも無事だったことだ。 何はともあれよかったじゃないか、なぁバルト?」
やれやれひと安心、といった笑顔で、よっこらせとその場に腰を下ろしたイーゴリがすっかり和んだ声で言うと。 その言葉に、ルカを離さないままのバルトは深く頷き――そして。
壊れた。 いや、復活した。
「ありがとう。 大好きだ、愛してるよ」
「どわぁっ!!」
バルトは、残る五人に背を向けている。 つまり、バルトの『感謝の言葉』を聞く表情を、しかも彼にがっちりと抱きすくめられ身動きの取れない状態で、ルカは仲間達に晒されるハメになったのだ。
「ちょ! 待った!」
「待たない。 もう一生離さないから」
「いやー!!」
唐突に始まった熱烈な見世物を、暖かくもそれぞれのにまにま笑いで見守る仲間達の視線に、手をばたばたと振り回し悲鳴を上げるルカがみるみる耳まで真っ赤になる。 これがおちゃらけて言っているのではなく、徹頭徹尾真剣なところが恐るべき彼の実力だ。 こぼれかけた感激の涙は一気にバストゥークまでふっ飛んだ。
フォーレは一緒になって頬を赤くし、ルードは愉快そうに「バルトさんの熱暴走が始まったぞ」と呟く。 その後ろで、ヴォルフまでが腕を組んで面白がるような笑みを浮かべている。
「いや? 嫌なの?」
「やっ、そのっ、嫌じゃなくて、ってうわあああ!!」
見事に墓穴を掘る。 大声で遮ろうにも、それが自分の言葉では手遅れ以前に不可能だ。
「判った。 とりあえず三日は寝かさないから、覚悟して」
「ぎゃーー!!」
ドリーが「きゃ」と冷やかしの声を上げた。 イーゴリはうんうんと、好々爺のようなゆるゆるとした笑みを浮かべて二人を見守っている。
ずっと貯め込んでいた言葉達をここぞとばかりに浴びせかけるようなバルトと、嫌が応でも目に入る仲間達の生暖かい表情に、もうルカは体中がいやな汗でびっしょりだ。
「ばっ、罰ゲーム? これは新手の罰ゲームなのっ!?」
「何を言うんだ、こんな大切な君に罰を与える理由がどこにある」
「わわわ、判った! 判ったから、頼むから落ち着いて!!」
「そんな、俺の可愛い宝物が無事に戻ってきて死ぬほど嬉しいのに、落ち着いていられる訳がないよ」
「だーっ!! ああもう、普通に怒られた方がまだマシだー!」
「怒ってなんかない、愛してる」
「ふおおおお……」
まさに愛情のめった打ち。 二人だけでいるのならまだしも、公衆の面前でこの攻撃は厳しすぎる。 あまりの恥ずかしさにすっかりゆでダコのようなルカはもはや息も絶え絶え、口からしゅるしゅると魂が抜けんばかりで再度瀕死の状態といった様子だ。
「……こっ、こんな事の為に、死にそうな思いをした訳じゃあ……」
「おやぁー? こんな事の為に、命を張って頑張ったんじゃーないんすかー?」
「ぐっ、ぐぅぅ……」
ルカの泣き言をルードがへらへらとまぜっかえせば、言葉に窮して更に顔を赤くする彼女に、バルトは頬ずりをするように何度もうんうんと頷く。
満面ににまにま笑いを浮かべていたドリーが、思い出したように言った。
「あー、でもこの状況だと、私達みんなシーフギルドのお尋ね者になっちゃうのかしらねぇ?」
「大丈夫、二人で逃げればいいよ。 君さえいればどこだって理想郷だ」
「あうー、うあー」
誰が何を言っても真顔で愛情表現に変えてしまうバルトと、彼の腕の中でもう抵抗する精神力をほとんど失い湿気た枕のようにぐったりとなったルカを見て、ドリーはけたけたと笑う。「俺らは放ったらかしで逃げるのかよ」と楽しそうに一人ごちるルードが言った。
「や、そこそこ誤魔化せるんじゃないすか? ほら、髪の色も変わったし」
「……え?」
彼の言葉に、ルカが不思議そうな声を返す。
「あ、そうか。 自分じゃ見えないよね。 ほらルカ」
そう言うとドリーは、まだがっちりとバルトに抱き締められ動けないルカの横にちゃかちゃかと駆け寄り、ひょいと彼女の銀色に染まった尻尾を地面から持ち上げてその目の前にかざした。
「へっ!? ええぇっ、な、何これぇ!?」
ルカは仰天して目を丸くする。 慌ててぶんぶんと頭を振っておかっぱにした目の横の髪を見ると、その毛先も見事な銀色に変わっていて、彼女は唖然とした。
「あはは、命懸けでバルトを治した勲章ってやつだね。 いいじゃない、バルトの白髪とお揃いよ?」
「や、うわぁ、マジ……?」
うろたえたようなルカの言葉の横で、バルトがふるふると首を振る。 彼の短い白髪と、ルカの銀髪が絡んでほどけた。
「お揃いじゃない。 君の方が綺麗だ」
「うおー、もう勘弁してくださーい……」
明るい笑い声が、海の香りの満ちる洞窟に、ころころと咲いてこぼれた。
* * *
彼ら七人が、移動魔法によりエルシモ島を去った後。
ユタンガの森の奥深く、突き抜けるように命を歌う熱帯植物に囲まれながら、ノーグに通じる洞窟を隠してしゃらしゃらと薄く優雅に落ちる滝の前で。
数匹のサハギンが、地面に落ちた何かを不思議そうに囲んでいた。
何に使うものだろう、と首をかしげる半人半魚たち。
全てを貫き育むような、溢れる南の太陽の光を浴びて、そこにあるのは。
緑の大地の上、滝の飛沫に少し湿った。
使いかけの、白い、小さなメモ帳――――
End
周囲の敵には目もくれず一様に殺気立ち、ときおり何かを喚きながら蹂躙するように洞窟の内部を駆け回る。
やがてそんな彼らの目に、異様な光景が飛び込んできた。 最深部に程近いある一角で、点々と散らばって倒れ伏す男たちの姿だ。 その服装から、一見して冒険者ではないことが見て取れる。
仰向けに倒れる一人の懐から覗く暗器に目を止めた黒い鎧のタルタルが、鋭い声を上げる。 それを聞いて一斉に彼らは周囲に目を配った。
と、更に奥の岩壁の一箇所が、扉のように半開きになっているのをガルカが見つける。
彼が大声で仲間を呼ぶ。 彼がその岩壁を張り倒さんばかりの勢いで蹴り開けると、駆けつけた彼らはその中に一斉になだれ込んだ。
* * *
「居たぞ!」「ルカっ! ルカぁ!」
部屋の床に丸くなって眠るように横たわるミスラからその紅い瞳を上げ、またも現れた騒々しい闖入者をルルヴァードは見やった。 今度は六人だ。
「やれやれ、本当に今日はおかしな日だなぁ……」
小さく呟くルルヴァードの姿を見て、彼らのうち数人は驚いたように、またやや怯むように駆け寄る足を緩めたが。
白い鎧と白いローブのタルタル、そして黒いローブのエルヴァーンは、一目散に彼の前のミスラに駆け寄ると喰らいつくようにしてその傍らにかがみ込んだ。
「――ルルヴァード……?」
後から駆け寄ったヴォルフが足を止め、探るような低い声で問いかけると、そこに鎮座する純白の小さな獣はひょいと目を見開いた。
「へぇ、僕の事を知ってる人もいる。 で? この子と君たちは、知り合いなのかい?」
「そうよっ!!」
ルルヴァードのごく恬淡とした返事に、がばと顔を上げたドリーが叩きつけるように言い放つ。
そして初めて見るかわいらしくも異形の生命体の姿に臆した様子もなく、恐ろしい剣幕でまくしたてた。
「あんたが、あんたがやったのね! 何なのよ、ルカを――あんな、怖い目に――!」
涙混じりの罵声。 フォーレがぐったりと動かないルカの手をさする。 バルトが彼女の顔にかかる銀色に変色した髪をかき上げ、その顔を覗き込む。
「返して! 返しなさいよ! ルカを、この子を返して!!」
両手を振り回し、最後の方はもはや金切り声だ。 その背後でイーゴリやルードも、鬼のような形相で彼を睨みつけている。
ヴォルフが、部屋の奥に積まれた塊に気がついてぎゅっと眉根を寄せた。 イーゴリが張り詰めた声で「囚人服だ」と囁く。
「は……ええっ、と……」
と。 ルルヴァードは、いかにも困ったような不本意なような風情を漂わせ、後ろ足で耳のあたりをぽりぽりと掻いた。 見た目は白いカーバンクル、しかし奇妙に人間らしい仕草。
「何だかずいぶんと誤解されてるみたいだなぁ……彼女が、自分で来たんだよ? 治したい人がいる、って言うから、協力したんだけど……」
「協力、ですってぇ!!」
あくまで穏やかなルルヴァードの言葉に逆撫でされたように、ドリーが更に激昂する。
「人の命をもぎ取って流し込むなんて、そんな非人道的な、そんな恐ろしい事! この子に、させるんじゃないわよ!!」
「えええ……?」
更に更に困惑したような表情を見せるルルヴァード。 小さな鼻の頭に小さなしわを寄せた。
「それを僕に依頼してきたのは、君達人間なんだけど……というか」
今度は純粋な疑問符を浮かべ、小首を傾げると小さな白い獣は彼らを見渡して訊いた。
「君達人間は、そうやって種を維持してるんじゃないの?」
「違うわよ!」「違います!」
ドリーに続き、フォーレも耐えかねたように反論の声を上げた。
「人の命を紙屑のように犠牲にすることで自分だけ助かろうなんて、そんなのは絶対しちゃいけない事です!!」
「へぇ……ふぅん……?」
叱責にも似たフォーレの言葉に、ルルヴァードはくるくると首を傾げる。 何やら小難しい問題を出題されて四苦八苦している子供のようだ。
「どうも……君達は、面白いね。 今まで見てきた人間達とは、言っている事がまるっきり違う。 その子も――ルカって言うのかい? 彼女も、ずいぶんと一生懸命に願っていたよ。 だから……ああ」
幾分独り言のように自分の思いを口にしていたルルヴァードが、ふっと思い出したように足元のルカを目で指した。
「だから、何だかやっぱり見過ごせなくてね。 すぐ上で転送の始まる気配がして、しかも結構ぎりぎりまで消費してたから驚いたんだ。 とりあえず転送が終わった瞬間に引き戻して、それ以上流れ出すのは止めておいたよ」
「――へ? え、っと……」
ルルヴァードの言っている内容が咄嗟に判らずに、ドリーが訊き返す。
「だから、返すも返さないも。 ただ疲れて気を失っているだけだから、回復してやれば目を覚ますと思うけど?」
「……!! フォーレ! は駄目か――っていうか、みんな使い切っちゃ」
「いや」
確かに。 フォーレもドリーもヴォルフも、もう一回たりとも回復呪文を紡ぐ精神力は残っていなかった。
が、もう一人。
そして、ただ一人。
「あまねく命を愛で給うアルタナよ、森羅の息吹を今一度――」
長い長い囚われの時を乗り越えた、懐かしいその声が、海蛇の洞窟の一部屋に朗々と響き渡った――
時が、巻き戻る。
奪われた鍵をもう一度手にして、彼の中で閉ざされていた扉が眩しく笑うように開いていく――
そしてその時。 自分達の失っていたものが、どれだけ大きかったのか、どれだけ悲しかったのか。
彼らはそれぞれの胸の奥底からようやくこみ上げる実感と喜びに、初めて、そして痛いほどに知らされたのだった――
* * *
「――は……」
この上なく暖かい癒しの光が、皆が見守る中優しく溶け入るように消えて。
その中で、胎児のように横たわるルカの瞼が、ゆっくりと開いた。
「……あ……? あ!!」
しばし呆けたように、周囲に視線を泳がせていたルカ。
その先に短い白髪の黒魔道士を捉えた瞬間、頭の中の回路が繋がったのか。 小さく叫ぶと、跳ねるようにがばと身を起こした。
「うわぁん! ルカぁっ!」
そんな彼女の腕に、喜び半分泣き顔半分のドリーが子供のように飛びつく。 小さな友の赤毛に一瞬目をやって、しかしすぐに彼女は、正面に膝をつくエルヴァーンにつかみかからんばかりの視線を戻した。
その先で、迎えるように微笑む彼の唇が開き――
「ルカ」
一言。
その一言で。
「!!……あぁ――――」
小柄なミスラの顔は、ついにへにゃりと綿あめのように崩れて。
果てしなく力の抜けた、無防備な、暖色の陽だまりのような笑顔を、取り戻したのだった――
* * *
「じゃ。 僕はちょっと、外に出てみることに決めたから」
いつのまにかルカの足元にとことこと寄ってきていたルルヴァードが、唐突に言った。 皆の視線がその白く輝く姿に集まる。
「どうもね、この部屋で横着してるのは勿体ないって気になった。 外にはまだ僕の知らないものが沢山あるみたいだ――うん、君達みたいにね」
笑顔でそう言うと彼はふるんと一つ尻尾を振って、そのまますっと宙に浮いた。
「――おい、ちょっと待てよ。 そんな物騒な力を外で振り回されちゃぁ――」
「ああ、大丈夫」
はっと我に返ったように、ルルヴァードを見上げて制止するような鋭い声を投げ掛けるルード。 しかし小さな獣は、穏やかな笑いを含んだ声で言った。
「あれはやたらにやるもんじゃないってのは、君達に教わったからね。 喧伝して回るようなことはしないよ。 とりあえずは平凡な魔獣の一人として、つつましく世界を回ってみようかなと」
それは――どうだろうか。
その場にいる全員が内心でそう思ったが、ついに口に出す者はいないまま、時が流れた。
「それじゃ、この部屋からはお暇するとするか――ええと、ルカ」
少しだけ名残惜しげに、彼は彼のいた部屋をぐるんと見回すと、ふっとルカにそのルビーのような紅い瞳を戻して彼女の名を呼んだ。
「君が来てくれて、楽しかったよ。 縁があれば、またどこかで会おう」
そして。
粉雪のような輝きがぱちんと弾けたかと思うと、真紅の残像が一筋、垂直に天井を貫いて。
魔獣ルルヴァードは、どこへともなく消えていった。
「立つ鳥跡を濁さず」とでも言うように、部屋の奥のミイラも一緒に引き連れて――
* * *
幻想的な姿の魔獣が去った虚空を、しばし全員が、ぼうっと見上げていた。
と。 その中の一人、ぺたんと座り込んでいたままのルカの両肩を、一組の手ががっしと掴む。 びくっとして彼女が視線を正面に戻すと――そこには少し、いや、かなり厳しい、バルトの目。
あ――そうか。 怒られる、かな。
この二日あまりで彼にかけたであろう幾多の心配を思い起こして、ルカは少し体を固くする。
――初めて出会ってから、これまで。
実はバルトは一度として、ルカを怒ったことはなかった。
例えその必要がある時でも、怒るよりは悲しむ、叱るよりは諭すといった対応で、ついぞ彼女に向かって声を荒げたりすることは皆無だったのだ。
(でも、今回ばかりは――)
怒られても仕方ないかな――と、ルカが覚悟を決めて目を伏せた、次の瞬間。
「――ひゃっ!?」
それでもまだまだ、こんなもんじゃまだまだ、彼は彼女を怒らない。
せっかく取り戻した言葉も使わずに、バルトはひしとルカを抱き締めたのだ。 ドリーが、おっと、という風にルカの腕から離れる。 ルードがひゅぅと口笛を吹いた。
「――約束してくれ」
「へっ!?」
「危ないことをする時は、一人で行ったりしないで。 頼むからもう、黙って、居なくならないでくれ。 お願いだから――」
「あ……。 う、は、はい……ごめ、なさい……」
耳元で聞こえる、気が遠くなるほどに懐かしく愛しい声と、自分を包む暖かい体温、そして安らぐ匂い。 それらがようやく緊張の解けた心にリアルに沁み込んできて、ルカの目頭がぎゅっと熱くなった。
が、しかしそれは彼女にとって、ほんの一瞬の安息でしかなかった事を。
それどころか、叱責よりもっと恐ろしい「災難」の始まりだった事を。 すぐにルカは文字通り、いやというほど思い知らされる事となるのだ――
「いやはや一時は焦ったが、声も戻ったし、ルカも無事だったことだ。 何はともあれよかったじゃないか、なぁバルト?」
やれやれひと安心、といった笑顔で、よっこらせとその場に腰を下ろしたイーゴリがすっかり和んだ声で言うと。 その言葉に、ルカを離さないままのバルトは深く頷き――そして。
壊れた。 いや、復活した。
「ありがとう。 大好きだ、愛してるよ」
「どわぁっ!!」
バルトは、残る五人に背を向けている。 つまり、バルトの『感謝の言葉』を聞く表情を、しかも彼にがっちりと抱きすくめられ身動きの取れない状態で、ルカは仲間達に晒されるハメになったのだ。
「ちょ! 待った!」
「待たない。 もう一生離さないから」
「いやー!!」
唐突に始まった熱烈な見世物を、暖かくもそれぞれのにまにま笑いで見守る仲間達の視線に、手をばたばたと振り回し悲鳴を上げるルカがみるみる耳まで真っ赤になる。 これがおちゃらけて言っているのではなく、徹頭徹尾真剣なところが恐るべき彼の実力だ。 こぼれかけた感激の涙は一気にバストゥークまでふっ飛んだ。
フォーレは一緒になって頬を赤くし、ルードは愉快そうに「バルトさんの熱暴走が始まったぞ」と呟く。 その後ろで、ヴォルフまでが腕を組んで面白がるような笑みを浮かべている。
「いや? 嫌なの?」
「やっ、そのっ、嫌じゃなくて、ってうわあああ!!」
見事に墓穴を掘る。 大声で遮ろうにも、それが自分の言葉では手遅れ以前に不可能だ。
「判った。 とりあえず三日は寝かさないから、覚悟して」
「ぎゃーー!!」
ドリーが「きゃ」と冷やかしの声を上げた。 イーゴリはうんうんと、好々爺のようなゆるゆるとした笑みを浮かべて二人を見守っている。
ずっと貯め込んでいた言葉達をここぞとばかりに浴びせかけるようなバルトと、嫌が応でも目に入る仲間達の生暖かい表情に、もうルカは体中がいやな汗でびっしょりだ。
「ばっ、罰ゲーム? これは新手の罰ゲームなのっ!?」
「何を言うんだ、こんな大切な君に罰を与える理由がどこにある」
「わわわ、判った! 判ったから、頼むから落ち着いて!!」
「そんな、俺の可愛い宝物が無事に戻ってきて死ぬほど嬉しいのに、落ち着いていられる訳がないよ」
「だーっ!! ああもう、普通に怒られた方がまだマシだー!」
「怒ってなんかない、愛してる」
「ふおおおお……」
まさに愛情のめった打ち。 二人だけでいるのならまだしも、公衆の面前でこの攻撃は厳しすぎる。 あまりの恥ずかしさにすっかりゆでダコのようなルカはもはや息も絶え絶え、口からしゅるしゅると魂が抜けんばかりで再度瀕死の状態といった様子だ。
「……こっ、こんな事の為に、死にそうな思いをした訳じゃあ……」
「おやぁー? こんな事の為に、命を張って頑張ったんじゃーないんすかー?」
「ぐっ、ぐぅぅ……」
ルカの泣き言をルードがへらへらとまぜっかえせば、言葉に窮して更に顔を赤くする彼女に、バルトは頬ずりをするように何度もうんうんと頷く。
満面ににまにま笑いを浮かべていたドリーが、思い出したように言った。
「あー、でもこの状況だと、私達みんなシーフギルドのお尋ね者になっちゃうのかしらねぇ?」
「大丈夫、二人で逃げればいいよ。 君さえいればどこだって理想郷だ」
「あうー、うあー」
誰が何を言っても真顔で愛情表現に変えてしまうバルトと、彼の腕の中でもう抵抗する精神力をほとんど失い湿気た枕のようにぐったりとなったルカを見て、ドリーはけたけたと笑う。「俺らは放ったらかしで逃げるのかよ」と楽しそうに一人ごちるルードが言った。
「や、そこそこ誤魔化せるんじゃないすか? ほら、髪の色も変わったし」
「……え?」
彼の言葉に、ルカが不思議そうな声を返す。
「あ、そうか。 自分じゃ見えないよね。 ほらルカ」
そう言うとドリーは、まだがっちりとバルトに抱き締められ動けないルカの横にちゃかちゃかと駆け寄り、ひょいと彼女の銀色に染まった尻尾を地面から持ち上げてその目の前にかざした。
「へっ!? ええぇっ、な、何これぇ!?」
ルカは仰天して目を丸くする。 慌ててぶんぶんと頭を振っておかっぱにした目の横の髪を見ると、その毛先も見事な銀色に変わっていて、彼女は唖然とした。
「あはは、命懸けでバルトを治した勲章ってやつだね。 いいじゃない、バルトの白髪とお揃いよ?」
「や、うわぁ、マジ……?」
うろたえたようなルカの言葉の横で、バルトがふるふると首を振る。 彼の短い白髪と、ルカの銀髪が絡んでほどけた。
「お揃いじゃない。 君の方が綺麗だ」
「うおー、もう勘弁してくださーい……」
明るい笑い声が、海の香りの満ちる洞窟に、ころころと咲いてこぼれた。
* * *
彼ら七人が、移動魔法によりエルシモ島を去った後。
ユタンガの森の奥深く、突き抜けるように命を歌う熱帯植物に囲まれながら、ノーグに通じる洞窟を隠してしゃらしゃらと薄く優雅に落ちる滝の前で。
数匹のサハギンが、地面に落ちた何かを不思議そうに囲んでいた。
何に使うものだろう、と首をかしげる半人半魚たち。
全てを貫き育むような、溢れる南の太陽の光を浴びて、そこにあるのは。
緑の大地の上、滝の飛沫に少し湿った。
使いかけの、白い、小さなメモ帳――――
End