テノリライオン

チョコボレースの正しい負け方 中編

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 大地を震わせる2つの足音が、その一刻みごとに迫ってくる。
 西ロンフォールに遊んでいた小さな茶色いウサギはその脅迫的な地響きにぴょんと飛び上がると、跳ねるように道を開けた。

 プリシラは木造のアウトポストの正面、立ち木やかがり火が一列に並ぶ前ぎりぎりを、右から左に駆け抜けた。 揺らめく2つの松明の炎が、その風圧にぐるりと乱れて即座に戻る。
 そこから少し下り坂。 彼女はちらりと、ほぼ真横にぴったりとつけているもう一羽のチョコボを盗み見た。
 そこにはプリシラの騎乗しているものよりわずかに大柄な、地を駆ける黄色い鳥がいる。 つぶらで真っ黒な瞳が、豊かな羽毛をなびかせ正面をひたと見据えていた。

 人を乗せたチョコボは、その大きさに関わらず常に一定の速さで走る。 そのように訓練されているのだ。
 命令を下すまで減速することもない代わりに、刺激で加速することもない。 それはこの鳥の脅威の体力と、愛らしい見かけによらない賢さが実現するものだ。
 すなわちこのチョコボレースという競技に於いて、その勝敗――すなわちタイムを左右するものは、騎乗者の技量と判断力のみである。 最短のルート選び、無駄のないライン取り、人やモンスターなどの浮動障害物にぶつからずスムーズに避ける注意力――等々の持続と実現が厳しく要求される。 チョコボはただただ、その采配のままに駆けるだけだ。
 己の技量だけを頼りに、己の判断だけに賭けて、このレースに魅入られた者はひた走る。

 ロンフォールの森には、そのわずかな起伏を縫うようにゆるやかな道が敷かれている。 天気が良ければきらきらと美しい木漏れ日に彩られるその小道は、サンドリア王国からラテーヌ平原へと向かう旅人を導いて優しく伸びる。
 が、プリシラもジャンも、その道を辿ったりはしない。 土がむき出しになっているだけの細い道を完全に無視するように大きく跨ぎ越し、足音も高く狭い木と木の間を暴風のようにすり抜け、自分の中にだけある指標をなぞって微調整を繰り返しながらまっすぐに南下する。

 その土地についての知識がある程度極まれば、自ずと土地それぞれの効率の良いルートも絞られてくるものである。 すなわち、技量の拮抗する者が同じエリアを走る時、その走行ルートのパターンは幾つもないのだ。
 自然、二人はまるで併走するようにロンフォールの森を抜けていく。 スタートの城門から南東、山すそを2つ越えたら6時半の方向に一直線――これしかこのエリアに「道」はない。 打ち合わせも練習も一切なしに森の中、2つの黄色い機影はほぼ相似の線を描いて飛ぶ。

 森の木々が飛ぶように後ろに流れていく。 スタート直後は感覚が馴染み切っていないせいか、細かいミスをしがちな事をプリシラは自覚していた。
 必要以上に気を詰めて、彼女は前方に目を配る。 ここは木も人もモンスターも多い。 つまずいたりぶつかったりしないように、手綱を細かく絞って丁寧に走らなければならないエリアだ。
 どっ、どっ、と腹に響くチョコボの足音。 すぐ間近で響いていた競争相手のそれが、ふっと耳から離れた。 思わずそちらを伺いそうになる目を、プリシラは慌てて引き戻す。
 ――気を取られちゃいけない、前を見て――と、内心で自分に向けて呟く。

 無秩序に乱立する木々やうろつくモンスターを忙しく避けるうちに景色を見失い、辿っていたはずの最短ルートを外れてしまうのはよくあることだ。
 無意識に人の走りを当てにしてついていくのもミスの元である。 その者が間違っていないという保証はどこにもないのだから。
 自分の判断力と、自分の記憶力。 繰り返すが、このレースではそれだけが頼りなのだ。

 二人の道筋が離れたのは、単に樹木の避け方が少し違っただけだったようだ。 最低限の蛇行で倒木や打ち捨てられたレンガの壁をかすめ、彼らはほぼ同時に東ロンフォールの出口へと到達するとそのままラテーヌ平原へとなだれ込んだ。


  *  *  *


 木々の囲みを抜けた二人の前に、夜明けの空が大きく広がった。 生まれたての甘い風をプリシラは胸いっぱいに吸い込む。

 開けていく山すその、左手を辿る。 自然に進路が左へ向かう。 そのまま一気に開ける視界の前方に、まばらな木立が現れた。 そのタイミングでプリシラは山肌を離れる。
 途端に冷たく柔らかい朝日が正面から注ぎ、全体的に色の薄い木々の梢を美しくきらめかせていた。
 大まかに南東を目指す中、徐々にせり上がっていく野原の地平線はその向こうの景色を隠し、立ち並ぶ木々が更にその地平線をぼやけさせる。 明確な進路を定めるのは難しい場所だった。
 併走していた足音がまた、今度は左の方に遠ざかるのをプリシラは感じ取る。 彼女の胸を一瞬の不安がよぎった。

 この先は谷だ。 待ち構える段差のその底を、オルデール鍾乳洞に通じる裂け目のような谷間が左手前から右奥にかけて鋭く走る。 それを越えた先にある池の方角までぜひとも直進したい進路を、その裂け目が僅かに遮っているのだ。
 段差を落ちるまで見えない問題の谷間の、迂回すべき右端をどれだけまっすぐ正確に狙えるか。 それがここのポイントである。

 もしや、右に進路を取りすぎなのだろうか――
 ジャンが僅かに左に離れて行った事を気にしつつ、それでもプリシラは自分のカンを頼りに斜面の頂上に向かう。
 ばっと視界が開けた。 途端に足元の大地が消失する。 チョコボは慌てず器用に地面を蹴ると、切り立つ大きな段差をものともせずまっすぐに飛び降りていく。

(――よし!)
 プリシラは内心でぐっと拳を握った。 谷底に降り立った自分のチョコボの鼻先が、無駄なくぴたりと裂け目の右端を指していたのだ。 新しい土の上を猛然と突き進みながら、彼女はもう一つの足音が自分の「後ろに」つける音を聞き取った。
 一歩リードだ。 小さな勝ちを取ったことを確信し、彼女はかすかにほくそ笑む。

 行く手に広がる巨大なタンポポのような草花たちが、草原のそよ風にゆったりと踊っている。 その風景は、そこを行く者をまるで自分が小さなコロボックルになったかのような心持にさせる。
 しかしその横には、オルデール鍾乳洞を抱く鋭い裂け目がぽっかり口を開けているのだ。 大きな綿毛を蹴散らし全速力でそのぎりぎりを攻めるプリシラに、そんなメルヘンに浸る余裕などあるはずもなかった。
 とは言え、その足場を見極める力はチョコボの方が優れており、例え手綱を向けても決して危険な範囲にまでは踏み込むことはない。 むしろその限界ラインから離れすぎないようにするのが人間の仕事だ。
 と、文字通り崖っぷちをなぞるように走るプリシラの視線が、ほわほわと真白い綿帽子の合間でぼけーっと背を向けている小さな影を捉えた。
(――ゴブリンだ)
 プリシラはその障害物を避けるべく反射的に手綱を繰りかけるが、ふとその手が止まった。 すっと目が細まり、更に前屈みの姿勢を取る。

 彼女のチョコボは直進する。 みるみる黒い影が迫る。 そのままあと一歩進めばゴブリンの後頭部を――という所で、プリシラはぐいと右の手綱を引いた。
 まさに紙一重。 彼女のチョコボは小柄なゴブリンをひらりと避け、プリシラはすぐさま手綱を戻す。 直後、すぐ背後で規則正しく刻んで彼女を追っていた重たい足音が一瞬、たたらを踏むようにどどっ、と乱れた。
 その音にプリシラは僅かに口元を上げる。 次なるランドマークの山すそへと丁寧にチョコボの鼻を向けてから、彼女はちらりと肩越しに背後を伺った。

「いい小細工かますねぇ、お嬢さん!」
 今のフェイントで、さっきよりも距離は離れただろうか。 はっきりとは判らない――が、鳥一羽ぶんはまるまる離れたその先から叫んでよこすジャンの、獰猛な笑顔が彼女に噛み付いた。
 鼻で笑う気配だけを矢のように流れる風に乗せて返し、プリシラはつるりと視線を前方に戻した。
 山あいから再度姿を現した眩しい朝日が、そこに飛び込む彼女の後姿を溶かす。 追われる戦慄は燃えるような緊張感となって、彼女の全神経をナイフのように尖らせ始めていた。

 涼やかな池のほとりを駆け抜ける。 そのまま狭い山あいを潜れば、再度大きく開ける視界。 ホラの岩と呼ばれる巨大な白い建造物が天を突く、その左手をまっすぐ東へ。
 草いきれを含んだ風が二人の頬を荒々しくなぶる中、一組の黄色い影は木々に囲まれる狭い切り通しへと吸い込まれていった。
 その先に待つは、ジャグナー森林。


  *  *  *


 がかっ、という硬い雷鳴が、プリシラの鼓膜をつんざいた。
「……最悪」
 小さな舌打ちと共に、思わず苦々しい呟きが漏れる。

 木立ち厚いジャグナーにはどんよりと不吉な雷雲がたれこめていた。
 夜ほどではないにしろかなり薄暗い森は、お世辞にも視界良好とは言えない。 ロンフォールよりも更に密度の濃い針葉樹林がその暗さと共謀して、少しでも遠い山陰は曖昧にぼやかせてしまう。
 チョコボの足を止める障害物や小さな段差も格段に多いこの地が、いつも以上に気の抜けない走りを要求している事をプリシラは知った。

 競争相手に数秒先んじて、プリシラのチョコボは薄暗い森林へと突入する。
 程なく前方――すなわち東に、細く白い影がぽつんと浮かび上がる。 森の中をうねる道の行く先を告げるサインポストの姿だ。
 プリシラはそれを右目の端に捉えながら、ゆるやかな曲線をもって北上に走路を移す。 森の北端にある大きな湖をかすめて森を抜けるルートの始まりだ。

「……?」
 低く判別しづらい段差、近付くまで見えてこない地形に細心の注意を配りながら疾走していたプリシラは、それに気付くのがいささか遅れた。
 彼女は改めてはっと耳を澄ます。 低く唸る風の音と木立のざわめきを探る、その中にあるはずの――もう一つの足音が、全く聞こえない。
「――嘘」

 反射的にレーダーを兼ねたマップを取り出そうとするが、細かいハンドリングを要する地形がそれを許さない。 プリシラは諦めた。 そもそもそんな必要はないのだ。 ちらりと後ろを振り返るだけでいい。 路面が大人しくなるのを待って、肩越しに素早く背後を伺う――

 チョコボの駆けるリズムに従い、激しく上下し流れ去っていく風景。 そこには黄色い鳥もざんばらの黒髪も、影も形もなくなっていた。
 すぐに正面に首を戻してプリシラは、驚きと戸惑いに軽く唇を噛む。

 ジャンの技量からして、こんな短時間に姿が見えなくなる程差がつくなどという事はまずあり得ない。 脱落なぞ論外だ。
 という事はつまり――全く姿が見えないという事は、ルートそのものがまるっきり違うという事だ。
 プリシラは頭の中でジャグナー森林の地図を広げる。 もう一つのルートは――森の中ほどを斜めに貫く、ほぼ街道に沿った、比較的メジャーな通りだ。
「あっちなの……」
 その事実に、プリシラは半ば呆然と呟く。
 距離的には恐らくこの北上ルートと大差ない、と彼女は思っている。 ならば彫刻刀で掘ったように一段も二段も低くなる林道が足場を限定するあのルートの方が分が悪いと、彼女はずいぶん前にそこを放棄したのだ。
 当然彼も自分と同じ北ルートを行くものだと思っていた。 中央の道は覚えるのが厄介だからな――以前に彼もそう言っていた覚えがあったからだ。 しかし……それは一体、いつの話だったか。

 今回、ジャンは中央の道を選んでいる。
 いつのまにルートを引き直したのか。 比較的曲がり道が少なく安全と思っていたこの北上ルートよりもあちらを選んだ、その理由は何だ。 まさか、地図だけでは判らない何かが……

 行く手がほんのりと明るく開けてきた事に気付き、プリシラは慌てて右手にある山肌にチョコボを寄せた。
 ここから進路は東に戻る。 僅かな空のほの明かりを反射して白む湖のほとりを流し、そこに流れ込む川に架かる丸太を並べただけの橋を渡ったら、あとは北東の出口に向けて一直線だ。
 そう、あれこれ考えても仕方がない。 とにかく自分のルートを確実に進むのみだ。 あいつがこのレースで何を企んでいようが、今更どうしようもないのだから……


 ―― 俺? 嫁さんが欲しい ――


「っ……」
 不意に蘇ってしまった言葉に、心臓がどくん、と暴れた。
 視界が一瞬揺らいで、プリシラは思わずぶるんと頭を振る。 と――すぐ目前に、流れる川に無造作に架け渡された、大きな丸太の切り口が。
(しまった――)
 この橋はチョコボの唯一苦手とする所だ。 丸い表面には足がかけづらいのか、上手く進入角度を当ててやらないと怖がってスムーズに走ってくれない。
 プリシラは慌てて手綱をさばく。 細めの丸太を選んで足掛かりに――
「っ!」

 遅かった。
 目の前に迫る一番大柄な丸太の切り口に乗ることができず、彼女のチョコボは大きな年輪にぶつかるように足を止めてしまった。
 内心で舌打ちをしながらプリシラは素早く手綱を操り、すぐ脇の細めの丸太へとチョコボを寄せた。 どうにか足がかりを見つけ、二本足の黄色い鳥はその上を再度走り始める。
 手痛いロスだ。 奥歯を噛み締め食い入るように前方を見据えるプリシラの頭上で、嘲笑うような雷鳴がごろごろと響いていた。

 湖のほとりを過ぎ、東北東に進路を定め直す。 このまま障害物を避けながら真っ直ぐ進めば、バタリア丘陵への出口が見えてくるはずだ。
 湖のルートにはなかった、森林を貫く林道の切れ端が見えてくる。 その高低差やいつまでも立ち塞がる木々に足を取られないよう気を配りながら、プリシラはそれを必死で探し――右手に、見つけてしまった。

「よっ!!」

 プリシラに向けて陽気に手なぞ挙げてみせるその男は、真横よりも僅かに後ろに首を向けて彼女に笑いかけていた。
 まだ合流と言える程には接近していない。 しかし明白だ、このまま二頭が近寄れば――彼の方が、前になる。 抜かれたのだ。

 中央のルートが実は有効だったのか、はたまた自分のミスのせいか――黒髪のエルヴァーンの背中を睨むプリシラはぎりっと歯噛みした。
 この森を抜けた先はバタリア丘陵、ロランベリー耕地、そしてソロムグ原野。 特に紆余曲折も複数ルートもない、平坦な土地がしばらく続く。 余程のミスが彼側にない限り、ここで順位の変動は望めないだろう。

 済んだ事を考えても仕方ない。 次は楽なエリアだ、走りながら集中力を蓄えよう。
 そう気を取り直しながら、プリシラはジャンのチョコボの後ろに張り付くようにして、雷鳴踊るジャグナー森林を後にした。


  *  *  *


 遠い潮騒が聞こえる。
 うら寂しい荒野によく似合う、まるで何かを少しずつ削り取るような波音は、走り続けるチョコボの足元をその囁きで冷ましてくれるのだろうか。

 苦悶する悪魔の指先のような朽木と、その下に広大な墓を抱いた人工的な小山が並ぶバタリア丘陵は、一度東に進路を取ってしまえばあとはすることなど無いに等しい。
 危なげなくチョコボを走らせるジャンの背中を、プリシラは半ば無心に見つめていた。


 ゴールは――どうなるんだろう。


 奇妙な話ではあるが。
 ここに来て初めて彼女は、勝敗の行方というものにじんわりとした現実感を覚え出していた。
 昨日までは、いやつい先程までは、レースそのものをどうするか、いかに走るかという興奮に目がくらんでいたのかも知れない。
 そんな彼女の目くらまし的な興奮を、荒涼としたソロムグの風景と、追われる高揚を彼女から取り上げて前を走る男の背中はあっさりと、そして唐突に消し去ってしまったのだ。

 ――追い抜けなかったら、どうしよう。
 頬でいいなんて言われたって……困るわ。 困るわよ。
 そんなことしたら――そんなことしたら。
 まるで私が、あいつのこと、好きだって――――

 前を行くチョコボが古墳を越える。 空へと駆け上がる黄色い影を、プリシラは無意識に追尾してしまう。
 戸惑いの根源である黒髪から目をそらし、代わりにその黒髪が駆る黄色い羽毛が風になびくのをぼうっと見る。

 ――そりゃあ。 そりゃあいつのまにか、仲がいい……って言うんじゃないけれど、何かにつけて張り合ったり、助け合ったりとか――してたわ。 いつでも。
 でもそれは、猫の仔の兄弟がじゃれあうような――ものだと、思ってたのよ……

 遥か行く手に石造りの門が見えてくる。
 砂塵にけぶる中、並ぶ三つのアーチはただの装飾のはずなのに、抜けた先の道は一つなのに、それはまるで何かの分岐路のようにプリシラの目に映った。
 選択を迫る三つ子の口。 どこを通る。 どれを選ぶ……

 ――広い世界の中で集う仲間達の、そのまた中で。 自分の居場所が確保されるような、幼い安心感を覚えていた。
 いいことも、悪い事も、最初に聞いてくれたのはあいつだった。
 それは――それは、どういう事なのか。
 いつからだろう。 一体、いつからあいつは――

 二つの影は矢のように一番右側、同じアーチを潜り抜けて。
 そのまま続くロランベリー耕地へと消えていく。


  *  *  *


「いつからだと思う!?」

 燦々と照り降ろす恵みの太陽に負けないくらい明るい声が、バタリアとはがらりと異なる豊かな緑色の風に乗って飛んできた。
 プリシラははっと顔を上げる。 チョコボの上で背を伸ばして、ジャンが肩越しに振り返っていた。
 まるで彼女の思考を見透かしていたかのような言葉を投げ掛けた口もとは弾けるように微笑んで、風に暴れる黒い髪がいたずらっぽい眼差しをちらちらと刻んでいる。

「え――」

 聞こえていた訳がないのに、プリシラは先程までの無言の独白を見透かされた気がしてぼっと頬を染めてしまった。 飛ぶようになぶる緑の風も、咄嗟にはその気配を冷ませない。
 と、それが見えたのかどうか。 ジャンは更に面白そうに笑みを作ると、大きな独り言のように言った。
「懐かせるの、苦労したんだぜぇ!?」

「なっ――ちょっとぉ! 何よそれぇ!!」
 彼のからかうようなセリフに思わず鞍の上で腰を浮かしそうになるプリシラに軽やかな笑い声を残して、ジャンはふいと顔を正面に戻してしまった。
 緩やかな左カーブ。 ジュノ大公国へ通じる大きな門の鼻先をかすめる。 プリシラは直進しそうになるチョコボの手綱を慌てて手繰った。

 ここロランベリー耕地は、コースと言うよりもただの中継地点だ。 ジュノの門に向かってすぐ左手のバタリアから右手のソロムグへと、ほんの数分で駆け抜けてしまう。 のどかで実り多いこの大地とは、すぐにお別れしなければならない。
 不覚にも上がってしまった心拍数を深呼吸で抑えつけながら、プリシラは唸るように呟いた。
「そんな手に――乗るもんですか」

 その走りの楽さから休憩地点とまで呼ばれるバタリア、そしてロランベリーが終わってしまう。
 ここで取り戻しておこうと思っていたペースは不意の物思いと彼の一言二言にすっかり乱され、クールダウンするどころか横殴りの風に煽られたように揺らいで不安定になってしまっていた。
 作戦だとしたら大したものだ――そんな思いにふと湧き上がる苛立ちにも似た悔しさから、プリシラは必死で目を逸らす。

 ――そうよ、そんな手に乗るもんですか。 ここで崩れたら負けだわ。 あれもこれも全部後回し。 今はレースに勝つ事だけを考えて――!

 次なるソロムグ原野へと軽やかに吸い込まれていくジャンの背中を、プリシラは猛然と追った。


  *  *  *


 岩肌を舐めるように思い切り寄せて切るカーブ。 靴の横っ面が僅かに接触して、がりっと岩に削られた。
 冒険者の甲高い悲鳴が上がる。 ほとんど暴走するようなチョコボが立て続けに、迂回もせずその集団のど真ん中を突っ切っていくのだ。 慌てて飛びすさる男の罵声に浴びせられる砂煙。 小さなタルタルが涙目で咳込む。

 緩い上り坂の乾いた土を、チョコボの大きな爪が噛みながらえぐりながら駆け上っていく。 谷あいを吹く追い風は十分に速かったが、プリシラのまっすぐ垂れた髪は騎上の無風を示していた。 鳥と風が等速なのだ。

 二人を迎える緩やかな坂を蹴り飛ばすように下る。 右手の崖につかず離れず、ジャンの背後をぴったりマークするプリシラ。 疾走する二人の正面に、暗い色の煉瓦で組まれた壁がぬっと姿を現した。
 その壁に激突する直前、ジャンの黄色は彼女の視界から掻き消える。
 プリシラは鋭く右の手綱を引き、同時に体重をぐんと右に落とす。 崖の終わりに食い込むように建てられた塔の残骸、その煉瓦の壁と岩肌の間に飛び込む。 L字に曲がる狭い間隙を一瞬ですり抜けた先に再度広がる荒地、そこを逃げる黒い背中を、プリシラと彼女のチョコボの瞳はぴたりと捕えて離さない。

 まばらな倒木をかわしながら駆け抜ける茶色い大地がせり上がる。 遥か眼前に巨岩そのままの厳めしい山々がそびえ、彼らの視界を塞いでいた。
 その細い切り通しの向こうに待ち構えるのはメリファト山地。 このコース最難関の一つが始まるのだ。

 離されもしない代わりに縮まってもいない距離を睨み据えるプリシラの頭に、もはやソロムグの光景は映っていなかった。


to be continued
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