テノリライオン

永訣の峰、漆黒の血 1

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 己の足がどこに向いているのかも判らないのに、不安はかけらも覚えない。
 導かれるとはこういう事を言うのだな、と思った。

 雪が降っていた。
 ただひたすらに白い世界。 蒸気のような吐息が凍える空気を目に見せても、体はそれを感じていない。
 歩く。 ただ前に歩く。 体は軽い。 雪の絨毯に足の裏が深く埋もれるのが判るが、冷たくも辛くもなかった。

 いよいよぶかぶかになってきた、戦士の鎧を脱ぎ捨てる。 腰に佩びていた大斧もいっしょに。 更に体が軽くなった。 篭手や脛当てなら、とうの昔に脱げ落ちている。
 熊のように大きかった体が、徐々に違うものへと移ろっている。 それでも不安はかけらもない。
 年を経た漆喰のような白い肌が、広がる雪原に融けかけている。 黒く逞しい髭は消え、トカゲに似た太い尻尾、丸太のような腕や足も、徐々にその姿を控えめなものに変えつつあった。

 脱げ落ちているのは武具だけではない。
 例えば世界に散らばるモンスターの分布や、四つの国の勢力図。 星の数ほどある武器や装備の知識。

 百年に渡る記憶が――ゆっくりと――消えていく。

 過ごしてきた遥かな風景。 美しい朝焼け、深い闇夜、暖かい町並み。 手に入れたもの、手放したもの。 今しがた脱ぎ捨てた、鎧の名。

 歩みの一歩ごとに、吐く息の一つごとに、それらは無言で彼岸を渡るように去っていく。
 もう思い出さない。 消えたものを悼むこともない。 心も曇らない。
 何故なら、それが記憶から消えてしまえば、己がそれを失ったことすら知り得ないのだから。
 だから、ただ進む。 一歩ずつ歩む。 白い息を吐く。

 大戦で流した血と流れた血と。 喪った命、出合った命。 育てた命。
 喜怒哀楽を共にした、仲間の名が消える――友の顔が消える――そして、自分の――――


 ――旅の最後に出合った、黒い姿の彼女は。
 ちゃんと行ってくれただろうか。 あいつを見つけてくれるだろうか。
 何だか、刺客を差し向けたみたいになってしまったが……


 ……ええと、彼女って、誰だ…………?

 俺は、何がしたかったんだっけ……


 そう――ただ、小さな……

 白い鎧の、底抜けに明るい、あいつに…………

 あいつに………………――――


  *  *  *


―― ジュノ大公国 上層 ――


「ったく、どいつもこいつも当然みたいな顔しやがって……」
「実際、当然なんだろう。 我々の想像の及ぶ所じゃない」
「及ぼーが及ぶまいが、役に立たねー事には変わんないっすよ。 あいつら自分達の事なのにバカの一つ覚えみたいに伝説の一言で済ませやがって、それで平然としてるなんざ理解に苦しみますね」
「腹を立てるな。 他種族が今更口を挟めるほど軽い問題か」
「他種族でも他人事じゃないでしょうが!」

 刺々しい口論をしつつ寄宿舎への道をたどる大小二つの人影を、すれ違う通行人がその剣幕に怯えるように避けて通る。
 小さい方はルード。 あからさまに苦虫を噛み潰したような表情で、小さなタルタルの暗黒騎士は灰色のくりくり頭を振って苛々と何事かを喚き散らしている。
 大きい方はヴォルフ。 連れのタルタルの、愚痴と言うには激しすぎる言葉をきりりとした表情で受け流す秀麗眉目の赤魔道士、長い白髪のエルヴァーンは普段と変わらず冷静に見えるが、その眉間には深い皺が刻まれ、返す言葉にもごくかすかながら棘のような苛立ちが含まれていた。

「どうしようもねぇのかよ……」
 ヴォルフと並んで寄宿舎への入り口を潜りながら、俯いてルードは搾り出すように呟く。
 口を真一文字に引き結んで答えず、ヴォルフは寄宿舎の扉の一つを開けた。

「――お帰りなさい、どうでした」
 険悪直前の陰鬱な空気をまとう二人を、リビングの椅子に腰掛けたままでバルトの声が迎えた。 テーブルを挟んで彼の正面にタルタルの少女が座っている。 白魔道士のフォーレだ。
 二人とも立ち上がらない。 それは彼らの顔に浮かぶ色濃い疲労のせいでもあり、彼らの目の前、机の上と言わず床と言わず散乱する大量の本が、彼らをテーブルに塗り込めているせいでもあった。
「特に芳しい話は聞けなかった。 手当たり次第に尋ねて回りはしたんだが」
「そうですか――」
 ヴォルフの答えに、バルトが重たい溜息を漏らした。

「そっちはどうだよ、何か見つかったか」
 パートナーであるフォーレに歩み寄るルードが、苛々とした表情もそのままに彼女に尋ねる。 目の前に複数の本を開いた茶色いポニーテールの可憐な白魔道士は、憔悴しきった表情で力なくその小柄な首を横に振る。
「具体的な文献は、やっぱり見つからないの……詩の中とか神話とか、そういう状態でならいくつかあったんだけど……実際それがどこなのかは……」
 長いこと活字を追い続けて疲労したフォーレのつぶらな瞳が、悲しげに歪む。 ルードは一つ舌打ちをした。
「畜生――さんざ長生きするんだから、誰か調べとけってんだよ……」

「――ドリーさんは」
 ヴォルフが低くバルトに尋ねた。 周囲に山と書籍を積み上げ、椅子に座ったままうーんと背筋を伸ばすエルヴァーンの黒魔道士は、背筋の力と大きな吐息を同時に大きく吐き出しつつ悲しげな表情で奥の部屋を指した。 短い白髪が力なく揺れる。
 ヴォルフがゆっくりとリビングを横切る。 そして遠慮がちに、その部屋の入り口に立った。

「――――」


 薄暗い部屋に、リビングの照明を背負ったヴォルフの薄い影法師が伸びる。 その先に置かれた椅子に、ミスラが一人、沈み込むように座っていた。
 顎のあたりで切り揃えた銀色の髪がぼんやり光る。 やはり皆と同様、疲れたようにぐったりと俯くシーフ、ルカの姿。
 ヴォルフの気配に気づいたのか、ふと上げた彼女のその顔は――瞼が重く腫れ上がり、まるで精根尽き果てたかのような気だるい表情を見せていた。
 細く開いた目のまま、彼女は口の動きだけで、しーっ、とヴォルフに伝える。 背の高い赤魔道士は頷く代わりに、ルカが膝の上に抱きかかえる人影に視線を落とした。

 小さな子供が、母親にしがみつくように。 ルカの腕の中で彼女の胴に両手両足で抱きついてうずくまる、高く結んだ赤いお下げのタルタル。 ナイトのドリーだ。
 どうやら寝息を立てているらしい。 小さな丸い背中が、規則正しく上下している。

 ヴォルフが視線だけでルカに、大丈夫ですか? と尋ねる。
 それを見た銀髪のミスラは、薄く微笑んで頷いた。 力の抜けた、切なげな、儚げな笑み。 そしてそのまま、彼女は再び顔を落とした。 あたかも膝の上のドリーを、全身で包み込むように。

 その光景を見届けたヴォルフはゆっくりとそこから離れると、彼なりに曇らせた表情に深く静かな溜息をつきながらリビングに戻った。
「――眠っているようだ。 少し落ち着いたのだといいんだが」
 呟くような彼の声に、バルトが振り向いて言った。
「ああ、寝てくれましたか、良かった。 もうずっと泣き通しで、ろくに休んでいないようでしたから……眠れる時に、眠った方がいい」

 そんなエルヴァーン二人のまるで医者のような会話に、フォーレがぐすっと鼻をすすった。 ルードが忌々しげに頭を掻きながら、どっかりと床に腰を下ろす――


  *  *  *


 始めは、用事が長引いているのかと思ったのだ。

 ルカ、フォーレ、そしてドリーがホルレーへと湯治に出かけた少し後。
 残ったバルトら三人に「ちょっと旧友の所へ顔を出してくる」と告げて、イーゴリはジュノを後にした。
 それからバルト達も南のプルゴノルゴ島へと足を運び、それぞれに羽を伸ばして戻った、数日の後。
 ジュノで再度顔を揃えた彼らの中に――イーゴリの姿は、なかった。

 勿論、それだけでこんな大騒ぎをしたりはしない。 文字通り大の大人だ、寄り道でもしているか、その友人の所に長居しているのだろうと推測して、誰もがいつもどおりの生活を送り始めた。
 が、三日経っても四日経っても、彼らのガルカは戻らない。 連絡もつかない。
 ルカがシーフギルドに姿を消した時みたいだねぇ――という軽口も叩けなくなってきて、彼が尋ねると言い残して行った旧友の名前を運良く知っていたドリーが、その者に連絡を取る。
 と――彼の所に、イーゴリは姿を見せていないと言うのだ。

 事態は一気に深刻味を帯びた。
 まず、特に危険でもない道中で、屈強なガルカの戦士であるイーゴリが命を落とすとも考えづらい。 もしそうであっても、いずれ白魔道士に蘇生呪文を施してもらえるか、冒険者である彼は最悪どこかの国にその体が転送されるはずなのだ。 バルト達は各国に散ってその姿を探したが、どの国にもガルカの戦士が収容されているという事実も情報もなかった。
 誘拐。 監禁。 もっと不自然だ。 誰からも何の要求もないし、そもそも不可能に近い。 何より知る限り、誰にイーゴリをかどわかす目的があるとも思えない。
 失踪。 それこそ意味が判らない。 と言うより、ありえない。

 六人が頭を抱えたまま、一週間が過ぎる。 ガルカは戻らない。 待てど暮らせど戻らない。
 そうして成す術なく、十日が過ぎた頃。 彼らの中、誰からともどこからともなく、ゆっくりと一つの単語が浮かび上がってきた。



 ―――――― 『転生』 ――――――。



  *  *  *


 ガルカという種族は、個体の寿命が尽きると転生をするという。
 ある時突然死期を悟り、ひっそりと山に登って新しい身体とまっさらな記憶を得て戻ってくる。
 魂だけを引き継いで、無垢な子供の姿で新しい生を始めるのだ。

 この基本的な「言い伝え」は、ヴァナ=ディールに住む者であれば大抵が知っている。
 が、逆に言うと、それ以上の事は誰も知らないのだ。
 それは当の種族であるガルカにおいても同じだった。 何故なら、転生の旅に出てしまえば、戻ってくる時は何の記憶もない子供――実質上「他人」になってしまっているのだから。 それまでの経緯など、確かめようもない。
 そんな極めて皮肉にして理論的な一言で、この単純な伝説はいつも終わってしまうのだ。


 万策が、尽き果てかける。 バルトとフォーレは、この現象を文献などで徹底的に調べ始めた。 ヴォルフとルードは、ジュノで見かける全てのガルカに、この伝説の詳細を知らないかと尋ねて回った。
 何か前兆はないのか、具体的にどこに行くのか、転生したとすればどのくらいで戻ってくるのか。

 成果は――ゼロ、だった。
 どんな文献にも「事実」は載っていない。
 どんなガルカも、いずれ向かう己の行く先の名を知らない。
 ほとんど休みなく分厚い書物を掘り返すように読み漁り――しかし幻想的で示唆ばかりに満ちたおとぎ話のような曖昧な記述にしか出会えずに、バルトとフォーレは重い瞼をページの海原に沈めた。
 ただそれは突然に訪れるのだと、親しい者に別れを告げて旅立つ事のできたガルカの話など聞いた事がないと――そんな絶望的な話ばかりを淡々と聞かされる苦痛に、ルードとヴォルフは苛まれた。

 そして、その頃にはすっかり最悪の運命に心を呑み込まれてしまったドリーは。
 食べること、眠ること、その一切を放棄し、ひたすらに嘆き続けた。 師匠であるガルカの名を呼び続け、身も世もない、という言葉を、小さな体全体で表し続けた。
 そんなドリーを、ルカはただ抱き続けた。 抱き止め続けた――

「死んじゃうのと、一体どこが違うのよ」
 暮れる涙の合間に、ルカの腕の中でドリーは恨みがましく言った。
「記憶もない、体も違ったら、そんなの他人じゃない。 い、遺体も残らないんじゃ――体ごと違うものになっちゃったんじゃ、お葬式もできやしない――ひどいわよ、踏ん切りがつかないわよ、どこで諦めればいいのよう……」
 そう言い募って、おいおいと泣く。 ルカも彼女の背を撫でながら、静かに泣いた。 そして思う。

 本当にそうだ。
 その人の死を目の当たりにできれば――それは身を裂かれるように悲しいけれども、現実として受け止める事ができる。
 だけど、「転生」は。
 違うものに成り代わってしまうというのだ。 体が――新しいものを与えられるのか、はたまた作り変えられるのかは判らないが――魂だけを残して、すっかりその姿が変わってしまう。 かつては確かにその人だったものが、判別不可能となってこの世界のどこかに埋没してしまうのだ。
 そして同時に、記憶の全てが一掃される。

 そう――記憶だ。
 体よりも何よりも、記憶こそが――その人が己を形成してきた道のりの、記録であり成果である記憶こそが、その人をその人たらしめているのではないのか。
 それをごっそり失うということは、その時間を忘れてしまうということは――その個人の、本質的な消失を、意味するのではないのか。

 死んじゃうのと、一体どこが違うのよ。
 ルカも叫びたかった。

 逞しい父親のようなガルカの面影が胸をよぎる。
 もう百年以上生きている事は知っていた。 いつ転生が訪れてもおかしくない年数――それも知っていた。
 でも、知っている事と受け入れられる事は別問題だ。
 突然すぎた。 何の兆候もなかったから、それまでの日常があまりに当たり前で穏やかだったから、覚悟を決める機会もなかった。
 これじゃ苦い涙しか流せない。 今更湧き上がる愚かな後悔の、ぶつけ場所がどこにもないじゃないか。

 胸元が冷たかった。 イーゴリと、イーゴリの中の自分が消えていく恐怖に、ドリーの涙はいつまでもルカの服を乾かしてはくれない。
 ルカはゆっくりと、もう幾度目か知れない深い溜息をついた。

 せめて――せめて、お別れぐらい、許してもらえないの――――


to be continued

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