テノリライオン
永訣の峰、漆黒の血 2
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匿名ユーザー
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それは、本当に突然だったのだ。
―― ジャグナー森林 ――
その日イーゴリは、辺境の小さな町にいる旧友に顔を見せるべく、珍しく柔らかな陽光の注ぐジャグナーの森の中をのんびりと歩いていた。
特に急ぐ道でもない。 仲間達もみんな休養モードに入っていたし、ひとつ自分も気分転換を兼ねてぶらぶらと行くとしよう――そう思って、チョコボにも乗らず二本の足で歩き出した。
「いくら大きいのを貸してくれるって言ったって、こんな巨体を担ぐんじゃあチョコボも気の毒ってもんだ」
壁と呼ぶに相応しい巨躯を揺すって笑いながら、ガルカの戦士は一人そんな事を呟く。
ちらちらと瞬く木漏れ日。 久方ぶりの一人の時間を満喫しながら、イーゴリは森の清冽な空気を肺いっぱいに吸い込む。
ゆっくり歩いていると、普段目的地に向かうために駆け抜けたり気を張って狩りをしている時には気付かない、色々なものが目に止まるものだ。 イーゴリは緑の森ののどかな風景と、そこからとりとめなく浮かぶ徒然な思いを楽しんでいた。
――お、あんな所に鳥の巣が。 もうヒナがいるのかな、それともまだ卵か……
――あの人は何をしているんだろう……ああ、釣りか。 この河ではどんな魚が釣れるんだろうな。 ヴォルフに聞けば判るだろうか。
――しかしいつ見ても大きなキノコだなぁ。 タルタルだったら家にできるんじゃないか。 中をくり抜いたら、ドリーなんかは喜んで潜り込むに違いないな……
何だかんだと思いを巡らせながらも、その大半が仲間達の事へと行き着いてしまう。
こういうのは何ホリックと言うのだろうか――などと、考える事にバリエーションのない自分にくすりと失笑を漏らして、イーゴリは素直にその戦友たちに思いを馳せ始めた。
ガルカとして、彼はそこそこ長く生きてきた。 だからその間、ある程度の期間行動を共にした仲間の数は到底数え切れない。
色々な人と出合った。 気の合う仲間も沢山いたし、これ以上のメンバーはいない、と思えた事もあった。 けれど。
「……忘れっぽいのかな、俺は」
暖かい苦笑いを浮かべて、ガルカは一人呟く。
今、一団の冒険者として組んでいる仲間達、この七人での時間――。
これ以上に居心地の良かった時代を、彼は自分の過去の中から、選ぶことができないでいるのだった。
敵と対峙する背後で赤と黒、二人のエルヴァーンが紡ぐ呪文の一部の隙もないハーモニーはもはや耳に心地よい。 まるで二人が一つの脳を共有して織り成しているかのような、ある種の芸術を思わせる。
可愛らしいタルタルの少女の白い癒しの術は、いつでも単なる治療の域を超えた暖かさがあって。
小さな暗黒騎士が、自分の豪腕に真っ向から挑戦するかのように放つ力強い一撃にはいつでも感心させられてきた。
敵と自分達の周りを影のように跳び回って戦局の糸を引く、ミスラのシーフ。 何度彼女に背中の影を貸しただろうか。
そして――目の前で少しずつ成長していく、小さな赤毛のナイトがいる。
生徒としてはなかなかなじゃじゃ馬だけれど――教えた事を一つずつ着実に吸収していく姿は、何だか自分の大切な作品のようで。
が、そんな彼女に、最近はもう教える事もなくなってきたと、イーゴリは感じ始めていた。
基本的な技術はもうとっくに教え終わった。 応用や局面によって変えるべき立ち回りも、いつの間にかずいぶん卒なくこなすようになっている。
後は、経験だ。 不測の事態に動じない冷静さや、自分の役割を忘れない思考力。 そういうものは教えたり教えられたりするのに限界がある。 時間と実践の中で積み重ね、それぞれに培っていくしかないのだ。
そしてあの少女は、ナイトの道を選んだ。 その立ち居振る舞いが似ているようで本質的に異なる戦士であるイーゴリが新しく教えられることは、数えるほどもない。
そんな彼ら仲間と共に戦い抜いた先の妖魔との大戦を、彼は幾分遠く思い起こした。
遠く男神の紡ぐ世界より襲い来るおぞましい異形の姿が、イーゴリの脳裏にまざまざと蘇り――かすかに体を走る戦慄の残滓が、頬のある一カ所で止まる。
普段鏡なぞめったに見ないガルカは、久し振りにその頬の黒い傷の存在を思い出し、ぼんやりと太い指でなぞってみた。
異世界から来た敵の黒い鎌に刻まれた、消えない傷跡だ。 バルトが喉に喰らって、声を喪ったと同じもの――
あの戦いでも、ドリーはずいぶんと目覚しい働きを見せた。 妖魔を相手に一歩も引かず、皆をその背に護らんとする獅子奮迅の勇姿をイーゴリは目を細めて思い出す。
……見守る段階に、来ているのだろう。
改めてそう思って、彼はふっと木立を仰いだ。
嬉しいような、寂しいような誇らしいような――沢山の感情がごった煮になって輪郭を捉えきれない、それでも総合的にはほんわりと暖かい空気に、大きな体が包まれる。
いわゆる親子関係というものが存在しない、ガルカの彼だったが。
「子供ってやつを持つと、きっとこういう気分なんだろうな……」
なかなか得難い経験だ。 剣術を教えた見返りとしては十分――いや、おつりが来るかな?
そんな事を徒然に考えながら歩き、のんびりと森の梢や白い綿雲などを見上げている彼に。
それは、訪れた。
* * *
「――――あ」
空が、光ったような気がした。
(雷……?)
いや、晴れている。 錯覚だ。 そう思う間もなく――突然イーゴリの意識は、彼の中でだけ再度閃いたそのまばゆい光に頭からまるごと呑み込まれた。
思わずよろけるように立ち止まって、がばと両手で顔を覆う。 目を閉じて初めてその光が自分の内側のものだと気付く彼に、霧のような声が響いていた。
遥か彼方から呼びかけるような、それでいて己の奥底から再生されているような、どこか懐かしい、不思議な声が。
―― ……時間だ、イーゴリよ ――
(時間――?)
―― 巡りの刻が来た。 全うしたことを慶べ。 妙なる祝福が、お前を待っている ――
(…………)
―― さあ、還ろうぞ。 命の螺旋の頂に戻れ。 旧き宿りに別れを告げ、新たな誕生の誘いに ――
(お迎え……なのか――)
―― 身を、委ねるがいい ――
遠ざかる声。 それを合図に、立ちすくむガルカの戦士の巨躯を、地震のような震えが駆け上がった。
「……っ!!」
――……彼に許されたのは、その震えが突き抜ける間の、ほんの瞬きほどの僅かな時間だけだった。
若くして出兵した大戦の興奮、共に生きたガルカ達。 命のやりとりの末、彼を庇って命を落とした兄のような存在があった……
イーゴリの脳裏で、彼の長きに渡った人生の映像、その断片が凄まじいスピードで上映されていく。
冒険者としての修行。 多くの友と出会い、そして別れた。 どれもが思い出深く、砂の中に覗く宝石のような輝きを放って彼に微笑みかける。
嬉しかった事も辛かった事も、回顧という坩堝の中で溶け合えば同じ熱源だ。 それらが優しくイーゴリを暖め、激しく焦がす。 めくるめく思いの洪水、浮かんでは消える命の歌声、繰り返す世界の愛しき移ろい――
(――――!)
そして、その気も狂わんばかりの怒涛の果てに辿り着くのは――たった今思いを馳せていた、六人の仲間の面影だった。
バルト――――ルード、フォーレよ――。
ああ、済まない。 済まない。 ヴォルフ。 ルカ―― 俺は、帰れなくなってしまった。 突然の事で、きっと混乱させてしまうだろう。
俺が欠けて困りはしないだろうか。 呼吸の配分が狂ってしまう……いや、きっと大丈夫だ。 バルトやルードが、新しい戦術を考えてくれるに違いない。 ヴォルフがしっかり周囲を見てくれる。 フォーレが支えて、ルカが盛り立ててくれるだろう。
ああしかし、ルードはすぐ調子に乗るし、バルトも事態を楽しみすぎるきらいがある。 フォーレでは遠慮してあいつらを止められないかもしれない。 ルカはシーフのくせにボーっとした所があるし、ヴォルフはいつでも冷静すぎる。 大丈夫だろうか、やっぱり心配だ――――
全幅の信頼と強烈な心残りが、イーゴリの大きな体の中に代わる代わる現れては激しくせめぎ合う。
通常の何倍もの速度で荒れ狂う思考に翻弄され、彼の身も心も千切れてバラバラになりそうだった。
そして。
――ドリー。 ドリーよ……!
久遠の手に成す術なく存在そのものをたぐり寄せられながら、イーゴリは小さな彼の娘へと、必死で最後の想いを迸らせる。
出来ることならば、これから消えていく俺の全てを、お前に託して逝きたい。
この腕の筋力を。 有り余る体力を。 百年に渡って積み重ねてきた、言葉では伝え切れなかった、戦いの勘と知恵を。
でもそれは叶わぬことだ。 例えこうしてお迎えが来なかったとしても、もう俺がお前に与えてやれるものなど、数えるほどもないのだろうから。 いや、もしかすると、何ひとつ――ないのかもしれない。
だから。 だから、ドリーよ――――
大地を見失ってしまいそうな目眩の中、強く息を詰める。 思い切り歯を食い縛る。 獣に引き剥がされるような魂の痛みを、少しでも体に移そうとするかのように。
ドリーよ――強くなれ。
知っているだろう、お前はもうその切符を手にしている。 俺がいなくても、そのまままっすぐ進めばいい。 立ち止まるな。 大丈夫、世界はお前を拒みはしない。
力の足りない事があれば、皆に助けてもらってもいい。 だがそれ以上に皆を助けろ。 小さくとも、幼くとも、お前は――騎士なのだから。
はねっかえりで底抜けに明るい、赤毛のタルタルの少女。 最後に笑顔が見たいのに、瞼に浮かんだのはくしゃくしゃに歪んだ泣き顔だった。
ああ――お前の未来を見届けられずに去っていく、無責任な俺を――どうか許してくれ。
信じているから。
お前がどこかで笑うこの世界に、俺もすぐ、戻って来るから――――!
灼けつくような閃光が、軽々とイーゴリの思考を圧し、弾き飛ばした――
* * *
「………………」
森の静寂の中で立ち止まっていたガルカが、無骨な両手で覆っていた顔をゆっくりと上げた。
伏せていた、黒く強い髪と髭の、その中にあったのは――
どこまでも穏やかな、安らいだ瞳だった。
両手をだらんと下ろす。 曲がっていた背筋を伸ばし、何かに呼ばれたかのようにふと踵を返して、彼は再び歩き出した。
さく、さくと、草を踏みしめる音が小さく響く。
それは幼い子供が、家路につく時に立てる音。
彼の心に、麻酔がかかっていた。
悲しみ、執着、後悔、躊躇い――およそありとあらゆる負の感情が、まるで生まれつきそんなものなどなかったかのように、彼の心から完全に払拭されていた。
それは、これからその存在の全てを塗り替えられる転生へと赴くガルカに、本能が最後に施す外科処置なのだろうか。
彼は歩く。 森の中を、蜜の香りに向かう昆虫のように、軽い足取りで一歩一歩あるいていく。
まだ記憶を失ってはいない。 思考は確かに働いて、思い出そうと思えば何でも思い出せた。
しかしそれはただ思い出せる、考えられるというだけで――本来励起されるべき様々な感情が何かによって抑えられていることには、彼は気づけない。
さっきまで自分が、何故あんなに興奮していたのかも判らない。
それが、第一の喪失だった。
甘やかな衝動に引き寄せられ、右足と左足が交互に彼を運んでいく。
どこに行くのか、何故行くのか。 それも彼の思考から取り上げられていた。
ただ、楽しい旅行に行くような気分だけがあった。 行き先は足が知っている。 少し浮かれた面持ちで、イーゴリは流れ来る光景を期待に満ちた眼差しで見はるかしていた。
彼の後ろに、景色はない。
あるのはこれから往く路のみ。 振り返るという機能も失ったイーゴリ。
彼が潜った定めの門は既に遠く、その向こうに置いて来たものは暖かい闇の中で沈黙していた。
囁くように手招く木立が指し示す、見えないレールが森を抜ける。
とろける安寧の予感だけに満たされたガルカの、不帰の旅が始まった。
* * *
―― ラテーヌ平原 ――
草いきれの混じった風が、彼の髪を揺らす。
小さな湖のほとりで、誰かが彼に声をかけた。
彼はそちらを見て――足を止めないまま一つ微笑み、そのまま何事もなかったかのように行き過ぎる。
残された者の、肩をすくめる気配だけが残った。
―― 西ロンフォール ――
長く伸びるサンドリアの城門。 その内側にも、周囲で時折り響くたどたどしい剣戟にも、彼はもう興味を持たない。
―― 東ロンフォール ――
遠い山麓に夕日がかかる。 一日の終わりを告げる赤。
―― ラングモント峠 ――
うっそうと冷ややかな、暗く細い氷穴が彼を迎える。
前だけを見て迷いなく進むガルカを、そこをねぐらにする魔物たちが静かに見送った。
―― ボスディン氷河 ――
峠を抜けたその瞬間から、噛み付くような猛吹雪が彼の全身を襲う。
夜明け前の冷たい闇にも包まれて、彼の視界はゼロに等しい。
そんな極限の環境下、ガルカは微笑んでいた。 彼の表情に、ひとさじの恍惚が混じり始める。
まるで部屋の明かりを消して、暖かい寝床にくるまり漏らす溜息のような安らぎを。
静かな憩いの時が近く訪れるのを確信して、安堵に肩の力を抜いたような明るさを。
荒れ狂う、零下の中で――
国から国を渡るほどの距離を歩いても、彼に疲れは微塵もない。 吹雪に晒されても凍えを覚えない。 ガルカの強靭な肉体と、きりきりと回る大きな運命の歯車のもたらす力が、その全てを可能にしていた。
灰色の闇の中を一人往くイーゴリ。
鋭い鞭のように逆巻く吹雪も、壁のように視野を狭める宵闇も、彼の歩みを妨げる事は叶わない。
その路はくっきりと、彼の中に在るのだから。
―― ザルカバード ――
to be continued
―― ジャグナー森林 ――
その日イーゴリは、辺境の小さな町にいる旧友に顔を見せるべく、珍しく柔らかな陽光の注ぐジャグナーの森の中をのんびりと歩いていた。
特に急ぐ道でもない。 仲間達もみんな休養モードに入っていたし、ひとつ自分も気分転換を兼ねてぶらぶらと行くとしよう――そう思って、チョコボにも乗らず二本の足で歩き出した。
「いくら大きいのを貸してくれるって言ったって、こんな巨体を担ぐんじゃあチョコボも気の毒ってもんだ」
壁と呼ぶに相応しい巨躯を揺すって笑いながら、ガルカの戦士は一人そんな事を呟く。
ちらちらと瞬く木漏れ日。 久方ぶりの一人の時間を満喫しながら、イーゴリは森の清冽な空気を肺いっぱいに吸い込む。
ゆっくり歩いていると、普段目的地に向かうために駆け抜けたり気を張って狩りをしている時には気付かない、色々なものが目に止まるものだ。 イーゴリは緑の森ののどかな風景と、そこからとりとめなく浮かぶ徒然な思いを楽しんでいた。
――お、あんな所に鳥の巣が。 もうヒナがいるのかな、それともまだ卵か……
――あの人は何をしているんだろう……ああ、釣りか。 この河ではどんな魚が釣れるんだろうな。 ヴォルフに聞けば判るだろうか。
――しかしいつ見ても大きなキノコだなぁ。 タルタルだったら家にできるんじゃないか。 中をくり抜いたら、ドリーなんかは喜んで潜り込むに違いないな……
何だかんだと思いを巡らせながらも、その大半が仲間達の事へと行き着いてしまう。
こういうのは何ホリックと言うのだろうか――などと、考える事にバリエーションのない自分にくすりと失笑を漏らして、イーゴリは素直にその戦友たちに思いを馳せ始めた。
ガルカとして、彼はそこそこ長く生きてきた。 だからその間、ある程度の期間行動を共にした仲間の数は到底数え切れない。
色々な人と出合った。 気の合う仲間も沢山いたし、これ以上のメンバーはいない、と思えた事もあった。 けれど。
「……忘れっぽいのかな、俺は」
暖かい苦笑いを浮かべて、ガルカは一人呟く。
今、一団の冒険者として組んでいる仲間達、この七人での時間――。
これ以上に居心地の良かった時代を、彼は自分の過去の中から、選ぶことができないでいるのだった。
敵と対峙する背後で赤と黒、二人のエルヴァーンが紡ぐ呪文の一部の隙もないハーモニーはもはや耳に心地よい。 まるで二人が一つの脳を共有して織り成しているかのような、ある種の芸術を思わせる。
可愛らしいタルタルの少女の白い癒しの術は、いつでも単なる治療の域を超えた暖かさがあって。
小さな暗黒騎士が、自分の豪腕に真っ向から挑戦するかのように放つ力強い一撃にはいつでも感心させられてきた。
敵と自分達の周りを影のように跳び回って戦局の糸を引く、ミスラのシーフ。 何度彼女に背中の影を貸しただろうか。
そして――目の前で少しずつ成長していく、小さな赤毛のナイトがいる。
生徒としてはなかなかなじゃじゃ馬だけれど――教えた事を一つずつ着実に吸収していく姿は、何だか自分の大切な作品のようで。
が、そんな彼女に、最近はもう教える事もなくなってきたと、イーゴリは感じ始めていた。
基本的な技術はもうとっくに教え終わった。 応用や局面によって変えるべき立ち回りも、いつの間にかずいぶん卒なくこなすようになっている。
後は、経験だ。 不測の事態に動じない冷静さや、自分の役割を忘れない思考力。 そういうものは教えたり教えられたりするのに限界がある。 時間と実践の中で積み重ね、それぞれに培っていくしかないのだ。
そしてあの少女は、ナイトの道を選んだ。 その立ち居振る舞いが似ているようで本質的に異なる戦士であるイーゴリが新しく教えられることは、数えるほどもない。
そんな彼ら仲間と共に戦い抜いた先の妖魔との大戦を、彼は幾分遠く思い起こした。
遠く男神の紡ぐ世界より襲い来るおぞましい異形の姿が、イーゴリの脳裏にまざまざと蘇り――かすかに体を走る戦慄の残滓が、頬のある一カ所で止まる。
普段鏡なぞめったに見ないガルカは、久し振りにその頬の黒い傷の存在を思い出し、ぼんやりと太い指でなぞってみた。
異世界から来た敵の黒い鎌に刻まれた、消えない傷跡だ。 バルトが喉に喰らって、声を喪ったと同じもの――
あの戦いでも、ドリーはずいぶんと目覚しい働きを見せた。 妖魔を相手に一歩も引かず、皆をその背に護らんとする獅子奮迅の勇姿をイーゴリは目を細めて思い出す。
……見守る段階に、来ているのだろう。
改めてそう思って、彼はふっと木立を仰いだ。
嬉しいような、寂しいような誇らしいような――沢山の感情がごった煮になって輪郭を捉えきれない、それでも総合的にはほんわりと暖かい空気に、大きな体が包まれる。
いわゆる親子関係というものが存在しない、ガルカの彼だったが。
「子供ってやつを持つと、きっとこういう気分なんだろうな……」
なかなか得難い経験だ。 剣術を教えた見返りとしては十分――いや、おつりが来るかな?
そんな事を徒然に考えながら歩き、のんびりと森の梢や白い綿雲などを見上げている彼に。
それは、訪れた。
* * *
「――――あ」
空が、光ったような気がした。
(雷……?)
いや、晴れている。 錯覚だ。 そう思う間もなく――突然イーゴリの意識は、彼の中でだけ再度閃いたそのまばゆい光に頭からまるごと呑み込まれた。
思わずよろけるように立ち止まって、がばと両手で顔を覆う。 目を閉じて初めてその光が自分の内側のものだと気付く彼に、霧のような声が響いていた。
遥か彼方から呼びかけるような、それでいて己の奥底から再生されているような、どこか懐かしい、不思議な声が。
―― ……時間だ、イーゴリよ ――
(時間――?)
―― 巡りの刻が来た。 全うしたことを慶べ。 妙なる祝福が、お前を待っている ――
(…………)
―― さあ、還ろうぞ。 命の螺旋の頂に戻れ。 旧き宿りに別れを告げ、新たな誕生の誘いに ――
(お迎え……なのか――)
―― 身を、委ねるがいい ――
遠ざかる声。 それを合図に、立ちすくむガルカの戦士の巨躯を、地震のような震えが駆け上がった。
「……っ!!」
――……彼に許されたのは、その震えが突き抜ける間の、ほんの瞬きほどの僅かな時間だけだった。
若くして出兵した大戦の興奮、共に生きたガルカ達。 命のやりとりの末、彼を庇って命を落とした兄のような存在があった……
イーゴリの脳裏で、彼の長きに渡った人生の映像、その断片が凄まじいスピードで上映されていく。
冒険者としての修行。 多くの友と出会い、そして別れた。 どれもが思い出深く、砂の中に覗く宝石のような輝きを放って彼に微笑みかける。
嬉しかった事も辛かった事も、回顧という坩堝の中で溶け合えば同じ熱源だ。 それらが優しくイーゴリを暖め、激しく焦がす。 めくるめく思いの洪水、浮かんでは消える命の歌声、繰り返す世界の愛しき移ろい――
(――――!)
そして、その気も狂わんばかりの怒涛の果てに辿り着くのは――たった今思いを馳せていた、六人の仲間の面影だった。
バルト――――ルード、フォーレよ――。
ああ、済まない。 済まない。 ヴォルフ。 ルカ―― 俺は、帰れなくなってしまった。 突然の事で、きっと混乱させてしまうだろう。
俺が欠けて困りはしないだろうか。 呼吸の配分が狂ってしまう……いや、きっと大丈夫だ。 バルトやルードが、新しい戦術を考えてくれるに違いない。 ヴォルフがしっかり周囲を見てくれる。 フォーレが支えて、ルカが盛り立ててくれるだろう。
ああしかし、ルードはすぐ調子に乗るし、バルトも事態を楽しみすぎるきらいがある。 フォーレでは遠慮してあいつらを止められないかもしれない。 ルカはシーフのくせにボーっとした所があるし、ヴォルフはいつでも冷静すぎる。 大丈夫だろうか、やっぱり心配だ――――
全幅の信頼と強烈な心残りが、イーゴリの大きな体の中に代わる代わる現れては激しくせめぎ合う。
通常の何倍もの速度で荒れ狂う思考に翻弄され、彼の身も心も千切れてバラバラになりそうだった。
そして。
――ドリー。 ドリーよ……!
久遠の手に成す術なく存在そのものをたぐり寄せられながら、イーゴリは小さな彼の娘へと、必死で最後の想いを迸らせる。
出来ることならば、これから消えていく俺の全てを、お前に託して逝きたい。
この腕の筋力を。 有り余る体力を。 百年に渡って積み重ねてきた、言葉では伝え切れなかった、戦いの勘と知恵を。
でもそれは叶わぬことだ。 例えこうしてお迎えが来なかったとしても、もう俺がお前に与えてやれるものなど、数えるほどもないのだろうから。 いや、もしかすると、何ひとつ――ないのかもしれない。
だから。 だから、ドリーよ――――
大地を見失ってしまいそうな目眩の中、強く息を詰める。 思い切り歯を食い縛る。 獣に引き剥がされるような魂の痛みを、少しでも体に移そうとするかのように。
ドリーよ――強くなれ。
知っているだろう、お前はもうその切符を手にしている。 俺がいなくても、そのまままっすぐ進めばいい。 立ち止まるな。 大丈夫、世界はお前を拒みはしない。
力の足りない事があれば、皆に助けてもらってもいい。 だがそれ以上に皆を助けろ。 小さくとも、幼くとも、お前は――騎士なのだから。
はねっかえりで底抜けに明るい、赤毛のタルタルの少女。 最後に笑顔が見たいのに、瞼に浮かんだのはくしゃくしゃに歪んだ泣き顔だった。
ああ――お前の未来を見届けられずに去っていく、無責任な俺を――どうか許してくれ。
信じているから。
お前がどこかで笑うこの世界に、俺もすぐ、戻って来るから――――!
灼けつくような閃光が、軽々とイーゴリの思考を圧し、弾き飛ばした――
* * *
「………………」
森の静寂の中で立ち止まっていたガルカが、無骨な両手で覆っていた顔をゆっくりと上げた。
伏せていた、黒く強い髪と髭の、その中にあったのは――
どこまでも穏やかな、安らいだ瞳だった。
両手をだらんと下ろす。 曲がっていた背筋を伸ばし、何かに呼ばれたかのようにふと踵を返して、彼は再び歩き出した。
さく、さくと、草を踏みしめる音が小さく響く。
それは幼い子供が、家路につく時に立てる音。
彼の心に、麻酔がかかっていた。
悲しみ、執着、後悔、躊躇い――およそありとあらゆる負の感情が、まるで生まれつきそんなものなどなかったかのように、彼の心から完全に払拭されていた。
それは、これからその存在の全てを塗り替えられる転生へと赴くガルカに、本能が最後に施す外科処置なのだろうか。
彼は歩く。 森の中を、蜜の香りに向かう昆虫のように、軽い足取りで一歩一歩あるいていく。
まだ記憶を失ってはいない。 思考は確かに働いて、思い出そうと思えば何でも思い出せた。
しかしそれはただ思い出せる、考えられるというだけで――本来励起されるべき様々な感情が何かによって抑えられていることには、彼は気づけない。
さっきまで自分が、何故あんなに興奮していたのかも判らない。
それが、第一の喪失だった。
甘やかな衝動に引き寄せられ、右足と左足が交互に彼を運んでいく。
どこに行くのか、何故行くのか。 それも彼の思考から取り上げられていた。
ただ、楽しい旅行に行くような気分だけがあった。 行き先は足が知っている。 少し浮かれた面持ちで、イーゴリは流れ来る光景を期待に満ちた眼差しで見はるかしていた。
彼の後ろに、景色はない。
あるのはこれから往く路のみ。 振り返るという機能も失ったイーゴリ。
彼が潜った定めの門は既に遠く、その向こうに置いて来たものは暖かい闇の中で沈黙していた。
囁くように手招く木立が指し示す、見えないレールが森を抜ける。
とろける安寧の予感だけに満たされたガルカの、不帰の旅が始まった。
* * *
―― ラテーヌ平原 ――
草いきれの混じった風が、彼の髪を揺らす。
小さな湖のほとりで、誰かが彼に声をかけた。
彼はそちらを見て――足を止めないまま一つ微笑み、そのまま何事もなかったかのように行き過ぎる。
残された者の、肩をすくめる気配だけが残った。
―― 西ロンフォール ――
長く伸びるサンドリアの城門。 その内側にも、周囲で時折り響くたどたどしい剣戟にも、彼はもう興味を持たない。
―― 東ロンフォール ――
遠い山麓に夕日がかかる。 一日の終わりを告げる赤。
―― ラングモント峠 ――
うっそうと冷ややかな、暗く細い氷穴が彼を迎える。
前だけを見て迷いなく進むガルカを、そこをねぐらにする魔物たちが静かに見送った。
―― ボスディン氷河 ――
峠を抜けたその瞬間から、噛み付くような猛吹雪が彼の全身を襲う。
夜明け前の冷たい闇にも包まれて、彼の視界はゼロに等しい。
そんな極限の環境下、ガルカは微笑んでいた。 彼の表情に、ひとさじの恍惚が混じり始める。
まるで部屋の明かりを消して、暖かい寝床にくるまり漏らす溜息のような安らぎを。
静かな憩いの時が近く訪れるのを確信して、安堵に肩の力を抜いたような明るさを。
荒れ狂う、零下の中で――
国から国を渡るほどの距離を歩いても、彼に疲れは微塵もない。 吹雪に晒されても凍えを覚えない。 ガルカの強靭な肉体と、きりきりと回る大きな運命の歯車のもたらす力が、その全てを可能にしていた。
灰色の闇の中を一人往くイーゴリ。
鋭い鞭のように逆巻く吹雪も、壁のように視野を狭める宵闇も、彼の歩みを妨げる事は叶わない。
その路はくっきりと、彼の中に在るのだから。
―― ザルカバード ――
to be continued