テノリライオン

永訣の峰、漆黒の血 3

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匿名ユーザー

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 弱い者は淘汰されるの。
 これは自然の摂理だわ。

 目の前で、ヒュームの男が膝からゆっくりと雪の中にくずおれていく様を見ながら、彼女の思考は淡々と紡がれる。

 生き物という集合には、頂点と底辺がある。
 より下にいる者は、より上にいる者に踏みしだかれる定めなのよ。

 その思考の主は、黒かった。
 タルタル特有の小さな体に、さながら新月の闇夜の如き漆黒の鎧をまとう。
 その漆黒をそのまま引き写したような冷たく暗い瞳が、兜の奥から覗いていた。

 だから、踏まれたくなければ上に行くしかない。
 上に行く力を手にできなかったのなら――諦めなさい。

 ぼす、というくぐもった音を立てて、男の体が無抵抗に雪の上に伏した。 しんしんと降る雪が、その体を包むようにふわりと舞う。
 少しの時間を置いて――その体の下から、じわりと赤い色が広がり出した。
 足元の光景を無表情に見やりながら、彼女は手にした鎌をびっと振った。 まるでその動作が白い毛皮の生き物の表面を浅く切り裂いたかのように、雪原に突如として細く赤い弧が描き出される。 男の体の下から染み出したものと同じ色だ。
 タルタルの彼女は、いびつで禍々しい曲線を描くその漆黒の鎌を無造作に背に戻すと、ゆっくりと懐から通信機を取り出して回線を開いた。

「…………シルヴィアです。 ――はい、始末しました。 確かに。 ええ――いえ、問題ないかと。 ……では、放置で」
 落ち着き払った低い声が、柔らかい雪に吸い込まれて消えていく。
「はい……では、そのように」
 しばしのやりとりの後、ぷつっと彼女は通信を切った。
 そして鈍色のパールをしまいながら、足元で少しずつ粉雪のヴェールをかぶりだす男の姿に、無感情な視線を送る。

 弱い人間。 愚かな人間。 力も持たないくせに、小賢しい立ち回りで利を得ようとして――こうしてあっさり排除される。
 大人しく生きていればよかったものを。 出る杭は打たれる、という言葉を、もう少し早く思い出すべきだったわね。 打つ槌を跳ね返す力がないのなら、凡百の民に埋もれて息をひそめていた方がまだしも賢明というものなのだから。

 ふと――荒々しい力の象徴のような黒くいかつい兜の中で、彼女の瞳の温度が僅かに、更に下がる。
 彼女の脳裏に、自分とよく似た面立ちの、あるタルタルの少女の姿が浮かんでいた。

 そう言えばあの子も、そんな横並びの杭の代名詞みたいなものだったわね。
 刺激も何もないウィンダスの片隅で、お姉ちゃんお姉ちゃんと私の後をついて回るだけの――限りなく底辺に近い、弱者。 取るに足りない、芝生のような存在。
 ずっと以前に故郷のウィンダスを後にして以来、会っていない。 きっと今でもあそこで毎日毎日、同じ暮らしをしているんだろう、私の妹。
 別に興味もないけれど。

 しんしんと降り積もる冷たい雪の中、とりとめのない物思いを無表情に転がしながら、彼女は懐の帰還の呪符に手を伸ばす。
 仕事は完了した。 上に報告して報酬を受け取ったら、後はしばらく仕事は入っていない。 魔物狩りにでも行って、新しい武具を買う足しでも稼いでこようかしら――
 目の前で雪の中にその姿を葬られていく男のことなどさっさと念頭から追い出し、早くもそんな事を考えながらふいと彼女は踵を返した。

「――っ!?」

 と同時に、彼女はぎょっと息を呑む。
 バックを取られていた、と言っても過言ではないその距離、振り向いた真正面に――岩のようなガルカの巨躯が、そびえるように立っていたのだ――


  *  *  *


 猛吹雪のボスディン氷河を越えてきたイーゴリは、ザルカバードへと足を踏み入れた。
 先程までの叩き付けるような純白の嵐とは打って変わって、しん……と振りしきる穏やかな雪が彼を迎える。
 大きな綿毛を思わせる吐息をたなびかせ、ざく、ざく、と厚い足音を刻みながらガルカは進む。
 西北西へ。 道筋など選ぶことなく、一直線に。

 長い旅を経た彼の心は、いつしかすっかり白一色に染め上げられていた。
 緑の野や森を歩いていた時には、そこを時折り横切るウサギのように――そう、まるでいつもと変わらぬ風景の如くさらりさらりとよぎっていた仲間達の面影も、今や徐々にその姿を潜め。
 ただ己が足の命ずるまま、眼に映る無垢な白を心に吸い込みながら、一歩、また一歩、彼はひたすらに曳かれていく――


「――――…………」

 滑らかな起伏に凪ぐザルカバードの雪原を、そろそろ横断しきろうかという時。
 彼の中に広がる完全無欠の白い世界に、不意に虫が食った。

 行く手に、一つ。 ぽつんと小さな黒い点が浮かび上がったのを、イーゴリの心がふと動いて捕らえる。
 何故か意識に訴えかけて離さないそのサイズが、その色が、どこか虚ろな彼の瞳の焦点を力いっぱい惹きつけた。

 すると――初めて、彼の歩みが揺らぐ。
 ふらり、と僅かに進行方向が逸れる。 やや頼りない足取りで、その黒い人影の方へと進むガルカ。
 疑問もない代わりに、理由も判らない。 ただ何か、遠い遠い記憶の向こうから呼びかける懐かしい響きが、彼の足をまっすぐ運び続ける絶対的な力からひととき彼を奪い返す事に成功したのだ。

 ゆるゆると、小さな黒い人影の側に辿り着くと同時に、それがくるりと振り返った。
「――っ!?」
 意表を突かれたような驚きの色に表情を染め、漆黒の鎧に身を包むタルタルの少女はイーゴリと向き合う。
 一体いつのまに。 驚愕に見開かれる彼女の目がそう言っていた。 しかしすぐさまその瞳に冷酷な色を取り戻し、警戒もあらわに背の鎌に手を伸ばそうとして――また、彼女に驚愕が戻ってくる。
「なっ――」

 何故ならば。 突如現れたガルカはそんな彼女の様子に全く反応を見せず、まるで大人が子供にするように、ひょいと身を屈めて彼女の顔を覗き込んできたのだ。
 ごわごわの髪と髭に縁取られた大きな顔が、彼女の間近に迫る。 そしてその瞳は――とてつもなく穏やかで、優しげで。
 思わず一歩あとずさりながら、どんな予想も追いつかない事態に、彼女は動揺する。

「……ああ」
 と。 ガルカが、口を開いた。
 のんびりと。 どこか愛しげに目を細め、自分の家でくつろいでいるような、ひどく場違いにゆるやかなその口調。
「ルードかと思ったら――違うんだなぁ」
「……?」

 彼女の眉間に皺が刻まれる。 何を言っているのか、このガルカは。 訳が判らない。
 不審と言えばこの上なく不審だけれど――単なる、人違いだろうか。
 背に回しかけた手を恐る恐る戻しながら、そう思おうとしてしかし、黒い鎧の彼女は強い違和感に襲われる。

 殺気や警戒のようなものが、目の前の彼からは微塵も感じられないのだ。
 勿論ただそれだけなら、人柄の一言で片付けることもできよう。 彼女が背の武器に伸ばして見せる手、彼に向けるあからさまな暗い不快感、そのどれもに反応がなくても、どうにかその推測は成り立つ。
 が、しかし。
 彼の「静けさ」は―― この人に敵意はない、などという可愛らしいレベルのものではなかった。

 気配が、無い。
 人の精神活動が発して然るべき信号が、全く感じられない。
 物理的な音よりも優先して張っている筈の、気配のアンテナ。 生き残る戦士の条件とも言うべきその感覚が、こんな至近距離にまで寄られていたというのに、ぴくりとも反応しなかった。
 いや、そんな独りよがりで不確かな精神論など待たずとも――

 そう、彼女の背後には、今しがた彼女が殺めた男が倒れているのだ。 未だ残る体温から遠い箇所にうっすらと雪を積もらせ始め、同時に鮮やかな赤い色に縁取られて、匂い立つように新しい死を主張する存在が、すぐ後ろにはっきりとある。
 位置関係から言って、ガルカの視界にそれが入っていないはずはないのだ。 なのに。
 どこまでも優しげな彼の表情には、咎めるような色も怯えるような色も、なにひとつ浮かんでいない。 優しくあるのなら当然、背後の光景に何らかの感情の動きがなければおかしいのに――全くそんなものなど見えていないかのように、ガルカはただ彼女に柔らかい視線を注いでいるのだ。
 その瞳を、彼女は勢い釣り込まれるように、しかしかろうじて訝しげに覗き込んで――そして更に、拭い難い違和感を深める。

 何かが――おかしい。 異様だ。
 危険な気配は全くない。 むしろその逆、揺るぎないと言っていいほどの穏やかさ、静けさが、彼を隙間なく覆っているのが判る。
 しかしその瞳に、かつて見たことのない色がごくかすかに混じっているのだ。 彼女は内心で、その色を表す言葉を探そうと試みるが。

 狂信。 妄信……違う。
 催眠。 夢遊。 違う、理性の光も見える。
 微妙すぎて判らない――いや、もっと言葉を開くなら……

 この世の、ものでは、ない。

 あまりに自然に出てきた、あまりに不自然な言葉に自分で驚き、彼女は頭の中で強く首を横に振る。

 何を寝惚けたことを。 目の錯覚に決まってる。
 でも……でも、これは――――


 彼女は、暗殺者だ。
 故に、死というものを――死に行く人間というものを、日常的に見ている。 いや、生産している。
 数え切れないほどの相手を死の淵へと追いやってきた。 漆黒をまとう彼女の来訪は、相手にとってそのまま死神の来訪に等しい。
 彼らは足掻く。 来ないでくれと怯え、助けてくれと命乞いをし、あるいは彼女に刃を向ける事で己の命を永らえようとする。 それらは最終的には無駄であっても、命あるものとして当然の行動だ。

 が。 ごく稀に、そういった行動をとらない者がある。
 彼女を待っている者がある。 彼女の訪れに、安堵の溜息をつく者がある。
 それはもはや逃げるのに疲れた者であったり、己の罪を心の底から受け容れている者であったり――幾通りかの理由があるが、彼女と対面した彼らに共通する点はただ一つ。

 彼女の黒い鎌が自分にもたらしてくれるものを、その目に憧れすら宿して、静かに迎えるのだ。
 彼女を通り越した向こうに広がる世界へと、何かから解き放たれるようにして渡っていくのだ。

 彼女が何度か遭遇した、そんな者たちが見せる遠い目の色。
 それに極めて近いものを、このガルカの瞳は間違いなく宿しているのだが――

(……違う)

 彼女は結論できない。 そんなものとは違うのだ。 これから迎える――色では、ない。
 思い切って言ってしまうなら――突き抜けている。 もう、迎えている。
 いかな彼女であっても見ることのできない、あの河を渡った向こう。 断末魔も走馬灯も潜り抜けた、その末にだけ放つことのできる、混じり気のない最期の光を――

 馬鹿な。 あるはずがない。

 今度は彼女は、自分の考えを振り払うように、実際に首を小さく横に振った。

 それが本当なら――このガルカは、生きながらあの河を渡っているとでも言うの。
 足跡をつけて雪原を歩き、鎧の肩当てにうっすらと雪を乗せ、微笑んで日常的な言葉を口にする、このガルカが。
 あるはずがない。 ただの私の気の迷いだわ――

 流れる思考を半ば無理矢理に断ち切る彼女の耳に、再びそのガルカの声が響いた。

「おや……お前さん」
「え?」
 更に覗き込むように、ガルカが彼女の顔をしげしげと見た。 彼女はまた後ずさる。 未知のものに対する怯えもあったが、それ以上に人の敵意や殺意に馴染みすぎている暗黒騎士は、あまりに無防備で無邪気な彼の行動に咄嗟に対応できないでいた。
「ほう、似てるなぁ……あいつらを、足したみたいだ……。 ああ。 そうか」
 なおも訳の判らない事を呟くガルカが、得心したようにふっと微笑んで言った。
「お前さん……ドリーの、お姉ちゃんか」
「えっ――!?」

 時の流れに鈍感な白い広野が、二人の邂逅をゆっくりと煮詰めていく。


  *  *  *


「あなた……あの子の、何」
 唸るような低い声で言って、彼女は今度こそ背の大鎌を抜いた。
 対面してからここまで虚を突かれっぱなし、戸惑わされっぱなしだった彼女は、突然出自の一部を彼に看破された事で、一気に緊迫感を引き戻す。
 どこまでも得体の知れないガルカ。 もういちいち驚くだけ損だ。 そんな風に居直っていた。

 対する彼は、何が嬉しいのかにこにこと笑っている。 彼女が威嚇するように示した大鎌に構いもせず――そう、傍らにある死体同様、あたかも負の要素のあるものは何も目に入りませんとでも言うように――彼女の正面に、のっそりと腰を下ろした。 二人の視線が揃う。
 彼の頬に刻まれた大きな黒い傷跡が、さりげなく彼女の目を奪った。

「何、か。 うーん……」
 どこか愛でるような眼差しで彼女を見ながら、彼は言う。
「何だろうな。 あいつの、父親代わりか――世話焼き係か。 何だろう」
 自分でそれを決めあぐねているのか、それとも本当に忘れているのか。 どちらともつかねる口調。
「師匠。 そうだな、師匠と呼ばれてはいたよ」
「師匠――?」

 一体何の師匠なのか。 そんな疑問に首をかしげる風情の彼女に、少し背を丸めたガルカは問う。
「名前を、教えてくれるかな」
「……あの子から、聞いてないの」
「ああ」

 少し嫌そうな彼女の表情を、ガルカの暖かい眼差しが見つめる。
 変わらず不思議な色を湛えたままの瞳と、眠りに就く前のような穏やかな声は、どこか遠い天上からもたらされるものであるかのような印象を彼女に与え。
「……人に名前を訊く時は、まず自分から名乗るものじゃないのかしら」
「ああ、これは失敬。 ………………イーゴリだ」
「――シルヴィア」
 結局彼女は、素直に教えてしまう。


 雪が、イーゴリとシルヴィアを見に空から降りてくる。 物言わぬ無数の観客に囲まれて、イーゴリは静かに語り始めた。

「お前さんの妹はな、ナイトになったよ」
「ナイ……ト? あの子が?」
 信じられない、といった風情でシルヴィアが訊き返す。

 彼女の中で妹は、戦いの快楽に目覚めた自分を止めようとまとわりつき、ただ足手まといになるばかりの、つまらない小さな小さな存在だった。
 その妹が剣を手にするなど、全く予想だにしていなかったのだ。 戸惑いを覚える彼女に頷いて、イーゴリは笑みを含んだ声で言葉を続ける。
「悔しかったら強くなれ、って言ったんだってなぁ」
 彼の視線が少し遠くなる。 シルヴィアは訝しげににひそめた眉の下から彼の顔を伺い、黙ってそれを聞いている。
「お前さんが剣の修行をしにウィンダスを飛び出す時、行かないでくれって言ったらそう返されたって。 突っぱねられたって、あいつはそう言ってた」
「――そうだったかしら」
 関心の薄い声でシルヴィアは答え、ふいと彼から視線を逸らした。

「あいつは、お前さんを止めたかったんだな」
 イーゴリの言葉は続く。
 シルヴィアは気づかなかったが、小さなナイトの事を語り始めた頃から、彼の瞳に残る理性の光がほんの僅か面積を増やしていた。 染み出すように、殖えるように。
「俺が剣技を教えるようになった時分に、何度か聞いたよ。 お姉ちゃんが、力に溺れてしまったって。 強いものしか認めなくなって、人が変わったようになって出て行ってしまったってな」
「……ふん」
 忌々しげに鼻を鳴らすシルヴィアに構う様子も見せず、イーゴリは穏やかに続ける。
「だから、自分が壁になるって。 お姉ちゃんに負けないぐらい強くなって、あの暴走を止めるんだと。 その為に、あいつは俺に弟子入りした」
「…………」

 むらっ、と。 シルヴィアの胸の奥に、新たな負の感情が生まれた。
 ――まだそんな鬱陶しいことを言っていたのか、あの子は。 いい加減にすればいい。 ぴーぴー泣いていただけの子供のくせして、何を一人前に――

「頼みがあるんだ」
 かすかに苛立たしげなシルヴィアに、イーゴリはゆっくりと言った。
「会いに行ってやってくれないか、あいつに」
「――は?」
「今はジュノにいると思う。 いつも通りなら、上層のメシ屋でたむろってるはずだ。 ――会ってやってくれないかな。 強くなったぞ、あいつ。 一勝負、してやってもらいたいんだ」
 それを聞いたシルヴィアの目が、すっと――線を引くように細まった。 仄暗い漆黒を映す瞳がつれなく冷めている。
「お断りよ」
 彼女は手にしていた鎌を背に戻すと、つまらなそうな声で言った。
「今更わざわざ会うほどのこともないわ。 面倒だし、興味もない――」
「頼むよ」

 彼女の拒否の言葉が聞こえていないのだろうか。 全く口調を変えず、優しげにイーゴリは繰り返す。
 シルヴィアは鼻白んだ。 やってられない。 こんな捉えどころのないガルカ、これ以上相手をしても意味がないわ。
 そう断じて、彼女はふいと彼に背を向け――ようとして、続いた彼の言葉にぴたりとその足を止める。
「お前さんは、負けるけど」


  *  *  *


「――――何ですって?」
 ゆらり、と漆黒の鎧が振り向く。 今、何と言った。
「今なら、あいつの方がお前さんより強いよ、シルヴィア。 だから、行ってやってくれ――あれ? こういう頼み方は、おかしいのかな?」
 ちらつく雪の向こうで、イーゴリは可笑しそうに言った。 嘲笑われたような気がして、シルヴィアはその瞳にめらっと炎を灯らせる。

「――贔屓目もほどほどにした方がいいんじゃないの。 あの子が? 私より、強い? はっ、そんなこと。 天地がひっくり返っても無理ね。 あの子にそんな根性が――」
「負けるよ」
 雪の中に座り込むガルカはまたも無邪気に、彼女の台詞を遮る。
「ああ、いや。 だからって、負ける気で行かれちゃ困るんだ。 勝つつもりで相手してやってくれ。 そうでないと、あいつは納得できないだろうから……」
「ふざけるなっ!」

 シルヴィアの頭に、かっと血が上った。
 一言咆えて、背の鎌を閃くように抜き払う。 そのままその峰で、無礼なガルカの頬を打ち据えようとして――
 叶わない。

「――、うん」
 無造作としか言いようのない動作で上がったイーゴリの腕が、その手甲で彼女の撃を見事に受け止めていたのだ。 鋭い残響を雪が残らず吸い尽くす。 彼の赤い武具に、うっすらとひびが入る。
 怒りと驚きに目を見開くシルヴィア。 黒い刃の向こうで彼は、満足げに微笑んで言う。
「やっぱり、ルードとぎりぎり張るぐらいだな……なら、問題ない。 行ってくれ」

 彼女がそうすることをまるで疑っていないような口振りで、なおもイーゴリは淡々と言葉を紡ぐ。
 何もかもが自分の理解と制御を超えて進んでいく苛立ちにぎりっと歯軋りをし、更に激昂しかけるシルヴィアだったが――何を思ったか、その口元にふっと危険な笑みが浮かんだ。

「……判ったわ」
 ゆっくりと黒い鎌を引き戻しながら、彼女は言った。 歌うような、しかし挑戦的な低い声。
「行ってあげようじゃないの。 あの子を、叩き潰しに」
「ありがとう」
 イーゴリはにっこりと笑う。 本当に、嬉しそうに。 そんな彼の表情に爪を立てるかのように、凶暴な暗黒騎士は憎々しく言葉を継ぐ。
「見せてあげるわよ。 あなたのその自信が、甘い思い込みだって事を。 目の前でね」
「ん――いや」

 と、やおらイーゴリは大儀そうに立ち上がった。
 それを見上げ、シルヴィアは初めて気付く。 彼の大きな体が、細かく震えていた。

 寒さ――の、はずはない。 今更だ。
 かたかた、かたかたと。 それはまるで、念動力者が大きなものを必死で動かそうとしているような、小さいけれど奇妙な振動。

「俺は行けないんだ。 済まないが、一人で行ってくれるかな」
 変わらず穏やかな言葉が、彼から発される。
 しかしその、声音の遥か奥底に――すがりつく郷愁のような、喉を焦がす祈りのような、もう一つの声が眠っている事には――この世の、誰も、気付けない。

「何よ――あなたは、どこへ行くのよ」
 現れた時と同じように、唐突に去ろうとしているガルカに、シルヴィアが問いかける。
「うん……かえるんだ」
「……?」
 これから向かうのであろう方向に、遠い眼差しを馳せるガルカ。 微妙に辻褄の合わない言葉に眉をひそめる彼女に、イーゴリは思い出したように微笑んで言う。
「そうそう、ドリーが渋るようだったら、俺の名前を出せばいい。 ――それと」

 瞬間、彼の体の震えが大きく盛り上がる。 朗らかな笑顔の中に、ごく僅か、燃えるような、切なげな色が浮かんで――消えた。

「あいつの側には、仲間がいるはずだ。 もしかしたらそいつらもゴネるかもしれんが――まあ、適当にあしらってやってくれ。 俺が言っていたと言えば、判ってくれると思う」
「あの子が私に打ち伏せられても、その人たちは判ってくれるのかしら?」
 なおも意地悪く問うシルヴィアに、イーゴリは微笑みと、そして最後の言葉を返す。

「あいつはな、お前さんの事が好きなんだそうだ。 置いて行かれても、道を踏み外しても、やっぱりお姉ちゃんの事が好きなんだと。 だから、その成長ぶりを、見てきてくれ。 俺の自慢の弟子だ。 ――じゃあな、頼んだよ」

 そう言って一つ手を振り、彼は、西へ。
 半ば呆然と、半ば憤然としているシルヴィアにあっさりと背を向け、ざく、ざく、と重たい足音を残しながら。
 最後の願いを彼女に託し終えたイーゴリは、浅い夢のようだったやりとりにそぐわない確かな足取りで、ゆっくりと遠ざかって行った。


  *  *  *


 霧のような粉雪の向こうに、その広い背中を消していくガルカ。
 ひゅぅと冷たい風が吹いた。 巻き上がった粉雪が、彼の姿を霞ませる。 まるで両手を広げ、彼を抱きすくめているようだ。
 シルヴィアの脳裏に、彼の瞳に宿る光を評して言った、この世のものではない、という言葉が蘇る。

 薄皮一枚隔てたように、目の前に居てもどこか違う次元にその身を置いていたような彼と、果たして自分はまともなやりとりができていたのだろうか――

 観察するように、睨みつけるように、じっと彼の後ろ姿を見据えていた黒い姿のタルタルは。
 それがザルカバードの白い大気に融けていったのを見届けると、夢から覚めたような気持ちでゆっくりと帰還の呪符を取り出した。


to be continued
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