テノリライオン

永訣の峰、漆黒の血 6

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匿名ユーザー

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 人は、どうして変わってしまうんだろう。


  *  *  *


「お姉……ちゃん」

 手にしていた黒く禍々しい鎌をゆっくりと、まるで宣戦布告のように起こす姉を目の前に、ドリーの声と体は叱られている小さな子供のように震えていた。
 対して、その鎌を手にするタルタルの暗黒騎士――シルヴィアには、微塵の迷いもない。 それどころか平然と、そんな己が妹に対してからかうようなあやすような言葉を言い放つ。

「何をしているの。 早く準備をしなさい――それとも何、まさかそのままでいいとでも言うの?」
 誇らしげにまっすぐ立てた鎌は、正しくギロチンの刃。 それを司る執行人。
 くすり、と笑う。 冷たい。
「――まあ、何でも構わないけどね。 私としては、無駄足を踏むような馬鹿さえ見ないで済めばそれで。 ただ、盾か剣か、せめてどっちかはないと……多分、すごぉく痛いと思うわよ?」

 シルヴィアが笑う動きにつれて、その手に支えられる大鎌が小さく揺れる。
 朗らかなはずの、ジュノ上層の昼下がりの陽光。 それは黒い鎌の持つ艶に反射されるだけで、実に寒々しい輝きに塗り変えられて鋭くドリーを射すくめる。
 更に一歩踏み出すシルヴィアに、ようやくドリーの口が開いた。

「お姉ちゃん……やめて……。 そんな、私、そんな果たし合いみたいなことが、したいんじゃないよ……」

 ドリーの足が、一歩下がる。
 自分の方に後ずさって来た小さなナイトの背を見ながら、ルカはぎゅっと唇を噛んだ。


 ――例え、イーゴリさんの事がなくったって――キツいだろう、こんなの。
 生き別れていた姉がふらりと姿を現したと思ったら……倒すか倒されるかの戦いを、挑んでくるだなんて。
 言葉の代わりに向けられる敵意。 笑顔の代わりに向けられる冷笑。
 身内に突きつけられる刃とは、一体どれだけ肝が冷えるものだろうか――――


「やめて……?」
 言葉と共にふるふると首を振り続けるドリーに、一転シルヴィアの眉が激しい苛立ちにぎりっと寄った。 ぼそりと呟く言葉の温度が極限まで下がる。
「ふざけないで。 そもそもあなたが売ってきたケンカじゃないの――ああもう、いいわ」
 投げ遣りな口調で最後の一言を放った、次の瞬間。
 それまでまっすぐ立っていた彼女の鎌が、ぐわりと水平に空気を薙いだ。

「――――っ!」

 一番初めに反応したのは、最上級の俊敏性を誇るミスラのシーフだった。
 何の前触れもなく命を吹き込まれた大鎌が走り出すとほぼ同時に、目の前で立ちすくむドリーの体を両腕で抱きかかえるようにひっさらう。 そのまま大きく体をひねって地を蹴り、黒い鎌の脅威から逃れようと跳ぶ――が。
 いくら動作の大きい鎌とは言え、その懐から完全に離脱するには距離が近すぎた。 一歩も動かずとも十分ドリーに達する射程を確保していた長い鎌は、ドリーを庇い身を低くして飛びすさるルカの背をぎりぎりで捉える。 ぱっと、薄く鮮血が舞った。

「てめ……っ!」
 その次の瞬間、弾かれたように全員が動いた。
 今度こそ己の鎌を抜き払い、シルヴィアとルカの間に飛びかかるように割り込むルード。
 シルヴィアの斬戟に咄嗟に身を引いていたバルトと、一人怯えるように立ち尽くしていたフォーレが、同時にルカに向けて癒しの呪文を紡ぎ出す。
 ルードの肩からとっくに手を離していたヴォルフは、彼の反対側に滑るように飛んでいた。

 怒りに燃えさかる瞳で目の前に立ち塞がり、盾のように剣のようにその鎌を構え自分を威嚇するルードに、シルヴィアは低く言った。
「――邪魔しないでと、言ったはずだけど」
「うるせーよ」
 とっくに我慢の限界を超えていたルードの声は、もはや彼女の主張に誠意ある対応などしない。
 軽く舌打ちしてシルヴィアは、ふと背後に薄い気配を感じると、ちらりと目だけで後ろを伺う。
「――動かないで下さい。 手荒なことはしたくない」
 いつのまにバックを取ったのか。 細身の剣ではなく自身の腕を彼女の背にかざしたヴォルフの、鷹のような瞳がそこで静止していた。
 魔術師の中で最も速い詠唱速度を実現する赤魔道士の、その言葉の鞘がシルヴィアの首筋で止まっている。

 フォーレが彼らの輪を回り込むようにしてルカとドリーの元に駆けつけ、大丈夫ですか、と尋ねた。
 二つ同時に飛んできた治癒呪文により、背の傷は一瞬でふさがっていた。 痛みもすっかり引いている。 ルカは一つ頷いてみせると、腕の中のタルタルを見下ろした。

 ――白い。
 呆然自失、という言葉を全身で表す以外、もはや何もできなくなった。 そんな感じの――

 ルカは身動きしないドリーを地に立たせ、そのまま庇い護るようにぎゅっと抱き締めると首だけで振り返る。
 そして背後でルードと対峙する、黒い鎧のシルヴィアを睨み据えた。


「――外に出ろよ」
 気迫で目の前の敵を圧する暗黒騎士の少年の、据わった目、くぐもった声。 その声音はほとんど恫喝だ。
「ドリーより先に、俺がぶっ倒してやらぁ。 ギリギリ殺さずに吐かせてやんよ。 気に入らねんだよ。 てめーみてぇのが同じ暗黒騎士だってのも気に入らねぇ。 それより何より――」
「ルード、控えろ。 ドリーの姉さんだ」
 自身も油断なくシルヴィアの動きを注視しながら、強く抑えたような声で制するバルトの言葉も、もはや彼には届かなかった。 灰色の髪をしたタルタルの少年の怒りと苛立ちに任せて叫んだ声が、歪んで裏返ってひび割れる。
「こんな奴に――イーゴリさんの最後を見送られたなんざ、我慢できねぇ!」

 その悲痛な音色に、彼らを包む空気が哀しく凍る――


「――面倒臭いわねぇ」
 うんざりといった風に、シルヴィアが低くぼそりと漏らした。 四方から自分に向けられる警戒に隙なく対峙しながらも、正面のルードに向けて言葉を吐き捨てる。
「全く、まさかこんな湿っぽい場に居合わせるハメになるとは思わなかったわ――あなた。 あなたは、お呼びじゃないの。 何度言わせるのかしら、私はドリーに用があるのよ」
 半ば見下すような挑発するような彼女の言葉に、ルードは崩れなかった。 あたかも大地に生える岩のようにずしりとその場に立っている。
 普段の彼なら見境なく飛び掛かっているに違いない。 が、煮えたぎる怒りと、背後のドリーに手は出させないという強い思いが見事に均衡することで、返って微動だにしない獅子の如き迫力を彼はその身に生み出していた。
 シルヴィアはしばし動きを止めた。 背後からは無味無臭の、しかし触れてはならないドライアイスのように危険な気配が身を冷やす。 目の前で灼けるような怒気を放つタルタルの向こうには、やはり刺々しい眼差しを向けるミスラと、彼女の全てを瞳でえぐるように伺うエルヴァーン。
 何やら只ならぬ殺気を呈する冒険者達の姿に、通行人が足を止め始めた。


「――ドリー」
 己を取り囲み突き刺さるいくつもの視線をまともに相手するのは不毛だと悟ったのか、一転シルヴィアは行き先を指定した声音で妹に語りかけ始めた。 その言葉が、ルード達の頭上を飛び越えて響く。

「あなた、ここでも随分と甘やかされてるのねえ。 あの師匠とかいうガルカの影響なのかしら?」
 イーゴリの影を口に上らせるシルヴィア。 途端に六人それぞれの表皮にぴりっと電流が走る――が、声を上げる者はいない。
 例え憎らしい相手の口からでも、彼の温度に触れられるのならば今は――
「ねえ、あのガルカが言ったのよ? ドリーは、強くなったって」
 ルカの腕の中で、震えるドリーの体がぴくりと揺れた。
「大した親バカっぷりだったわ。 事もあろうに、私があんたに負けるって言い切ったんだもの。 武器も抜いていない私を見てね。 驚きの判断力よ」

 ――奴らがゴネるようだったら、俺の名前を出せばいい――
 イーゴリのその言葉を今、シルヴィアは実践していた。
「私の暴走を止める為に、あいつは自分に弟子入りしてナイトになった。 だから、行って一勝負してやってくれって。 そう頼んできたのよ。 自分の作品を見て欲しそうな、そんな口ぶりだったわね。 自慢の弟子だ、なんて。 ずいぶんと自信たっぷりなもんだから、私もその気になってここまで来たっていうのに――」
 ルードやルカに遮られて見えない妹に喋りかけながら、彼女は思い出していた。
 自分が一閃した鎌を、こともなげに片腕で受け止めたあのガルカ。 表情はぼんやりとしていながらもあやまたず反応したその動作に感じた、並々ならぬ実力。 それだけは認めない訳に行かない。
 それも彼女にここまで足を運ばせた一因なのだ。 この力の持ち主が言うのなら、と。 なのに。
「なのに実際来てみれば――当のあんたはそのザマよ。 本当に、疑わずにはいられないわ。 ドリー。 あんた、あのガルカから、一体何を教わったって言うのよ――?」


 ……今更気付くだなんて、もう手落ちとしか言いようがない。
 バルトは己が心に立つ鳥肌を思い切り自覚していた。
 極力平静を保っていたつもりでも、訪ねてきた者のあまりの毒の強さにすっかり目が曇っていた事を、認めざるを得なかった。
 天頂から降り注ぐ陽光が、そんな彼を叱咤するように輝きと熱を取り戻していく。

『勝負してやってくれって、頼んできたのよ』
『そんな口ぶりだったわね』
『ずいぶんと自信たっぷりだから――』

 こんなにもはっきりと。 こんなにもきっぱりと。
 ああ、何て事だ。 イーゴリさんは、己を失ってなんかいないじゃないか。
 シルヴィアが、彼に言われてここに来た。 そして本人は戻らない。 その事で、とっくに気付くべきだろう。
 彼女の存在が、我々が受け止めるべき、イーゴリさんの遺志そのものなのだという事に。
 この黒いタルタルを通じて、我々に、ドリーに届けられた、最後のメッセージだという事に――

 静かにインクがにじむように広がる沈黙。 誰もがその存在に心を奪われている、音なき音。
 それを運んできた、当のシルヴィアだけが聞こえない。
 遥か遠く、優しく響く、たまらなく懐かしいガルカの声を――


  *  *  *


 バルトはふと、夢から引き戻されるような感覚を覚えて視線を落とした。 時を越えたガルカの声が一番に目指したのであろう、ルカの腕の中のタルタルに目を向ける。 そして焦点を合わせ――

「――フォーレさん」
 バルトはすと膝を折り身を屈めると、囁くような小さな声で、足元に立つ小さな白魔道士を呼んだ。
「ドリーさんの装備一式を、取ってきてもらえますか」
「……え」
 同じく夢幻から覚めたような声で、フォーレは彼を振り仰ぐ。 その意味する所を悟って不安げに曇る彼女の目に、しかしバルトは確信に満ちた微笑みをもって頷くと、言った。
「大丈夫。 ほら、今――起きますから」
 そして促すように、その視線をドリーへと戻してみせる。 誘われてフォーレも、彼女を見た。

 抱くルカの二の腕が、ドリーの顔を斜めに半分ほど覆っている。
 お下げにした赤毛とその腕の間に覗く、彼女の片方の瞳に、二人の視線は吸い寄せられた。

 それは試験管の底。 あるいは培養槽の中。
 傍目に明らかな動きがなくとも、判ってしまう。
 それまで泥水のように澱んでいた彼女の瞳の奥底で、嵐のように激しい化学反応が起きているのが判ってしまう。
 それは導火線を這う小さな火花。 あるいは膨らみ続ける風船――

 フォーレが弾かれたように身を翻し、寄宿舎へ向かって駆け出した。


  *  *  *


「…………」

 ルカは腕に違和感を覚えた。
 それまでが冷たかった、という訳ではない。
 しかし、そこに抱いていたものが、ふと暖かくなったような気がしたのだ。
 はっと視線を戻す。 その拍子に腕が僅かに緩み、ルカは慌ててドリーの肩を掴んだ――が、彼女の手のひらは、その支えが必要なかった事を知る。
「……ドリー」
 ルカは小さく彼女の名を呼んだ。 そして彼女の顔を覗き込む。
 ルカの手がドリーの肩からふっと離れた。 そうしていることが失礼だと思ったのだ。

 ドリーの瞳が、ゆっくりとルカを見返す。
 宿る光はまだ少し頼りない。 が、その内側では、彼女の小さな体を突き破らんばかりの強い意思が、最後の出口を求めて暴れ、増殖し、目の前のルカに訴えていた。
 ぞくん、と背筋に震えが走る。

「ドリー」
 おかえりなさい。
 心の中でそう呟きながら、ルカは再度彼女の名を呼び、その肩を掴んだ。
 もはや失望の淵から引き戻す為でなく。 もはや崩れる体を支える為でなく。

「ドリー。 やろう」
 ルカは彼女の肩を掴む手にぐっと力を込め、言った。
「課題だよ。 これは、イーゴリさんが残していった、最後の課題。 ――姉さんから、一本。 取りなさい」
「ルカ……」
 頼りなく、震える声――では、なかった。
 強い言葉をくれる友を呼び返す、小さくとも熱を秘めた声。 それが、ドリーの口からこぼれ出た。

「あの姉さんが、道を誤っていくのを食い止めたくて、修行してきたんだね」
 労わるような優しい目で、ルカは親友のタルタルに語りかける。
「でもそれはつまり――会いたかったんでしょ? 強くなって、追いかけて見つけて――会いたかったんだね、お姉ちゃんに」
 みるみると輝きを取り戻すドリーの瞳が、少し潤んで小さく頷く。
「そう――なら、その半分は、イーゴリさんが叶えて行ってくれたよ。 お姉ちゃんは、元気でそこにいる。 さあ、後は――課題だ」
 言ってルカはちらりと後ろを振り返る。 揺るがぬ気迫をもって不可視の鉄壁と成すルードの背、その向こうに現れた、暗黒騎士。

「ドリー。 逃げたらだめ。 逃がしたらだめだよ。 ここまで修行してきた目標でしょ。 ちゃんと全部モノにしよう。 大丈夫、負けないから」
「……負けない……かな、私」
 最後の戸惑いを押し込める為か。 呟くように問う――いや、問うように呟くドリー。
 少しいたずらっぽい笑みを浮かべて、ルカは言った。
「さて、どうだろうね。 でも言える。 だって聞いたでしょ」
 ルカの声に強い力がこもる。 聞いたでしょう。

「イーゴリさんが、やれって言ってるんだよ。 あんたにとって、これ以上の確証がある?」

 シルヴィアが運んできた、師の言葉に。
 それまで少しずつ、少しずつ生気を取り戻していたドリーの表情が――
 一気に豹変した。

 弾けるように、瞳が大きく開く。 きっと正面を向く。 口の中で顎が閉じる。 すぼまっていた肩が開く。 頬に明らかな紅が差す。
 まるで魔法のつむじ風が彼女を凛々しく清めたような、それは劇的な変化だった。

 小さな足音と荒い息遣い、硬い素材がこすれぶつかり合うがしゃがしゃという音が、ルカとドリーの元に駆け寄ってきた。
 両腕いっぱいに、白く輝くナイトの装備を抱えて戻ってきたフォーレだ。 全力疾走の後のような息切れの中、ドリーの傍らにその装備をがしゃりと置く。
 そしてままその剣に、盾に、鎧に、小さな白魔道士は素早く祈りを捧げる。 頬を紅潮させ乱れた息を必死で飲み込み、友たるナイトに女神の加護を。

「いい、ドリー」

 おかえり。
 ドリーの鮮やかな回復にほとんど戦慄のようなものすら覚えながら、もう一度心の中でそう呟いて。
 ルカは彼女に、最後の火を入れた。

「これは、姉さんとイーゴリさんと、両方の挑戦よ。 姉さんがあんたに挑んでる。 イーゴリさんがあんたを試してる。 さあ、受けて立ちなさい。 ここで受けて立たなかったら女じゃないよ。 姉さんに見せつけてやりな。 イーゴリさんの期待に――応えてみせな」

 小さな手のひらが、拳になった。


  *  *  *


 励まされているのかしらね。
 シルヴィアはそう思った。

 仲間が身を挺して作る壁の向こうで、ミスラがドリーに何事かを話しかけているのが聞こえる。
 自分を前後に挟む暗黒騎士と赤魔道士に、途切れぬ緊張と静止を強いられ続ける彼女がいよいよ痺れを切らしかけた時。 その壁の向こうから、鈍い金属質の触れ合うような音が聞こえ始めた。
 状況の変化を感じたシルヴィアが、何事か声を投げかけようとすると。

「まあ、待てよ」
 開きかけた彼女の口を、ルードの声が遮った。 そのどこか不敵な――いっそ挑戦的な声音に、シルヴィアは訝しげに彼の顔を見る。
 先程までの烈火の表情が形を変えていた。 にやりと嗤う口元、引導を渡すような目。
 敵を前にして新しい強力な武具を手に入れたとき、戦士という人種はこういう顔をするのではなかろうか――反射的にそんな思考が浮かんで戸惑う彼女に、そのままの口調でルードは重ねた。
「今、出てくるからよ」

 がしゃり。

 背後から鋭く響いたその音に、ルードは再度にやっと嗤うと威嚇の大鎌を収め、すいと脇に引いた。
 ヴォルフがかざしていた腕を下ろす。

「……やっと、その気になったわね」

 仲間の視線を従えてゆっくりと目の前に現れた、自分と対を成すような純白の鎧を、シルヴィアは牙を見せるように口元を歪めて迎えた。


to be continued
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