テノリライオン

永訣の峰、漆黒の血 7

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「さいほう、ぎるど、より……シルヴィアさま」

 ドリーは、キッチンのテーブルに置かれていた封書を手に取った。
 丸いダイニングテーブルの真ん中あたりにあったので、小さなドリーは椅子に乗ってうんしょと身を乗り出さないと届かない。 椅子の上につくねんと立ったまま、その少し仰々しい表書きをひらがなで読む。
 玄関の扉ががたんと音を立てた。 ドリーは弾かれたように振り返ると、その封書と、テーブルに置いていた手のひらに乗るほどの小さなワンピースを掴んで椅子から飛び降りた。 嬉しさ半分、不安半分のむずがゆそうな表情で玄関へと走る。
「お姉ちゃん、お帰り」
「ああ、ただいま、ドリー」

 弾む妹の声に迎えられたシルヴィアは、まるでカカシのように泥だらけだ。
 簡素な革鎧に盾、そして片手剣。 賢そうな面立ちの中に日ごと増していく粗野な気配を今日も見て、ドリーは心の中で少しだけ硬くなった。
 シルヴィアは気だるそうに家の中に上がる。 放っておけばそのまま自室に引っ込んでしまいそうだ。 ドリーは一瞬迷った後に、ぱっと小さなワンピースを姉の前に差し出して言った。
「ね、お姉ちゃん、見て! うさぎさんに着せるおよーふく、できたの」
「あら――もうできたの? すごいわねぇ」
 目の前に元気よくかざされた赤い水玉模様に、シルヴィアの表情がふっと和らいだ。 手にしていた腰ほどまでの高さの剣をすぐ脇の壁にごとりと立てかけると、妹の作ったドールウェアを受け取って優しげに眺める。 ほ、とドリーの口から安堵の溜め息が漏れた。
「――うん、上手にできてるわよ。 頑張ったわねぇ、ドリー」
 そう言ってシルヴィアは笑うと、小さなワンピースをドリーに返す。 その言葉にドリーは満面の笑みを浮かべるが、またすぐ剣へと伸びる姉の手を見ると、その笑顔を貼り付けたまま慌ててもう片方の手を差し出した。
「お姉ちゃん、これ、ギルドから来てたよ。 さいほうギルド」

 ドリーによって後手に選ばれた封書。 が、シルヴィアの視線は、うすっぺらいチラシでも見るかのようにその表書きを一瞥するに留まる。
「ああ、それはいいわ。 捨てちゃって頂戴」
 浮かべていた笑顔を収めてすげなくそう言うと、シルヴィアは剣を掴んですたすたと自分の部屋を目指して歩き始めた。
 すぐ横を素通りしていく姉を振り返り、ドリーはすがるような声で追う。
「え、でも、ギルドがお勉強しに来なさいって、言ってくれてるんでしょ? お姉ちゃんのおさいほうが上手だから、何だかえらい人が呼んでるんだって――」
「いいのよ、もう」
 鎧の留め金を外しながらシルヴィアは言う。 熱のないその口調が、ドリーを絶望的な寂しさに突き落とす。 鈍く光る片手剣、がしゃりと床に降ろされる鎧に太刀打ちできなかった、小さなワンピースと封書をぎゅっと握り締めてドリーは姉の背に呼びかける。
「ね、お姉ちゃん、本当にもう、おさいほうとかしないの? お料理だって上手なのに――」
「だって、こっちの方が面白いもの」

 ふい、と。
 肩越しにドリーを振り返るシルヴィアの表情は、そのセリフの通りに微笑んでいた。
 恍惚、という単語を、ドリーはまだ知らない。

「ねえドリー。 外にいるモンスターは危ないから近寄っちゃだめ、って――あれ、嘘なのよ」

 どこか朗らかに歌うようなその声音は、
 おふとんの中で絵本を読んでくれた声とも違う、
 草原で二人お弁当のフタを開いた時の声とも違う。
 まるで、見目麗しい悪魔が、優しい誘惑の言葉を囁くような――
 
「モンスターが強いんじゃなくて、それを言っている人達が弱いのよ。 だから鍛えれば、腕を磨けばね、倒せるの。 町のみんなが恐れているものを、自分ひとりの力で下せちゃうの。 気持ちいいわよぉ」
「うん……でも……すごいけど、でも、危ないよ――お姉ちゃん、ケガとかしたら、どうするの?」
「それも勲章ね」
 おどおどと純朴な反論をするドリーに、シルヴィアはさらりとそう返す。 ぱたん、と、武器防具を収めた納戸の扉が閉められる。
「町中でのうのうとしてたら判らなかった充実感よ。 周りの誰より、私は強いんだもの。 モンスター相手だって人相手だって、私は上に立てちゃうんだわ。 裁縫や料理なんかより、ぜーんぜん楽しい」

 うっとりと言葉を続けるシルヴィアに、それ以上の反論を紡げないドリー。
 何かが違う、どこかが歪んでいると感じても、それを姉に伝えるだけの語彙が、力が、幼い彼女にはまだない。
 ただひたすら悲しそうに不安そうに、姉の後をついて回るばかり――

 裁縫箱に埃が積もる。
 ぬいぐるみが部屋の隅で眠りに就く。
 壜の中でひっそりと砂糖が固まる。

 やがてシルヴィアは、平和なウィンダスと、妹の願いを蹴って走り出した――――


  *  *  *


 ―― バタリア丘陵 ――


 午後の空は、どんよりと曇っていた。

 背後にそびえるジュノの街と、遥かに広がる荒野を隔てる門をゆっくりと潜るタルタルの姉妹の姿を、少し離れて追うルカは不安げな目で見守っていた。

 本当に、よかったのだろうか。
 つい先程までの状況を幾度反芻しても、他に取るべき道はない――イーゴリさんの行方を掴む為にも、ドリー自身の目標に結果を見出す為にも、ここで逃げてはいけない、と思う。 逃げるべきではないと思う。
 けど……本当に、ほんとうに大丈夫だろうか。 口ばかりで結局は何もしない、できない自分に、あんな風に焚き付ける権利が、一体全体、あったのだろうか――

 そんな迷いにそわそわと落ち着きのないルカの肩を、ぽんと叩く手があった。 バルトだ。
 仰ぎ見るミスラの視線の先で、隣を歩く黒魔道士のエルヴァーンはどこか不敵な笑みを浮かべていた。 白い鎧に身を包んだ小さな仲間の後姿を見やりながら彼は言う。
「大丈夫。 負けないよ。 負ける要素がない」
「同感ですね」
 足元から声がした。 はっと見下ろせばルード。 斜め後ろに寄り添い歩くフォーレのおどおどした視線を受けながら、彼は自信たっぷりに言い放つ。
 まるでこれから自分が戦うかのように憎々しげな口調。 しかしどうやらそれは、シルヴィアに対する敵愾心だけから来るものではなさそうだった。 彼は言った。

「簡単に暗黒騎士を選びやがった事が、あの姉貴の命取りになるんすよ」


  *  *  *


 目の前を歩く背中に、言い知れぬ懐かしさを感じる。

 漆黒の鎧に包まれていても、そこに笑顔がなくても。
 いつも一緒だった、いつも追いかけていた、あれは大好きなお姉ちゃんの背中だ。

 これから散らさねばならない火花の事も忘れてしまいそうなほどに、周囲に広がる茶色い大地を故郷ウィンダスの風景の幻が覆い隠しそうなほどに、それはドリーにとって甘い光景だった。
 もういっそこのまま振り向かないで、小さい頃のように、いつまでもこうして歩いていられたら――

 低い城壁をアーチ型にくり抜いた門を抜ける。
 途端に二人に吹き付ける、バタリアの熱く乾いた風。 ひときわ強いその一つが、前を歩く黒い鎧をくるりと裏返した。

「――――」

 お姉ちゃん。
 笑ってくれないのかな。

「さ、見せてもらうとしましょうか――」

 ううん、今はこれでいいんだ。
 優しい笑顔なんか見せられたら――この剣を抜く手が、緩んでしまう。

「あんたたち師弟が、どれだけ私に大口を叩いていたのか」

 やらなきゃいけない。
 本当はもう判ってるんだ。 ここで剣を交えたって、何も変わらないって。
 ウィンダスの暖かいお日様と柔らかい風の中で、毎日一緒に遊んだお姉ちゃんは、もういない。
 雨の日も風の日も、つきっきりで剣技を教え見守ってくれた師匠も、もういない。
 判ってるんだ。
 でも。

 お姉ちゃんがウィンダスを出て行く時。 私は何もできなかった。
 お姉ちゃんより強くなる――なんて叫ぶだけで、遠い闇へと消えていく大事な人の背中を止める事もできない、無力だった私。
 そして今度は、師匠がいなくなった。 種族の定めに従って、時の彼方へと還っていった。

 もう嫌だ。
 消えていくものを、去っていくものを、ただ泣きながら惜しむだけなんて、もう嫌だ。

「さあ――始めましょう」

 留めてみせよう。
 泣いても叫んでも止める事ができないのなら――留めてみせる。
 師匠が教えてくれたこと全部を、この剣と盾に留めて、生かす。
 師匠が私に望んだこと全部を、ここにいる皆の網膜に留めて、事実にする――


  *  *  *


 白く冷たい雪の中を、一人行くガルカ。 彼はゆっくりと、一つ一つ、忘れてゆく。

 彼が腰に下げている鉄の塊が、なんなのか。

 彼が身につけている堅牢な衣服が、なんなのか。

 節くれだった自分の手が、何の為にあったのか。

 それが、どんな歴史を刻んできたのか。

 誰に、何を与えてきたのか。


 彼が踏み沈めた足跡を、優しく降り積もる粉雪が無常にならし、
 まっさらな白い大地へと跡形もなく還すように。

 一つ、また一つ。

 消えていく。

 失せていく。

 忘れていく――――


  *  *  *


 砂埃。
 先に地を蹴ったのはシルヴィアだった。
 
 その鋭い音に、ドリーの瞳がかっと開く。 何度も何度もイーゴリに叩き込まれた基本の体勢が目を覚ます。
 一瞬で剣と盾が正位置に引き寄せられる。 軽く片足が引かれ、迎え撃つ姿勢に身を沈めた。

「――あの姉貴の刃はな、上から斬りつけるだけの刃だ」
 半分泣きそうな顔でフォーレがルードの袖をぎゅっと握ると、正面を見据えたままの彼は独り言のように言った。
「もうずっと、自分より弱い相手ばっかり歯牙にかけてきた奴の太刀筋さ。 まともに反撃されたり避けられたりする事を、体が考えてねぇ。 ――そら」

 肉食獣の獰猛さで真横から薙ぐように襲い掛かる黒い大鎌を、ドリーはほんの一歩ステップバックするだけでかわした。 すると黒い三日月はあっさりと空転し、弧を書いて大きくドリーから離れていく。
 ルードが腕組みをし、片頬をきゅっと吊り上げた。

「大体な、しょっちゅうあいつの剣の相手をしてんのが、誰だと思ってるんだよ」

 咄嗟に刃の向きを立て直し、再度その長い鎌を振り抜こうとするシルヴィア。 その瞳が、びくりと怯む。

「このヴァナ=ディールで、どう考えてもタルタル暗黒騎士界の頂点に立っちまった男だぜ?」

 鎌が描く予定の円弧の遥か内側、目と鼻の先の至近距離で、妹の大きな目が彼女を見上げていた――


「――っ!」

 シルヴィアは引きつるように息を吸い込むと思い切り後ろに跳びすさる。 そして同時に気付いた。
 王手にも等しい距離の詰め方をしながら、ドリーの剣に動く気配がない。
 ただ相手の目をまっすぐ見据え、構えを崩さずに対峙してみせるだけの赤毛のナイト。

「気配は目に一番良く現れる。 敵を圧するのも眼力だ。 よく相手の目を見ろ――基本だ」

 冷静に探るようなドリーの瞳の圧力から、視線を外せない。 シルヴィアが見せたごく僅かな一瞬の戸惑いに、ドリーの体は反射的に動いた。
 盾を体の前に構え、地を蹴る。 再度迫るドリーを刈り取らんと噛み付くように迫る鎌。

「受け流せ」

 左脇から打ち込まれる不安定な曲線の刃を白い盾が迎える。 直角にではなく頭上に向けて傾けられたその防御壁の上を、シルヴィアの鎌は勢いよく滑った。

「崩して――」

 唸りを上げてドリーの頭上を通過していく鎌の背を、下から跳ね上がる銀色の片手剣が撃墜するように弾いた。 更に勢いを付けられて、己が武器に引きずられるシルヴィアの背中が顕わになる。

「そこだ、」

 大鎌の背を突き飛ばした片手剣の動きはそのまま予備動作。 軌道で引き絞られた切っ先が、無防備に晒されて弱点を選ばれ放題の黒い後姿を――

 狙わなかった。

 ぴくりと震えた白銀の剣を払ってぐいと一歩後退したかと思うと、ドリーは形状記憶合金が決められた形に戻るように再度剣と盾を隙なく構えて静止する。
 最後の最後で実況を裏切られたルードが、無言で眉をひそめた。 仲間達の背後で目を細め、じっとその戦いを見ていたヴォルフがぽつりと呟く。
「斬れないんだろう」
 その静かな言葉に、ルードはふうと鼻で溜息をつく。 しょーがねーな、と言わんばかりだ。
 強く握り締めたルカの拳に、じっとりと汗がにじむ。


 重い鎌が回転する遠心力を利用して、大きく身を翻すようにシルヴィアはドリーへと向き直った。 滑る鎧の踵ががりがりと茶色い大地を削る。
 放つ太刀を全て流され、その上あっさり取られた背中を贅沢にも見逃された屈辱が判らないはずもない。
「……バカに、して――」
 振り返るや低く唸るその瞳からは、余裕の色が剥がれ落ちている。 あまりにも予想外だった妹の高い技量に強く狼狽してもいるはずだが、噴き出す獰猛な怒りと苛立ちがそれを凌駕し押し潰していた。

 対するドリーの表情は――水面のように静かだ。
 彼女には見えていた。 師に教わった手筋の一つ一つが蘇り、彼女を動かしている。 加えて、共に切磋琢磨してきたタルタルの少年の漆黒の影がシルヴィアに重なっていた。
 卓越したガルカの戦士に剣術のいろはを叩き込まれ、更に暗黒騎士の怖さも弱点も知り尽くしているドリーの目には、どれだけ力強く迫力に満ちていようと、姉の立ち回りはまるで木偶同然だった。

 と。
 どす黒い怒りを可視化するかのように、シルヴィアの全身からぶわりと漆黒の影が噴き出した。
 『暗黒』―― 彼ら黒き一族の呼称をそのまま冠した、生ける闇。
 その取る行動は主と同じだ。 鋭い刃を纏い纏われ、標的の命を奪う為だけに牙を剥く。 あまりにシルヴィアに相応しいこの力を大鎌へ宿らせる為に、彼女は喜んでその生命力を差し出すのだろうか。

 墨色をした力場がシルヴィアと彼女の鎌を包みゆくのを見て、ドリーの眉がひっそりと曇った。
 その力に恐れを抱いてではない。 そんなものを呼び出してまで、姉が自分を打ち倒そうとしている、その事実に――

「意味ねーよ」
 見慣れた漆黒の渦を外から眺めて、ルードはぼそりと呟いた。

 そうだな、あのブーストした鎌でまともに抉りさえすりゃあ、一発であいつの体力の三分の一ぐらいはもぎ取れるだろうさ。 そいつは保証しよう。
 だがその一発を、あんたは入れられんのかって話だ――

「でぇえっ!!」

 ねじ込むような雄叫びと共に、シルヴィアが跳んだ。 触れれば火傷しそうな黒い闇をひきずって、体全体でドリーを圧する跳躍。
 それを見るルカの口が何事かを叫ぶように開いた。 豹のように襲いかかるシルヴィアを前に、ドリーの体がぴくりとも動かないのだ。 剣や盾で迎え撃つのならもう遅い――

 もらった。
 そう思ったシルヴィアの目に映ったのは、迫り来る自分を前に石像のように微動だにしないドリーの、小さな口だけがひらりと動く光景だった。
 その形は、何だっただろう。

 …… お願い ……

 あるいは、

 …… お姉ちゃん ……

 それとも、

 …… 帰ってきて ……

 次の瞬間、まばゆい閃光フラッシュがシルヴィアの闇をばりっと引き裂いた。

「――っ!」
 自分を包んでいた仄暗い薄皮を突如破られ、暴力的になだれ込む白い光にシルヴィアの目は視力を奪われる。
 思わず強く目を瞑ってしまう。 反射的に固まる彼女の腕に、凄まじい衝撃が走った。
 最初にして最後の渾身の一撃に、ついにもぎ取られた黒い鎌。 目を閉じていても、ドリーの剣に弾き飛ばされたその大きく長い得物がバタリアの風を切って自分から離脱していくのが判る。

 ずしゃり、とシルヴィアは尻餅をついた。 空になった両手で咄嗟に体を支え、無理矢理細くこじ開けたその目に飛び込んできたのは。
 肩口にそっと当てられた――いや、乗せられたと言った方が正しい、白銀の刀身。 刃は首の方を向いておらず、それはまるで騎士に洗礼を与える王の聖剣のような静けさで。
 そしてきゅっと口を引き結び、泣き出すのを堪えているかのような表情で目の前に立つドリーの白く輝く鎧が、暗黒騎士の視界を覆っていた。

「……くっ……!」
 赤子が見ても明らかな雌雄の構図に、シルヴィアは思い切り歯を食い縛って呻き声を上げていた。 信じられない、という表情が、みるみると苦い屈辱に染まっていく。

『お前さんは、負けるよ』

 現実となったガルカの言葉と、その穏やかだった表情が彼女の脳裏に蘇り、目前の妹の顔に幻となって重なる。
 ――何なの、この二人は。
 まるで裏で通じてでもいたかのように、まるで頭脳と手足のように、血を分けた親子のように――

 怒りと屈辱に翳っていく姉の瞳を前に、駆け寄ってくる仲間達の足音を背に、ドリーはふと表情を緩めるとゆっくりと膝を折る。
 そして優しく囁くように言った。


「お姉ちゃんも、師匠に剣を教われればよかったね……」


  *  *  *


「――もう良いでしょう、教えて下さい。 イーゴリさんと、どこで会いましたか。 どこへ向かっていましたか」

 ルカ達がピットクルーのようにわらわらと駆け寄ってきて二人を取り囲む。 真っ先に口を開いたのはヴォルフだった。 ドリーに張り付くようにしてその無事を確かめているルカとフォーレの背を越えて、バルトと共にその視線がまっすぐシルヴィアを射抜いている。
「――――」
 ぎりっと唇を噛み締めて、シルヴィアはドリーから彼に視線を移した。 手負いの獣そのままにぎらつく彼女の瞳はしかし――その勝敗に対する興味などとっくに失っているエルヴァーンの端整な表情に、急速にその行き場をなくした。
 ざく、と真横で乾いた音がした。 また目を転ずれば、そこには地に突き立つ黒い鎌。 獰猛な牙から敗北の印へと変わってしまった彼女の鉄の塊を、回収してきたのはルードだった。
 鎌の柄から手を離し、じろりとルードは彼女を睨む。
 ドリーの戦友として、タルタルとして、暗黒騎士として――言いたい事は山ほどありそうなルードだったが、それらをどうにか彼は視線の中だけに押し込めた。 それよりも何よりも今、重要なのは――

「……会ったのは、ザルカバード」

 目を伏せて立ち上がりながら、シルヴィアはぼそりと言った。

「話が終わって、去っていったのは――北西の方だった。 ズヴァール城に向かうのかと思ったから」
「ズヴァール……!?」
 やっと得られた具体的な証言に色めき立ち、同時にその意外な地名に戸惑いを見せる一同のざわめきを振り払うかのように、シルヴィアは傍らの大鎌を乱暴に引き抜く。 そして同時に、懐から何かを取り出した。
「――ちょっと!」
 古代語や魔術語がびっしりと書き込まれた、小さな紙切れ――空間移動の呪符。
 ルカがその姿を認めて叫ぶと同時に、それに込められた魔力は彼女の手の中で発動する。 空気が歪み唸るような音がシルヴィアを取り巻き始めた。

 逃げるのか。 咄嗟にそう思ったルカの体がぴくりと彼女に向かいかける――が、足元にたたずむドリーの気配が静かなままなのに気付いて、ルカはその動きを止めた。


 ――お姉ちゃん。 また、行っちゃうんだね。

 寂しげに姉を見つめるドリーの赤い髪を、乾いた風が散らす。 渦巻く呪符の魔力が散らす。
 踊る空気の壁を隔てて白と黒、二人の姉妹は無言で言葉を交わしていた。

 ――ちょっと、油断しただけよ。 あんたなんかに私が後れを取るもんですか。

 ――でも、勝ったよ。 ねえ、これで少しは私の事……

 ――ああもう、まだ甘える気なの。 あんたって子はいつまでも……

 ――だって――

「――覚えてらっしゃい」

 最後の一言は、声となって渦の壁を越えてきた。 そしてしゅるりとシルヴィアの姿は掻き消える。 残された砂埃が寄り添うようにドリーを撫でた。

(覚えてるに、決まってるよ――)

 陳腐だけれど、ありきたりだけれど、嬉しい捨て台詞をドリーは心の中で抱き締める。
 それは歪みきっていても、再会の約束。 大好きだからと言い損ねた、その先を繋ぐ細い糸に、ドリーは泣きべそのような笑顔を浮かべた――


to be continued
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