テノリライオン
永訣の峰、漆黒の血 8
最終更新:
匿名ユーザー
-
view
―― ジュノ大公国 上層 ――
ドリーが、もりもりとご飯を食べている。
山盛りパスタ。 こんもりサラダ。 ずっしりステーキ。 たっぷりスープ。
順番も何もない。 休みなく動き回るナイフが、フォークが、スプーンが、我先にと小さなタルタルの口へご馳走を運ぶ。 運び続ける。
その怒涛の勢いは見る者をして、「この店に『大食いチャレンジ・完食されたら御代は頂きません』的メニューなんぞあっただろうか」と思わせかねない光景である。
ルカ達残る五人は、それぞれ飲み物だけを前に、その天晴れとしか言いようのない食欲を半ば唖然として眺めている。
ほんの数刻前に、お通夜の席のようではあってもそれなりに食事を済ませていた彼らの満腹中枢を、目の前で面白いように削られていく料理の姿がさらに消耗させていた。
「十日分のカロリーの一気摂取は……まぁ、いいけど……」
「リバウンドの典型、ですよね……まぁ、いいですけど……」
ハムスターのようにほっぺたをぱんぱんにしているドリーのグラスにピッチャーの水を注ぎ足すルカと、彼女の横にちんまりと座るフォーレが、こっそりとそんな会話を交わす。
祭囃子のように忙しげなナイフとフォークの音も、彼女らの安堵の笑顔に混じる恐々とした苦笑いも、今は日常へと続く大切な彩りの一つ――
* * *
「ズヴァール? ズヴァール城って――獣人の本拠地?――え? 何で、なんでそんな所に?」
「山……じゃねぇよな、あそこ……むしろ谷があるぞ」
イーゴリは、ザルカバードを北西に向かった――
そう言い残してシルヴィアが彼らの元を去った後、その場はさながら蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「ズヴァールなら何度か行った事あるよね、でも、でも変な物とか人とか特になかったと思うし――いやそれ言ったらあそこ自体が全部変なんだけど」
「いや、そもそも目的地が地理的な山であるという確証は初めからないんだよ。 そういう意味ではどこに向かっても不思議はないけど――それにしても――」
「んな、ズヴァールったらどこをどうひっくり返しても獣人一色の場所じゃないすか! そんな物騒なとこでおちおち転生もクソも――いやちょっと待て、まさかガルカってのは実は獣じ」
「ルード! 変な事言わないで!」
「――違う」
意表を突かれた混乱と焦燥で、わめき合う論点が妙な方向にずれていく。 その騒ぎを、一人腕を組んで立つヴォルフの低い呟きがぴたりと止めた。 全員がエルヴァーンの赤魔道士に視線を注ぐ中、彼は言った。
「もう少し、北寄りだろう――ウルガラン山脈だ」
「あ」
はた、と皆が顔を合わせる。 迂闊だった、とばかりに早口でバルトは言った。
「そうだ、それですね――あのルートにウルガランへの登山口がある。 そっちの方が信憑性が高い」
「っしゃ、そうと判れば」
「行こう! えーとえーとウルガランだから、近いのはえっと」
「私、飛びます! ザルカバードに移動魔法のポイントが」
「あっ、ちょい待った! 俺鎧取って来るわ、魔物は危なくねーけど何があるか」
「ねーぇ」
と。
それまで無言で、皆に背を向けたままぼんやりと立ち尽くしていた――と、誰もが思っていた――ドリーが。
いつのまにか、振り返っていた。 ルカの尻尾を掴んでいた。 たんぽぽの綿毛のような声を上げた。
「ルカー。 おなかすいた」
「――はぁっ!?」
ルカは彼女を見下ろし、口と目をまんまるに開けた。 それまで皆を相手にぎゃいぎゃいと騒いでいた調子が抜けず、噛み付くように息を吐いて素っ頓狂に問い返すミスラ。
残りの面々も、それぞれ呆気に取られた表情で見事に停止していた。 ルードなどは慌てて駆け出した所を、首だけで振り返ったままの姿勢に固まっている。
「戦ったらおなかすいちゃった。 なんか食べるー。 つきあってー」
「……、が」
何と返していいか判らない。 言葉を失って詰まった息が意味のない呻きに変わって喉から漏れる。
興奮醒めやらぬ仲間達を置き去りに、突如として全く普段の調子に戻ってしまっているドリーを、全員が穴のあくほどにまじまじと見つめていた。
いつも通りの、ぷくぷくとした頬。 何かをねだるようなせかすような、くりんと大きい目がルカを見上げる。 鐘でも鳴らすようにミスラの尻尾を振り回す仕草。 久し振りに見る無邪気な彼女の復活は、懐かしいと言うにはあまりに唐突で。
幼児退行現象――そんな単語が五人の脳裏をよぎる程に。
「……ド、ドリーさん」
最初に口を開いたのはバルトだった。 何か腫れ物にでも触るようなおっかなびっくりの口調で、遠慮がちに問う。
「えーと……イーゴリさんの行き先が――多分、判りました、よ……?」
「んー」
鼻で答えて、ドリーはルカの尻尾から手を離した。
妙に反応が薄い。 無いのも強すぎるのもそれはそれで困るが、薄いというのは想定外だ。 更におずおずと、バルトは訊いた。
「い……行き、ません?」
首をかしげて問うエルヴァーン。 何だか間が抜けている。
「うん、行こうかねー」
あっけらかんと言いながらドリーは、提げたままだった片手剣を持ち上げるとぱちんと鞘に収める。 遠慮がちに輝きを放っていた剥き出しの刃が、その姿を隠した。 幕が引かれて照明が灯るように、日常の空気が彼らの間に舞い戻る。
と、皆の戸惑う視線の中、微笑みすら乗せた穏やかな表情でドリーは言った。
「でも、そんなに急がなくっていいよ。 どっちにしろもうずいぶん時間も経ってるし――ウルガランったらそこそこ広いしめちゃくちゃ寒いじゃない。 ちゃんと準備して行かないと、ビバークだよビバーク」
「あ……はあ……」
「だからほら、まず腹ごしらえ! ね?」
彼女の言う事は、どれも確かにその通りで。 一同は戸惑いながらも納得せざるを得なくなる。
一刻も早くウルガランに向かいたい、とは勿論思うが。 いわばイーゴリの親近者である当のドリーがこう言うものに、敢えて無理強いするのも何かが違う気がした。
ルカは。
そんな、明るい表情と声で物分かりのいい言葉を紡ぐ親友の様子に、ルカは単純な安堵と複雑な違和感のないまぜになった――結局は不安を覚える。 このドリーの微笑を、迂闊に素直に呑み込んではいけないような――
だから、思わず彼女は訊いてしまった。
「――え、でも、いいの? もしかしたら何か、えーと……いい方向に行くような何かが、見つかるかも」
「ううん」
ルカの言葉に軽く首を振ると、ジュノの街に向けてドリーはすたすたと歩き出した。 つられて皆も歩き出す。
視線は小さな赤毛のタルタルに吸い寄せられ、足取りはそれに引きずられるように。
ゆっくりと、バタリアの時が息を吹き返す。
「何かね、判るんだ。 師匠はもう、戻るつもりは……戻れるつもりは、ないんだね。 何か、判った」
「――――」
この十日あまりというもの、ついに誰もが恐ろしくて口に出せなかった事を。
あっさりとドリーは言葉にした。
ルカの胸を、途端に新たな締め付けが幾重にも襲う。 いばらのようにきりきりと。
――ああ、この子は。
とうとう、受け容れたのか――
「……私ねー、ずっと言ってたんだよね。 お姉ちゃんより強くなるんだって。 その為に鍛えてくれって、師匠に頼み込んだのが最初だった」
まるで散歩するような足取り。 思い出色の声。 過去形の言葉。
「だからさ、師匠がお姉ちゃんを見つけて、それで呼んでくれたんなら。 これはもう間違いなく、私の最終目標の消化の為……って言うか――卒業試験、かな。 うん、卒業試験だね」
卒業試験。 何て切なく響くのだろう。
訳知り顔で離別を言い渡し、好むと好まざるとに関わらず過去と現在を無情に切り離す、切ない言葉――
「いやー、ずっと気にしてた事が片付いて、すっきりしちゃった。 だからご飯! これから寒い所に行かなきゃいけないんだし、エネルギーを貯め込んどかないと凍えちゃうよ!?」
「――――ん。 そうだね」
ルカは、振り絞るように笑顔を作った。
食べなければいけないのだ。 この子は、体力をつけなければ。
今日、自分を引っ張る目標と、そこへ後押ししてくれる力を一気に失ったこの小さな少女は、
ようやく精一杯の虚勢を張り始めた彼女の心は、
これから一人で歩き出さねばならないのだから。
きっと最初は凍える野原で、茫洋とした未来に、己が道を探らねばならないのだから――
* * *
―― ウルガラン山脈 ――
命を選ぶ白い峰。
突き上げるように天を目指す雪原は、降る雪を自ら求めて伸び上がっているのだろうか。
まるで降雪スイッチを入れた者がそのまま死んでしまったかのように、そこにはただただ降り積もる雪。 少し強い風が、彼らの頬に容赦なく雪つぶてを叩き付ける。 わずかに立つ木々は無残に凍え落ち、かろうじて結晶のような葉をまとう針葉樹も下半身を埋め立てられて円錐形の白いオブジェと成り果てていた。
灰色に凍える雲が空を覆う。 冷たい絨毯が無限に広がる。 空と大地の境界がモノトーンの中に融ける。
支配者の息吹すら感じられない、空虚な景色が延々と続くその狭間を、六人の人影が雪よりも静かに進んでいた。
『葬送』
その二文字を、バルトは懸命に頭から追い出し続ける。
希望は捨てていなかった。 だがそれは、捨てるだけの確証が得られない事の裏返しに過ぎなかった。
――見える物証がなければ認めない。 状況証拠だけでは納得してやらない。
魔術という半オカルトを愛しているとも思えない、それがこの黒魔道士の隠れた性分だ。
はぁっと吐いた息が、白く凍えて華になる。 目に見える溜息は、だから吐くのが辛かった。
シルヴィアの証言に飛びついて、迷いなくこの地を訪れたものの。
ここで自分達は、一体何をすればよいのだろうか。 何が見つかれば、あるいは見つからなければ――どんな思いに達すれば、この凍てつく峰を去る事ができるのだろうか。
懸命に周囲に視線を配ることに疲れて足元に目を落とすたび、バルトは繰り返し自問する。 もうずっと彼にまとわりついている、決して一人では答えを出せぬその迷いのままに視線を上げれば、映るのは小さな仲間達の黙々と歩く姿。 もう一度かすかな溜息が、彼の口からこぼれて消える。
言葉と感情と世界を交わらせることなく生きているようなエルヴァーンの友――ヴォルフにならともかく。 まだそれぞれに幼さや弱さの残るこのミスラとタルタル達に、そんな無情で無機質な話し合いを強いる事はバルトには到底出来なかった。 彼の武器たる言の葉は磁力を無くして心で錆びる。
動くしかないのか。 頭ではなく、体に染み入る何かが、自分達には必要なのだろうか。 この絶え間ない寒さのような何かが――
先頭をドリーが歩いている。 今日は特に、それは彼女にしかできない役目だ。
付き添うように続くルカ。 ルードが並ぶ。 フォーレが従う。
無意識にいつもの隊列を作る彼らがそれを見なくて済むことに、バルトは密かに安堵し、そしてかすかな妬みを覚える。
慣れ親しんだ光景に落ち着きを覚えれば覚えるほどに、そこに欠落した部分がその存在感を増していた。
フォーレよりも後ろ、自分よりも前。 あるいは横で。
常にバルトの視界の一部を満たしてきた大きな背中が、無い。 景色が広すぎる。 一時たりとも忘れることを許されない。 杖をなくした老人のように、歩く重心が前に後ろに狂うような哀しい錯覚にバルトは苛まれる。
先頭のドリーが向かうのはこの山脈の頂だ。
まず一番高い頂上に向かって、そこから山々を巡ろう――そう決めて歩き出したのが半日前のこと。
ウルガラン。 広大な雪の山脈を闇雲に踏破するという、これが最後の儀式になるのか。 例え何一つ探し出す事ができなくても、これが終われば何かが――実ると言うのだろうか。
バルトの問いに対する答えを、今は神ですらも持ってはいない。
to be continued
ドリーが、もりもりとご飯を食べている。
山盛りパスタ。 こんもりサラダ。 ずっしりステーキ。 たっぷりスープ。
順番も何もない。 休みなく動き回るナイフが、フォークが、スプーンが、我先にと小さなタルタルの口へご馳走を運ぶ。 運び続ける。
その怒涛の勢いは見る者をして、「この店に『大食いチャレンジ・完食されたら御代は頂きません』的メニューなんぞあっただろうか」と思わせかねない光景である。
ルカ達残る五人は、それぞれ飲み物だけを前に、その天晴れとしか言いようのない食欲を半ば唖然として眺めている。
ほんの数刻前に、お通夜の席のようではあってもそれなりに食事を済ませていた彼らの満腹中枢を、目の前で面白いように削られていく料理の姿がさらに消耗させていた。
「十日分のカロリーの一気摂取は……まぁ、いいけど……」
「リバウンドの典型、ですよね……まぁ、いいですけど……」
ハムスターのようにほっぺたをぱんぱんにしているドリーのグラスにピッチャーの水を注ぎ足すルカと、彼女の横にちんまりと座るフォーレが、こっそりとそんな会話を交わす。
祭囃子のように忙しげなナイフとフォークの音も、彼女らの安堵の笑顔に混じる恐々とした苦笑いも、今は日常へと続く大切な彩りの一つ――
* * *
「ズヴァール? ズヴァール城って――獣人の本拠地?――え? 何で、なんでそんな所に?」
「山……じゃねぇよな、あそこ……むしろ谷があるぞ」
イーゴリは、ザルカバードを北西に向かった――
そう言い残してシルヴィアが彼らの元を去った後、その場はさながら蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「ズヴァールなら何度か行った事あるよね、でも、でも変な物とか人とか特になかったと思うし――いやそれ言ったらあそこ自体が全部変なんだけど」
「いや、そもそも目的地が地理的な山であるという確証は初めからないんだよ。 そういう意味ではどこに向かっても不思議はないけど――それにしても――」
「んな、ズヴァールったらどこをどうひっくり返しても獣人一色の場所じゃないすか! そんな物騒なとこでおちおち転生もクソも――いやちょっと待て、まさかガルカってのは実は獣じ」
「ルード! 変な事言わないで!」
「――違う」
意表を突かれた混乱と焦燥で、わめき合う論点が妙な方向にずれていく。 その騒ぎを、一人腕を組んで立つヴォルフの低い呟きがぴたりと止めた。 全員がエルヴァーンの赤魔道士に視線を注ぐ中、彼は言った。
「もう少し、北寄りだろう――ウルガラン山脈だ」
「あ」
はた、と皆が顔を合わせる。 迂闊だった、とばかりに早口でバルトは言った。
「そうだ、それですね――あのルートにウルガランへの登山口がある。 そっちの方が信憑性が高い」
「っしゃ、そうと判れば」
「行こう! えーとえーとウルガランだから、近いのはえっと」
「私、飛びます! ザルカバードに移動魔法のポイントが」
「あっ、ちょい待った! 俺鎧取って来るわ、魔物は危なくねーけど何があるか」
「ねーぇ」
と。
それまで無言で、皆に背を向けたままぼんやりと立ち尽くしていた――と、誰もが思っていた――ドリーが。
いつのまにか、振り返っていた。 ルカの尻尾を掴んでいた。 たんぽぽの綿毛のような声を上げた。
「ルカー。 おなかすいた」
「――はぁっ!?」
ルカは彼女を見下ろし、口と目をまんまるに開けた。 それまで皆を相手にぎゃいぎゃいと騒いでいた調子が抜けず、噛み付くように息を吐いて素っ頓狂に問い返すミスラ。
残りの面々も、それぞれ呆気に取られた表情で見事に停止していた。 ルードなどは慌てて駆け出した所を、首だけで振り返ったままの姿勢に固まっている。
「戦ったらおなかすいちゃった。 なんか食べるー。 つきあってー」
「……、が」
何と返していいか判らない。 言葉を失って詰まった息が意味のない呻きに変わって喉から漏れる。
興奮醒めやらぬ仲間達を置き去りに、突如として全く普段の調子に戻ってしまっているドリーを、全員が穴のあくほどにまじまじと見つめていた。
いつも通りの、ぷくぷくとした頬。 何かをねだるようなせかすような、くりんと大きい目がルカを見上げる。 鐘でも鳴らすようにミスラの尻尾を振り回す仕草。 久し振りに見る無邪気な彼女の復活は、懐かしいと言うにはあまりに唐突で。
幼児退行現象――そんな単語が五人の脳裏をよぎる程に。
「……ド、ドリーさん」
最初に口を開いたのはバルトだった。 何か腫れ物にでも触るようなおっかなびっくりの口調で、遠慮がちに問う。
「えーと……イーゴリさんの行き先が――多分、判りました、よ……?」
「んー」
鼻で答えて、ドリーはルカの尻尾から手を離した。
妙に反応が薄い。 無いのも強すぎるのもそれはそれで困るが、薄いというのは想定外だ。 更におずおずと、バルトは訊いた。
「い……行き、ません?」
首をかしげて問うエルヴァーン。 何だか間が抜けている。
「うん、行こうかねー」
あっけらかんと言いながらドリーは、提げたままだった片手剣を持ち上げるとぱちんと鞘に収める。 遠慮がちに輝きを放っていた剥き出しの刃が、その姿を隠した。 幕が引かれて照明が灯るように、日常の空気が彼らの間に舞い戻る。
と、皆の戸惑う視線の中、微笑みすら乗せた穏やかな表情でドリーは言った。
「でも、そんなに急がなくっていいよ。 どっちにしろもうずいぶん時間も経ってるし――ウルガランったらそこそこ広いしめちゃくちゃ寒いじゃない。 ちゃんと準備して行かないと、ビバークだよビバーク」
「あ……はあ……」
「だからほら、まず腹ごしらえ! ね?」
彼女の言う事は、どれも確かにその通りで。 一同は戸惑いながらも納得せざるを得なくなる。
一刻も早くウルガランに向かいたい、とは勿論思うが。 いわばイーゴリの親近者である当のドリーがこう言うものに、敢えて無理強いするのも何かが違う気がした。
ルカは。
そんな、明るい表情と声で物分かりのいい言葉を紡ぐ親友の様子に、ルカは単純な安堵と複雑な違和感のないまぜになった――結局は不安を覚える。 このドリーの微笑を、迂闊に素直に呑み込んではいけないような――
だから、思わず彼女は訊いてしまった。
「――え、でも、いいの? もしかしたら何か、えーと……いい方向に行くような何かが、見つかるかも」
「ううん」
ルカの言葉に軽く首を振ると、ジュノの街に向けてドリーはすたすたと歩き出した。 つられて皆も歩き出す。
視線は小さな赤毛のタルタルに吸い寄せられ、足取りはそれに引きずられるように。
ゆっくりと、バタリアの時が息を吹き返す。
「何かね、判るんだ。 師匠はもう、戻るつもりは……戻れるつもりは、ないんだね。 何か、判った」
「――――」
この十日あまりというもの、ついに誰もが恐ろしくて口に出せなかった事を。
あっさりとドリーは言葉にした。
ルカの胸を、途端に新たな締め付けが幾重にも襲う。 いばらのようにきりきりと。
――ああ、この子は。
とうとう、受け容れたのか――
「……私ねー、ずっと言ってたんだよね。 お姉ちゃんより強くなるんだって。 その為に鍛えてくれって、師匠に頼み込んだのが最初だった」
まるで散歩するような足取り。 思い出色の声。 過去形の言葉。
「だからさ、師匠がお姉ちゃんを見つけて、それで呼んでくれたんなら。 これはもう間違いなく、私の最終目標の消化の為……って言うか――卒業試験、かな。 うん、卒業試験だね」
卒業試験。 何て切なく響くのだろう。
訳知り顔で離別を言い渡し、好むと好まざるとに関わらず過去と現在を無情に切り離す、切ない言葉――
「いやー、ずっと気にしてた事が片付いて、すっきりしちゃった。 だからご飯! これから寒い所に行かなきゃいけないんだし、エネルギーを貯め込んどかないと凍えちゃうよ!?」
「――――ん。 そうだね」
ルカは、振り絞るように笑顔を作った。
食べなければいけないのだ。 この子は、体力をつけなければ。
今日、自分を引っ張る目標と、そこへ後押ししてくれる力を一気に失ったこの小さな少女は、
ようやく精一杯の虚勢を張り始めた彼女の心は、
これから一人で歩き出さねばならないのだから。
きっと最初は凍える野原で、茫洋とした未来に、己が道を探らねばならないのだから――
* * *
―― ウルガラン山脈 ――
命を選ぶ白い峰。
突き上げるように天を目指す雪原は、降る雪を自ら求めて伸び上がっているのだろうか。
まるで降雪スイッチを入れた者がそのまま死んでしまったかのように、そこにはただただ降り積もる雪。 少し強い風が、彼らの頬に容赦なく雪つぶてを叩き付ける。 わずかに立つ木々は無残に凍え落ち、かろうじて結晶のような葉をまとう針葉樹も下半身を埋め立てられて円錐形の白いオブジェと成り果てていた。
灰色に凍える雲が空を覆う。 冷たい絨毯が無限に広がる。 空と大地の境界がモノトーンの中に融ける。
支配者の息吹すら感じられない、空虚な景色が延々と続くその狭間を、六人の人影が雪よりも静かに進んでいた。
『葬送』
その二文字を、バルトは懸命に頭から追い出し続ける。
希望は捨てていなかった。 だがそれは、捨てるだけの確証が得られない事の裏返しに過ぎなかった。
――見える物証がなければ認めない。 状況証拠だけでは納得してやらない。
魔術という半オカルトを愛しているとも思えない、それがこの黒魔道士の隠れた性分だ。
はぁっと吐いた息が、白く凍えて華になる。 目に見える溜息は、だから吐くのが辛かった。
シルヴィアの証言に飛びついて、迷いなくこの地を訪れたものの。
ここで自分達は、一体何をすればよいのだろうか。 何が見つかれば、あるいは見つからなければ――どんな思いに達すれば、この凍てつく峰を去る事ができるのだろうか。
懸命に周囲に視線を配ることに疲れて足元に目を落とすたび、バルトは繰り返し自問する。 もうずっと彼にまとわりついている、決して一人では答えを出せぬその迷いのままに視線を上げれば、映るのは小さな仲間達の黙々と歩く姿。 もう一度かすかな溜息が、彼の口からこぼれて消える。
言葉と感情と世界を交わらせることなく生きているようなエルヴァーンの友――ヴォルフにならともかく。 まだそれぞれに幼さや弱さの残るこのミスラとタルタル達に、そんな無情で無機質な話し合いを強いる事はバルトには到底出来なかった。 彼の武器たる言の葉は磁力を無くして心で錆びる。
動くしかないのか。 頭ではなく、体に染み入る何かが、自分達には必要なのだろうか。 この絶え間ない寒さのような何かが――
先頭をドリーが歩いている。 今日は特に、それは彼女にしかできない役目だ。
付き添うように続くルカ。 ルードが並ぶ。 フォーレが従う。
無意識にいつもの隊列を作る彼らがそれを見なくて済むことに、バルトは密かに安堵し、そしてかすかな妬みを覚える。
慣れ親しんだ光景に落ち着きを覚えれば覚えるほどに、そこに欠落した部分がその存在感を増していた。
フォーレよりも後ろ、自分よりも前。 あるいは横で。
常にバルトの視界の一部を満たしてきた大きな背中が、無い。 景色が広すぎる。 一時たりとも忘れることを許されない。 杖をなくした老人のように、歩く重心が前に後ろに狂うような哀しい錯覚にバルトは苛まれる。
先頭のドリーが向かうのはこの山脈の頂だ。
まず一番高い頂上に向かって、そこから山々を巡ろう――そう決めて歩き出したのが半日前のこと。
ウルガラン。 広大な雪の山脈を闇雲に踏破するという、これが最後の儀式になるのか。 例え何一つ探し出す事ができなくても、これが終われば何かが――実ると言うのだろうか。
バルトの問いに対する答えを、今は神ですらも持ってはいない。
to be continued