テノリライオン
永訣の峰、漆黒の血 9
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匿名ユーザー
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凍える凍土に閉ざされたウルガラン。
その高みを目指して道なき道を登り続け、絶えた会話と大きな変化のない風景に、六人の冒険者達の時間の感覚が麻痺しはじめた頃。
慢性的に軽く切れている息を呑み込み、ルカは口の中で気圧を計った。 ほんの少し空気が薄い――そろそろ頂上が近いはずだ。
思考のほとんどをすでに放棄した頭でぼんやりとそんな事を認識し、ひときわ大きい白い息を吐いてぐっと正面に向き直った、その時。
「――あ」
舞い散る雪のヴェールを透かし、行く手の一面の白の中に――ミスラの茶色い眼は、それを、拾った。
ひたすら広がる雪の絨毯の一画に、ぽつんと何かが突き出していた。 草木の類ではない。 雪に埋もれ覆われていても判る、人工物を思わせる歪みのない硬質な曲線の組み合わせ――
言葉よりも先に雪を蹴り、ルカは転がるように駆け出していた。 いつのまにか凪いでいた風をかき分けて走る。 跳ね上がる鼓動に熱くなる体を、同時に渦巻く冷たい予感が芯から凍てつかせる。
彼女の様子にすぐにその物影の存在に気付いた仲間達が息を呑み、ミスラの背に引かれて走り出す。
息を切らし、倒れ込むようにしてルカはその落とし物に辿り着いた。 覆う雪を両手で払い、掻き落とす。 既に半分近くも雪原に埋もれていた、それは。
「――――!!」
鎧だ。
見覚えのある鎧だ。
冗談のように大きな、あちらこちらに誇らしげな傷を飾った、物言わぬ壁の姿。
ルカはその背を、ドリーはその胸板を忘れようもない――
声にならない叫びを上げて、ルカはまるで犬のようにその武具を素手で掘り出し始めた。 仲間達が追いつく。 ルードが何事か喚きながら、バルトとフォーレは言葉を失ったまま、気の狂いそうなその作業に加わる。 ヴォルフとドリーは彼らの背後で立ち尽くし、その光景を見守る――
ごそっ、と音を立てて、大きな武具がついに雪の寝屋から抜け出した。
そして皆がすがるように注視する、その中身は――――
無かった。 何も。
「脱いで――行っちゃったの?」
主を失った鎧を前に、雪原にぺたんと座り込むフォーレのかすれた声が流れた。 押し潰されそうに重い一瞬の沈黙の後、ルードが口を開いたが、それは冷たい混乱に凍る棒読みの声音だった。
「いや……留め金が。 全部、留まってる……普通、しない。 脱いでも、全部は留めない」
腕の立つ戦士というものは概して、武器防具の扱いも丁寧で無駄がない。
脱いだ鎧は痛まないように、かつ再度身につける時に最短の時間で行えるように――つまり解かれた状態で置く。
そうでない場合、例えばシンボル的に体の形を作って安置する時でも、最低限の留め具だけを締め、急な有事に備えるものである。
なのに、この鎧は。 あまりに不自然に打ち捨てられた、イーゴリのものに間違いないこの大きな鎧は、そのどちらの形も取っていなかった。
全ての金具がしっかり留まったままだ。 身に着けている時と寸分違わぬ状態で、堅固な守りを主張する鎧。 ただ、それが包み護るべき体だけが――――
「――体が……小さくなったか――消えて、しまった、のか」
ヴォルフの、聞いた事もないような沈痛な声が告げる、逃れようのない結論が。
彼らの間にかろうじて張り詰め保っていた緊張を、ゆっくりと破って捨てた。
「ふ…………!」
ルカが崩れた。 膝をついたまま浮かせていた腰を力なくべたんと地に落とすと、俯き両手で思い切り雪を握る。 歯を食い縛り、腹の底から迸りそうな叫び声を必死で抑えるか細い呻きと共に、彼女の両の拳の間にぱたぱたといくつもの雫が落ち始めた。
「イーゴリさん……」
バルトがその傍らに疲れたように膝をついて呻く。 うずくまるルカの背に手を置き、自らも張り裂けそうな表情で目の前の鎧を見つめる。
「……勘弁、してくれよぉ……!!」
ルードが搾り出すような声を上げた。 空っぽの鎧の肩当てを掴み、怒ったような、まだ信じられないといった表情でそれを揺する手が、細かく震えている。
その後ろで、女神に祈りを捧げることも、焦点の合わない瞳から流れる涙を拭う事も忘れたフォーレが、小さな雪だるまのように座り込んでいた。
まっすぐ立ったままのヴォルフが真紅の帽子に手をかける。 が、それを脱ごうとして思い止まり――沈む表情を隠すようにつばを少し目深に傾けるに留め、そのまま動かなくなった。
吹き降ろす風が彼らを天から拒絶する。 まるで雪崩を恐れるかのように低く押し殺した嗚咽が響く中、真っ白い世界に置き去られた冒険者達。
降りしきる雪が、ゆっくりと彼らを包み込もうとする。
その姿も、色も、音も、時間も。 あらゆるものを、その純白の結晶の下に、ゆっくりと――
「転生」
ぽつり、と。
呟くような、しかしはっきりとした声が、響いた。
ルカは涙に濡れた頬を上げる。
そのくしゃくしゃに滲んで歪む視界の中に、進み出てきたのは――雪原に溶け込むような真白いナイトの鎧をまとう、赤いお下げのタルタルの姿。
何故だろう。 穏やかなのだ。 安らかなのだ。
判らない、ここまでの決定打を目の当たりにしてどうして――
「――ガルカは寿命が訪れると転生の山へと登り、そこで新しい体を得て、世界へと戻ってくる」
どこか歌うように言葉を紡ぎながら、ドリーは彼らの輪の中心へと進み出る。 かしゃん、かしゃんと、防具と防具の触れ合う音が小さく響く。
そしてひょいと、大きな鎧の前にしゃがみこんで言った。
「だよね?」
誰も答えなかった。 問われなかったからだ。
今、彼女が語りかけているのが、彼女の目に映っているのが、かつて目の前の鎧をまとっていた強く優しいあのガルカなのだと判らない者は、この場には居なかった。
「全く――寿命が来たなら来たって、言ってよね。 こーんな地の果てまで黙って一人で来ちゃうなんて、ひどいじゃないよ。 大迷惑だわ」
優しげな明るい口調の中に苦笑いすら浮かべて、ドリーは冷たい鎧に淡々と語りかける。
最も大きな淵を乗り越えなければならないこの少女が、今、仲間達に、現実を手渡し始めていた――
「あのね。 勝ったよ。 お姉ちゃんに勝った。 師匠が言ってくれたんでしょう? よく判ったねぇ、お姉ちゃんの顔。 そんなに似てたかなぁ」
くすくすと、くすぐったそうにドリーは笑う。 それは狂気や自棄の色などではなく――本当に優しげな、テーブルと暖かい飲み物の湯気を挟んだ向こうにいる相手に話しかけるような声。
「うん、お陰さまで、目標は達成できたよ――お姉ちゃんは、おいそれとは変わってくれなかったけどね。 ま、それは、しょうがないや」
うっとりと、ゆるゆると。
ドリーが虚空に贈る言葉に、皆は静かに聞き入っていた。
ルカが震えるような溜息を吐き、目を閉じる。 つぅっと、最後の涙が流れて落ちた。
「でもね」
皆のかもし出す沈痛な空気の中に、たった一つ光る水晶のような声で、ドリーは言葉を続けた。
「また会おうって、お姉ちゃん、言ってくれたんだよ。 最後にね。 すごいでしょ?」
一体いつ、そんなやりとりがあったんだ――
ルードは内心でそう思ったが、口には出さなかった。 人と人との繋がりは、見えるものや聞こえるものだけに乗せられるとは限らない事ぐらい、彼とて知っているのだ。
「だからね、決めた」
その言葉と共に、小さなドリーはすっくと立ち上がった。
「お姉ちゃんのついでに、師匠も探してやるわ。 『新しい体を得て、帰って来る』んなら、このヴァナ=ディールのどこかには、いるんだもの。 うまくすれば、いつか会えるかもしれないじゃない」
そう言うドリーの視線が、すっと目の前の鎧を通り越した。 遠く、遠く遠く――この世界全てを見晴かすような澄んだ眼差しが、雪原を貫いて駆けていく。
「――でも――それ、は」
しかし。 その言葉を聞いたバルトは、低く暗い声で呟いた。
しかしそれは、人生を食い潰す行いだ。
姿も記憶も異なれば、もうそれは別の存在だろう。 待てど暮らせど戻らない、例え町ですれ違ってもお互いを認められない――そんな相手を求め続けて彷徨う視線は、流れる時間の中でどれだけ多くのものを素通りし、見逃してしまうのだろうか。
たとえ姿が違えども、あの懐かしいガルカに会えるものなら会いたかった。 間違いない、それはバルトだけでなく、ここに居る全員が同じ思いで居るだろう。
しかし、それに年月を費やす事は――
一生懸命動いているようでも、一歩も進んでいないのだ。 死んだ師の歳を数えている。 未来ある人間が沈み込んではならない領域だ。
融けていく氷塊にしがみついて過ごすようなそんな報われない年月に、この少女は飛び込まずには居られないと言うのか――
遠い雪原で、風に雪煙が舞い上がる。
白くけぶる地平は世界の境界を曖昧にして、まるでその景色がどこまでも果てしなく広がっているような、それでいてそこから先には全てを呑み込む虚無が待っているような、捻じ込むが如き孤独感で彼らを取り囲む。
ルカは不意に感じた悪寒に、ぶるっと身震いした。 それは例えば、ふと真夜中に目が覚めてしまった小さな子供が太陽のない世界に怯え襲われるような、底なしの錯覚――不安。
この山脈の外に、世界はまだあるのだろうか。 時は、流れているのだろうか。
広大な樹海で完全に道標を見失ったような、冷たい恐怖が満ちる。
天と地のその狭間で足を止めてしまった私達は、進む事も戻る事も許されず――思い出にからめ取られたまま、新陳代謝などないようなこの白い永遠に、取り込まれてしまったのではないか。
悠久に足を踏み入れたガルカを追うなど、生身の人間がおいそれとするべき行為ではなかったのでは――
「判ってるよ、大丈夫」
と。 ドリーは遠く泳がせていた視線を彼らの元に引き戻し、にっこりと笑って言った。
「まぁまず見つからないよね。 見ても話してもわかんないんだもん、無理無理」
おどけたように言うドリーに、静かに流れる血潮のような暖かさを感じて、労わらなければならないはずの彼女にいつしかルカはすがるような眼差しを送っていた。
「だから――忘れない。 それだけだよ」
それまで無邪気に明るかったドリーの表情が、ついにゆっくりと透けるように融けていく。
この山脈を覆う雪に、あのガルカの足跡を深く抱いている白い大地に、切なく語りかけるように。
「この世界のどこかに、師匠は居る。 それでいいんだ。 でも、だからこそ、何かの奇跡で――再会できる事が、あるかもしれないでしょ。 その時を逃さないように――」
小さなタルタルの大きな瞳。 涙の代わりに浮かぶのは、透明な決意の色だった。
涙よりも澄んだ、涙よりも暖かいその輝きが、言葉よりも強く語るのは――
「世界を渡ろう。 今まで以上に、あっちこっち旅しようよ。 たくさん狩りをして、色んな街で遊んで。 みんなで師匠のイメージを心の片隅に置いてさ、師匠にわかるようにうんと目立って暴れて。 もっともっと強くなって、名を馳せるの。 そうしたら、もしかしたら、どっちかがどっちかに――気がつけるかもしれないじゃない?」
その瞬間。
彼らの心の中に、ウルガランの白を突き破って、弾ける高波のような色彩の奔流が押し寄せた。
紅いサンドリア。 蒼きバストゥーク。 碧のウィンダス。
灼熱の砂漠が、光り輝く海原が、鮮やかな森の息吹が。
七人で旅してきた幾多の風景が、記憶の底から舞い上がり彼らを救いに来たのだ。
そこに居る。 その中に居る。 あの大きな背中が、はっきりと見える――
そう、初めから、全ては彼らの中にあったのだ。 圧倒的な絶対の存在とも思えた、ガルカを呑み込む輪廻の渦は、ガルカしか呑み込むことができない。
誰にも奪えない。 誰にも消せない。 誰にも止められはしない。
彼らの記憶の中、鮮やかな世界の色彩に、あのガルカの姿が混ざり続けることを――
これが――答えか。
荒んでいた胸の内が嘘のように凪いで行くのを感じながら、バルトはドリーの顔を見つめていた。
野に咲く花のような暖かい希望が、彼女を中心に柔らかい波紋となって広がっていく。 その光景が、彼の目に確かな幻となって焼き付いた。
何も削る事はない。 しがみつく事もない。
地上に生きる我々は、前を向いて進むように出来ているのだ。 その中で失ったものがあるならば、行く手でそれがまたひょっこり姿を現してくれる偶然を、楽しみにすればいいだけのこと。
考えてみる。 命渦巻くジグソーパズルのようなこの世界のどこか一ピースに、あのガルカがこっそり隠れているとしたら――
奇跡を、一つ、予約してあるようなものじゃないか?
「……イーゴリさんに、期待っすね」
まだ少し涙を堪えるような顔にひねくれた苦笑いを浮かべて、ルードが言った。 腰に手を当て、いたずらっぽい目の色を、また少し雪を被り始めた大きな鎧に向けて。
「何しろ俺らは相変わらずの面構えを揃えて晒して、あっちこっちを闊歩するわけだから。 顔も何も判らないガルカ一人を探すこっちより、イーゴリさんの方が断然有利っすよ」
握り拳のような笑顔。 いつでも挑戦的な暗黒騎士の子供っぽい軽口には、燃えるような願いが見え隠れしている。
「――記憶の消し方を、どこか間違えてでもくれていればいいんだがな」
ヴォルフが言った。 紅い帽子の影から覗く口元が、僅かに優しい弧を描いている。
「あー……それいいね。 師匠ってばたまーにありえないほどのポカしてくれるから、今回も何かやってないとも限らないわね」
「いや、それは多分、ドリーさんにだけは言われたくないと思っているに違いないですよ」
バルトの茶々に、フォーレがくすくすと笑う。 その笑みにようやく呪縛が解かれたように小さな白魔道士はふらりと立ち上がると、頼もしい大きな鎧に、まだ涙の跡の残る頬を静かに寄せた。
ルカは、喉を反らすようにして天を仰ぐ。
熱の残る瞳が、頭上を覆う厚い雲を貫いて、真っ青な空に届いていた。
その青の中に、逞しいガルカの姿が浮かぶ。
見上げる背中だ。 太い首と、黒くこわい髪。 真っ直ぐに前を見据える頬に刻まれた漆黒の傷跡が、広い肩越しに覗く。
永きに渡り戦い抜いた彼の歴史が、黒い稲妻型の武勲に集って蒼い空を裂いていた。
まばたきと共に、霧のように幻は散っていく。 その空に、イーゴリは居ないから。
きっと同じ大地に足をつけて、同じ空気を吸って、今しもどこかでその目を開いているはずだ。
少しだけ微笑むルカの顔を、降り続く雪の華が飾っては消える。 まるで星の瞬きのように。
ゆっくりと瞳を閉じて、彼女は願う。
もし、この先ずっと、出会うことが叶わなかったとしても。
幸せな人生を。
楽しい人生を。
このヴァナ=ディールで、一緒に生きていけたなら――――――
* * *
―― イフリートの釜 ――
「アッシュ! もう帰るよ、あんたが欲張るから荷物がぱんぱんだ!」
「戻ってきてくださいようー、疲れましたようー」
「んだよー、めったに来れないとこなんだから限界までやろうぜ限界まで!」
「だから今がその限界だと言っているのが何故判らんのだお前は! 大体がここは暑すぎる、いい加減に戻るぞ!」
命を叫ぶ紅い山。
大地全体から湧き上がり照り返すような熱の中を、威勢のいい冒険者達の声が飛び交っていた。
そこかしこに割ける岩から覗く朱色の溶岩はぼこりぼこりと重たい泡を弾けさせ、それはまさに大地から噴き出すエネルギーそのもの、生き物にとっては生と死を同時に象徴する圧倒的な紅だ。
そんな煉獄さながらの風景の中、仲間の声も聞かず、入り組んだ山肌を縫うようにまた軽々と駆けて行ったヒュームの彼。 心細そうなタルタルの少女と渋い面を見せる壮齢のエルヴァーンを代弁するように、いかにも姉御肌といった風体のミスラがその鉄砲玉のようなシーフの後を追って行った。
「アーーッシュ! たいがいにしな、置いてくよっ!!」
シーフの彼が分け入ったと思しき山道をたどりながら、ミスラは大声で叫ぶ。 先程まで漁るように狩っていた蜂が、あたりをぶんぶんと飛んでいた。
「フィオがへばっちまうよ! とっとと…………ん?」
がなるように呼ばわっていた彼女の声が、ふいにぴたりと止まった。
彼の姿を探してあちこち覗いていた山道の隅に、ぽつんとたたずむ小さな人影を見つけたのだ。
「……ボク? どうしたんだい?」
ミスラは足早にその人影に駆け寄ると、ひょいとしゃがみ込んで彼と視線を合わせた。 勿論そんな彼女の頭には、この火の山を支配するマグマにも負けないぐらいの違和感と疑問符が渦巻いていたが、ひとまずそれは置いておく。
「…………」
その幼いガルカは、ぼうっと呆けたような顔で彼女を見ていた。 迷子になった――と言うよりは、自分が何故ここに居るのかさっぱり判らないといった感じの、あどけない表情を晒して。
「あーリズ、こっちもう何もいねぇや。 しゃーねーから帰ってやっても……っておい誰よそれ」
そこにふらふらと戻ってきたシーフの彼の声を彼女はひとまず無視し、名前は? どこから来たの? ここで何をしてるの? など、一人でいる子供にする質問セットを目の前の小さなガルカに並べてみるが、明確な返事は返ってこない。 ミスラは困ったように眉根を寄せた。
「……とりあえず、町までは連れて行ってやった方がよくねぇか? ここじゃいつ魔物にやられちまうか」
二人の様子を上から覗き込んでいたシーフが、真面目な調子に戻って言った。
考えるまでもない。 こんな幼く無防備なガルカなど、この山に巣食う凶暴なコウモリやボムに見つかってしまってはひとたまりもないだろう。
「うん――坊や、いいかい? 私達と一緒に、町まで行こうか?」
ミスラがそう訊くと、ガルカは表情を変えないままこくんと頷いた。 判っているのかいないのか微妙な反応だったが――それよりも彼女は、その子の顔が、気になっていた。
子供らしい、まっさらな生命力に満ちた面立ちはどこか眩しい。 しかしその無垢な片頬に、黒い掻き傷のようなものがくっきりと刻まれているのだ。
特に痛そうな様子もなく傷自体はふさがっているようだが、こんな禍々しい色の傷跡を、彼女は見た事がなかった。 歴戦の戦士にあるのならともかく――幼い子供に、こんなものは。
ミスラはその傷跡に何となく目を奪われたまま立ち上がると、促すようにその子の手を取って元来た道を振り返った。 それと同時にシーフの彼も踵を返す。
「――!」
瞬間、二人は息を呑んだ。 幼いガルカにすっかり気を取られていて、すぐ背後に真っ赤なボムが一匹忍び寄っていたのに気付かなかったのだ。
冒険者として十分に鍛え上げられた二人はもうそのモンスターに襲われる事はない。 が、赤子のような小さなガルカは、間違いなく無力な餌食と見なされるはずだ。
「くっ――」
自分の油断を呪いながら、ミスラは素早く背の得物に手をかける。 シーフの彼と二人だけで対処できるだろうか。 倒せない事はないだろう、が、時間がかかってしまう。 万が一自爆でもされれば、自分達はともかくこの子は――
咄嗟にガルカを背に庇い電撃のように思考する彼女と、恐らくは同じ思いで腰から抜いた短剣を構えるシーフの間を――そして、小さなあどけないガルカの正面を。
灼熱するマグマの飛沫のような赤い塊は、実にのんびりと通り抜けていった。
「――――え?」
二人の口がぽかんと開く。 隙なく落とした腰と構えた腕も虚しく、肩越しに振り返る二人に見送られて、ボムは何事もなかったかのようにふらふらと背後の山影へと消えていった。
「……あぁ? あれ? ――おいリズ、この子にプリズムパウダー……って、見えてるよなぁ」
シーフが間の抜けた声で呆然と呟く。 ミスラも言葉をなくして、ボムの消えた先を追っていた視線を幼いガルカに戻した。
近所の野原にでもいるような無防備な表情で子供は彼女を見返す。 無意識だろうか、頬の黒い傷跡をその小さな手が撫でていた。
――偶然、か……? いや――何だろう、この子は……
「――と……にかく、戻ろう。 アッシュ、道中にボムがいないか先行して見とくれ」
「ああ……あいよ」
* * *
「――む? どうした、その子は」
無事に火山の入り口まで戻ってきた彼らを、壮齢のエルヴァーンの驚いたような声が迎えた。
「いやあ……山道に一人でいたんで、危ないから連れて来たんだけどね」
戸惑い顔で答えるミスラ。 ぽりぽりと頭をかきながら、手をつないだ小さなガルカを見下ろす。
「迷子かな?」
「うーん……どうなのかなぁ、何も言ってくれなくってさ……よく判んないんだよねぇ……」
歯切れ悪くぼそぼそとミスラは答える。 と、彼女の手を、そのガルカがぱっと離した。 唐突に、そして初めて自主的に見せた動きに驚くミスラとシーフの見守る視線の中、彼はとことこと歩くと――
「え……えっ? きゃ、何?」
エルヴァーンの後ろから顔を覗かせていたタルタルの少女にまっすぐ近寄り、彼女の服の袖をまるで母親を見つけた幼児のようにきゅっと握ったのだ。
赤みがかった髪を高くお下げにし、輝くような純白の生地に青い刺繍の入ったダブレットを着るタルタルの彼女は、突然の出来事に驚きの悲鳴を上げる。
「およ、何だ何だ、フィオみたいのがタイプか?」
シーフの声が彼女を冷やかす。 握られた袖を振りほどく無情もできず、タルタルの少女は困り果てた顔でおろおろと幼いガルカを見やった。 しかし彼は黙ったまま、子犬が飼い主を見上げるような罪のない瞳でじっと彼女を見つめるばかりだ。
「ふーん……何だろう、なついちまったね」
興味深げにミスラが鼻を鳴らす。 彼女に代わって、エルヴァーンが幼いガルカの傍らにゆっくりと膝をつくと、渋く落ち着いた声で静かに尋ねた。
「坊、名を何と言う」
「…………」
「どこから来た?」
「…………」
「口が利けぬのかな」
「…………」
「帰る所はあるのか?」
と。
四つ目の質問で、初めて彼の黒い瞳が揺れた。 そして。
「……帰る」
「お」
ようやくガルカが発した小さな声に、シーフの彼が軽く嬉しそうな笑みをこぼした。 エルヴァーンが続けて尋ねる。
「そうか、家はどこだね?」
「…………」
しかし小さなガルカは返せる言葉を持たないのか、また口を閉ざした。 ただ、その目がじっと赤毛のタルタルを見つめている。 まるでそれが答えだと言わんばかりの真っ直ぐな瞳に、腰がひけたままの彼女はただおどおどと戸惑うばかりだ。
「ふむ……何にしても、ここに置いては行けないな。 まずはカザムまで連れて帰ってやるとしよう。 フィオ、この子に姿隠しと消音を施してやるといい」
そう言って腰を伸ばすエルヴァーンに、ミスラが思い出したようにぽつりと言った。
「いや――それ、要らないかもしれないんだよね……」
「うん? どういう事だ?」
背の高い三人が言い交わす足元で、タルタルの少女は一向に自分の袖口を離そうとしない小さなガルカを見つめていた。
よくよく見れば、それはとても不思議な瞳だった。 生まれたてのような無垢な輝きの中に、全てを包み込んでしまうような――どこか深い力をたたえている。 その幼い体に不似合いな静けさは、彼の頬に荒々しく走る黒い傷の持つ雰囲気と全く正反対の印象を見る者に与えて。
そんな事を観察する余裕が出てきた赤毛のタルタルの少女。 ようやく警戒の色を少し解くと、首を傾げるようにして小さなガルカの顔を覗き込んだ。
と、彼はついと顔を動かした。 少し眩しそうに上の方を見ている。 つられて彼女も、その視線の先を見た。
炎の山と世界とを繋ぐ、突き抜けるように青い空が、彼らの頭上に広がっていた。
浮かぶ白い雲が時計の短針よりもゆっくりと旅をする。 この大地を隈なく照らしている日輪は何かの証のように高く、しっかりとそこに架かっていた。
幼いガルカの瞳は、遥かなその光景を読み取る。
幼い体に刻まれた傷跡がひっそりと留める、小さな小さな種火。
どこまでも続く広い大空も、わけへだてのない太陽も、目の前の少女の髪の赤い色も。
その熱を呼び覚まし、輝かせる事は、出来はしなかった。
今は、まだ――――――
End
その高みを目指して道なき道を登り続け、絶えた会話と大きな変化のない風景に、六人の冒険者達の時間の感覚が麻痺しはじめた頃。
慢性的に軽く切れている息を呑み込み、ルカは口の中で気圧を計った。 ほんの少し空気が薄い――そろそろ頂上が近いはずだ。
思考のほとんどをすでに放棄した頭でぼんやりとそんな事を認識し、ひときわ大きい白い息を吐いてぐっと正面に向き直った、その時。
「――あ」
舞い散る雪のヴェールを透かし、行く手の一面の白の中に――ミスラの茶色い眼は、それを、拾った。
ひたすら広がる雪の絨毯の一画に、ぽつんと何かが突き出していた。 草木の類ではない。 雪に埋もれ覆われていても判る、人工物を思わせる歪みのない硬質な曲線の組み合わせ――
言葉よりも先に雪を蹴り、ルカは転がるように駆け出していた。 いつのまにか凪いでいた風をかき分けて走る。 跳ね上がる鼓動に熱くなる体を、同時に渦巻く冷たい予感が芯から凍てつかせる。
彼女の様子にすぐにその物影の存在に気付いた仲間達が息を呑み、ミスラの背に引かれて走り出す。
息を切らし、倒れ込むようにしてルカはその落とし物に辿り着いた。 覆う雪を両手で払い、掻き落とす。 既に半分近くも雪原に埋もれていた、それは。
「――――!!」
鎧だ。
見覚えのある鎧だ。
冗談のように大きな、あちらこちらに誇らしげな傷を飾った、物言わぬ壁の姿。
ルカはその背を、ドリーはその胸板を忘れようもない――
声にならない叫びを上げて、ルカはまるで犬のようにその武具を素手で掘り出し始めた。 仲間達が追いつく。 ルードが何事か喚きながら、バルトとフォーレは言葉を失ったまま、気の狂いそうなその作業に加わる。 ヴォルフとドリーは彼らの背後で立ち尽くし、その光景を見守る――
ごそっ、と音を立てて、大きな武具がついに雪の寝屋から抜け出した。
そして皆がすがるように注視する、その中身は――――
無かった。 何も。
「脱いで――行っちゃったの?」
主を失った鎧を前に、雪原にぺたんと座り込むフォーレのかすれた声が流れた。 押し潰されそうに重い一瞬の沈黙の後、ルードが口を開いたが、それは冷たい混乱に凍る棒読みの声音だった。
「いや……留め金が。 全部、留まってる……普通、しない。 脱いでも、全部は留めない」
腕の立つ戦士というものは概して、武器防具の扱いも丁寧で無駄がない。
脱いだ鎧は痛まないように、かつ再度身につける時に最短の時間で行えるように――つまり解かれた状態で置く。
そうでない場合、例えばシンボル的に体の形を作って安置する時でも、最低限の留め具だけを締め、急な有事に備えるものである。
なのに、この鎧は。 あまりに不自然に打ち捨てられた、イーゴリのものに間違いないこの大きな鎧は、そのどちらの形も取っていなかった。
全ての金具がしっかり留まったままだ。 身に着けている時と寸分違わぬ状態で、堅固な守りを主張する鎧。 ただ、それが包み護るべき体だけが――――
「――体が……小さくなったか――消えて、しまった、のか」
ヴォルフの、聞いた事もないような沈痛な声が告げる、逃れようのない結論が。
彼らの間にかろうじて張り詰め保っていた緊張を、ゆっくりと破って捨てた。
「ふ…………!」
ルカが崩れた。 膝をついたまま浮かせていた腰を力なくべたんと地に落とすと、俯き両手で思い切り雪を握る。 歯を食い縛り、腹の底から迸りそうな叫び声を必死で抑えるか細い呻きと共に、彼女の両の拳の間にぱたぱたといくつもの雫が落ち始めた。
「イーゴリさん……」
バルトがその傍らに疲れたように膝をついて呻く。 うずくまるルカの背に手を置き、自らも張り裂けそうな表情で目の前の鎧を見つめる。
「……勘弁、してくれよぉ……!!」
ルードが搾り出すような声を上げた。 空っぽの鎧の肩当てを掴み、怒ったような、まだ信じられないといった表情でそれを揺する手が、細かく震えている。
その後ろで、女神に祈りを捧げることも、焦点の合わない瞳から流れる涙を拭う事も忘れたフォーレが、小さな雪だるまのように座り込んでいた。
まっすぐ立ったままのヴォルフが真紅の帽子に手をかける。 が、それを脱ごうとして思い止まり――沈む表情を隠すようにつばを少し目深に傾けるに留め、そのまま動かなくなった。
吹き降ろす風が彼らを天から拒絶する。 まるで雪崩を恐れるかのように低く押し殺した嗚咽が響く中、真っ白い世界に置き去られた冒険者達。
降りしきる雪が、ゆっくりと彼らを包み込もうとする。
その姿も、色も、音も、時間も。 あらゆるものを、その純白の結晶の下に、ゆっくりと――
「転生」
ぽつり、と。
呟くような、しかしはっきりとした声が、響いた。
ルカは涙に濡れた頬を上げる。
そのくしゃくしゃに滲んで歪む視界の中に、進み出てきたのは――雪原に溶け込むような真白いナイトの鎧をまとう、赤いお下げのタルタルの姿。
何故だろう。 穏やかなのだ。 安らかなのだ。
判らない、ここまでの決定打を目の当たりにしてどうして――
「――ガルカは寿命が訪れると転生の山へと登り、そこで新しい体を得て、世界へと戻ってくる」
どこか歌うように言葉を紡ぎながら、ドリーは彼らの輪の中心へと進み出る。 かしゃん、かしゃんと、防具と防具の触れ合う音が小さく響く。
そしてひょいと、大きな鎧の前にしゃがみこんで言った。
「だよね?」
誰も答えなかった。 問われなかったからだ。
今、彼女が語りかけているのが、彼女の目に映っているのが、かつて目の前の鎧をまとっていた強く優しいあのガルカなのだと判らない者は、この場には居なかった。
「全く――寿命が来たなら来たって、言ってよね。 こーんな地の果てまで黙って一人で来ちゃうなんて、ひどいじゃないよ。 大迷惑だわ」
優しげな明るい口調の中に苦笑いすら浮かべて、ドリーは冷たい鎧に淡々と語りかける。
最も大きな淵を乗り越えなければならないこの少女が、今、仲間達に、現実を手渡し始めていた――
「あのね。 勝ったよ。 お姉ちゃんに勝った。 師匠が言ってくれたんでしょう? よく判ったねぇ、お姉ちゃんの顔。 そんなに似てたかなぁ」
くすくすと、くすぐったそうにドリーは笑う。 それは狂気や自棄の色などではなく――本当に優しげな、テーブルと暖かい飲み物の湯気を挟んだ向こうにいる相手に話しかけるような声。
「うん、お陰さまで、目標は達成できたよ――お姉ちゃんは、おいそれとは変わってくれなかったけどね。 ま、それは、しょうがないや」
うっとりと、ゆるゆると。
ドリーが虚空に贈る言葉に、皆は静かに聞き入っていた。
ルカが震えるような溜息を吐き、目を閉じる。 つぅっと、最後の涙が流れて落ちた。
「でもね」
皆のかもし出す沈痛な空気の中に、たった一つ光る水晶のような声で、ドリーは言葉を続けた。
「また会おうって、お姉ちゃん、言ってくれたんだよ。 最後にね。 すごいでしょ?」
一体いつ、そんなやりとりがあったんだ――
ルードは内心でそう思ったが、口には出さなかった。 人と人との繋がりは、見えるものや聞こえるものだけに乗せられるとは限らない事ぐらい、彼とて知っているのだ。
「だからね、決めた」
その言葉と共に、小さなドリーはすっくと立ち上がった。
「お姉ちゃんのついでに、師匠も探してやるわ。 『新しい体を得て、帰って来る』んなら、このヴァナ=ディールのどこかには、いるんだもの。 うまくすれば、いつか会えるかもしれないじゃない」
そう言うドリーの視線が、すっと目の前の鎧を通り越した。 遠く、遠く遠く――この世界全てを見晴かすような澄んだ眼差しが、雪原を貫いて駆けていく。
「――でも――それ、は」
しかし。 その言葉を聞いたバルトは、低く暗い声で呟いた。
しかしそれは、人生を食い潰す行いだ。
姿も記憶も異なれば、もうそれは別の存在だろう。 待てど暮らせど戻らない、例え町ですれ違ってもお互いを認められない――そんな相手を求め続けて彷徨う視線は、流れる時間の中でどれだけ多くのものを素通りし、見逃してしまうのだろうか。
たとえ姿が違えども、あの懐かしいガルカに会えるものなら会いたかった。 間違いない、それはバルトだけでなく、ここに居る全員が同じ思いで居るだろう。
しかし、それに年月を費やす事は――
一生懸命動いているようでも、一歩も進んでいないのだ。 死んだ師の歳を数えている。 未来ある人間が沈み込んではならない領域だ。
融けていく氷塊にしがみついて過ごすようなそんな報われない年月に、この少女は飛び込まずには居られないと言うのか――
遠い雪原で、風に雪煙が舞い上がる。
白くけぶる地平は世界の境界を曖昧にして、まるでその景色がどこまでも果てしなく広がっているような、それでいてそこから先には全てを呑み込む虚無が待っているような、捻じ込むが如き孤独感で彼らを取り囲む。
ルカは不意に感じた悪寒に、ぶるっと身震いした。 それは例えば、ふと真夜中に目が覚めてしまった小さな子供が太陽のない世界に怯え襲われるような、底なしの錯覚――不安。
この山脈の外に、世界はまだあるのだろうか。 時は、流れているのだろうか。
広大な樹海で完全に道標を見失ったような、冷たい恐怖が満ちる。
天と地のその狭間で足を止めてしまった私達は、進む事も戻る事も許されず――思い出にからめ取られたまま、新陳代謝などないようなこの白い永遠に、取り込まれてしまったのではないか。
悠久に足を踏み入れたガルカを追うなど、生身の人間がおいそれとするべき行為ではなかったのでは――
「判ってるよ、大丈夫」
と。 ドリーは遠く泳がせていた視線を彼らの元に引き戻し、にっこりと笑って言った。
「まぁまず見つからないよね。 見ても話してもわかんないんだもん、無理無理」
おどけたように言うドリーに、静かに流れる血潮のような暖かさを感じて、労わらなければならないはずの彼女にいつしかルカはすがるような眼差しを送っていた。
「だから――忘れない。 それだけだよ」
それまで無邪気に明るかったドリーの表情が、ついにゆっくりと透けるように融けていく。
この山脈を覆う雪に、あのガルカの足跡を深く抱いている白い大地に、切なく語りかけるように。
「この世界のどこかに、師匠は居る。 それでいいんだ。 でも、だからこそ、何かの奇跡で――再会できる事が、あるかもしれないでしょ。 その時を逃さないように――」
小さなタルタルの大きな瞳。 涙の代わりに浮かぶのは、透明な決意の色だった。
涙よりも澄んだ、涙よりも暖かいその輝きが、言葉よりも強く語るのは――
「世界を渡ろう。 今まで以上に、あっちこっち旅しようよ。 たくさん狩りをして、色んな街で遊んで。 みんなで師匠のイメージを心の片隅に置いてさ、師匠にわかるようにうんと目立って暴れて。 もっともっと強くなって、名を馳せるの。 そうしたら、もしかしたら、どっちかがどっちかに――気がつけるかもしれないじゃない?」
その瞬間。
彼らの心の中に、ウルガランの白を突き破って、弾ける高波のような色彩の奔流が押し寄せた。
紅いサンドリア。 蒼きバストゥーク。 碧のウィンダス。
灼熱の砂漠が、光り輝く海原が、鮮やかな森の息吹が。
七人で旅してきた幾多の風景が、記憶の底から舞い上がり彼らを救いに来たのだ。
そこに居る。 その中に居る。 あの大きな背中が、はっきりと見える――
そう、初めから、全ては彼らの中にあったのだ。 圧倒的な絶対の存在とも思えた、ガルカを呑み込む輪廻の渦は、ガルカしか呑み込むことができない。
誰にも奪えない。 誰にも消せない。 誰にも止められはしない。
彼らの記憶の中、鮮やかな世界の色彩に、あのガルカの姿が混ざり続けることを――
これが――答えか。
荒んでいた胸の内が嘘のように凪いで行くのを感じながら、バルトはドリーの顔を見つめていた。
野に咲く花のような暖かい希望が、彼女を中心に柔らかい波紋となって広がっていく。 その光景が、彼の目に確かな幻となって焼き付いた。
何も削る事はない。 しがみつく事もない。
地上に生きる我々は、前を向いて進むように出来ているのだ。 その中で失ったものがあるならば、行く手でそれがまたひょっこり姿を現してくれる偶然を、楽しみにすればいいだけのこと。
考えてみる。 命渦巻くジグソーパズルのようなこの世界のどこか一ピースに、あのガルカがこっそり隠れているとしたら――
奇跡を、一つ、予約してあるようなものじゃないか?
「……イーゴリさんに、期待っすね」
まだ少し涙を堪えるような顔にひねくれた苦笑いを浮かべて、ルードが言った。 腰に手を当て、いたずらっぽい目の色を、また少し雪を被り始めた大きな鎧に向けて。
「何しろ俺らは相変わらずの面構えを揃えて晒して、あっちこっちを闊歩するわけだから。 顔も何も判らないガルカ一人を探すこっちより、イーゴリさんの方が断然有利っすよ」
握り拳のような笑顔。 いつでも挑戦的な暗黒騎士の子供っぽい軽口には、燃えるような願いが見え隠れしている。
「――記憶の消し方を、どこか間違えてでもくれていればいいんだがな」
ヴォルフが言った。 紅い帽子の影から覗く口元が、僅かに優しい弧を描いている。
「あー……それいいね。 師匠ってばたまーにありえないほどのポカしてくれるから、今回も何かやってないとも限らないわね」
「いや、それは多分、ドリーさんにだけは言われたくないと思っているに違いないですよ」
バルトの茶々に、フォーレがくすくすと笑う。 その笑みにようやく呪縛が解かれたように小さな白魔道士はふらりと立ち上がると、頼もしい大きな鎧に、まだ涙の跡の残る頬を静かに寄せた。
ルカは、喉を反らすようにして天を仰ぐ。
熱の残る瞳が、頭上を覆う厚い雲を貫いて、真っ青な空に届いていた。
その青の中に、逞しいガルカの姿が浮かぶ。
見上げる背中だ。 太い首と、黒くこわい髪。 真っ直ぐに前を見据える頬に刻まれた漆黒の傷跡が、広い肩越しに覗く。
永きに渡り戦い抜いた彼の歴史が、黒い稲妻型の武勲に集って蒼い空を裂いていた。
まばたきと共に、霧のように幻は散っていく。 その空に、イーゴリは居ないから。
きっと同じ大地に足をつけて、同じ空気を吸って、今しもどこかでその目を開いているはずだ。
少しだけ微笑むルカの顔を、降り続く雪の華が飾っては消える。 まるで星の瞬きのように。
ゆっくりと瞳を閉じて、彼女は願う。
もし、この先ずっと、出会うことが叶わなかったとしても。
幸せな人生を。
楽しい人生を。
このヴァナ=ディールで、一緒に生きていけたなら――――――
* * *
―― イフリートの釜 ――
「アッシュ! もう帰るよ、あんたが欲張るから荷物がぱんぱんだ!」
「戻ってきてくださいようー、疲れましたようー」
「んだよー、めったに来れないとこなんだから限界までやろうぜ限界まで!」
「だから今がその限界だと言っているのが何故判らんのだお前は! 大体がここは暑すぎる、いい加減に戻るぞ!」
命を叫ぶ紅い山。
大地全体から湧き上がり照り返すような熱の中を、威勢のいい冒険者達の声が飛び交っていた。
そこかしこに割ける岩から覗く朱色の溶岩はぼこりぼこりと重たい泡を弾けさせ、それはまさに大地から噴き出すエネルギーそのもの、生き物にとっては生と死を同時に象徴する圧倒的な紅だ。
そんな煉獄さながらの風景の中、仲間の声も聞かず、入り組んだ山肌を縫うようにまた軽々と駆けて行ったヒュームの彼。 心細そうなタルタルの少女と渋い面を見せる壮齢のエルヴァーンを代弁するように、いかにも姉御肌といった風体のミスラがその鉄砲玉のようなシーフの後を追って行った。
「アーーッシュ! たいがいにしな、置いてくよっ!!」
シーフの彼が分け入ったと思しき山道をたどりながら、ミスラは大声で叫ぶ。 先程まで漁るように狩っていた蜂が、あたりをぶんぶんと飛んでいた。
「フィオがへばっちまうよ! とっとと…………ん?」
がなるように呼ばわっていた彼女の声が、ふいにぴたりと止まった。
彼の姿を探してあちこち覗いていた山道の隅に、ぽつんとたたずむ小さな人影を見つけたのだ。
「……ボク? どうしたんだい?」
ミスラは足早にその人影に駆け寄ると、ひょいとしゃがみ込んで彼と視線を合わせた。 勿論そんな彼女の頭には、この火の山を支配するマグマにも負けないぐらいの違和感と疑問符が渦巻いていたが、ひとまずそれは置いておく。
「…………」
その幼いガルカは、ぼうっと呆けたような顔で彼女を見ていた。 迷子になった――と言うよりは、自分が何故ここに居るのかさっぱり判らないといった感じの、あどけない表情を晒して。
「あーリズ、こっちもう何もいねぇや。 しゃーねーから帰ってやっても……っておい誰よそれ」
そこにふらふらと戻ってきたシーフの彼の声を彼女はひとまず無視し、名前は? どこから来たの? ここで何をしてるの? など、一人でいる子供にする質問セットを目の前の小さなガルカに並べてみるが、明確な返事は返ってこない。 ミスラは困ったように眉根を寄せた。
「……とりあえず、町までは連れて行ってやった方がよくねぇか? ここじゃいつ魔物にやられちまうか」
二人の様子を上から覗き込んでいたシーフが、真面目な調子に戻って言った。
考えるまでもない。 こんな幼く無防備なガルカなど、この山に巣食う凶暴なコウモリやボムに見つかってしまってはひとたまりもないだろう。
「うん――坊や、いいかい? 私達と一緒に、町まで行こうか?」
ミスラがそう訊くと、ガルカは表情を変えないままこくんと頷いた。 判っているのかいないのか微妙な反応だったが――それよりも彼女は、その子の顔が、気になっていた。
子供らしい、まっさらな生命力に満ちた面立ちはどこか眩しい。 しかしその無垢な片頬に、黒い掻き傷のようなものがくっきりと刻まれているのだ。
特に痛そうな様子もなく傷自体はふさがっているようだが、こんな禍々しい色の傷跡を、彼女は見た事がなかった。 歴戦の戦士にあるのならともかく――幼い子供に、こんなものは。
ミスラはその傷跡に何となく目を奪われたまま立ち上がると、促すようにその子の手を取って元来た道を振り返った。 それと同時にシーフの彼も踵を返す。
「――!」
瞬間、二人は息を呑んだ。 幼いガルカにすっかり気を取られていて、すぐ背後に真っ赤なボムが一匹忍び寄っていたのに気付かなかったのだ。
冒険者として十分に鍛え上げられた二人はもうそのモンスターに襲われる事はない。 が、赤子のような小さなガルカは、間違いなく無力な餌食と見なされるはずだ。
「くっ――」
自分の油断を呪いながら、ミスラは素早く背の得物に手をかける。 シーフの彼と二人だけで対処できるだろうか。 倒せない事はないだろう、が、時間がかかってしまう。 万が一自爆でもされれば、自分達はともかくこの子は――
咄嗟にガルカを背に庇い電撃のように思考する彼女と、恐らくは同じ思いで腰から抜いた短剣を構えるシーフの間を――そして、小さなあどけないガルカの正面を。
灼熱するマグマの飛沫のような赤い塊は、実にのんびりと通り抜けていった。
「――――え?」
二人の口がぽかんと開く。 隙なく落とした腰と構えた腕も虚しく、肩越しに振り返る二人に見送られて、ボムは何事もなかったかのようにふらふらと背後の山影へと消えていった。
「……あぁ? あれ? ――おいリズ、この子にプリズムパウダー……って、見えてるよなぁ」
シーフが間の抜けた声で呆然と呟く。 ミスラも言葉をなくして、ボムの消えた先を追っていた視線を幼いガルカに戻した。
近所の野原にでもいるような無防備な表情で子供は彼女を見返す。 無意識だろうか、頬の黒い傷跡をその小さな手が撫でていた。
――偶然、か……? いや――何だろう、この子は……
「――と……にかく、戻ろう。 アッシュ、道中にボムがいないか先行して見とくれ」
「ああ……あいよ」
* * *
「――む? どうした、その子は」
無事に火山の入り口まで戻ってきた彼らを、壮齢のエルヴァーンの驚いたような声が迎えた。
「いやあ……山道に一人でいたんで、危ないから連れて来たんだけどね」
戸惑い顔で答えるミスラ。 ぽりぽりと頭をかきながら、手をつないだ小さなガルカを見下ろす。
「迷子かな?」
「うーん……どうなのかなぁ、何も言ってくれなくってさ……よく判んないんだよねぇ……」
歯切れ悪くぼそぼそとミスラは答える。 と、彼女の手を、そのガルカがぱっと離した。 唐突に、そして初めて自主的に見せた動きに驚くミスラとシーフの見守る視線の中、彼はとことこと歩くと――
「え……えっ? きゃ、何?」
エルヴァーンの後ろから顔を覗かせていたタルタルの少女にまっすぐ近寄り、彼女の服の袖をまるで母親を見つけた幼児のようにきゅっと握ったのだ。
赤みがかった髪を高くお下げにし、輝くような純白の生地に青い刺繍の入ったダブレットを着るタルタルの彼女は、突然の出来事に驚きの悲鳴を上げる。
「およ、何だ何だ、フィオみたいのがタイプか?」
シーフの声が彼女を冷やかす。 握られた袖を振りほどく無情もできず、タルタルの少女は困り果てた顔でおろおろと幼いガルカを見やった。 しかし彼は黙ったまま、子犬が飼い主を見上げるような罪のない瞳でじっと彼女を見つめるばかりだ。
「ふーん……何だろう、なついちまったね」
興味深げにミスラが鼻を鳴らす。 彼女に代わって、エルヴァーンが幼いガルカの傍らにゆっくりと膝をつくと、渋く落ち着いた声で静かに尋ねた。
「坊、名を何と言う」
「…………」
「どこから来た?」
「…………」
「口が利けぬのかな」
「…………」
「帰る所はあるのか?」
と。
四つ目の質問で、初めて彼の黒い瞳が揺れた。 そして。
「……帰る」
「お」
ようやくガルカが発した小さな声に、シーフの彼が軽く嬉しそうな笑みをこぼした。 エルヴァーンが続けて尋ねる。
「そうか、家はどこだね?」
「…………」
しかし小さなガルカは返せる言葉を持たないのか、また口を閉ざした。 ただ、その目がじっと赤毛のタルタルを見つめている。 まるでそれが答えだと言わんばかりの真っ直ぐな瞳に、腰がひけたままの彼女はただおどおどと戸惑うばかりだ。
「ふむ……何にしても、ここに置いては行けないな。 まずはカザムまで連れて帰ってやるとしよう。 フィオ、この子に姿隠しと消音を施してやるといい」
そう言って腰を伸ばすエルヴァーンに、ミスラが思い出したようにぽつりと言った。
「いや――それ、要らないかもしれないんだよね……」
「うん? どういう事だ?」
背の高い三人が言い交わす足元で、タルタルの少女は一向に自分の袖口を離そうとしない小さなガルカを見つめていた。
よくよく見れば、それはとても不思議な瞳だった。 生まれたてのような無垢な輝きの中に、全てを包み込んでしまうような――どこか深い力をたたえている。 その幼い体に不似合いな静けさは、彼の頬に荒々しく走る黒い傷の持つ雰囲気と全く正反対の印象を見る者に与えて。
そんな事を観察する余裕が出てきた赤毛のタルタルの少女。 ようやく警戒の色を少し解くと、首を傾げるようにして小さなガルカの顔を覗き込んだ。
と、彼はついと顔を動かした。 少し眩しそうに上の方を見ている。 つられて彼女も、その視線の先を見た。
炎の山と世界とを繋ぐ、突き抜けるように青い空が、彼らの頭上に広がっていた。
浮かぶ白い雲が時計の短針よりもゆっくりと旅をする。 この大地を隈なく照らしている日輪は何かの証のように高く、しっかりとそこに架かっていた。
幼いガルカの瞳は、遥かなその光景を読み取る。
幼い体に刻まれた傷跡がひっそりと留める、小さな小さな種火。
どこまでも続く広い大空も、わけへだてのない太陽も、目の前の少女の髪の赤い色も。
その熱を呼び覚まし、輝かせる事は、出来はしなかった。
今は、まだ――――――
End