テノリライオン
1ページ目は君と一緒に
最終更新:
corelli
-
view
2008 夏の創作へぼ合戦提出作品 「1ページ目は君と一緒に」
861年、クリスタル戦争勃発。
863年、獣人軍、ジュノより撤退。進路をタブナジアへと定め侵攻開始。 同地壊滅。
同年、アルタナ軍、獣人軍のタブナジア行で手薄となっていたズヴァール城へ進入。ザルカバード会戦始まる。
864年、クリスタル戦争終結宣言。
…………
863年、獣人軍、ジュノより撤退。進路をタブナジアへと定め侵攻開始。 同地壊滅。
同年、アルタナ軍、獣人軍のタブナジア行で手薄となっていたズヴァール城へ進入。ザルカバード会戦始まる。
864年、クリスタル戦争終結宣言。
…………
そんなに歴史が面白いかい、と聞かれた事は一度じゃない。
友達と遊ぶのもそこそこに勉強熱心だねぇ、とも。
けれど僕に言わせれば、この世に歴史以上に面白いものがあるかい、だ。
大体、このタブナジアに住みながら歴史に興味を持たずにいられる事の方が、僕にしてみれば不思議でならなかった。
友達と遊ぶのもそこそこに勉強熱心だねぇ、とも。
けれど僕に言わせれば、この世に歴史以上に面白いものがあるかい、だ。
大体、このタブナジアに住みながら歴史に興味を持たずにいられる事の方が、僕にしてみれば不思議でならなかった。
末は博士か大臣か。褒め言葉なんだろう。けど別に博士にも大臣にもなりたくなんかない。
かと言って農夫やら漁師やらになる気もないけれど。
今はただ単純に、このヴァナ=ディールが変化してきた年月とその過程に興味があるだけなんだ。
かと言って農夫やら漁師やらになる気もないけれど。
今はただ単純に、このヴァナ=ディールが変化してきた年月とその過程に興味があるだけなんだ。
859年、ジュノ公国建国。
クリスタル戦争のただ中、シュ=メーヨ海に面する小さな漁村を苗床に、一夜にして――歴史全体から見ればそれは一晩と言ってもいいくらいの短期間で――ヴァナ=ディールの中心地へと化けた国だ。
クリスタル戦争のただ中、シュ=メーヨ海に面する小さな漁村を苗床に、一夜にして――歴史全体から見ればそれは一晩と言ってもいいくらいの短期間で――ヴァナ=ディールの中心地へと化けた国だ。
「本当に、本当に気をつけて行ってくるんだよ。ジュノに着くまでは、何があってもネネさんの側を離れちゃ絶対にだめ。自分でもちゃんと周囲に気をつけて、いざとなったら荷物は全部捨てて逃げるようにね。本なんか後からいくらでも買えるんだから。ああ、そうそう――」
あわただしく語尾をひきずりながら、まだ何か持たせたいのか母さんは小走りに部屋の奥へと消えていった。
すでに大きく膨らんだ背負い袋はずっしり重い。どうしても手元に置きたい本やノート一式を厳選して納めたのに、それを押しのけるようにぎゅうぎゅうと詰め込まれる下着やら飲み物やら携帯食やら十徳ナイフやらの重みが、出発前から肩に食い込んでいる。
岩肌そのままの壁の向こう、隣の部屋から、ぱたんぱたんと戸棚を開け閉めする音が聞こえてくる。これ以上何を持たされても、もうえんぴつの一本も入らないよ――と言おうとして観念した。ちゃんと手提げ袋を持ってきてる。その中にも早くもこまごまと気遣いのものが詰まっているようで、荷物が多くなったらそれだけ動きづらいじゃないか、なんてとても言える雰囲気じゃなかった。
あわただしく語尾をひきずりながら、まだ何か持たせたいのか母さんは小走りに部屋の奥へと消えていった。
すでに大きく膨らんだ背負い袋はずっしり重い。どうしても手元に置きたい本やノート一式を厳選して納めたのに、それを押しのけるようにぎゅうぎゅうと詰め込まれる下着やら飲み物やら携帯食やら十徳ナイフやらの重みが、出発前から肩に食い込んでいる。
岩肌そのままの壁の向こう、隣の部屋から、ぱたんぱたんと戸棚を開け閉めする音が聞こえてくる。これ以上何を持たされても、もうえんぴつの一本も入らないよ――と言おうとして観念した。ちゃんと手提げ袋を持ってきてる。その中にも早くもこまごまと気遣いのものが詰まっているようで、荷物が多くなったらそれだけ動きづらいじゃないか、なんてとても言える雰囲気じゃなかった。
「うーん、可愛がられてるね」
頭上から機嫌の良さそうな声がした。僕はむっつりと黙って返事をしない。
僕の隣、視線の位置にある、濃い茶色の革鎧に包まれた細いウエスト。その背後から生えてゆらゆらと揺れるやっぱり細い尻尾が、ずっと年下の僕を無言でからかっているようで居心地が悪かった。
尻尾の主のネネは、いそいそと僕らの所に戻ってきた母さんに、人なつこそうな笑顔を浮かべてなだめるように声をかけた。
「お母さんお母さん、お気持ちは判りますがあまりライリス君の荷物を重くしないであげて下さいです。もちろん十分注意はしますけど、やっぱり道中は身軽な方が都合がいいですよ。ちょっとした日用品なら向こうでいくらでも買えるですから」
「あ――ああ、そうですよねぇ、ごめんなさい。よく考えたら手ぬぐいや歯ブラシはなくてもいいわね……うーん……でも、ロスに全部お願いしちゃうのも悪いし、着いたその日にお店が閉まってたら……」
ジュノに着いたら、母さんの弟である叔父さんの家に泊めてもらう事になっている。会った記憶のない大人の家に泊まるのは気が引けるけど、子供の僕が一人で宿に泊まるのは無理だから仕方ない。
「母さん、もう大丈夫だって。未開のジャングルに行くんじゃないんだから、どうとでもなるよ」
人前でいつまでも世話を焼かれるのが恥ずかしくて、つい言い方がついぶっきらぼうになった。ネネが笑う。
「帰りはきっとお土産で荷物がいっぱいになりますですよ。そのスペースを空けておいてあげましょ、お母さん」
余裕の笑顔を絶やさないネネの言葉に、ようやく母さんは手にしたブリキのコップを引っ込めた。
頭上から機嫌の良さそうな声がした。僕はむっつりと黙って返事をしない。
僕の隣、視線の位置にある、濃い茶色の革鎧に包まれた細いウエスト。その背後から生えてゆらゆらと揺れるやっぱり細い尻尾が、ずっと年下の僕を無言でからかっているようで居心地が悪かった。
尻尾の主のネネは、いそいそと僕らの所に戻ってきた母さんに、人なつこそうな笑顔を浮かべてなだめるように声をかけた。
「お母さんお母さん、お気持ちは判りますがあまりライリス君の荷物を重くしないであげて下さいです。もちろん十分注意はしますけど、やっぱり道中は身軽な方が都合がいいですよ。ちょっとした日用品なら向こうでいくらでも買えるですから」
「あ――ああ、そうですよねぇ、ごめんなさい。よく考えたら手ぬぐいや歯ブラシはなくてもいいわね……うーん……でも、ロスに全部お願いしちゃうのも悪いし、着いたその日にお店が閉まってたら……」
ジュノに着いたら、母さんの弟である叔父さんの家に泊めてもらう事になっている。会った記憶のない大人の家に泊まるのは気が引けるけど、子供の僕が一人で宿に泊まるのは無理だから仕方ない。
「母さん、もう大丈夫だって。未開のジャングルに行くんじゃないんだから、どうとでもなるよ」
人前でいつまでも世話を焼かれるのが恥ずかしくて、つい言い方がついぶっきらぼうになった。ネネが笑う。
「帰りはきっとお土産で荷物がいっぱいになりますですよ。そのスペースを空けておいてあげましょ、お母さん」
余裕の笑顔を絶やさないネネの言葉に、ようやく母さんは手にしたブリキのコップを引っ込めた。
* * *
「危ない魔物を避けてゆっくり進むからね。時間かかるかもしれないけど、安全第一」
町の出入り口でもある洞窟じみた岩屋を抜けると、人差し指を立てたネネはそう言ってひょいひょいと歩き出した。
化け物が徘徊しているから、たとえ出来心ででも町を遠く離れてはならないと、タブナジアに暮らす子供はきつくきつく言い渡される。僕は生まれてこの方渡ったことのない吊り橋に一歩を踏み出した。海からの風が頬を撫でる。
町の出入り口でもある洞窟じみた岩屋を抜けると、人差し指を立てたネネはそう言ってひょいひょいと歩き出した。
化け物が徘徊しているから、たとえ出来心ででも町を遠く離れてはならないと、タブナジアに暮らす子供はきつくきつく言い渡される。僕は生まれてこの方渡ったことのない吊り橋に一歩を踏み出した。海からの風が頬を撫でる。
「……ねえ、ジュノへは何のお勉強に行くの?」
揺れる橋の真ん中で、不意に振り向いたネネが訊いた。赤茶けた髪の上に乗った三角の耳が、会話を誘うようにひょこひょこと動いている。
「お勉強ってわけじゃないです。ただ、タブナジアにはない記録とか、歴史関係の本を読みに行きたいだけで――」
何となしに逸らした視線が、うっかり谷底を覗いてしまった。息が止まる。
「歴史関係。ふぅん。そういう本、面白い?」
そんな僕に気付かず、歌うような声は速度を落とす事なく、まっすぐに橋を進んでいく。
「…………面白い、ですけど」
答え飽きた言葉が喉に絡んだ。
吊り橋はタブナジアにもあったけれど、ここは高さが全然違う。地下壕の中に渡された吊り橋は周囲を回廊に囲まれていて、いつでも誰かが橋を見ていた。落下防止のロープは網目みたいに巡らされていたし、吹き付けて床板をきしませる風も、落ちたら最後呑み込まれて海まで流されそうな川もなかった。ごきゅ、と喉が鳴る。恐く……はない、けど、早く土が踏みたい。
面白いのかぁそうかぁ、なんて独り言のように呟くネネの声が、僕を先導していく。
「でもさ、そういう本なら、サンドリアとかウィンダスの方がいっぱいあったりしない? 古い国には古い本。新しい国には新しい本。そんな気するけど?」
「……歴史の記録って言ったって、全部が全部古いものばっかりじゃないですよ」
ようやくたどり着いた対岸に正直ほっとしながら、僕は喋るための空気を腹いっぱいに吸い込む。
「僕はジュノにある本が読みたいんです。古い書物ってのは書かれてから沢山時間が経ってるから、その間に何冊も複写されてます。だから手に入る機会も多いけど、それは逆に言えば最近書かれた本はあまり世間に出回ってないってことです」
言いながら、前を行くネネの斜め後ろを歩く。彼女が背負う板みたいに大きく長い剣の鞘が、きしきしと音を立てていた。
僕の話を聞いているのかいないのか、歩くネネは話を振ったっきり前を向いたままだ。ゆっくり進むと言いながら、足取りが速くなったり遅くなったりする。その歩調に合わせるのに苦労して、初めてタブナジアを離れた瞬間だというのに、僕は周囲の景色を眺めるヒマもなかった。
ただ風が涼しい。草とか土とか海とか、いろんな匂いの混じった風が惜しげもなく吹いていく。
ちらりと後ろを振り返ると、故郷へ続く岸壁も、そこから伸びていた吊り橋もとっくに見えなくなっていた。
揺れる橋の真ん中で、不意に振り向いたネネが訊いた。赤茶けた髪の上に乗った三角の耳が、会話を誘うようにひょこひょこと動いている。
「お勉強ってわけじゃないです。ただ、タブナジアにはない記録とか、歴史関係の本を読みに行きたいだけで――」
何となしに逸らした視線が、うっかり谷底を覗いてしまった。息が止まる。
「歴史関係。ふぅん。そういう本、面白い?」
そんな僕に気付かず、歌うような声は速度を落とす事なく、まっすぐに橋を進んでいく。
「…………面白い、ですけど」
答え飽きた言葉が喉に絡んだ。
吊り橋はタブナジアにもあったけれど、ここは高さが全然違う。地下壕の中に渡された吊り橋は周囲を回廊に囲まれていて、いつでも誰かが橋を見ていた。落下防止のロープは網目みたいに巡らされていたし、吹き付けて床板をきしませる風も、落ちたら最後呑み込まれて海まで流されそうな川もなかった。ごきゅ、と喉が鳴る。恐く……はない、けど、早く土が踏みたい。
面白いのかぁそうかぁ、なんて独り言のように呟くネネの声が、僕を先導していく。
「でもさ、そういう本なら、サンドリアとかウィンダスの方がいっぱいあったりしない? 古い国には古い本。新しい国には新しい本。そんな気するけど?」
「……歴史の記録って言ったって、全部が全部古いものばっかりじゃないですよ」
ようやくたどり着いた対岸に正直ほっとしながら、僕は喋るための空気を腹いっぱいに吸い込む。
「僕はジュノにある本が読みたいんです。古い書物ってのは書かれてから沢山時間が経ってるから、その間に何冊も複写されてます。だから手に入る機会も多いけど、それは逆に言えば最近書かれた本はあまり世間に出回ってないってことです」
言いながら、前を行くネネの斜め後ろを歩く。彼女が背負う板みたいに大きく長い剣の鞘が、きしきしと音を立てていた。
僕の話を聞いているのかいないのか、歩くネネは話を振ったっきり前を向いたままだ。ゆっくり進むと言いながら、足取りが速くなったり遅くなったりする。その歩調に合わせるのに苦労して、初めてタブナジアを離れた瞬間だというのに、僕は周囲の景色を眺めるヒマもなかった。
ただ風が涼しい。草とか土とか海とか、いろんな匂いの混じった風が惜しげもなく吹いていく。
ちらりと後ろを振り返ると、故郷へ続く岸壁も、そこから伸びていた吊り橋もとっくに見えなくなっていた。
――あの土地が嫌いなんじゃない。ただ僕らが、どうしてあんな日も風もろくに入らない地下壕に暮らさなければならなかったのか。それは誰のせいだったのか。そういう事が、歴史をぜんぶ紐解いたら判るはずなんだ――
「……本が来るのを待ってられないんです。タブナジアにある本だけじゃ追いつかない。行商の人に頼んだってなかなか来ない。大体図書館が無いんだ。それじゃ陸の孤島と同じだよ」
不意にネネの手が僕の背を軽く押した。また少し足早になる彼女と、すぐ横に伸びる岩肌に左右を挟まれる格好で、僕は小走りにその先に続く小径へと入った。
目の前を大きなハチが飛んでいる。こいつは町の入口近くにもいる奴なので、気にせず歩いて横を通りすぎた。ネネが僕の方を向いて言う。
「知的好奇心、ってやつだね。でも、陸の孤島って事はないと思うよ? 人、いるでしょ?」
「そりゃいるけど。小さい町だし、いつも見るのは同じ顔ばっかりです。勉強を教えてくれるのだって町の大人が持ち回りだし。なんかこう、新鮮味がないんですよ」
んー、そうかぁ、とネネは何だか寂しげな声で言った。
不意にネネの手が僕の背を軽く押した。また少し足早になる彼女と、すぐ横に伸びる岩肌に左右を挟まれる格好で、僕は小走りにその先に続く小径へと入った。
目の前を大きなハチが飛んでいる。こいつは町の入口近くにもいる奴なので、気にせず歩いて横を通りすぎた。ネネが僕の方を向いて言う。
「知的好奇心、ってやつだね。でも、陸の孤島って事はないと思うよ? 人、いるでしょ?」
「そりゃいるけど。小さい町だし、いつも見るのは同じ顔ばっかりです。勉強を教えてくれるのだって町の大人が持ち回りだし。なんかこう、新鮮味がないんですよ」
んー、そうかぁ、とネネは何だか寂しげな声で言った。
* * *
昼過ぎにルフェーゼ野を抜け、陽差しの強いバルクルム砂丘に出てからは、ネネのチョコボの後ろに乗せてもらった。
木の幹みたいにごつごつした足をした黄色くて大きな鳥は、間近で本物を見るのも初めてだったから少し恐くて、走り出してからはその揺れが激しいのに驚いて。
景色はびゅんびゅん過ぎ去って行った。まるでぱらぱらとめくるページみたいに何が見えているのかほとんど判らないまま、ジュノに着くまで僕は、彼女の鎧の突起にしがみついているのが精一杯だった。
木の幹みたいにごつごつした足をした黄色くて大きな鳥は、間近で本物を見るのも初めてだったから少し恐くて、走り出してからはその揺れが激しいのに驚いて。
景色はびゅんびゅん過ぎ去って行った。まるでぱらぱらとめくるページみたいに何が見えているのかほとんど判らないまま、ジュノに着くまで僕は、彼女の鎧の突起にしがみついているのが精一杯だった。
* * *
じゃあまた、一ヶ月後にね。
ネネは笑顔でそう言うと、僕と叔父さんに手を振りながらあっさりと雑踏の中に消えていった。
「さ、疲れたろうライリス。お前の使う部屋は片付けてあるから、荷物を置いてきな。階段を上がって一番奥だ、好きに散らかしていいぞ――」
叔父さんの声が、これから厄介になる家の、その入口に面した大通りを満たす喧噪に混じってぼやける。
ネネは笑顔でそう言うと、僕と叔父さんに手を振りながらあっさりと雑踏の中に消えていった。
「さ、疲れたろうライリス。お前の使う部屋は片付けてあるから、荷物を置いてきな。階段を上がって一番奥だ、好きに散らかしていいぞ――」
叔父さんの声が、これから厄介になる家の、その入口に面した大通りを満たす喧噪に混じってぼやける。
もちろん噂には聞いていた。でも戦争直後に比べるといくらか人口も減って静かな街になったと言われていたから、まさかこんな賑わいは想像していなかった。
ロランベリー耕地を抜けた先に架かるヘブンスブリッジ。長旅を共にしたネネのチョコボを降りてその大橋を渡り終えると、やおら雷のような怒号が僕の耳を叩いた。それは通りに立つ岩山のようなガルカが発したもので、どうやら待ち合わせに遅れてきた仲間を大声で呼んだものらしかった。
憧れのジュノに第一歩を記すなり固まっていた僕の手をネネが取り、こっちだよ、と言って引く。訳もわからず歩き出すと、さっきまで僕が立ち尽くしていた所を、どやどやと数人の男女が駆け抜けていった。全員鉄板の塊のような鎧を着込んでいて、まるで荷を満載した荷車が近くを通りすぎたような騒音が響いた。
どこからか笑い声が聞こえる。どっちを見ても、常に何かが動いている。これで「静かになった」と言うんなら、全盛期のこの街は一体どんな密度で動いていたんだろう。冷たくてちょっとしょっぱい風だけが、ここが故郷の野原と同じ、海に近い街なんだと教えてくれる。
ネネはまったく慣れたふうで、巧みに人と人の間を縫って進む。僕はと言えばまるでおのぼりさんで――だって、こんなに広い場所にこんなに沢山の人がいるなんて初めてだったんだ――ただネネに引っ張られるがまま歩き、舗装された道の滑らかさに興奮しながらきょろきょろと周囲を見わたし、気がつけば叔父さんの家に着いていて、ネネと叔父さんがあれこれ挨拶をするのをぼんやりと聞き、じゃあねと手を振る彼女の背中を見失ったところだ。
ロランベリー耕地を抜けた先に架かるヘブンスブリッジ。長旅を共にしたネネのチョコボを降りてその大橋を渡り終えると、やおら雷のような怒号が僕の耳を叩いた。それは通りに立つ岩山のようなガルカが発したもので、どうやら待ち合わせに遅れてきた仲間を大声で呼んだものらしかった。
憧れのジュノに第一歩を記すなり固まっていた僕の手をネネが取り、こっちだよ、と言って引く。訳もわからず歩き出すと、さっきまで僕が立ち尽くしていた所を、どやどやと数人の男女が駆け抜けていった。全員鉄板の塊のような鎧を着込んでいて、まるで荷を満載した荷車が近くを通りすぎたような騒音が響いた。
どこからか笑い声が聞こえる。どっちを見ても、常に何かが動いている。これで「静かになった」と言うんなら、全盛期のこの街は一体どんな密度で動いていたんだろう。冷たくてちょっとしょっぱい風だけが、ここが故郷の野原と同じ、海に近い街なんだと教えてくれる。
ネネはまったく慣れたふうで、巧みに人と人の間を縫って進む。僕はと言えばまるでおのぼりさんで――だって、こんなに広い場所にこんなに沢山の人がいるなんて初めてだったんだ――ただネネに引っ張られるがまま歩き、舗装された道の滑らかさに興奮しながらきょろきょろと周囲を見わたし、気がつけば叔父さんの家に着いていて、ネネと叔父さんがあれこれ挨拶をするのをぼんやりと聞き、じゃあねと手を振る彼女の背中を見失ったところだ。
「――だからな……おい、聞いてるか? ライリス?」
ぼん、と背中を叩かれて、僕ははっと我に返る。髭もじゃの叔父さんの顔が、可笑しそうに笑いながら僕を覗き込んでいた。
「はは、やっぱりくたびれてるな。慣れないとチョコボ乗りもしんどいだろう。それともジュノの街並みが珍しいか?」
叔父さんに自分の状態を教えられても、僕の目と耳は新しい町並みから剥がれない。
「よしよし、まずは上がった上がった、そのやたらと大きな荷物を下ろせ」
まるで熊みたいに体格のいい叔父さんは、のしのしと僕を押すようにして家に招き入れた。後ろで扉がばたんと閉まって、通りのざわめきが遠くなる。
「今日は俺もかみさんも仕事だから、俺ももう一度仕事先に顔を出してこなきゃならんが、その前にとりあえず図書館だけは案内してやるな。夕方すぎには二人とも戻るから、それまでにはここに帰ってくるんだぞ。ほれ、そこが階段だ」
そう言いながら指差された先にある細い階段を促されるままに昇ろうとして、僕はまだ叔父さんに挨拶すらしていない事に気づき、慌てて振り返った。
はじめましてとお辞儀をする僕に、叔父さんは大声で笑いながら、大きくなったなぁ、と言った。
僕だけがはじめましてだった。叔父さんとも、この街とも。
ぼん、と背中を叩かれて、僕ははっと我に返る。髭もじゃの叔父さんの顔が、可笑しそうに笑いながら僕を覗き込んでいた。
「はは、やっぱりくたびれてるな。慣れないとチョコボ乗りもしんどいだろう。それともジュノの街並みが珍しいか?」
叔父さんに自分の状態を教えられても、僕の目と耳は新しい町並みから剥がれない。
「よしよし、まずは上がった上がった、そのやたらと大きな荷物を下ろせ」
まるで熊みたいに体格のいい叔父さんは、のしのしと僕を押すようにして家に招き入れた。後ろで扉がばたんと閉まって、通りのざわめきが遠くなる。
「今日は俺もかみさんも仕事だから、俺ももう一度仕事先に顔を出してこなきゃならんが、その前にとりあえず図書館だけは案内してやるな。夕方すぎには二人とも戻るから、それまでにはここに帰ってくるんだぞ。ほれ、そこが階段だ」
そう言いながら指差された先にある細い階段を促されるままに昇ろうとして、僕はまだ叔父さんに挨拶すらしていない事に気づき、慌てて振り返った。
はじめましてとお辞儀をする僕に、叔父さんは大声で笑いながら、大きくなったなぁ、と言った。
僕だけがはじめましてだった。叔父さんとも、この街とも。
* * *
一週間があっという間に過ぎた。
僕は望みどおり、図書館と叔父さんの家とを往復する毎日を過ごす。
図書館では面白い本を何冊も見つけた。型にはまった教科書のような文献ばかりだったタブナジアと違い、聞いたこともない地名で埋まった書物や輸入物らしき珍しい図鑑から、何だこりゃと思うような奇天烈な雑誌まで、そりゃもう無秩序で奇天烈な品揃えだった。何しろ、一度棚から抜いてそこから離れたら、もうそれをどこに返していいか判らなくなるほどだ。
最初はタブナジアと戦争の事についての新しい記録や読み物を探すつもりで、お母さんに一ヶ月のジュノ行きを許してもらったけれど。それ以外にも興味を引かれるものがたくさんあって、僕は少し焦りを感じていた。
……ひと月で、帰れるだろうか。
僕は望みどおり、図書館と叔父さんの家とを往復する毎日を過ごす。
図書館では面白い本を何冊も見つけた。型にはまった教科書のような文献ばかりだったタブナジアと違い、聞いたこともない地名で埋まった書物や輸入物らしき珍しい図鑑から、何だこりゃと思うような奇天烈な雑誌まで、そりゃもう無秩序で奇天烈な品揃えだった。何しろ、一度棚から抜いてそこから離れたら、もうそれをどこに返していいか判らなくなるほどだ。
最初はタブナジアと戦争の事についての新しい記録や読み物を探すつもりで、お母さんに一ヶ月のジュノ行きを許してもらったけれど。それ以外にも興味を引かれるものがたくさんあって、僕は少し焦りを感じていた。
……ひと月で、帰れるだろうか。
それにしても不思議なのは、こんなにも色々な本があるというのに、図書館がいつも無人だという事だ。
一歩外に出れば、初めて着いた日に僕を驚かせた雑多で賑やかな人通りがある。けれど、その人々は一人としてここにやってこないのだ。
通りを行くその人々は「冒険者」と呼ばれる人種。僕が知っているのはそれだけだった。
勿論、タブナジアにも彼らは出入りしていた。その一人がネネで、お母さんが彼女に僕の護送を「依頼」したのだから。でも僕の方はこれまで「冒険者」たちと話をしたり、交流を持った事は実は一度もなかった。
別に嫌っていたとか避けていたとかじゃない。入れ替わり立ち替わり現れる彼らはいつも忙しげで――理由は判らないけれど――この地下壕は単なる通過点だとでも言わんばかりに、ひょいと現れてはすぐに去っていく、影のような風景のような存在だったのだ。
一歩外に出れば、初めて着いた日に僕を驚かせた雑多で賑やかな人通りがある。けれど、その人々は一人としてここにやってこないのだ。
通りを行くその人々は「冒険者」と呼ばれる人種。僕が知っているのはそれだけだった。
勿論、タブナジアにも彼らは出入りしていた。その一人がネネで、お母さんが彼女に僕の護送を「依頼」したのだから。でも僕の方はこれまで「冒険者」たちと話をしたり、交流を持った事は実は一度もなかった。
別に嫌っていたとか避けていたとかじゃない。入れ替わり立ち替わり現れる彼らはいつも忙しげで――理由は判らないけれど――この地下壕は単なる通過点だとでも言わんばかりに、ひょいと現れてはすぐに去っていく、影のような風景のような存在だったのだ。
静かな図書館の窓際に陣取り、僕は昨日の本の続きを読んでいた。
たまにページから目を離して、窓の外を見下ろす。岩屋の中のタブナジアではこんな本の読み方はできなかった事に気づいてから、ここは僕の指定席だった。まぁ、わざわざ指定してみたところで、僕の他には人っ子一人いないのだけれど。
そろそろお腹が空いたなぁ、とぼんやり通りを眺め下ろしていると、石畳を行く金髪の女の人と目が合った。何だかやたらと軽装な彼女は、僕を見てにこっと微笑む。僕が目を丸くしていると、女の人はそのまま踊るようにどこかへ行ってしまった。
日光に映える金色の髪が、本に目を戻してもしばらく脳裏から離れなかった。
たまにページから目を離して、窓の外を見下ろす。岩屋の中のタブナジアではこんな本の読み方はできなかった事に気づいてから、ここは僕の指定席だった。まぁ、わざわざ指定してみたところで、僕の他には人っ子一人いないのだけれど。
そろそろお腹が空いたなぁ、とぼんやり通りを眺め下ろしていると、石畳を行く金髪の女の人と目が合った。何だかやたらと軽装な彼女は、僕を見てにこっと微笑む。僕が目を丸くしていると、女の人はそのまま踊るようにどこかへ行ってしまった。
日光に映える金色の髪が、本に目を戻してもしばらく脳裏から離れなかった。
お昼ご飯を食べに、一度家に帰ることにする。
図書館はジュノの上層区域にあるので、僕は借りた本を五冊ほど抱え、家のある下層へと繋がる大きな螺旋階段を降りていた。本に邪魔されて足元がよく見えない。
「うわ……っと」
注意して降りていたつもりが、やっぱり段の途中で蹴躓いて本を落としてしまった。大判の本がばさっと足の下に開いて、それを踏んでしまわないように僕は慌てて手すりにしがみつく。
「おっと、大丈夫?」
と、すぐ横から声がした。見ると、何だか看板みたいな斧を背負ったタルタルの人が、僕がばらまいた本を拾ってくれていた。
タルタル族は大人になっても、ヒュームの子供の僕ほどにも背が大きくならない。だから初対面だと年齢が読めなくて、どういう風に接していいかわからないと、いつも思っていた。突然の親切に何と言葉を返すべきか、僕が一瞬戸惑っていると。
「はい、気を付けなよ。足とか痛めてない?」
彼の方はごく自然に、手早く重ねた本を僕に差し出してくれた。僕がもてあましていた大きな本も、僕より短い腕で軽々と持ち上げている。
「あ……はい、大丈夫です。ありがとう、ございます」
「ん」
ちょっとたどたどしく礼を言うと、タルタルは一つ頷いて、急ぐふうもなく飄々と去っていった。
僕はその姿を見送ってから本を抱え直し、螺旋階段の最後の段を降りた。
図書館はジュノの上層区域にあるので、僕は借りた本を五冊ほど抱え、家のある下層へと繋がる大きな螺旋階段を降りていた。本に邪魔されて足元がよく見えない。
「うわ……っと」
注意して降りていたつもりが、やっぱり段の途中で蹴躓いて本を落としてしまった。大判の本がばさっと足の下に開いて、それを踏んでしまわないように僕は慌てて手すりにしがみつく。
「おっと、大丈夫?」
と、すぐ横から声がした。見ると、何だか看板みたいな斧を背負ったタルタルの人が、僕がばらまいた本を拾ってくれていた。
タルタル族は大人になっても、ヒュームの子供の僕ほどにも背が大きくならない。だから初対面だと年齢が読めなくて、どういう風に接していいかわからないと、いつも思っていた。突然の親切に何と言葉を返すべきか、僕が一瞬戸惑っていると。
「はい、気を付けなよ。足とか痛めてない?」
彼の方はごく自然に、手早く重ねた本を僕に差し出してくれた。僕がもてあましていた大きな本も、僕より短い腕で軽々と持ち上げている。
「あ……はい、大丈夫です。ありがとう、ございます」
「ん」
ちょっとたどたどしく礼を言うと、タルタルは一つ頷いて、急ぐふうもなく飄々と去っていった。
僕はその姿を見送ってから本を抱え直し、螺旋階段の最後の段を降りた。
ジュノの「冒険者」は、どこかのんびりしている。まるで彼らこそがここの住人みたいだ――
夕食の席でそんな疑問を叔母にぶつけてみると、あらそうよ、という答えが返ってきた。
「この街の半分は冒険者で出来ていると言っても過言ではないわね。家があって住んでる訳じゃないけど、専用の寄宿舎にずっと滞在している人も多いわよ。他国への交通の便がいいとかモノの流通が盛んとか、理由は色々あるけどね」
「ふぅん……なんか、普通の生活じみてるね」
僕がそう呟くと、叔母はころころと笑って言った。
「そりゃそうよ。みんな生きて、生活してるんだもの」
夕食の席でそんな疑問を叔母にぶつけてみると、あらそうよ、という答えが返ってきた。
「この街の半分は冒険者で出来ていると言っても過言ではないわね。家があって住んでる訳じゃないけど、専用の寄宿舎にずっと滞在している人も多いわよ。他国への交通の便がいいとかモノの流通が盛んとか、理由は色々あるけどね」
「ふぅん……なんか、普通の生活じみてるね」
僕がそう呟くと、叔母はころころと笑って言った。
「そりゃそうよ。みんな生きて、生活してるんだもの」
* * *
ジュノ滞在も二週間を越え、それなりの量の本を読み終えていく中、僕の中で一つの「違和感」が頭をもたげていた。
薄い紙が一枚、また一枚と重なる速度で積もっていくそれは、千夜一夜の厚さになる前に僕の口からこぼれる。
「……結局、『誰』が、動いたんだ……?」
薄い紙が一枚、また一枚と重なる速度で積もっていくそれは、千夜一夜の厚さになる前に僕の口からこぼれる。
「……結局、『誰』が、動いたんだ……?」
シャマンド教皇の背信疑惑。「語り部」の不在騒動。トライマライ水路の解放。
クリスタル戦争の終焉を境にして以降、世に起きた事柄の記録が奇妙に曖昧になってくるのだ。一言で言えば、「功労者の不在」だ。
まだ事が終わってから日が浅くて調査しきれていないとか、何か「大人の都合」が割り込んで削除されているとか、そういう理由によるぼやけ方じゃ、多分、ない。
例えば、サンドリア東西二王朝時代の幕を閉じたのは、東サンドリアのランペール王とその麾下のラストドラグーン、エルパラシオンの働きによるものとはっきり書かれている。バストゥークの鎖死病を鎮めたのはその撲滅のために設立された錬金術ギルドの功績だし、召還術を世に出したのはウインダスのカラハバルハだ。それら事柄を成し遂げたのが誰だったのか、書物にはちゃんと記録されている。
けれどこれが近年の事件になった途端、そういった記述の多くが抜け落ち始めるのだ。
「アルテパ砂漠――ゼプウェル島への地下道踏破と解禁。トゥー・リアの発見。デム・ホラ・メアの塔の、テレポイントクリスタルの破壊――」
誰が関与した、という個人名はちらほらと出てくる。海賊の頭領ギルガメッシュの水面下での動きや、ウィンダスを統べる星の御子による介入など。でもそれはあくまで「関与した」というレベルの話で、ではそれらを実際に成し遂げたのが「誰」であるのか、という段に来ると、記述はとたんにうやむやになってしまい、最終的にこうなった、という事象だけが羅列されてことごとく煙に巻かれる。
「何でだろう――おかしいよ、これ」
クリスタル戦争の終焉を境にして以降、世に起きた事柄の記録が奇妙に曖昧になってくるのだ。一言で言えば、「功労者の不在」だ。
まだ事が終わってから日が浅くて調査しきれていないとか、何か「大人の都合」が割り込んで削除されているとか、そういう理由によるぼやけ方じゃ、多分、ない。
例えば、サンドリア東西二王朝時代の幕を閉じたのは、東サンドリアのランペール王とその麾下のラストドラグーン、エルパラシオンの働きによるものとはっきり書かれている。バストゥークの鎖死病を鎮めたのはその撲滅のために設立された錬金術ギルドの功績だし、召還術を世に出したのはウインダスのカラハバルハだ。それら事柄を成し遂げたのが誰だったのか、書物にはちゃんと記録されている。
けれどこれが近年の事件になった途端、そういった記述の多くが抜け落ち始めるのだ。
「アルテパ砂漠――ゼプウェル島への地下道踏破と解禁。トゥー・リアの発見。デム・ホラ・メアの塔の、テレポイントクリスタルの破壊――」
誰が関与した、という個人名はちらほらと出てくる。海賊の頭領ギルガメッシュの水面下での動きや、ウィンダスを統べる星の御子による介入など。でもそれはあくまで「関与した」というレベルの話で、ではそれらを実際に成し遂げたのが「誰」であるのか、という段に来ると、記述はとたんにうやむやになってしまい、最終的にこうなった、という事象だけが羅列されてことごとく煙に巻かれる。
「何でだろう――おかしいよ、これ」
こういう記録というのは、正しい正しくないはともかく、はっきり書かれている事に意味がある。そう思ってきた僕にとって、この状況は予想通りとはとても言えなかった。
「……記録がある以上、少しでも世に知られた人物が働いたんなら、その名が残っているはずなのに……」
書物を通じて僕の目の前に展開してきた史実たち。それを切り開いてきた人々はいつでも、羨望の眼差しを照り返すような名前を持っていた。
戦王アシュファーグ。鉄腕マイヤー。猛将ルンゴナンゴ。人間の歴史は、人間が動かさなければ動かない。
「何だろう。特定できない……? 記録できないような誰かが働いてるのか……名もない――名前も判らない――」
僕の唸りは机の上をさまよい、午後の図書室の静けさに吸い込まれて消えていく。
ふと、何かから取り残されたような心細さ。目の前に開くページの白さはそのままなのに、まるで信号の色が真逆になったように、どこかよそよそしく感じられる錯覚を覚える。
小さく息をついて背中を伸ばし、僕はいつもの窓から外を見た。もう見慣れた、大通りの光景。何十人という人々が、何百種類という装備を身につけて、延々と行き交っている。
どこから来て、どこへ行くのか。その行く先々で、何をしているのか。僕の全く知らない――
「……記録がある以上、少しでも世に知られた人物が働いたんなら、その名が残っているはずなのに……」
書物を通じて僕の目の前に展開してきた史実たち。それを切り開いてきた人々はいつでも、羨望の眼差しを照り返すような名前を持っていた。
戦王アシュファーグ。鉄腕マイヤー。猛将ルンゴナンゴ。人間の歴史は、人間が動かさなければ動かない。
「何だろう。特定できない……? 記録できないような誰かが働いてるのか……名もない――名前も判らない――」
僕の唸りは机の上をさまよい、午後の図書室の静けさに吸い込まれて消えていく。
ふと、何かから取り残されたような心細さ。目の前に開くページの白さはそのままなのに、まるで信号の色が真逆になったように、どこかよそよそしく感じられる錯覚を覚える。
小さく息をついて背中を伸ばし、僕はいつもの窓から外を見た。もう見慣れた、大通りの光景。何十人という人々が、何百種類という装備を身につけて、延々と行き交っている。
どこから来て、どこへ行くのか。その行く先々で、何をしているのか。僕の全く知らない――
「――――名前の、ない者……」
と、ぱたぱた、と足音。
「あ、いたいた。ひさしぶりー」
唐突に投げかけられた明るい声に、僕は不意を突かれてびくんと飛び上がる。慌ててその方を振り返ると、立ち並ぶ本棚の間を抜けてやってくるネネの姿があった。次に彼女と会うのはタブナジアに帰るとき、と心していた僕は面喰らう。
「え……何、まだひと月は――」
経ってないよー、とあっけらかんと言い放つネネ。相変わらずの無防備で人なつこい笑顔が眩しい。
「いや、そこの道を通ったらさ、窓際にライリス君のお顔が見えたから。元気かなと思って、上がってきてみましたのです」
おどけたように言うネネだったけれど、僕は彼女の言葉よりも、その出で立ちに茫然と目を見張っていた。
しなやかな革鎧。腕当てに脛当て。額に巻かれた金板。
そのどれもこれもが、大小さまざまな傷で覆われていたのだ。引っ掻き傷なんてものじゃない。ざっくりと革をえぐり、あちこちヒビが入ってもいる。特に肩口の防具は損傷がひどく、左肩などはその半分が無惨にも欠けてしまっていた。
ちょっとそこらの階段で転びました、なんてレベルでは明らかにない傷痕が。何者かが、故意に、そうしようと思って繰り返しつけなければつくはずのない――凶刃の、跡が。
そんな激しい傷をいっぱいに受けて、その中身が完全に無傷で済むはずがない。鎧の隙間やあえて剥き出しの部分、彼女の体そのものにも所々、切り傷を治療した跡のようなものが見られた。防具の所々に、赤黒いシミ――
「ネネ……さん、どうしたの、それ――」
「んー? ああ、これ?」
思わず眉根を寄せる僕の低い声に、ネネは事もなさげに答える。
「えーと、話したら長いけど。ちょっと頑張って、異国のお姫さまを助けてきましたよ」
金髪のかーわいいお姫さまだったー、とネネは小さな八重歯を見せる。
「あ、いたいた。ひさしぶりー」
唐突に投げかけられた明るい声に、僕は不意を突かれてびくんと飛び上がる。慌ててその方を振り返ると、立ち並ぶ本棚の間を抜けてやってくるネネの姿があった。次に彼女と会うのはタブナジアに帰るとき、と心していた僕は面喰らう。
「え……何、まだひと月は――」
経ってないよー、とあっけらかんと言い放つネネ。相変わらずの無防備で人なつこい笑顔が眩しい。
「いや、そこの道を通ったらさ、窓際にライリス君のお顔が見えたから。元気かなと思って、上がってきてみましたのです」
おどけたように言うネネだったけれど、僕は彼女の言葉よりも、その出で立ちに茫然と目を見張っていた。
しなやかな革鎧。腕当てに脛当て。額に巻かれた金板。
そのどれもこれもが、大小さまざまな傷で覆われていたのだ。引っ掻き傷なんてものじゃない。ざっくりと革をえぐり、あちこちヒビが入ってもいる。特に肩口の防具は損傷がひどく、左肩などはその半分が無惨にも欠けてしまっていた。
ちょっとそこらの階段で転びました、なんてレベルでは明らかにない傷痕が。何者かが、故意に、そうしようと思って繰り返しつけなければつくはずのない――凶刃の、跡が。
そんな激しい傷をいっぱいに受けて、その中身が完全に無傷で済むはずがない。鎧の隙間やあえて剥き出しの部分、彼女の体そのものにも所々、切り傷を治療した跡のようなものが見られた。防具の所々に、赤黒いシミ――
「ネネ……さん、どうしたの、それ――」
「んー? ああ、これ?」
思わず眉根を寄せる僕の低い声に、ネネは事もなさげに答える。
「えーと、話したら長いけど。ちょっと頑張って、異国のお姫さまを助けてきましたよ」
金髪のかーわいいお姫さまだったー、とネネは小さな八重歯を見せる。
何のことを言っているのか判らない。けど、その異国とやらでどんな事をしてきたのかは、彼女の姿が余すところなく語り尽くしていた。そしてそれが、どんな書物にも載ってないであろう事も。
本のぺージに触れていた手がこわばる。今まで後生大事に抱えてきたその紙の束が、急速に力を失っていくような感覚。それと入れ替わりに、暗闇の向こうから鋭く尖ったものを突き付けられているような、突然現れた大きな扉が今にも開くような、そんな熱いイメージが僕を襲った。
いつまでも表情を緩めない僕の様子を何と取ったのか、ネネはからりと話題を変えるように僕の手元を覗き込んで言った。嗅いだことのない匂いが鼻先をかすめる。
「ん、今日は何の本を読んでるのかな? お国の事、何か判った?」
その時開いていたページは、たまたまタブナジア関連の内容ではなかった。僕は何故かそれを恥ずかしいと感じて、慌てて乱暴にページをめくってしまい――
「――、たっ」
本のぺージに触れていた手がこわばる。今まで後生大事に抱えてきたその紙の束が、急速に力を失っていくような感覚。それと入れ替わりに、暗闇の向こうから鋭く尖ったものを突き付けられているような、突然現れた大きな扉が今にも開くような、そんな熱いイメージが僕を襲った。
いつまでも表情を緩めない僕の様子を何と取ったのか、ネネはからりと話題を変えるように僕の手元を覗き込んで言った。嗅いだことのない匂いが鼻先をかすめる。
「ん、今日は何の本を読んでるのかな? お国の事、何か判った?」
その時開いていたページは、たまたまタブナジア関連の内容ではなかった。僕は何故かそれを恥ずかしいと感じて、慌てて乱暴にページをめくってしまい――
「――、たっ」
しゅっというかすかな音。一拍遅れて、指先に鋭い感覚が走った。僕は反射的に本から手を引く。人差し指の腹に、見る間にぷくりと赤い玉が浮かんだ。
「いた――」
紅色が目に焼きつく。糸のように細い傷。そこから、ぶつけた時や擦り傷とは違う、皮膚の下の深い所から訴える、響くような痛みがじんじんと疼いて――痛い。いたい。
「いた――」
紅色が目に焼きつく。糸のように細い傷。そこから、ぶつけた時や擦り傷とは違う、皮膚の下の深い所から訴える、響くような痛みがじんじんと疼いて――痛い。いたい。
――でも。この傷は、つい最近ネネが負ったであろうどの傷よりも小さいのだ。彼女の鎧に刻まれた溝は僕のてのひらよりも大きいし、彼女の肩当ての欠けた部分は僕の顔ほどもある。
なのにそれでも僕には耐え難い、ひきつれるような痛みに、思わず指を曲げる。と、傷口が開いたのか、血の塊が大きくなってつっと指をつたった。
なのにそれでも僕には耐え難い、ひきつれるような痛みに、思わず指を曲げる。と、傷口が開いたのか、血の塊が大きくなってつっと指をつたった。
「おっと」
咄嗟に上がった声はネネのものだった。
彼女の手が、僕の人差し指を取った。血の雫が彼女の指に流れて止まる。
「――っ!!」
そしてそのまま。流れるような動作で、ネネの舌が僕の傷口を舐めて取った。
ほんの指先のことなのにその温かい感触は全身を駆け巡り、鳥肌と一緒の震えとなって僕をすくみ上がらせる。ネネは僕の指を軽くくわえたまま、慣れた手つきで腰のポーチからガーゼとテープのようなものを取り出した。
白いガーゼで僕の指を拭き、小さく切り取ったテープを傷口にぺたりと貼ってくれるまで、僕はがちがちに固まったまま声も上げられずにいた。
咄嗟に上がった声はネネのものだった。
彼女の手が、僕の人差し指を取った。血の雫が彼女の指に流れて止まる。
「――っ!!」
そしてそのまま。流れるような動作で、ネネの舌が僕の傷口を舐めて取った。
ほんの指先のことなのにその温かい感触は全身を駆け巡り、鳥肌と一緒の震えとなって僕をすくみ上がらせる。ネネは僕の指を軽くくわえたまま、慣れた手つきで腰のポーチからガーゼとテープのようなものを取り出した。
白いガーゼで僕の指を拭き、小さく切り取ったテープを傷口にぺたりと貼ってくれるまで、僕はがちがちに固まったまま声も上げられずにいた。
「はい、これでよし。回復魔法が使えれば一発なんだけど、どうも私はそっち方面は得意でないのでごめんね。あ、今日のお風呂は気を付けた方がいいよ」
「あ――……あり、がと」
「どういたしまして。指先のケガって痛いよねー」
「あ――……あり、がと」
「どういたしまして。指先のケガって痛いよねー」
そこからどんな会話をしたのか、全然覚えていない。
気がつけばネネは図書館を去っていて、係員の人が閉館を報せに来て、日の落ちかけたジュノの街を僕はのろのろと歩いていて。
初めて手ぶらで辿る帰途。周囲には、現れては去っていく冒険者たち。
白いテープの下でずきん、ずきんと響く指先の痛みが、彼ら一人一人の声のような気が、何故かした。
気がつけばネネは図書館を去っていて、係員の人が閉館を報せに来て、日の落ちかけたジュノの街を僕はのろのろと歩いていて。
初めて手ぶらで辿る帰途。周囲には、現れては去っていく冒険者たち。
白いテープの下でずきん、ずきんと響く指先の痛みが、彼ら一人一人の声のような気が、何故かした。
叔父さんの家の、僕の部屋に辿り着く。壁際にある机に積まれた本が僕を迎える。
ああ、一つだけ思い出した。図書館でのネネの言葉。
ああ、一つだけ思い出した。図書館でのネネの言葉。
――ライリス、って発音はさ。古代語だと『見る者』って意味だよね――
自分の名前に、そんな意味が隠れていたなんて知らなかった。だってそれは、これまで読んだどんな本にも載っていなかったから。
ネネはどこでそれを知ったんだろう。彼女が僕のような読書家だとはあまり思えない――ああ、そうか。
ネネはどこでそれを知ったんだろう。彼女が僕のような読書家だとはあまり思えない――ああ、そうか。
僕は今まで、何かを「見て」きただろうか。
タブナジアを訪れては去る、幾多の万華鏡のような冒険者たちを見たか?
ルフェーゼで彼女の背の向こうを徘徊していた、恐ろしい魔物を見たか?
ジュノまでを風のように駆け抜けた、めくるめく見知らぬ景色を見たか?
タブナジアを訪れては去る、幾多の万華鏡のような冒険者たちを見たか?
ルフェーゼで彼女の背の向こうを徘徊していた、恐ろしい魔物を見たか?
ジュノまでを風のように駆け抜けた、めくるめく見知らぬ景色を見たか?
あと二週間経ったら、迎えに来てくれる。
玄関に物音がした。多分叔母さんが帰ってきたのだろう。朝に家を出るのは叔父さんより叔母さんの方が早くて、帰ってくるのも叔母さんが先だ。
僕は部屋を出て階段を駆け降り、叔母さんを出迎えて言った。
僕は部屋を出て階段を駆け降り、叔母さんを出迎えて言った。
「ねえ、お母さんに手紙を出したいんだ。もう少しこっちにいる時間をくれないかって。――ううん、図書館の事じゃないんだよ――」
End