テノリライオン

Blanc-Bullet shot6

最終更新:

匿名ユーザー

- view
管理者のみ編集可
 想いの四則演算。


 大抵は単純な足し算だと思う。
 嬉しい事、悲しい事。 良かった事、悪かった事。
 それらの合計がゆらゆらと揺れて、人はその時々を幸せだとか不幸せだと感じる。

 でも、ごくたまに。
 タイミングとか巡り合わせとか、各要素の共鳴とか――そういう素敵な偶然や意地悪な必然の力で、それが掛け算や割り算になるときがある。
 二つの幸せが二つ以上の喜びを運んだり、総じてプラスなはずの日々をたった一つのマイナスが根こそぎ蹂躙したり。

 そしてその時、突然の掛け算が春雷のように通りすぎた後の私は。
 合計が出て初めて、自分を襲ったマイナスがとてつもなく大きかった事を知ったのだ――


  *  *  *


「バス――トゥークを……出る……?」

 おじさまの仕事が少し立て込んでいると聞かされてヴィンスロットのお家への出入りを控え、エリクスとも顔を合わせなかった一週間。
 私が自由に外出できるようになってからはすっかりご無沙汰になっていた、エリクスがコツコツと外から出窓を叩く音が突然その一週間を終わらせ――そして、更に、新たに、始めた――

「うん……親父の、仕事の都合で。 引っ越す事に……なったんだ」
「え――――え、え、どこに? え、いつ引っ越すの――そんな、そんな」

 内容は単純明快なのに、頭は強く混乱して言葉が繋がらずに迷走する。 出窓の向こうで俯くエリクス。
 その光景にふっと、彼と出会った日を思い出した。 そう、あの時は窓から乗り出す私を見上げていたエリクスの顔も、もう窓の正面にある。 私も外を見るのに、伸び上がらなくてもよくなって――

「とりあえずは、セルビナに向かうんだけど……ごめん、もう、行かなきゃいけないんだ」
「!! え!? い、今?」
「うん……ごめん、急で」
「急よ!!」

 私は思わず声を張り上げていた。
「そんな、こんなの……ひどいじゃない、どうしてこんなぎりぎりまで言ってくれなかったの!?」
「――言えなかったんだ」
 エリクスの、搾り出すような声。 自分の混乱に目がくらんでいた私は、その痛みをこらえるような声にはっと我に返る。
「嫌だったから……言ったら、本当になっちゃうみたいで……どうしても言いに来られなくて」

 すぅ、っと、冷たい現実感が私を包んだ。 胸の中で暴れていた混乱や疑問符の渦が、一瞬で死に絶えるように鎮まり返る。 肩と声の力が消えていくのを感じながら、私はかすれる声で言った。
「……お仕事の、都合なの?」
「……うん」
「おじさまは……ご挨拶、しなきゃ」
「もう、外に出てる。 チョコボ、待たせてるんだ」
「連絡は――連絡は、できるの?」
「判らない。 どこに落ち着くか、まだ決まってないから……」
「…………」

 どうしよう。 喉が、凍りついてしまった。 だめよ――言いたい事が――聞きたい事が――

「――これ」
 窓枠にはりついたまま目と心の焦点を失いかけている私の手元で、ごとっという音がした。
 はっと視線を下ろすと、そこには銀色に光る小型の銃が姿を現している。 これは――
「……デリンジャー……?」
「親父が、ティアにって作ったんだ。 もらって」
「え――」
 おずおずと、その可愛い銃を手に取る。 きらりと光って、決して重くないのにみっしりとした質感のある銃身に、きれいな蔦模様のDが刻印されていた。 これは確か……量産ではなく、特別に注文を受けて作ったものに刻まれる、おじさまのイニシャル――

「……ごめん」

 その美しい、餞別という名の現実を握り締めて震え始める私の手に、エリクスの吐き出すような声がかぶさる。
「親父は――こんなちゃんとした物をやれるのに、僕は――何も」
 がば、と私は顔を上げる。 何を言っているの?
「結局、僕はティアの、何の役に立ったかな、って考えたんだけど……何もないんだ」

 私は、ひきちぎれんばかりにぶんぶんと首を横に振った。

 私をベッドに閉じ込めていた病魔を追い払う、底力になったのは誰だと思うの。
 大地が割れて立ち上がるように開く跳ね橋を、星が落ちてくるように滑り込む飛空挺を、見せてくれたのは誰。
 私が射撃の練習をしている間ずっと――ううん、違う。 あの日から今まで、当たり前のように……


 ――――じゃ、私は?

 こんな大事な時に、まるで糊付けされたように働かない口に怒りと焦りを覚える私の中に、ふっとそんな思考が浮かんで。
 その瞬間、私は足元にごっそり穴があくような衝撃に襲われた。

 私は――私は? エリクスに、何か、してあげたっけ――?

「元気なティアを見てるだけで満足で――『お守り』の真似事しか僕にはできなかった。 しかもそのお守りも、途中で放り出す形になっちゃって――」

 何てこと――何てこと。
 私が憧れた世界をつまらないと言ったエリクスに、それは違うと、素敵なものは沢山あると、教えてあげたいなんて思っていたくせに。
 その世界に飛び込んだ途端、目先の幸せばっかりで手一杯になった私は……自分に切った大見得を、自分で見失っていた……

「ごめんな」
 エリクスの黒い瞳がかすかに揺れて、私を見ている。 とても、申し訳なさそうに。 辛そうに。
 おかしい。 こんなのおかしい。 何もかももらってばっかりの私が、謝られるいわれなんかない。
 そうだ、どうしよう、私――自分が、この世からいなくなるかも、とは考えた事があっても……私の前から誰かがいなくなるって事を、考えた事がなかったんだ。
 しかも、それに気付いた時は手遅れなんて――。

「――帰って来て!」

 数秒じっと私の顔を見たエリクスが、それじゃ――、と口の中で呟いて、何かを振り切るように私に背を向ける。 その光景に窓から身を乗り出した私の口から、心の中で嵐のように渦巻く全てのものを表す一言が、悲鳴のように弾けた。
「私、訓練してるから! もっと丈夫にもなるから! どこに行くのだってもうお守りなんてさせない、それを見に来て! 私だって――」
 庭の植え込みを目の前に、エリクスがゆっくり振り返る。
「あなたに、助けてもらってばっかりなんて――我慢できないわ」

 そして。 エリクスは植え込みを抜けて、いなくなった。
 また切った私の大見得に、わかったよ、という微笑みを残して――


 その場に私を縫い付けるように、ずっしりと重く感じられるデリンジャー。
 初めて会った時に返されたあのタオルのように、その持つ意味も判らず戸惑うこともない。 銀色の硬い力を手の中に収めて、私はからっぽの庭を見ていた。
 さっきまでと変わらず明るい景色。 その外には、商業区の町並みがある。 その向こうには鉱山区、港区。 そして更にその外には――

 いつもどおり。 何も、変わらない。 変わっていない。 私はあの時より成長していて、世界は私を待っていて、そしてなすべき事がある。 なのに。

 ざぁっという音を立てて潮が引いていくように。 目の前の風景が、まだ見ぬ土地までもが一気に色を失い乾いていく錯覚を、喪失感を、私は止める事ができなかった。

 たった一つの、マイナスで――――


  *  *  *


「ふぅん――ヴィンスロットが数年前にバストゥークから去ったってのは知ってたが。 つまり懇意にしていたお譲ちゃんに、彼はそいつを残して行ったと、そういう訳か」
「そう。 だから量産のものじゃないの。 お判り頂けたかしら」

 事実関係だけをかいつまんだ素っ気ないグレーティアの説明に、それでも赤毛のエルヴァーンは興味津々といった顔で頷いていた。
 メリファトの熱く乾いた空気に身を晒して、半ばぼんやりとそれを聞いていた僕。 恐らくグレーティアの脳裏には、色々な情景がよぎってるんだろう――などと思いながら、ごく僅かな憂いを手の中の拳銃に落とす彼女の横顔を眺めていた。

「――な、お嬢ちゃん。 一分でいいからそのデリンジャー、見せてくれねぇかな。 頼む!」
 グレーティアの説明が終わるや、赤い髪の狩人はそう言うとぱちんと顔の前で手を合わせた。
「あ、当然俺の銃は預けるぜ? 礼には荷物運びでも何でも――そうだ、何なら今日一日嬢ちゃんの下僕になってもいい! ご主人様と呼ばせてくれ、この俺様が至れり尽くせりの――」
「バカッタレ!」

 あからさまに嫌そうな表情のグレーティアをきりきりと拝み倒し、何やら訳の判らない暴走を始めるエルヴァーンの後頭部を、それまで傍らで黙って聞いていたミスラが一言叫ぶなり力いっぱいグーではたいた。

「ったく、何をトチ狂った事を言ってるんだいこの唐変木は! 大体いつまでも失礼だろ、嬢ちゃん嬢ちゃんと。 人に物を頼みたかったらきっちり礼儀を通しな!」
 そこまで一息でまくし立てると、あまりの必死さに無防備になっていたらしい後頭部をさすって呻く彼にふんと鼻息を一つ残し、威勢のいいミスラはグレーティアに向き直った。
「済まなかったね、このバカが色々と不躾をして。 ただのバカなんで許してやってもらえると嬉しいんだけど……あたしはルゥ。 ルース=ブリギッタ。 こいつは――」
 と言った所でじろりと横を睨む。
「ガゼル=エンキドゥです、すんませんでした」
 存外素直にエルヴァーンは――ガゼルはぺこりと頭を下げる。 その唐突な変わり様が少し面白くて、僕はふっと笑ってしまった。
 と、グレーティアも、彼らの遅ればせながらの自己紹介にそれまでの苦虫を噛み潰したような表情を和らげ、穏やかな声でそれに応じる。
「グレーティア=キールよ。 彼はエリクス」
「――エリクス=ヴィンスロット、だな」
 僕の苗字を先取りしたガゼルが、そう言ってにっと笑う。 その嬉しそうな笑顔が一体何に向けられたものなのか、判断する労力を惜しんだ僕は軽く会釈をするに留めた。


  *  *  *


 有難い事に、どうやら僕の出番はとりあえずないようだった。
 デリンジャーを拝見する許可を得たガゼルはもうすっかりそれをいじりまわすのに夢中で、傍らについたグレーティアを離す気配もない。
 僕は薄茶色の大地に生える尖った草木を背にしてどっさり腰を下ろすと、背負い袋から取り出した水を飲みながら二人の様子をほけっと眺めていた。

「……笑っちまうぐらい軽いな、一体銃身のどこを削ってるんだ……」
「私の腕力でブレないギリギリのラインね。 銃身の作りは判らないけど、バランスは犠牲になってないわ。 むしろテールを重くしているぐらいかもしれない」
「ほぉー……ん、このサイト、これでいいのか? あ、もしかして」
「そう。 私の利き目が逆なの」
「はー、すげぇな……これに慣れちまったら逆にヤバイってぐらいじゃねぇのか……」

 当然ながら銃に関しては、グレーティアもそれなりに愛着や含蓄がある。 あれこれ質問しては感心するガゼルに、今では彼女もまんざらではなさそうな顔つきで受け答えをしていた。
 なめるように観察する合間合間でしきりに唸ったり、「完成していたのか……」などと呟いたりしているガゼルがまた失礼を働かないかと見張るようにしていたルゥが、ようやく安堵したのかふらりとその場を離れた。

「――悪かったね、獲物も取っちまったうえに、彼女まで独占でさ」
 ゆらゆらと長い尻尾をゆらめかせながら、軽い苦笑いを浮かべてルゥが僕の所にやってきた。 たおやかに流れるような足の運びと少し武骨な侍の胴衣のアンバランスさが露骨に感じられないのは、男勝りな姐御口調がそれを仲立ちしているせいかもしれない。
「いえ、ティアも結構楽しそうですし。 いいですよ」
「ありがと」
 僕がそう答えると、ルゥは笑ってすとんと僕の少し横に腰を下ろした。 すぅっと後ろに流れる長い両手刀が、二本目の尻尾のようだ。

「あたしは、よく判んないんだけどさ」
 僕と同じように二人のスナイパーを遠目に眺めながら、彼女は何の気なしという風に言った。
「お父さんが、ガンスミス? なのに、あんたは白魔道士なんだね」
「ええ、まあ」

 僕の苗字が話題に上がった時というのは、大抵が父親にまつわる事を根掘り葉掘り聞かれるうっとうしい時間になるのが常だったので。
 その父の影を素通りして自分自身に視線を向けられた僕は、少し拍子抜けすると同時に心の中で軽く肩を引く。

「別に、世襲制ではないですからね」
「ふぅん……一子相伝とか、そういうのがあるのかと思ったよ」
 侍らしい思考――なのかどうかは判らないが、彼女の言うような強制はなかった。 少なくとも僕の所では。

「――あたしの友達にも、白魔道士がいるんだけどね」
 ルゥは僕の返事を期待する風もなく、問わず語りのように言葉を紡ぎ始めた。
「優しい子なのさ。 おっとりしていて虫も殺さないような……ああ、勿論、ヤバくなったらちゃんと戦う勇気のある子だよ。 だけど普段は戦線から離れた後ろで控えて、あたしらが傷つかないようにずっと祈ってくれてる」

 その白魔道士の事を思ったか、彼女の目が細く笑い、声が柔らかくなった。
 ぐび、と僕は水をもう一口あおる。

「――別に決まり事じゃあないけどさ、癒し手ってのは多かれ少なかれ大抵そういう所があるよね。 けど」
 不意に平常に戻った声音がこちらを向いて、ルゥの視線が僕の手足を捕らえた気配を感じる。
「あんたのその、ごっついガントレットとグリーヴはとてもそんな慎ましいもんじゃない、まるで前衛だ――それにその棍」
 知らず息が止まる。 防具は見た目だからともかくだが、この侍、よくそこまで――
「重量感が変だよ。 ……何か、仕込んでるだろう」

 白魔道士は、刃を持ってはならない。
 それは、契約だ。 癒す力を与えられた者は他者の血を流す道具を手にするべからずという、いわば神との合意。

「……ちょっとした改造ですよ。 必要に迫られまして」

 99.9%の白魔道士が契約とすら感じていない、むしろ望んで行っているであろうその「合意」は、僕にとってはただの取引であり絵空事だった。

「グレーティアちゃんだろ? 細っこい子だからねぇ。 あの子の所まで敵を通す訳には行かないやね、それはよく判るよ」

 回復呪文を唱えさせてもらう為の、純粋な交換条件。 それ以上でもそれ以下でもないから、僕はその条件から逸脱しない範囲で行動する――

「ああ、別にその細工を責めてるんじゃないよ、誤解しないどくれ。 ――たださ、そこまでするならどうしてナイトや戦士じゃないのか、と思ったんだよ。 それが勤まるだけの、下地も感じるだけにね」
 言ったかと思うと、彼女の手が実にさりげなく、しかし目にも止まらぬ速さで動いて、僕の白い衣装に包まれた二の腕の筋肉をぎゅっと掴んだ。
 僕はぴくっと反応してしまったその腕の力を、咄嗟に弛緩させる。 そんな事で何を隠せる訳もないと気付いても、本能的な反射は如何ともしがたかった。

 その手を押し返すように、僕はゆっくりとルゥに顔を向けた。 手を引きながら僕を迎えた彼女の視線は、まっすぐな――神聖な戦いの場に不純なものが混入するのを許さないような、高潔な闘士の色を湛えていた。
 つい先程目の当たりにしたばかりの、流れるような刀身のイメージ。 それをふと蘇らせる僕に、ルゥは少し圧力の上がった言葉をかぶせる。

「あんたのその目は、間違っても癒し手の目じゃないよ。 リナ――あたしの友達と、比べて言ってるんじゃあない。 ひどく周囲に無関心な……あたしだったら、あんたに背後を預けて戦おうとは思わないね」
「……はは」

 僕はこぼすように笑う。 えらい言われようだ。 だけど、これ以上ないぐらいに正解だ。
 その通り、グレーティア以外は僕を背後になんて置かない方がいいに決まっている。

「かと言って、前線で戦う事に自分の活路を見出してるようにも見えない。 だったらそれこそナイトにでもなってるはずだからね――エリクス」

 最後の一押し。 そんな感じで、ルゥの口が動いた。
「あんた、一体どういう理屈で動いてるんだい?」


  *  *  *


「おーい、何だ何だそっちもいい雰囲気か?」

 それはもうまさに計ったようなタイミングで、ぴんと張った空気の僕とルゥの間に、ガゼルのとことん上機嫌な声が踊るように割り込んできた。

「誰がいい雰囲気だ! 大体『も』じゃないだろ! いつまでグレーティアちゃんを捕まえてる気だい!」
「はっはっは、いやーすげぇわこのデリンジャー。 ヴィンスロットに師事したうえにこいつを頂けるってんなら、俺なら女装の一つや二つ屁でもねぇとはっきり言えるな」
 脊髄反射に違いない剣幕で怒鳴り返すルゥの言葉に、ガゼルは全くこたえていない様子だ。 僕と彼女のやりとりもすっかり風に流れてしまい、「全く……」と呟いてルゥは大きく溜息をついた。


「それで、エリクス。 ヴィンスロットは――親父さんは、今はどうしてるんだ?」
 実に名残惜しそうにデリンジャーをその持ち主に返しながら、立ち上がる僕に歩み寄ってガゼルは言った。

「健在のはずですよ。 ただ居場所については勘弁して下さい。 色々と事情がありまして」
「そうか――まぁ、あれだけの名匠ともなりゃ色々あるわな……ここ数年新しい作品が出たって話を聞かねぇのはあれか、充電期間か何かなのか? 引退を心配する声もあるが――」
「いえ、まあ。 引退と思って頂いて、差し支えありません」
 ぽろっと言った僕のセリフに、ガゼルは大きく目を剥いた。
「マジかよ! そんな勿体ねぇ――やっべぇ、聞くんじゃなかった! 益々手に入れたくなっちまう!」

 絶望的な声を上げて天を仰ぐガゼル。 その様子を前に、僕は自分の迂闊さを呪っていた。
 そうだ、言うべきじゃなかった。 僕とした事が、まだ学習が足りないらしい――


「さて、あたしらはそろそろ行かないと。 仕事でジュノに向かう途中だってえのに、チョコボを降りちまったからね」
 ルゥはそう言うと、放り出していた荷物をよっこらせと担いだ。
「いやいや、降りて大正解だぜ。 ヴィンスロットの中でもレア中のレアを張る一作を拝めた事に比べりゃあ仕事なんざ、ゴブリンがぶら下げてるブリキコップみたいなもんよ。 さすがは俺のハニー、いいカンしてるぜぇ」
「誰がハニーか!!」

 どうやらこの二人の夫婦漫才には鉄の法則があるようだ。
 すっかり警戒心を解いたグレーティアが、もう何度目かのボケとツッコミを鑑賞してくすくすと笑っている。
 それにはっと気付いたルゥは、決まり悪そうな咳払いをしつつグレーティアに言った。

「それじゃあ、ティアちゃん。 うちのバカに付き合ってもらって悪かったね。 ありがとさん」
「いいえ、こちらこそ楽しかったです。 お仕事、頑張ってください――あと」
「ん?」
「ガゼルさんと、仲良くして下さいね」
 ひょこんと首を傾げたグレーティアの、いたずらっぽい声と笑顔。 ぼわっと体中の毛を逆立てるルゥの肩を、ガゼルがしたり顔でぽんと抱いた。
「心配してくれるな、ティアちゃんよ。 将来を誓い合った人生の伴侶だ、とっくに骨の髄まで仲良しさ」
「だっ、誰が……っ!!」

 グレーティアとガゼルの挟み撃ちにあい、ルゥは酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせている。
 いよいよ可笑しそうにグレーティアが笑った。 どうやらもう一回コントが見たかったのらしい。

「じゃな、会えて嬉しかったぜ、エリクス。 親父さんにもよろしく伝えてくれ」
 白い歯を見せて差し出すガゼルの右手を、とりあえずの笑顔で僕は軽く握った。
 と、彼はそんな僕に向けた視線を一瞬強め、少し低い声で言った。
「――世界中に散らばる男どもがな、お前さんの親父を尊敬してるんだよ。 もうちっと誇ってやってもバチは当たらねぇぜ」

 僕はすっと口の端を上げて目を伏せると、手を引いた。
 そんなことは判ってる。 骨身に沁みて判っている。
 そしてその尊敬なるものが、ある時にはどんな形を取るのかも僕は知っている。

 だけどそれを、今ここでこの男に語ればきっと出口がなくなるだろう。
 だから言わない。 彼はいい人のようだから言わない。 時間がないから言わない。 意味がないから言わない。
 面倒だから言わない。

 薄い笑いを浮かべた朱色のエルヴァーンは、空になった右手でぽりぽりと頭をかいていた。


 それぞれに別れの挨拶を終え、ガゼルとルゥの二人が北に進路を取る。
 と、崖の上に残してきた荷物へと歩き出すグレーティアを追う僕の背中を、何かがぽんと叩いた。
 何かと振り返ればルゥだ。 走って引き返してきたらしい。 少し向こうでガゼルが待っている。
 きょとんとした顔の僕に、ミスラの侍はにまっと笑って言った。

「余計な事言っちまったね。 何でもいいから、しっかり守っておやりよ」
 もう一度ぽんと、今度は威勢よく僕の肩を叩くと、彼女は身を翻して戻って行った。

 ――どういうことだ、先生と同じ事を言われてしまった。
 再度並んでまたも何事か言い合いながら遠ざかる二人に背を向けつつ、僕は腕を組んで考える。 僕がそんなに頼りなさそうに見えるのだろうか、それともグレーティアが放っておけないタイプなのか?

「エリクスー! どうするー、もう一回狙うー!?」
 ライフルを手に取って振り返り、まだ坂を登り始めたばかりの僕に大きな声で呼びかけるグレーティア。
 すらりと細い影がその背後、いつの間にか塗り潰したように晴れ渡っていた深い青空に今にも呑み込まれそうだ。
 そんな風景を見上げて微笑んだ僕は、組んだ腕を解いて彼女へと向かう足を速める。

 きっと両方なんだろうな――と、半分諦めながら。


to be continued
記事メニュー
ウィキ募集バナー