テノリライオン
Blanc-Bullet shot8
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匿名ユーザー
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「少し歩かないか?」
穏やかな笑顔のレオ氏にそう言われ、逆らいもせずついて来てしまったのは何故だろう。
今、僕と彼の眼下には、澄んだ水の下に太い根を巡らす大きな池。
そしてその池の中央にどっしりとそびえる雄大な星の大樹が、天頂から降り始めた太陽を載せて僕達を見下ろしていた。
十四歳の時に、親父と共にバストゥークを離れた。 そして十七になって――つまり、あれは今から一年前。
冒険者となって一人故郷に戻った僕を迎えたのは、以前と変わらぬ懐かしい故郷の町並みと、絹のようにまっすぐで滑らかな紅茶色の髪を伸ばし続けていたグレーティア。
そして、彼女の家に得意先として出入りしていた彼、レオの影だった。
「うちの両親が盛り上がってるだけなのよ」
当時僕を迎えたグレーティアは僕の手を取ると、口を尖らせてそう言った。
「あの人は親切だし、とてもいい人だけど。 でも、それだけよ。 彼の方も特に私に言い寄って来たりはしないのに、お父さんとお母さんが勝手に私とレオさんをくっつけたがってるの――失礼しちゃうわ、私の気持ちも知らないで」
少し哀しげに苛ついたような彼女の瞳を、今でもよく覚えている。
聞けばフィーライト家も、グレーティアの家に劣らぬ資産家で。
同じバストゥーク内のお得意先、加えてその誠実で成熟した人となりと来れば、彼がグレーティアの両親の目にとまったのも無理からぬ事だろう。
そんな状況を知った僕は、一瞬逡巡してしまった。 体が弱かった一人娘を任せるならば、それは経済的にも社会的にも安定したレオ氏の方が何かと安心に決まっている。 薔薇は温室に置いておくのが一番いいし、高級食材は一流の料理人に託されるべきなのだ。
理不尽な縁談ではない――僕の頭の中の一番冷静な部分が、そう告げていた。
が、口にこそ出さなかった弱腰な僕の思考は、やはり彼女に伝わっていたのかもしれない。
そんな僕を、そして彼女に連れられ姿を現した僕に不安の眼差しを向けた両親を鮮やかに叩きのめすように、グレーティアは僕を伴って決然とバストゥークを飛び出したのだった。
「――冒険者を、しているんだって?」
傍から見れば和やかな散歩そのものの僕達の歩み。 池のほとりの低い岩壁に寄せた足を止めると、それまで無言だったレオ氏は、星の大樹をゆったりと仰ぎながら朗らかに口を開いた。
「……ええ、どうにかやっています」
僕も彼の横で、大樹に目をやりながらそう答える。 並ぶでもなく離れるでもない、微妙な距離。
「射撃の腕はなかなかだったものな、彼女は。 強いのかい?」
少し暖かい笑みを含んだ声が問う。
「そうですね、銃を持たせたらそこらの狩人にはひけをとりませんよ。 見事なものです」
「そうか、それは凄いな。 頼もしい」
彼は嬉しそうに微笑む。 努めて冷静に受け答えしながらも、僕は自分の言葉が上滑っていそうな気がしてどうしても落ち着かない。
「怪我などは、していないかい?」
物静かな声が続く。
「――ええ、大丈夫です。 前線には、僕が立つようにしてますから――」
「体を張って、守っているか?」
彼の体が不意にくるりと向きを変え、僕を正面に捉えた。
* * *
一年と少し前の、あの日――まさに故郷バストゥークを出ようとしていた、グレーティアと僕は。
商業区の大通りを南グスタベルグへと通じる門へ向かう大通りで、彼の店である防具屋の前に立っていたレオ氏と、ばったり鉢合わせた。
『――――』
それまで意気揚々と進んでいたグレーティアの足が、彼の姿を認めた一瞬ぴくっと止まる。 少しだけこわばった彼女の視線と、その先で穏やかに彼女を見返す背の高い人物。
突如としてそこに流れる静かに不自然な空気を見て僕は、ああ、彼が話に聞いたレオその人なのだ、と悟った。
『…………』
僅かに早まる鼓動。 ひどく長く感じられる数瞬の緊迫が解け――そしてグレーティアは、何も言わなかった。
きゅっと顔を引き締め、街の喧騒の中へと戻ってくる。 そして軽く頭を下げると再度、大通りの中央を誇り高い兵士の行進のように足早に進み始めた。
ごめんなさい、とも、さようなら、とも言わない。 それはつまり彼らの間に、そう告げなければならないだけのどんな蓄積も共有もありはしないという事で――グレーティアの無言をそう読み取った僕は、きりっと前を向いて歩く彼女と足を揃え、キール家の得意先である防具屋の前を通り過ぎた。
振り返らずにまっすぐと、グスタベルグへの門をくぐり抜けるグレーティア。
しかしそれに続こうとするその直前――僕はじわじわと背筋を走る痺れについに耐え切れず、後ろを振り向いた。
同じ場所で、同じ姿勢で、多分同じ表情で。
彼が、こちらを見ていた。
既に門の外に消えたグレーティアから外れたのであろう彼の視線が、ぴたりと僕を捉えている。
もしやと思っていた、怒りや憎しみの色は全くなかった。 いっそ静かな――しかしかと言って、優しく微笑んでもいない。
深い力を湛え、ただ何かを問いかけるようなその眼差しに、脳の隋まで、臓器の一番奥深くまで、全て丸裸にされて鷲掴みにされたような、鋭い寒気と圧迫感を僕の体は覚え――
かろうじて対峙したその視線を振り払うように、僕は身を翻すと門をくぐった。
ぞわりと全身を駆け抜けるものの正体を、知りたくなくて――――
* * *
「――――……、勿論です」
あの時の眼だ。 どこも厳しくない、どこも鋭くない――だからこそ跳ね付けられず、直接僕を体の底から射すくめたに違いない、あの眼だ。
無意識に大地に足を踏み締めて低い声で答えながら、僕は目の前の人物にゆっくりと向き直った。
レオ=フィーライト――
特に逞しく鍛えられてもいない。 ことさらに大きな体躯でもない。 威圧的な風貌でもなければ、勇壮な武具を佩びている訳でもない。
なのに――なのに。 男、であることを、何故だか否応なしに感じさせる――彼が、明るい陽の光を映えさせるようにして、僕に判断できないエネルギーを静かに放っている――
「――人間の生命力というのは、二種類あると思わないか」
自分と正対した僕を見て、彼は不意にその口調を世間話のような軽さに戻すと、すいと首だけを巡らせて視線を星の大樹に預けながらそう言った。
かすかに警戒したばかりの僕は肩すかしを食らったような気分になり、相槌の打ちようもなく口をつぐんで彼の言葉を待った。
「一つは勿論、肉体の頑健さだね。 外界からの物理的なダメージをはねのける筋肉や有害な汚染を排除する抵抗力。 実に判りやすい、君達冒険者のみならず私のような商売人にもよくよく必要とされる、人にとって最も必要なのにも関わらず最もその存在を忘れられがちな宝の一つだ」
まるで見えない舞台に立ってスポットライトを浴びたかのように、レオ氏はとうとうと言葉を紡ぎ出した。 視線は相変わらず大樹に。 僕は戸惑いを押し隠した硬い表情と沈黙で、その行方を見守る。
「その宝を手に入れるにはどうするべきか。 答えは至極簡単、鍛えればいい。 ランニング、筋力トレーニング、そして実践。 そう、特に君達のように冒険という世界に身を投じたならば、職業や役割による程度の差こそあれ、誰でも自然と肉体的に鍛えられていくことは間違いない。 まあそれはどちらかと言えば志向的と言うよりもむしろ必然、かくあって当然のこととして意識の底に埋没している面もあるかもしれないけれどね」
穏やかで淀みない言葉が滑らかに耳に流れ込んで来る。 僕は口を開かない。
「そしてもう一つ。 精神力という名の生命力だ――ああ、これはいわゆる魔法に用いられる精神力の事じゃないよ。 あれは肉体の強さと同列に考えてもいいだろうと、私は思っている――つまり私が言いたいのは、心そのものの力、とでも呼ぶべきものについてだね。 例えばどうしようもない窮地に陥った時、その場にへたり込むより先に腹の底から叫ぶ力。 例えば全てにおいて満たされ安らいでしまった時に、なおそれを越えてぬくぬくとした巣箱から新たな一歩を踏み出す力。 それは肉体の強靭さとはまた違った――その者自身の存在を常に洗い、腐らせない力だ」
彼は肘を低い岩壁に預けてもたれ、一遍の歌のように言葉を続けている。 僕は口を開かない。
「ではこの、肉体のように目には見えない、尊い力を手に入れるにはどうしたらいいか。 走っても駄目だ、腕立て伏せをしても意味はない。 恐ろしいモンスターと幾度対峙しても――そう、それらは所詮外側を塗り固め、その瞬間の己を守り抜く為だけの行いに過ぎない。 勿論それが下等だと言っている訳ではないよ、むしろ精神の入れ物を守り、精神と対になるべき欠かせないものと言えるだろう。 では、ならば、その中身たる心を、不屈のものにするにはどうするべきか――」
彼の瞳の焦点が、星の大樹を通り越した。 僕は口を開かない。
「その方法はただ一つ、己自身と戦う事だと私は思う。 ……ああ、紋切り型なくせに漠然とした嫌なセリフだな――まあ、他に表現を知らないから仕方がない。 つまり、自分の外から来るものではなくて、内にあるもの、内から湧き出すものを客観的に見据え、それを甘やかさずに選り分けて形にする、または形にしない、そういう厳格にして健康な意志の力だ。 実に気高く、そして美しい」
僕の中のもやもやが、次第に形を取り始める。 僕は口を開かない。
「ところがだ。 これの恐ろしい所はね、その尊い努力の結果を誰も一意に評価できないという事実にある。 自分で自分に下した評価と、人のそれが一致しない不運などこの世には掃いて捨てるほど転がっている。 まあそもそも人の価値観は千差万別、故に個人から発した行動と結果に唯一無二の評価を与えるなど土台無理な話だが――それが肉体の強さや呪文の強力さのような判りやすいものと違って、目で見て判断できない精神的な事柄ならなおさらだ。 故に多くの人はその頼りない不安から逃れんと、他者からの評価に自分をおもねろうとする。 自分の声を偽り、人の声の求める方向へと無意識に自分をフィットさせる。 あるいは逆に、他者からの評価にとことん疎い――あるいは全く価値を見出さない人もいる」
もやもやの量が増える。 僕は口を開かない。
「まあ今の例は極端としてもね。 そのどちらに偏っても、それはある意味不健全と言える事は君にも判ると思う。 しかし既に言ったように、どんな評価も完全に定めることのできないこの人の世で、それでもなお可能な限りそのバランスを取りつつ、なおかつ己を健全に――真っ直ぐに立てる為にしなければならない研鑚……それが、己と戦うということじゃないだろうか」
一つの結果がゆっくりと、しかし確実に迫ってくるのが見える。 僕は口を開けない。
「その点において。 その、心の強さという点において。 彼女は、グレーティアは、素晴らしいと思わないか。 そう、これも君の方が当然よく知っているだろうけれど――彼女は体が弱かった。 肉体の強さというものに見離されて生まれ、幼い頃に死線をさまよった事も一度ではないと聞いている。 が、そんな決して明るくはなかっただろう日々の中でも、彼女は腐らなかった。 妥協しなかった、甘えなかった。 それどころか――いや、恐らくはそれをバネにして、自分の意志を偽らずに見据え、そこに向かってまっすぐに自分を運んだんだ。 病弱という不遇に対する絶望の二文字などどこにも見当たらない。 病魔を退け、ご両親の加護を飛び出し、ただそこにいれば安泰が約束されていた、誰もが喜んで自分を肯定し見守ってくれる既存の道ではなく、自分自身で決めた道を選び取った。 その姿に対して使う形容を、眩しい――と言う以外に、私は知らない」
胸の底から、何か大きな黒い塊がせり上がってくるのを感じる。 ともすれば吐き気に変わりそうなそれを押さえ込んだ僕の口がついに開き、終わらせたのは――長い長い、前奏だった。
「……あなたは……あなたは、ティアのことを――」
「愛している」
どん、と音を立てて、体の奥で爆弾が破裂した。 余波で手足がじいんと痺れる……
大樹に注がれていた彼の視線が、いつのまにか戻ってきていた。 その横顔を注視したまま固まっていた僕の目が、自動的にそれと合ってしまう。 ざわ、っと、全身の毛が逆立った。
「先に言っておこう。 いや、既に言ったな。 勝者は君だ、警戒することはない。 他ならぬ私がそう言っているのだから疑う余地はないだろう」
「だったら……何が、言いたいんですか。 一体――」
「覚悟の程を、聞かせてもらいたいと思ってね」
かすかに喘ぐような僕の声に、レオはもたれていた岩壁からすっと体を離した。
「敗者への引導と思ってくれていいんだ。 自虐で言ってるんじゃないよ――いや、多少の意地の悪さは、あるかな」
精悍な顔に、ふっと苦笑いが浮かぶ。 しかしそこに、逸れられる脇道は見えなかった。
「――グレーティアがバストゥークを去ったあの日、私は自分の見立てが間違っていなかったことを痛烈に実感した。 君を選び、君と共に外の世界へ旅立つ彼女の凛とした後姿に、私が彼女に抱いた憧れの極致を見て、感動すら覚えた。 狂おしいほどの寂しさと同時に、また深く納得もしていたんだ」
彼の苦笑いが、愛しげな笑みに姿を変えた。 その笑顔が、僕の体の中に散らばった爆弾の破片に火を点ける――
「だが。 私は肝心の君を、検分していなかったんだ。 その時間がなかった。 グレーティアが選んだものに異論を差し挟む余地はないが――それでもなお、私は個人的に君に問いたい事がある」
何を――
「君の望みは、何だ?」
* * *
僕の望み。
僕の、望み。
突然、しかも直接僕に浴びせられた剥き出しの言葉が、頭の中で熱湯のように暴れていた。
「グレーティアと一緒に姿を消す君と、一瞬目が合ったね」
その混乱の向こうで、レオの声が遠く響いている。
「あの時、私は君に、何も感じ取れなかったんだよ。 幼馴染を奪ったという気負いも、故郷を後にする後ろめたさも――かと言って愛する者と旅立つ誇らしさも、新天地へ向けてのはやる気持ちのようなものもね。 まあ、私の思い込みと言われれば」
「僕は」
飽和して煮えたぎる脳が、彼がとうとうと紡ぎ続ける言葉の意味をついに咀嚼できなくなってきた時。
いつのまにか俯き加減になっていた僕の口から、考えがまとまるのを待たずに言葉が弾けていた。 レオがぴたりと口をつぐむ。
「――僕、は」
時間の感覚がおかしい。 一呼吸が、まるで一時間ほどにも感じられる。
「……ティアの――ティアを、外に出してやりたかった」
会話に使える単語が、急に頭の中からごっそり逃げ出してしまったみたいだ。 複雑な事柄を大人に説明しようとしている子供のように苦しげに、僕は言葉を刻む。
「あなたの言う通りだ、レオさん。 ――ティアは、意志の塊みたいな奴です。 僕も同じですよ……そんな彼女が、眩しくて仕方ない。 だから」
ごくり、と唾を呑む。
「あいつの望む所なら、どこにでも連れて行ってやりたい。 あいつの望む事なら何でもしてやりたい――あいつの元気な笑顔が見られるのが、何より嬉しいんだ。 生きていてよかったって、思える。 自分にもできることがあるって――」
「彼女の事はいい。君自身の事だ」
たどたどしく並べるような僕の言葉を、それまでじっと聞いていた彼は静かに遮った。
「グレーティアという喜びがあるのはよく理解できるよ。 私だってそうさ。 あんな溌剌とした命が隣にいてくれたら、どんなにか毎日が輝くか。 だから私も愛した」
喋って吐き出すことで収まりかけていた体の熱が、またかっと蘇る。 レオは続ける。
「そう言う私は彼女に選ばれる段階までも行けなかったけれどね―― そう、今私が訊いているのは、君自身の事だよ、エリクス君。 彼女という伴侶を得て君は、君個人は。 これから、どうなりたいと思っている?」
気付けばいつしか、午後の光にはごく淡いオレンジ色が混じり始めていた。
もうすぐ星の大樹をねぐらとする鳥たちが帰ってくる。 緩く風が吹いて、足元の池からひんやりとした湿気を運んでいずこへともなく去って行った。
「僕は――」
これは僕の声か。 これは僕の言葉か。 突如として全てが遠く、自分の発言すらも用意された文章を再生しているかのように乖離していく。
「――僕は、僕の事は、別にどうだっていいんです。 ティアの事に比べれば――いや、ティアの為に何か出来るなら、それが僕の、存在意義になる」
突然手を滑らせて命綱一つで宙にぶら下げられ、奈落の上でただ慣性に揺られるしかないロッククライマーが振り回す手足のように、何故か僕の言葉は吐いても吐いても手ごたえがない。 真実なのに。 本心なのに。
「だから全力を注ぐ。 金になるモンスターを狩ることだって、そこで彼女の盾になることだって、ティアが僕に望んでくれるなら――それが、僕の望みそのものだ。 誰にも譲らない。 くれてやるものか。 ティアが、僕の側で思うように生きてくれるなら、他に一体何が要るって――」
僕は必死に言葉に力を込める。 その裏で、ノノの工房で聞いた言葉が脳裏をよぎった。
――自分の将来の事なんだから、自分でやらなきゃ嘘でしょ――
「――成程」
深く考えるよりも先に迸り出てくる言葉達を一気にまくしたて、ふぅっと荒い息をつく僕をゆったりと見下ろして。
レオは、一言そう言った。
「よく判った。 いい覚悟だ。 そう――彼女の体を預けるという点においては、及第点をあげよう」
「おいては――ですって」
「おいては――だよ。 グレーティアが向かう先で彼女を物理的危機から守るなら、きっと君はこの上なく優秀な人材だろう。 安心した」
「……どういう意味ですか」
「なに、人間というのは、どんなに近しくても一人と一人で構成されているという話さ……おっと」
追い詰められた鼠のような敵意のこもる僕の視線。 それを受け止めていた彼の静かな眼差しがふっと僕の背後に逸れたかと思うと、実に柔らかく笑った。
「罪作りな姫君の登場だ」
その言葉に、僕ははっと振り返る。 と、少し向こう、池のぐるりを渡る橋の上に、腰まである紅茶色の髪をなびかせた少女がぽつんと立ってこちらを見ていた。
僕も思わず目を細める。 そうか、僕が宅配に行くと言ったきり戻らないものだから、探しに来たんだろう……
「エリクス君、時間を取らせてすまなかったね。 大人気ない事を色々言ってしまったが、どうか許して欲しい」
僕はゆっくりと彼に向き直る。 するとレオは、驚くほど――腹が立つほど、さっぱりとした表情をしていた。 不愉快さと拍子抜けが、半分半分で僕を見舞う。
「さて、私はこれからバストゥークに帰って、家の仕事さ。 近々継ぐ事になったんで忙しくてね……何の事はない、私も流されているクチなんだよ」
レオはにっと笑う。 あれよという間に敵意のやり場を殺がれた僕は、ちょっと戸惑った顔をしていたかもしれなかった。
「それじゃ、元気で。 彼女にもよろしく言ってくれ」
そう言ってすいと顔を上げると彼は、橋の上で動けずにいるグレーティアに、軽く――友達のように手を振って、くるりと踵を返すと僕らに背を向け、人影賑わう森の区の方へと去って行った。 広い背中が、迷いのない足取りで僕達から遠ざかっていく。
『勝者は君だ』
あんな――あんな、背中を見せられて。
一体全体、どうやったら、どう勘違いできたら、そんな実感が湧くって言うんだ――――
* * *
「…………エリクス?」
レオが遠く見えなくなったのを見届けて、僕に歩み寄ってきたグレーティアの心配そうな声が、まだその方向をじっと見据えていた僕の耳を柔らかく撫でた。
「あの人――どうしてここに? ね、何か――」
「……うん、仕事で来たんだってさ。 ちょっと、立ち話を――してただけだよ」
どうにか微笑む僕の顔を、寄り添うようにして覗き込むグレーティア。 少し眉を曇らせて言う。
「でも、顔色がよくないわ――」
すっと、僕の頬に添えようとしたグレーティアの手は、しかし途中で阻まれた。
その腕ごと、僕が思いきり彼女の体を抱き寄せたから――
「エリクス――エリクス?」
僕の肩口で、グレーティアの声が戸惑ったように小さく囁く。
訝りながらも拒まないでくれる、細いのに柔らかい彼女の体を、抱き締める僕の腕は一周して少し余ってしまう。
ああ、腕の中に収めてしまえばこんなに容易いのに――どうして、届かない事が、及ばない事が、沢山あるんだろう――
何も言わない僕の様子に、グレーティアの腕がそっと僕の背中を抱いた。 彼女の髪に埋めた僕の眉がぎゅっと寄る。
威圧されっぱなしだった。 克てないと思った。
勝負にすらなっていないはずなのに、彼女を勝ち取った優越感なんかどこにもない。 試されて見透かされて、あげく自分自身ですら混沌としてもてあましている暗い淵を、ひょいと覗いてあっさり帰って行かれたようだ。
どんなに近しくても一人と一人で。 よく判らなかった。 判ったらまずいような気すらしていた。 その理由も判らない。 押し潰されそうな圧迫感と、ただ必死で戦っていただけだった。
何が違うんだ。 どこがいけないんだ。 十ほども違う年齢――それだけか。
器とか、覚悟とか、力量とか男らしさとか――そんなあやふやな言葉が浮かんでは消えて行く。
どれもこれも、自分に馴染むとは思えない遠い言葉ばかりだ。
僕は、そんなにもからっぽなのだろうか。
この衣装の白い色は、アルタナを心で奉じようとしない僕の元で行き場を失って、僕そのものの色になってしまったのだろうか――
「……エリクス、痛い――」
「あ……ごめん」
つい、力まかせに抱き締めていたらしい。 小さく絞り出すような抗議の声が耳元で上がって、僕は慌てて腕を緩めた。
僕の背に回した腕をほどかないまま、グレーティアはゆっくりと肩だけを離す。
そしてまだ俯き加減の僕の顔をじっと見つめて――僕の唇に、そっと優しく自分の唇を這わせた。
「――――」
からからに乾いていた僕の唇を、彼女がゆっくりと湿らせていく。
暖かい人工呼吸を受けているようで、僕はその心地よさにふぅっと目を閉じた。 がちがちに固まっていた体が溶けて、冷え切った手足に血が行き渡る心地がする。
「――好きよ」
柔らかく唇を離したグレーティアが、囁くように言った。
「だから……不安になんて、ならないで」
「うん」
ふんわりと染み渡るような彼女の言葉。 僕はただ頷く。 僕の肩に、ことんと彼女の小さな頭が乗った。 更にか細い、頼りない声が漏れる。
「不安に……させないで」
「うん」
ただ頷く。 情けない僕は頷く。 グレーティアの温もりだけが、今にも崩れそうな僕を支えている。
遥か頭上で、夕映えを渡る鳥の歌が流れていた。
あなたのような、揺るぎなさを下さいと。
僕は初めて、星の大樹に祈った――――
to be continued
穏やかな笑顔のレオ氏にそう言われ、逆らいもせずついて来てしまったのは何故だろう。
今、僕と彼の眼下には、澄んだ水の下に太い根を巡らす大きな池。
そしてその池の中央にどっしりとそびえる雄大な星の大樹が、天頂から降り始めた太陽を載せて僕達を見下ろしていた。
十四歳の時に、親父と共にバストゥークを離れた。 そして十七になって――つまり、あれは今から一年前。
冒険者となって一人故郷に戻った僕を迎えたのは、以前と変わらぬ懐かしい故郷の町並みと、絹のようにまっすぐで滑らかな紅茶色の髪を伸ばし続けていたグレーティア。
そして、彼女の家に得意先として出入りしていた彼、レオの影だった。
「うちの両親が盛り上がってるだけなのよ」
当時僕を迎えたグレーティアは僕の手を取ると、口を尖らせてそう言った。
「あの人は親切だし、とてもいい人だけど。 でも、それだけよ。 彼の方も特に私に言い寄って来たりはしないのに、お父さんとお母さんが勝手に私とレオさんをくっつけたがってるの――失礼しちゃうわ、私の気持ちも知らないで」
少し哀しげに苛ついたような彼女の瞳を、今でもよく覚えている。
聞けばフィーライト家も、グレーティアの家に劣らぬ資産家で。
同じバストゥーク内のお得意先、加えてその誠実で成熟した人となりと来れば、彼がグレーティアの両親の目にとまったのも無理からぬ事だろう。
そんな状況を知った僕は、一瞬逡巡してしまった。 体が弱かった一人娘を任せるならば、それは経済的にも社会的にも安定したレオ氏の方が何かと安心に決まっている。 薔薇は温室に置いておくのが一番いいし、高級食材は一流の料理人に託されるべきなのだ。
理不尽な縁談ではない――僕の頭の中の一番冷静な部分が、そう告げていた。
が、口にこそ出さなかった弱腰な僕の思考は、やはり彼女に伝わっていたのかもしれない。
そんな僕を、そして彼女に連れられ姿を現した僕に不安の眼差しを向けた両親を鮮やかに叩きのめすように、グレーティアは僕を伴って決然とバストゥークを飛び出したのだった。
「――冒険者を、しているんだって?」
傍から見れば和やかな散歩そのものの僕達の歩み。 池のほとりの低い岩壁に寄せた足を止めると、それまで無言だったレオ氏は、星の大樹をゆったりと仰ぎながら朗らかに口を開いた。
「……ええ、どうにかやっています」
僕も彼の横で、大樹に目をやりながらそう答える。 並ぶでもなく離れるでもない、微妙な距離。
「射撃の腕はなかなかだったものな、彼女は。 強いのかい?」
少し暖かい笑みを含んだ声が問う。
「そうですね、銃を持たせたらそこらの狩人にはひけをとりませんよ。 見事なものです」
「そうか、それは凄いな。 頼もしい」
彼は嬉しそうに微笑む。 努めて冷静に受け答えしながらも、僕は自分の言葉が上滑っていそうな気がしてどうしても落ち着かない。
「怪我などは、していないかい?」
物静かな声が続く。
「――ええ、大丈夫です。 前線には、僕が立つようにしてますから――」
「体を張って、守っているか?」
彼の体が不意にくるりと向きを変え、僕を正面に捉えた。
* * *
一年と少し前の、あの日――まさに故郷バストゥークを出ようとしていた、グレーティアと僕は。
商業区の大通りを南グスタベルグへと通じる門へ向かう大通りで、彼の店である防具屋の前に立っていたレオ氏と、ばったり鉢合わせた。
『――――』
それまで意気揚々と進んでいたグレーティアの足が、彼の姿を認めた一瞬ぴくっと止まる。 少しだけこわばった彼女の視線と、その先で穏やかに彼女を見返す背の高い人物。
突如としてそこに流れる静かに不自然な空気を見て僕は、ああ、彼が話に聞いたレオその人なのだ、と悟った。
『…………』
僅かに早まる鼓動。 ひどく長く感じられる数瞬の緊迫が解け――そしてグレーティアは、何も言わなかった。
きゅっと顔を引き締め、街の喧騒の中へと戻ってくる。 そして軽く頭を下げると再度、大通りの中央を誇り高い兵士の行進のように足早に進み始めた。
ごめんなさい、とも、さようなら、とも言わない。 それはつまり彼らの間に、そう告げなければならないだけのどんな蓄積も共有もありはしないという事で――グレーティアの無言をそう読み取った僕は、きりっと前を向いて歩く彼女と足を揃え、キール家の得意先である防具屋の前を通り過ぎた。
振り返らずにまっすぐと、グスタベルグへの門をくぐり抜けるグレーティア。
しかしそれに続こうとするその直前――僕はじわじわと背筋を走る痺れについに耐え切れず、後ろを振り向いた。
同じ場所で、同じ姿勢で、多分同じ表情で。
彼が、こちらを見ていた。
既に門の外に消えたグレーティアから外れたのであろう彼の視線が、ぴたりと僕を捉えている。
もしやと思っていた、怒りや憎しみの色は全くなかった。 いっそ静かな――しかしかと言って、優しく微笑んでもいない。
深い力を湛え、ただ何かを問いかけるようなその眼差しに、脳の隋まで、臓器の一番奥深くまで、全て丸裸にされて鷲掴みにされたような、鋭い寒気と圧迫感を僕の体は覚え――
かろうじて対峙したその視線を振り払うように、僕は身を翻すと門をくぐった。
ぞわりと全身を駆け抜けるものの正体を、知りたくなくて――――
* * *
「――――……、勿論です」
あの時の眼だ。 どこも厳しくない、どこも鋭くない――だからこそ跳ね付けられず、直接僕を体の底から射すくめたに違いない、あの眼だ。
無意識に大地に足を踏み締めて低い声で答えながら、僕は目の前の人物にゆっくりと向き直った。
レオ=フィーライト――
特に逞しく鍛えられてもいない。 ことさらに大きな体躯でもない。 威圧的な風貌でもなければ、勇壮な武具を佩びている訳でもない。
なのに――なのに。 男、であることを、何故だか否応なしに感じさせる――彼が、明るい陽の光を映えさせるようにして、僕に判断できないエネルギーを静かに放っている――
「――人間の生命力というのは、二種類あると思わないか」
自分と正対した僕を見て、彼は不意にその口調を世間話のような軽さに戻すと、すいと首だけを巡らせて視線を星の大樹に預けながらそう言った。
かすかに警戒したばかりの僕は肩すかしを食らったような気分になり、相槌の打ちようもなく口をつぐんで彼の言葉を待った。
「一つは勿論、肉体の頑健さだね。 外界からの物理的なダメージをはねのける筋肉や有害な汚染を排除する抵抗力。 実に判りやすい、君達冒険者のみならず私のような商売人にもよくよく必要とされる、人にとって最も必要なのにも関わらず最もその存在を忘れられがちな宝の一つだ」
まるで見えない舞台に立ってスポットライトを浴びたかのように、レオ氏はとうとうと言葉を紡ぎ出した。 視線は相変わらず大樹に。 僕は戸惑いを押し隠した硬い表情と沈黙で、その行方を見守る。
「その宝を手に入れるにはどうするべきか。 答えは至極簡単、鍛えればいい。 ランニング、筋力トレーニング、そして実践。 そう、特に君達のように冒険という世界に身を投じたならば、職業や役割による程度の差こそあれ、誰でも自然と肉体的に鍛えられていくことは間違いない。 まあそれはどちらかと言えば志向的と言うよりもむしろ必然、かくあって当然のこととして意識の底に埋没している面もあるかもしれないけれどね」
穏やかで淀みない言葉が滑らかに耳に流れ込んで来る。 僕は口を開かない。
「そしてもう一つ。 精神力という名の生命力だ――ああ、これはいわゆる魔法に用いられる精神力の事じゃないよ。 あれは肉体の強さと同列に考えてもいいだろうと、私は思っている――つまり私が言いたいのは、心そのものの力、とでも呼ぶべきものについてだね。 例えばどうしようもない窮地に陥った時、その場にへたり込むより先に腹の底から叫ぶ力。 例えば全てにおいて満たされ安らいでしまった時に、なおそれを越えてぬくぬくとした巣箱から新たな一歩を踏み出す力。 それは肉体の強靭さとはまた違った――その者自身の存在を常に洗い、腐らせない力だ」
彼は肘を低い岩壁に預けてもたれ、一遍の歌のように言葉を続けている。 僕は口を開かない。
「ではこの、肉体のように目には見えない、尊い力を手に入れるにはどうしたらいいか。 走っても駄目だ、腕立て伏せをしても意味はない。 恐ろしいモンスターと幾度対峙しても――そう、それらは所詮外側を塗り固め、その瞬間の己を守り抜く為だけの行いに過ぎない。 勿論それが下等だと言っている訳ではないよ、むしろ精神の入れ物を守り、精神と対になるべき欠かせないものと言えるだろう。 では、ならば、その中身たる心を、不屈のものにするにはどうするべきか――」
彼の瞳の焦点が、星の大樹を通り越した。 僕は口を開かない。
「その方法はただ一つ、己自身と戦う事だと私は思う。 ……ああ、紋切り型なくせに漠然とした嫌なセリフだな――まあ、他に表現を知らないから仕方がない。 つまり、自分の外から来るものではなくて、内にあるもの、内から湧き出すものを客観的に見据え、それを甘やかさずに選り分けて形にする、または形にしない、そういう厳格にして健康な意志の力だ。 実に気高く、そして美しい」
僕の中のもやもやが、次第に形を取り始める。 僕は口を開かない。
「ところがだ。 これの恐ろしい所はね、その尊い努力の結果を誰も一意に評価できないという事実にある。 自分で自分に下した評価と、人のそれが一致しない不運などこの世には掃いて捨てるほど転がっている。 まあそもそも人の価値観は千差万別、故に個人から発した行動と結果に唯一無二の評価を与えるなど土台無理な話だが――それが肉体の強さや呪文の強力さのような判りやすいものと違って、目で見て判断できない精神的な事柄ならなおさらだ。 故に多くの人はその頼りない不安から逃れんと、他者からの評価に自分をおもねろうとする。 自分の声を偽り、人の声の求める方向へと無意識に自分をフィットさせる。 あるいは逆に、他者からの評価にとことん疎い――あるいは全く価値を見出さない人もいる」
もやもやの量が増える。 僕は口を開かない。
「まあ今の例は極端としてもね。 そのどちらに偏っても、それはある意味不健全と言える事は君にも判ると思う。 しかし既に言ったように、どんな評価も完全に定めることのできないこの人の世で、それでもなお可能な限りそのバランスを取りつつ、なおかつ己を健全に――真っ直ぐに立てる為にしなければならない研鑚……それが、己と戦うということじゃないだろうか」
一つの結果がゆっくりと、しかし確実に迫ってくるのが見える。 僕は口を開けない。
「その点において。 その、心の強さという点において。 彼女は、グレーティアは、素晴らしいと思わないか。 そう、これも君の方が当然よく知っているだろうけれど――彼女は体が弱かった。 肉体の強さというものに見離されて生まれ、幼い頃に死線をさまよった事も一度ではないと聞いている。 が、そんな決して明るくはなかっただろう日々の中でも、彼女は腐らなかった。 妥協しなかった、甘えなかった。 それどころか――いや、恐らくはそれをバネにして、自分の意志を偽らずに見据え、そこに向かってまっすぐに自分を運んだんだ。 病弱という不遇に対する絶望の二文字などどこにも見当たらない。 病魔を退け、ご両親の加護を飛び出し、ただそこにいれば安泰が約束されていた、誰もが喜んで自分を肯定し見守ってくれる既存の道ではなく、自分自身で決めた道を選び取った。 その姿に対して使う形容を、眩しい――と言う以外に、私は知らない」
胸の底から、何か大きな黒い塊がせり上がってくるのを感じる。 ともすれば吐き気に変わりそうなそれを押さえ込んだ僕の口がついに開き、終わらせたのは――長い長い、前奏だった。
「……あなたは……あなたは、ティアのことを――」
「愛している」
どん、と音を立てて、体の奥で爆弾が破裂した。 余波で手足がじいんと痺れる……
大樹に注がれていた彼の視線が、いつのまにか戻ってきていた。 その横顔を注視したまま固まっていた僕の目が、自動的にそれと合ってしまう。 ざわ、っと、全身の毛が逆立った。
「先に言っておこう。 いや、既に言ったな。 勝者は君だ、警戒することはない。 他ならぬ私がそう言っているのだから疑う余地はないだろう」
「だったら……何が、言いたいんですか。 一体――」
「覚悟の程を、聞かせてもらいたいと思ってね」
かすかに喘ぐような僕の声に、レオはもたれていた岩壁からすっと体を離した。
「敗者への引導と思ってくれていいんだ。 自虐で言ってるんじゃないよ――いや、多少の意地の悪さは、あるかな」
精悍な顔に、ふっと苦笑いが浮かぶ。 しかしそこに、逸れられる脇道は見えなかった。
「――グレーティアがバストゥークを去ったあの日、私は自分の見立てが間違っていなかったことを痛烈に実感した。 君を選び、君と共に外の世界へ旅立つ彼女の凛とした後姿に、私が彼女に抱いた憧れの極致を見て、感動すら覚えた。 狂おしいほどの寂しさと同時に、また深く納得もしていたんだ」
彼の苦笑いが、愛しげな笑みに姿を変えた。 その笑顔が、僕の体の中に散らばった爆弾の破片に火を点ける――
「だが。 私は肝心の君を、検分していなかったんだ。 その時間がなかった。 グレーティアが選んだものに異論を差し挟む余地はないが――それでもなお、私は個人的に君に問いたい事がある」
何を――
「君の望みは、何だ?」
* * *
僕の望み。
僕の、望み。
突然、しかも直接僕に浴びせられた剥き出しの言葉が、頭の中で熱湯のように暴れていた。
「グレーティアと一緒に姿を消す君と、一瞬目が合ったね」
その混乱の向こうで、レオの声が遠く響いている。
「あの時、私は君に、何も感じ取れなかったんだよ。 幼馴染を奪ったという気負いも、故郷を後にする後ろめたさも――かと言って愛する者と旅立つ誇らしさも、新天地へ向けてのはやる気持ちのようなものもね。 まあ、私の思い込みと言われれば」
「僕は」
飽和して煮えたぎる脳が、彼がとうとうと紡ぎ続ける言葉の意味をついに咀嚼できなくなってきた時。
いつのまにか俯き加減になっていた僕の口から、考えがまとまるのを待たずに言葉が弾けていた。 レオがぴたりと口をつぐむ。
「――僕、は」
時間の感覚がおかしい。 一呼吸が、まるで一時間ほどにも感じられる。
「……ティアの――ティアを、外に出してやりたかった」
会話に使える単語が、急に頭の中からごっそり逃げ出してしまったみたいだ。 複雑な事柄を大人に説明しようとしている子供のように苦しげに、僕は言葉を刻む。
「あなたの言う通りだ、レオさん。 ――ティアは、意志の塊みたいな奴です。 僕も同じですよ……そんな彼女が、眩しくて仕方ない。 だから」
ごくり、と唾を呑む。
「あいつの望む所なら、どこにでも連れて行ってやりたい。 あいつの望む事なら何でもしてやりたい――あいつの元気な笑顔が見られるのが、何より嬉しいんだ。 生きていてよかったって、思える。 自分にもできることがあるって――」
「彼女の事はいい。君自身の事だ」
たどたどしく並べるような僕の言葉を、それまでじっと聞いていた彼は静かに遮った。
「グレーティアという喜びがあるのはよく理解できるよ。 私だってそうさ。 あんな溌剌とした命が隣にいてくれたら、どんなにか毎日が輝くか。 だから私も愛した」
喋って吐き出すことで収まりかけていた体の熱が、またかっと蘇る。 レオは続ける。
「そう言う私は彼女に選ばれる段階までも行けなかったけれどね―― そう、今私が訊いているのは、君自身の事だよ、エリクス君。 彼女という伴侶を得て君は、君個人は。 これから、どうなりたいと思っている?」
気付けばいつしか、午後の光にはごく淡いオレンジ色が混じり始めていた。
もうすぐ星の大樹をねぐらとする鳥たちが帰ってくる。 緩く風が吹いて、足元の池からひんやりとした湿気を運んでいずこへともなく去って行った。
「僕は――」
これは僕の声か。 これは僕の言葉か。 突如として全てが遠く、自分の発言すらも用意された文章を再生しているかのように乖離していく。
「――僕は、僕の事は、別にどうだっていいんです。 ティアの事に比べれば――いや、ティアの為に何か出来るなら、それが僕の、存在意義になる」
突然手を滑らせて命綱一つで宙にぶら下げられ、奈落の上でただ慣性に揺られるしかないロッククライマーが振り回す手足のように、何故か僕の言葉は吐いても吐いても手ごたえがない。 真実なのに。 本心なのに。
「だから全力を注ぐ。 金になるモンスターを狩ることだって、そこで彼女の盾になることだって、ティアが僕に望んでくれるなら――それが、僕の望みそのものだ。 誰にも譲らない。 くれてやるものか。 ティアが、僕の側で思うように生きてくれるなら、他に一体何が要るって――」
僕は必死に言葉に力を込める。 その裏で、ノノの工房で聞いた言葉が脳裏をよぎった。
――自分の将来の事なんだから、自分でやらなきゃ嘘でしょ――
「――成程」
深く考えるよりも先に迸り出てくる言葉達を一気にまくしたて、ふぅっと荒い息をつく僕をゆったりと見下ろして。
レオは、一言そう言った。
「よく判った。 いい覚悟だ。 そう――彼女の体を預けるという点においては、及第点をあげよう」
「おいては――ですって」
「おいては――だよ。 グレーティアが向かう先で彼女を物理的危機から守るなら、きっと君はこの上なく優秀な人材だろう。 安心した」
「……どういう意味ですか」
「なに、人間というのは、どんなに近しくても一人と一人で構成されているという話さ……おっと」
追い詰められた鼠のような敵意のこもる僕の視線。 それを受け止めていた彼の静かな眼差しがふっと僕の背後に逸れたかと思うと、実に柔らかく笑った。
「罪作りな姫君の登場だ」
その言葉に、僕ははっと振り返る。 と、少し向こう、池のぐるりを渡る橋の上に、腰まである紅茶色の髪をなびかせた少女がぽつんと立ってこちらを見ていた。
僕も思わず目を細める。 そうか、僕が宅配に行くと言ったきり戻らないものだから、探しに来たんだろう……
「エリクス君、時間を取らせてすまなかったね。 大人気ない事を色々言ってしまったが、どうか許して欲しい」
僕はゆっくりと彼に向き直る。 するとレオは、驚くほど――腹が立つほど、さっぱりとした表情をしていた。 不愉快さと拍子抜けが、半分半分で僕を見舞う。
「さて、私はこれからバストゥークに帰って、家の仕事さ。 近々継ぐ事になったんで忙しくてね……何の事はない、私も流されているクチなんだよ」
レオはにっと笑う。 あれよという間に敵意のやり場を殺がれた僕は、ちょっと戸惑った顔をしていたかもしれなかった。
「それじゃ、元気で。 彼女にもよろしく言ってくれ」
そう言ってすいと顔を上げると彼は、橋の上で動けずにいるグレーティアに、軽く――友達のように手を振って、くるりと踵を返すと僕らに背を向け、人影賑わう森の区の方へと去って行った。 広い背中が、迷いのない足取りで僕達から遠ざかっていく。
『勝者は君だ』
あんな――あんな、背中を見せられて。
一体全体、どうやったら、どう勘違いできたら、そんな実感が湧くって言うんだ――――
* * *
「…………エリクス?」
レオが遠く見えなくなったのを見届けて、僕に歩み寄ってきたグレーティアの心配そうな声が、まだその方向をじっと見据えていた僕の耳を柔らかく撫でた。
「あの人――どうしてここに? ね、何か――」
「……うん、仕事で来たんだってさ。 ちょっと、立ち話を――してただけだよ」
どうにか微笑む僕の顔を、寄り添うようにして覗き込むグレーティア。 少し眉を曇らせて言う。
「でも、顔色がよくないわ――」
すっと、僕の頬に添えようとしたグレーティアの手は、しかし途中で阻まれた。
その腕ごと、僕が思いきり彼女の体を抱き寄せたから――
「エリクス――エリクス?」
僕の肩口で、グレーティアの声が戸惑ったように小さく囁く。
訝りながらも拒まないでくれる、細いのに柔らかい彼女の体を、抱き締める僕の腕は一周して少し余ってしまう。
ああ、腕の中に収めてしまえばこんなに容易いのに――どうして、届かない事が、及ばない事が、沢山あるんだろう――
何も言わない僕の様子に、グレーティアの腕がそっと僕の背中を抱いた。 彼女の髪に埋めた僕の眉がぎゅっと寄る。
威圧されっぱなしだった。 克てないと思った。
勝負にすらなっていないはずなのに、彼女を勝ち取った優越感なんかどこにもない。 試されて見透かされて、あげく自分自身ですら混沌としてもてあましている暗い淵を、ひょいと覗いてあっさり帰って行かれたようだ。
どんなに近しくても一人と一人で。 よく判らなかった。 判ったらまずいような気すらしていた。 その理由も判らない。 押し潰されそうな圧迫感と、ただ必死で戦っていただけだった。
何が違うんだ。 どこがいけないんだ。 十ほども違う年齢――それだけか。
器とか、覚悟とか、力量とか男らしさとか――そんなあやふやな言葉が浮かんでは消えて行く。
どれもこれも、自分に馴染むとは思えない遠い言葉ばかりだ。
僕は、そんなにもからっぽなのだろうか。
この衣装の白い色は、アルタナを心で奉じようとしない僕の元で行き場を失って、僕そのものの色になってしまったのだろうか――
「……エリクス、痛い――」
「あ……ごめん」
つい、力まかせに抱き締めていたらしい。 小さく絞り出すような抗議の声が耳元で上がって、僕は慌てて腕を緩めた。
僕の背に回した腕をほどかないまま、グレーティアはゆっくりと肩だけを離す。
そしてまだ俯き加減の僕の顔をじっと見つめて――僕の唇に、そっと優しく自分の唇を這わせた。
「――――」
からからに乾いていた僕の唇を、彼女がゆっくりと湿らせていく。
暖かい人工呼吸を受けているようで、僕はその心地よさにふぅっと目を閉じた。 がちがちに固まっていた体が溶けて、冷え切った手足に血が行き渡る心地がする。
「――好きよ」
柔らかく唇を離したグレーティアが、囁くように言った。
「だから……不安になんて、ならないで」
「うん」
ふんわりと染み渡るような彼女の言葉。 僕はただ頷く。 僕の肩に、ことんと彼女の小さな頭が乗った。 更にか細い、頼りない声が漏れる。
「不安に……させないで」
「うん」
ただ頷く。 情けない僕は頷く。 グレーティアの温もりだけが、今にも崩れそうな僕を支えている。
遥か頭上で、夕映えを渡る鳥の歌が流れていた。
あなたのような、揺るぎなさを下さいと。
僕は初めて、星の大樹に祈った――――
to be continued