テノリライオン

Blanc-Bullet shot14

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匿名ユーザー

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 その日の夕方には、調整とテストを含めたデリンジャーの修復は完全に終わった。
 グレーティアがまたこまごまとした食材を買ってきて腕を振るい、主に彼女と親父の間で思い出話の花が咲く、今は二度目の夕食の席だ。

「おじさまは、もうずっとここで暮らすつもり、なのかしら……?」
 あらかた食事をたいらげ、静かにフォークを置くグレーティアが遠慮がちな声と表情でに親父に尋ねた事で、それまで明るかった食卓の空気が少し重くなった。
 それを聞いた親父はふっと顔を上げると、嬉しそうな寂しそうな、実に複雑な笑みを浮かべる。 彼女は慌てて付け足した。
「あ、ううん、勿論お仕事の事に口を出す気は全然ないんです、ただ――あの……」

 思い切って訊いてはみたものの、どう言った所でそれは仕事のことに触れてしまう。 そう気付いたのだろう、彼女のもどかしそうな言葉は尻すぼみになって出てこない。
「――いや、判るよ。 ありがとう、ティアちゃん」
 彼女の言わんとしている所を正しく察した親父は、優しく目を細めて紅茶色の髪の少女に頷きかける。 もし僕に女姉妹がいれば、きっとこんな目をして見るんだろう……なんて考えが、僕の頭に意味もなく浮かんで消えた。
「そうだね、故障ひとつでこんな遠くまで来させてしまうし、新しく銃も作らなくなった。 不甲斐ないなぁ、とは思っているんだが」
「いいえ、違います! そんな事なくて、そうじゃなくて……そうじゃ…………ううん」
 親父の苦笑いを含んだ言葉に、グレーティアは半ば憤然と高い声を上げたが。 するするとしおれるように肩を落とすと、呟くように言葉を続けた。

「ううん……ごめんなさい、本当は、そうです。 こんな遠くじゃなくて、もっといつでもすぐ会えるような所に、おじさまにはいて欲しい。 それに……」
 やや遠慮がちに俯いていた顔を、彼女は思い切ったようにまっすぐと上げる。
「これだけの、こんな素晴らしい銃を作れるおじさまが、表舞台から遠ざからなきゃいけないなんて、嘘よ。 勿体無いわ。 世界の損失です、力の浪費です! そうよ、おじさまが恥じる事なんか、隠れる事なんか何もないのに……」

 ずっと溜め込んでいたのであろう思いを、堰を切るように一気に吐き出すグレーティア。
 しかし、言葉を尽くした彼女が口をつぐんだ後に訪れたのは、やっぱり少し切ない沈黙で。 その中で彼女は小さく溜息をつき、頭を垂れて「すみません」と呟いた。
「いいや、ありがとう。 ……嬉しいな、そう言ってくれるのはティアちゃんぐらいだ」
「おじさま……」
 どこまでも気弱な親父の言葉と表情に、グレーティアは苛ついたようなもどかしそうな声を上げる。
 悲しげに眉根を寄せる彼女に微笑んで、親父はゆっくりと語り始めた。

「いや、情けない話だけどね、ティアちゃん。 私は……私の作る銃が、一体この世に必要なものなのかどうか……どうにも、自信が持てないでいるんだよ」
「そんな……そんなの、決まってるじゃないですか! 忘れたとは言わせません、沢山の人がおじさまの銃にくれた賞賛を、私だって覚えてるわ!」
「うん、そうだね……勿論私だって覚えている。 私の仕事を喜んでくれた人達には、申し訳ない、恥ずかしいと思ってはいるんだよ」
 かちゃかちゃ、と食器の触れ合う音がテーブルの上に響く。 食べ終わった食器を、話しながら親父が重ねる音だった。 グレーティアが慌てて立ち上がり、それを引き取る。 ごちそうさま、と言いながら親父は続けた。

「私はね……私の銃を、ティアちゃんがするように扱って欲しいんだ。 人を傷つける目的で使って欲しくない、危機から身を守る為のお守りのようにこっそりと身につけて欲しい。 ――判っている、益体もない戯言だ。 どう言葉をきれいに繕おうが、私が作っているのは殺傷能力を備えた凶器で……どんな経緯があろうが、その凶器が行う事から私が目を逸らす事は許されないんだ。 だからね――だからこそ」

 親父の言葉が止まる。 ゆっくりと僕の食器も集め、重ねていたグレーティアの手も止まる。

「迷いとか恐れを残したままで、新しい銃を世に送り出す事はできないんだ。 それは私にとって裏切りであり、苦痛なんだよ――はは、とまぁ、こう言えば格好いいけどね。 つまりは怖いのさ、また……哀しいいざこざが、私のせいで起こりはしないかと」
「おじさま――」
「別に私でなくても、立派に働く銃を作る人間はこの世にいくらでもいる。 だったら何も――とね。 そう、まだ逃げているんだな、この臆病者は」
 おどけたように照れ臭そうに、親父はぽりぽりと頭をかく。 恐るべき精緻な銃器を作り出す右手が、頼りなく宙をさまよってテーブルに降りた。

「――ごめんなさい、おじさま。 生意気な口を利きました」
 グレーティアが、目を伏せながらぽそりと言う。 親父がふるふると首を横に振った。
「そんな事はないよ。 とても嬉しい。 ありがとう」
 泣き出しそうな表情で目を上げるグレーティアに、親父は優しく微笑みながら言った。
「また大陸に戻る、とすぐに言う事はできないけど。 ちゃんと考えてみることは約束するよ。 そうだな、まず二人が新居を手に入れた暁には、ちゃんとこちらから出向かせてもらおう。 これは確約だ」
 親父のそんな慰めるような言葉に、グレーティアの顔がぱぁっと明るくなった。
「ええ! そうだわ、ぜひ見に来てもらわないと! 何だったら、おじさまの部屋も用意しましてよ?」
「うわ、それは勘弁してくれ……」
 僕の呻くような言葉を尻目に、グレーティアは嬉しそうに笑いながら手早く食器をまとめると、笑顔で流しの方へと消えていった。


「――やれやれ、ティアちゃんには敵わんな」
 苦笑いを浮かべながら椅子の背もたれに体を預け、親父は溜息をつくように、でもどこか嬉しそうに言った。
「女の子にああまで言われちゃなぁ、復帰を考えない訳にはいかんか」
「まあ――いいんじゃないか、どっちでも」
 僕も改めて椅子に沈み込み、テーブルに残されたグラスを無意味に傾けながら呟く。 親父が問い返すように僕を見た。
 ――ここに来て、形になった思いがある。 言うだけは、言ってもいいかな。 僕はちょっと覚悟して、長台詞のための息を吸い込んだ。

「バストゥークを出た時はさ――僕は、あの事件は『バカな奴らが自滅した』ぐらいにしか思っていなかったから――親父は、こんなくだらない事で潰れるのか、って思ってた」

 ヴィンスロットコレクター同士のいざこざ。 一つの銃を巡る独占欲に駆られての口論の末、自らのコレクションで相討ちになった一般人。 実に救われない事件。

「その程度なのか、って。 昔っからずーっと工房にこもりっきりで必死にかじりついていた仕事も、ちょっとケチがついたらとんずらかよ、って思ってた」
「手厳しいなぁ」
 親父が笑う。 僕も笑う。
「でも、四年経った今でも、錆び付いてるものは何にもなかった。 新しい鉄の匂いもするし、相変わらず部屋は散らかってる」
「……手厳しいなぁ」
「辞めたんでなきゃ、いいんじゃないか」
 更に苦笑いする親父に構わず、僕は言った。
「銃工から逃げたんだなと思ってたけど、そうじゃないんだろ。 じゃ、いいんじゃないか。 堂々とでも細々とでも、居場所なんかどこででも、親父は銃をいじってればいいと思うよ。 食うに困るでもなさそうだし、これ以外の仕事をしてる親父なんか想像つかないよ。 僕と同じにさ、好きにやればいい」
「……そうか」

 親父は笑っている。 嬉しそうに笑っている。 銃神と謳われたガンスミスの髭面に、温厚で気弱な笑みが広がる。
「じゃ、お言葉に甘えてゆっくり考えさせてもらうとするよ。 そうだなあ、どこでもいいんなら、お前の新居に居候させてもらって復帰の足がかりにでもするかな」
「いやだから、それは勘弁してくれって……」

 グレーティアが食器を洗う水音が、僕と親父の声を一層近づけていた。


  *  *  *


「それじゃ――おじさま」
「ああ、気をつけて行きなさい。 エリクスもな、しっかりやるんだぞ」
「うん、判ってる」

 タブナジア地下壕、ルフェーゼ野に抜ける出口。
 一夜が明け、支度を整えて発とうとする僕達を、親父は見送りに出てきていた。

「おじさまも、お体にお気をつけて。 また来ますから」
「うん、楽しみにしてるよ」
 すっかり回復して真新しく輝くデリンジャーを腰に収めたグレーティアが、親父の胴に腕を回してきゅっと抱きつく。 顔をほころばせる親父が、その背中をぽんぽんと叩いた。
 ゆっくりと名残惜しげに体を離すグレーティア。 親父の視線が、彼女から僕に移る。

 特に言葉は要らない。 言うべき事は言ったし、聞くべきことは聞いた。 そう思った。
 僕の所に戻ってくるグレーティアを迎えながら小さく頷いてみせると、親父の瞳が静かに、確かに頷き返した。
 踵を返し、歩き出す。 隣を行くグレーティアが肩越しにぺこりとお辞儀をするのにつられて最後に軽く振り返ると、草原の明かりの下に踏み出す僕達ににこやかに手を振る親父の姿が、洞窟の薄闇に覆い隠されて溶けるように消えていく瞬間だった。





 来た時とは打って変わって、ルフェーゼ野には薄い曇り空から吹き降ろす冷たい風が流れている。
 足元の下草やまばらに立つ木々が、軽い雨音のようなざわめきを振りまいていた。 グレーティアの長い髪だけでなく、僕の短い黒髪までもが荒い流れに不規則にかき回されて、僕は少し目を細める。

「そう言えば、結局イヴァンにはお別れが言えなかったわね」
「ん? ――ああ」
 吊り橋を渡りながら、グレーティアが言った。 金髪の青年の、掴みどころのない面影が僕の脳裏をかすめる。
「昨日ちょっと会った時に、多分今日は顔を合わさないだろうって言ってたから。 軽く挨拶はしておいたよ」
「あら、そう? ――ずいぶん親切にしてもらったから、本当はちゃんとお礼を言えればよかったんだけれど」
「――そうだった?」

 えらい違和感を感じて、僕は思わず問い返す。 そんなに愛想のいい奴だったか……?
「そうよ? 町を案内してもらった時もあれこれ教えてくれて荷物も持ってくれて、とても助かったし楽しかったわ。 デリンジャーの修理中だって、色々と気を遣ってもらったのよ」
「ふぅん……?」
 僕は喉の奥で唸って、少し眉根を寄せる。 確かにあいつがグレーティアに素っ気なくしているのを見た覚えはないけれど……昨日彼が最後に見せた、妙にアンバランスな冷たさが印象に残っているだけに、彼女の語る彼の人物像との明らかなギャップに戸惑いを覚えずにはいられない。
「ん? あらっ? エリクス?」
 と、そんな思案顔の僕を見て、グレーティアは唐突にいたずらっぽい口調になって言った。
「ね、もしかしてヤキモチ焼いてるのかしら?」
「うえっ?」
 突拍子もないグレーティアの言葉に、僕は思わず間の抜けた声を上げてしまった。 目を見開いて横を振り向けば、隣を歩く彼女は何やら嬉しそうな覗き込むような可愛らしいにやにや笑いで僕を見上げていて、僕は半ば強制的にどぎまぎさせられる。
 あれ? いや、ちょっと待て。 そうなのか? これは――ヤキモチなのか? そういう観点から、僕は悶々としているのか?

「もう、エリクスったら、そんなの変に気にする事ないのにっ。 イヴァンに悪いわよ?」
 そう言いながら、グレーティアの声はやたらと嬉しそうだ。 くすくすと笑いながら僕の左腕を引き寄せて、ぎゅっと抱く。 その肩口からくすぐったそうに見上げる彼女の頬が、少し赤く染まっていた。
 いや、照れるのは僕の方なんだが……って。
「――ティア、もしかして熱ある?」
 僕は言って、グレーティアの額にすっと手を当てた。 左腕に絡まる彼女の腕が少し暖かいような気がする――うん、やっぱり額も少し熱い。
「え――あ」
 はっとしたようにグレーティアは表情を戻し、顔に手を当てる。
「……うん、少しだるいような気はしていたんだけど、まっすぐウィンダスに戻るからいいかしらと思って……いやだ、見て判るぐらい?」

 どうしたんだろう、グレーティアが体調を押すなんて、珍しいな。
 僕は一瞬考える。 このままルフェーゼ野を抜けて、バルクルム砂丘を横切り――駄目だな。 距離はともかく、気温差が気になる。 ここは今にも天気が崩れそうだし、砂丘は間違いなく強い太陽が照り付けて暑くなるだろう。 まだ地下壕からもそう離れていないし、ここは一旦引き返して休んだ方がいいか……。

「うん、急ぐ用事もないし、念の為一度引き返して調子を戻そうか。 ちょっと薬を飲みに帰ろう」
「ん……そうね……」
 言われるまま足を止めるが、彼女はあまり気が進まなさそうな雰囲気を見せている。
「あまり、おじさまには心配をかけたくないんだけれど……」

 ――ああ、そういう事か……だからか。

「――そうだね、とりあえずはまっすぐ寄宿舎に行けばいいよ。 様子を見て、平気そうならそのまま出よう。 環境が変わってちょっと疲れが出たんだね」
「うん……ごめんなさい」
 僕達は回れ右をすると、来た道をゆっくりと戻る。 深い谷を渡る吊り橋が再度僕達を迎え、一歩を進む度にぎし、ぎしと小さく軋む。

「本当に……いつも、面倒をかけてばかりだわ……」
 その言葉を、遥か眼下の川のせせらぐ音と吹き抜ける風音に流してしまおうとするように、吊り橋を行くグレーティアがぽつりと呟いた。 僕はくすりと笑って言う。
「もうそんな事が言えるほどティアは弱くないじゃないか。 熱の出たのだって、どれだけぶりだい? あんな元気に銃を――」
「ねえ、エリクス」
 静かに、穏やかに、グレーティアが僕の言葉を止めた。
「うん?」
 何だか優しく疲れたような、とても大事そうに紡がれる言葉に、僕は笑いを収めて彼女を見下ろす。

「あのね、私、本当に嬉しかったの。 物心ついた頃からずぅ……っとベッドの上で過ごしてきた私が、リカード先生のお陰で――ああ、これは両親のお陰でも勿論あるけれど――人並みに出歩いて、運動できるまでになって。 それだけでも十分な幸せなのに、まだ満足しなかった私に、今度はおじさまは銃を教えてくれた。 怖い力だったけど、非力で頼りない私の手元からまっすぐ空気を貫いていく弾道が、それまでいた狭かった世界の皮を破って、どこまでも切り拓いてくれるようで、すごくわくわくしたわ。 本当に、何でもできるって思った。 どこまでも行けるって思った」

 空中を渡る吊り橋を踏み締めるように、ゆっくりと歩くグレーティア。 自分に語りかけるような言葉、柔らかく幸せそうな顔。 僕の、唯一の原動力が隣を歩いている。

「そして、そんな無謀な気持ちと偏った力だけで世界に飛び出したがっている危なっかしい私を、あなたが連れ出してくれた。 私一人じゃできないことを全部補ってくれて、足りない所を助けてくれて、それでやっと私はここにいるんだわ」

 少し強い風が吹いて、僕らを運ぶ吊り橋を揺らす。 流される長い髪をかきあげた後に現れた、嬉しそうな中にも切なげな瞳が僕を見上げて微笑んでいた。

「本当に、感謝してるのよ。 先生とおじさまと、何よりずっと一緒にいてくれる、エリクスには。 こんなに助けられっぱなしで、一体どうやったら恩返しができるのか判らないくらいにね――」
「そういう事はね、ティア」

 吊り橋を後にしながら、僕はくしゃっとグレーティアの髪をなでた。 なんだかもう、胸がいっぱいだった。
 でも、こんな過分な言葉をもらうような立派な事なんか、きっと僕はしていないから。
 逆に少し、怖くなる――

「逆もまた然りなんだよ。 先生はティアが元気になってくれて、親父はティアが力をつけてくれて、僕はティアが近くにいてくれて、それで、嬉しい。 それでいいんだ。 プラスマイナスゼロ。 ね」
「そうかしら……とてもそうは思えないけど、でも」
 僕の言葉にグレーティアは、タブナジア地下壕の入り口にまっすぐ向けていた瞳をすっと細めて、小さく言った。
「そうだったら、嬉しいわ――」


  *  *  *


 一旦地下壕に戻った僕達は、まっすぐ寄宿舎に向かった。 場所柄満員ということはまずないし、今朝方出てきた時にも空きは十分にあったから、少し休む分には問題ないだろう。
 そう考えながらグレーティアを連れて吹き抜けをかすめ、小規模な寄宿舎に向かう横道に入った、その時。


 がぅぅ――――ん……


「!!」

 突然響いた、遠く小さくも鋭く空気を切り裂く音に、僕は咄嗟に振り向いた。 銃声だ!
 洞窟のような町の内部に反響してあちこちへ散らばっているが……間違いない、居住区の奥の方から――!
「エリクス!」
 同様にびくっと身を硬くしたグレーティアの、緊迫した声が僕を弾く。
「ここにいて! 様子を見て来るから――」
 そう言いながら、僕は既に身を翻し駆け出していた。 いくつものいくつもの嫌な予感が激しい泡のように浮かんでは僕の心臓を蹴り飛ばして消える中、転がるように階下へのスロープを駆け抜け、横道にまばらに並ぶ扉の一つへと飛び付き、張り倒すようにばんと開けた、僕の両目に飛び込んできたのは――


 金色の向こうの、赤色。


「――っ!?」

 僕が撥ね開けた扉の前で、ぎょっとしたように立ちすくむ金髪の青年。 二人の間で、時がすさまじい密度を抱え込んで止まった。
 何故ここに。 もう発ったんじゃなかったのか――彼の大きく見開かれた瞳と、ごとりと取り落とした拳銃がそう訴えている。
 次の瞬間、純粋な驚愕から一転みるみると罪人の色に歪み染まっていくその表情の向こうには、鮮やかな赤色が広がっていた。
 床に伏す親父。 ぴくりとも動かない。 その顔の辺りから、蛇口を開いたように刻々と容赦なく面積を広げる、赤――

「っ!!」

 真っ暗な闇に飲み込まれそうな一瞬の隙を突いて、イヴァンが戸口に立ち尽くす僕を突き飛ばし通路へとまろび出た。 がくんとよろけながらも正気を取り戻した僕は一秒以内の迷いの後、走り去るイヴァンを放って部屋の床に這う親父に駆け寄った。
「親父! 親父っ!!」
 屈み込んで耳元で叫ぶ。 反応のない体をごろりと仰向けにし、治癒呪文を――そうでなければ蘇生の呪文を唱えようと、思い切り吸い込んだ息が――凍りついた。
「あ――――」
 目を閉じ、べっとりと赤く染まった横顔。 こめかみを、脳を、完全に打ち抜かれている。
 脳の壊滅的な損傷。 白魔道士の蘇生呪文が及ばない、唯一の死因……!

「きゃあぁっ!! おじさま、おじさまぁっ!」
 背後から、遅れて駆けつけたグレーティアの悲痛な叫び声が響いた。 呆然と固まる僕の傍らに倒れ込むように駆け寄って親父に取り付き、涙声で呼び続ける彼女の声が僕を彼岸から引き戻した。 視線の下で、横たわる親父の体が頼りなくぐらぐらと揺れている。
「……ぐぅぅぅ……」
 知らず僕の喉から、獣のように獰猛な低い唸り声が漏れ出していた。
 腹の底が燃えるように熱い。 視界いっぱいに赤い血の色が広がって離れない。 どんなに呼んでも二度と届かないと判った声が、行き場を失って胸の中で沸騰しているのだ。
 僕はがっと立ち上がり、親父とグレーティアを置いて猛然と部屋から駆け出した。
 横道から吹き抜けへと全速力で走り抜ける。 がばとスロープを見上げると、灰色の岩肌の中を一目散に駆け上がるイヴァンの後ろ姿が僕の目を捉えた。 高い空にいつしか響き出した遠雷をねじ伏せるように、喉を裂いて叫ぶ声が迸った。

「――――イヴァアアアァーーーン!!」


to be continued
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