テノリライオン

Blanc-Bullet shot15

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匿名ユーザー

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「貴っ――様あぁああぁっ!!」

 どうやら体の鍛え方が違ったらしい。 親父の部屋から逃走してスロープを登り切り、出口へと向かう吊り橋の中程で足をもつれさせたイヴァンに僕はやすやすと追いついた。
 息を切らす彼の肩口をがっと捕まえ、そのまま力任せに板作りの床へと叩き付けるように引き倒す。
ヤスリを擦るような音を立ててイヴァンの背は橋板の上を滑り、片足が橋の淵からこぼれて止まる。 僕はそこに飛びかかると、彼の襟首を両手で掴み上げながらあらん限りの声で怒鳴っていた。
「何故だ、言えっ! 何故、親父を撃ったあっ!! 何故だ――何故だ!!」
 自分自身すら飲み込まれそうな怒りの中で、最後に見た親父の姿が脳裏をぐるぐると回っていた。 去り際の僕に頷いてみせる親父。 洞窟の薄闇の向こうに消えた、作業着のままの姿。 あれが、あれが最期の別れだなんて……!!

 気の触れたような僕の怒号とがくがくと襟首を揺さぶられる衝撃に、荒い呼吸を繰り返す金髪の青年はぎゅっと目を瞑って黙している。
 その頑なな様子が、一層僕の怒りをかき立てた。 貴様に、黙る権利などあるものか……!
「答えろぉおおおーーっ!!」
 とどめとばかりに振り絞り溢れる声は、とても肺から出ているとは思えなかった。 遥か上空でばさばさっと鳥が飛び立つ音がしたかと思うと、ラムウの舞い降りたほの暗い空が、僕らの頭上で大きな雷鳴を噛み砕いた。

 力いっぱい食い縛った歯の間から漏れる、獣のように荒く打ち震える僕の息の下で、固く閉じられていたイヴァンの目がゆっくりと開いて僕を見上げた。 そこにはかつて見た、あの変に冷静な光も無感情な色もすっかり剥げ落ち、もはやどこにも見当たらなかった。 これが、こいつの本性か。

「……ヴィンスロット、コレクションだよ」

 昨日までとは別人のように獰猛な表情をさらけ出すイヴァンが、ついに地の底から響くような声で言った。 血走った目が暗い憎しみを湛えて僕を睨みつけている。
「あれのお陰で、俺は――俺達の生活は、めちゃくちゃにされたんだよ!」
「ん、だとぉ――」
 忌々しげに吐き捨てるようなイヴァンの言葉に、全身を炙る怒りの熱気を縫うようにして僕の背筋をぞわっと悪寒が走った。 まさか、あの悪夢が、また――

 僕に組み伏せられ身動きの取れないイヴァンの口元が歪んだかと思うと、ゆっくりと言葉での反撃を始めた。


 ――あんたも息子なら知ってるだろ。 あの人の作る銃が、一部のマニアの間でどんだけお宝扱いされてるか。 俺の父親もそのマニアの一人だったのさ。
 いつからかすっかりヴィンスロットの虜になっちまって……どこでどう興味を持ったのか、ろくに撃てもしねぇくせにフォルムがどうの構造がどうのと、なけなしの金で買い集めた銃と単なる薀蓄止まりの知識ですっかりご満悦だった。
 正直どうかと思ったね、あんな物騒なもんを嬉しそうに愛でてる姿ってのは。 単なる趣味と思って強いて止めはしなかったが……いや、今にして思えば、殴ってでも罵ってでも止めておくべきだったんだ。
 俺の家は平凡な食料品の商店だった。 特に目立って儲けている訳でもなく、細々とやっていたのに――何だかんだと集まってきたヴィンスロットコレクションの存在を、どこぞの悪党に嗅ぎつけられたんだ。 どうやらその中に、かなりのレアものが含まれていたらしい。
 真夜中だった。 覆面をした数人の強盗に押し入られて、ありもの根こそぎ持って行かれたよ。 それだけならまだしも、ついでとばかりにうちの売り上げやら運転資金やらまでかっさらって行きやがった。 ああ、文字通りの一文無しさ。
 両親は抵抗してあっさり殺された。 俺は知り合いの所に、アルダは――住み込みの子は、たまたまずっと離れた部屋にいて事なきを得たが――。

 命が助かっただけマシ、なんて思う暇もなかったね。 何しろ一夜にして正真正銘の破産だ。 官憲とのやりとり、両親の葬儀、取り引きの後始末、家も土地も売って――嵐のようなどたばたの後に残ったのは、これ以上俺にはどうしようもない、焦げ付きと借金の山だ。
 とりあえずは少ない親戚が、可能な限り肩代わりしてくれたよ。 だけどのこの急場は凌げても、最終的には俺が返さなきゃならねぇ。 俺は急いで職を探して、時間はかかるけども何とか親戚筋に返済するだけの見通しを立てた。 けど――――


「けど――何よ――」
 不意に僕の背後から、涙混じりの声がした。 振り返ればグレーティアだ。 頬を涙で濡らして吊り橋に張ったロープにもたれながら、悲壮な怒りの表情でイヴァンを睨み下ろしている。
 小さく震える彼女の右手が、腰元をぎゅっと握っていた。 修理したばかりの――今や形見となってしまった銀色のデリンジャーに伸びかける手を、必死で止めているように見えた。
 すると、その苛烈な眼差しを浴びて初めて、それまで憎々しげに言葉を吐き出していたイヴァンの表情がびくりと怯んだ。 が、それも束の間、すぐにまた射るような視線を立て直すと僕に戻し、彼は告白を続ける。

「――意地の悪い取引先が、一つあったんだよ。 うちの状況を知りながら、分割など認めないし受け取らない、今すぐ全額納めなきゃ契約違反だと無茶を言い出して――それが無理なら働き手を頂いて、保険と返済にさせてもらうと言い出しやがった!」
 そこが核心なのだろうか。 イヴァンの呪詛のような声の矛先が僅かに僕から逸れて、遠くその『取引先』とやらに向けられたような気がした。
「うちの立場で抵抗できる訳もない。 寄越さなければ出る所に出る、とまで言われて――それを聞いてアルダは、自分で行っちまったんだよ! あのクソ親父の所に!!」
 イヴァンの自由な左手が、だんっと木の床を叩いた。
「連れ戻そうにも金がなきゃ話にならねぇ! 俺の稼ぎは肩代わりをしてくれた親戚にも返していかなきゃならないし、その取引先への借金が一番デカかったんだ! 無理に決まってる!」

 橋板に押さえつけたイヴァンの体が、興奮で魚のように跳ねていた。 いつのまにか被害者の匂いを漂わせ始めた彼の様子に改めて頭にかっと血が上って、再度僕はその体を捻じ伏せるように声を荒げる。
「だから何だ! それが何で、親父を殺す理由になる! 滅茶苦茶を言うな!!」
「――もとはと言えば」
 と、それまで喚きたてていたイヴァンの声が一転静かに、しかし更なる闇をまとってぞわりと湧き上がってきた。 その瞳が悪鬼のように、深く暗い光を湛えている。
「もとはと言えば、ヴィンスロットコレクションだ。 あんなもんがあるから、それを巡ってこんな悲劇が起きるんだろう」
 ぐっ、と僕の喉が詰まった。 親子でバストゥークを落ち延びた日の苦い思いが、一瞬で僕の心臓を鷲掴みにする。 そのあるかなきかの隙を突いてイヴァンは続けた。
「ヴィンスロットってやつは、その儲けで成り立ってるんだ。 だったらそれを返してもらって何が悪い。 そうさ、見習いなんてのは嘘だよ。 きっちり調べをつけてあの銃工の部屋に出入りして、金のありかを見つけたらそれを頂いて行こうとした――けど、まとまった金はどこにもなかった」
 僕が何事か上げようとした声を先回りするかのように、すぐにイヴァンはぐったりと腑抜けた結論を口にする。
「まあ、こんな修理工みたいな生活をしてる時点で、ある程度想像はついたけどな。 にしても現金だけじゃなく、金目の物すらも全く見当たらないときた。 これじゃ話にならないと諦めかけていた所に――あんたらだ」

 そう言った瞬間。 イヴァンの目が、ぎろりと鈍く光った。 それだけで人にダメージを与えそうな、陰鬱な殺気を帯びた眼差しだ。 遠くルフェーゼ野の空から響いているはずの、龍の唸り声のようにこもった雷の音が、まるでそこから発されているかのような――

「家の仕事に縛られず、好き勝手に放浪して帰ってきた息子だと? 幼馴染の彼女を連れてきて、行く行くは一緒になるだと? ふざけんじゃねぇよ! 悲劇の元凶のヴィンスロットに、そんな幸福を味わって生きる資格なんかあってたまるか!!」
「ふざけ――」
「ふざけてるのはあなたの方でしょう!!」

 バストゥークの事件の再来を突き付けられて知らず怯んでいた僕の、覇気に欠ける反発の声を押しのけるようにして、グレーティアの高い声が弾けた。

「黙って聞いていれば、一体何なのよ! どれもこれも全部逆恨みじゃないの! いくらあなたの境遇が悲惨だからって、おじさまの銃が原因にあるからって、それを――」
「ああそうさ!!」

 グレーティアの抗議の言葉を、イヴァンの確信犯的に投げ遣りな声が途中で叩き折った。
「そうさ、そうだよ逆恨みだ! 全部承知の上で来た!」
「なっ――」
「だけど俺はやる! アルダをずっと、あんな所に置いておけるか! 一刻も早く金が必要だったんだ! 無関係な人間を巻き込むよりは、少しでも責任のあるヴィンスロットから取り返す方がまだマシだ、そうだろう!」

 髪を振り乱し歯を剥き出して、ひたすら歪み切った理論を喚き立てるイヴァン。 手負いの猛獣を押さえつけているような錯覚に陥りながら、迷いも反省もなく猛り狂っている彼の獰猛な表情に、僕の中で一気に憎悪の炎が巻き上がった。
 彼を締め上げる手に更に凶暴な力がこもり――思い切りこの吊り橋から突き落としてやりたい衝動に駆られる。 腹の底で雄叫びを上げる憎しみと明確な殺意に、ぐらりと眩暈がした。 僕は叫ぶ。
「ほざくな! 従業員を一人取られたからって、それだけの事で貴様は強盗まがいの凶行に走るのか!」
「走るとも!!」
 橋に押し付けられ埃にまみれた、金髪の猛獣が轟然と咆え返した。
「あいつが――あの親父の息子が、アルダに気があるんだよ! だからうちの窮状を見て、あんな卑怯な条件を! 合法的に彼女を手元に置く算段を立てたに違いないんだ! だから!」
「――何……アルダ、って――」
「小さい頃に身寄りをなくして、うちで――住み込みとして、兄妹同然に育った、一つ年下の――俺の、俺のたった一つ大事なものだ! その彼女を、さらって行かれたんだよ!!」


 その瞬間。 びきっ、と音を立てて、僕の世界に大きなヒビが入った。


「そうさ、俺はあいつの為なら何だってする! あいつがいなきゃ、あいつの幸せの役に立てなきゃ、俺という人間のいる意味なんかないんだ!」

 憑かれたように叫び続けるイヴァン。 その声の前で、僕の心と体は完全に凍りついて止まってしまっていた。
 何てことだ。 こいつは――こいつは――――

「アルダが俺の全てなんだ! あいつが笑って側にいてくれるから、俺は俺という存在を認められる! あいつの為に生きる事が、俺の唯一の喜びなんだよ!」

 血を吐くような、魂の芯から搾り出される言葉が僕の鼓膜を乱打する。 そうして打ち込まれる杭を中心に、もはや止めようもなくばりばりと広がっていく亀裂を、僕は呆然と眺めている事しかできなかった。
 やがて高らかな最後の一言と、遥か上空で叫んだ、致死量の爆薬を用いて焚いたフラッシュのような落雷が。
 ついに僕と、僕の世界を粉々に砕きのめす。

「だから、何としてもアルダを取り返す! その為に選ぶべき手段なんか俺にはないっ!!」


 ああ――こいつは。 親父の命を奪った――この男は――



 ――――――――――――――僕だ。




  *  *  *




 突然つきつけられた鏡に、醜いけだものが映っていたら。 あなたは一体どうしますか。


 善いことだと思っていたんです。
 可哀相な子を――鳥かごの中で外に出ようとはばたいている小鳥を、僕は助けてあげました。
 外に出られて、小鳥は嬉しそうでした。 とても喜んでくれました。 それを見て、僕も嬉しかったです。
 僕は他に楽しいこともなかったし、僕が見守る中、楽しそうに飛び回る小鳥は本当に可愛かった。
 だからこの小鳥を守ることは、とてもいいことなんだと思いました。

 充実した毎日でした。
 まだ少し飛び方がおぼつかない小鳥を助ける僕を、褒めてくれる人もいました。 励ましてくれる人もいました。
 何より小鳥は、僕を愛してくれました。
 完全に円環を成した、インプットとアウトプット。 需要と供給。 望みと実り。
 僕は満たされていました。 自分の力と時間の全てを、この仕事に注ぎ込みました。
 他には何も考えず、これが自分の使命だと、これで自分は安心して生きられると思いました。

 ところが今、僕の目の前に突然、醜い獣が現れたのです。
 そいつは僕と小鳥には危害を加えませんでしたが、僕の父親を殺してしまいました。 僕はそいつを追いかけて捕まえました。
 僕が怒っていると、そいつは僕に鏡を見せました。
 するとその中には――そいつと寸分違わぬ姿の、醜い獣が映っていたのです。

 そいつは鏡を持った反対の手に、からっぽの鳥かごを抱いて泣いていました。
 守るべき小鳥を盗まれたと言って、身も世もなく泣いていました。
 その小鳥を取り戻す手段を得るために、僕の父親に近付いたんだと言いました。

 そして恨めしそうな哀しそうな声で、僕と同じ姿の獣はこう言うのです。

『お前なら 俺の気持ちがわかるだろう』


 僕は、そいつの気持ちが、わかってしまいました―――――――――――




「間違ってるわよ!!」

 イヴァンの襟首を戒めたまま呆然としていた僕の横っ面を、グレーティアの声が張り倒した。 忘れていたまばたきと共に、白くなっていた視界がはっと戻る。
「何よ、彼女の為彼女の為って! それでこんな事して、罪に手を染めて! そんなあなたを、アルダさんが喜ぶとでも思うの――っ!?」

 勢い込んだ台詞につまずくように、グレーティアがごほごほと苦しげな咳をした。 ああそうだ、熱が出てたんだった。 こんなあちこち動き回ったら、体力が――
 頭の中はまだ真っ白に混乱しながらも僕は半ば条件反射的に身をひねり、僕の横で吊り橋のロープによりかかるように立っている彼女に片手をかざしながら、小声で癒しの呪文を口に乗せていた。
「深森を巡る麗しき湧水、その癒し――も、て―――」

 が。

「――――っ!?」
 どうしたことだ。 精神を集中し呪文を紡ぎさえすればいつでもすぐに舞い上がってくるはずの白い光が、何故だか一片たりともその姿を現さない。
 僕は慌てて己の中を探る。 魔力が涸れている訳ではなかった。 体の奥底にはいつも通り、全ての源となる精神力が静かな泉のようにたゆたっているのがはっきりと判る。
 しかし、ならばと意識をこらして癒しの為の魔法をそこからすくい上げようとしても――透明な水面はぴくりとも反応してくれない。 まるで白魔道士としての仕事をしようと足掻く手足が突然空気にでもなってしまったかのように、僕の中の泉は静かに、完全に沈黙していた。

 かつて遭遇したことのない異常事態。 僕は狼狽し、おろおろと視線を宙にさまよわせる。
 するとその眼前、僕らの乗る吊り橋が吸い込まれるように尽きる先に祀られた白いアルタナのレリーフが、かっと閃いた雷光に浮き上がった――その瞬間。


『何人たりとも憎んではなりません。 癒す心を、赦す心を常に抱き、そして身を捧げなさい――』


 サンドリアの大聖堂で司教に示された白魔道士の誓いの言葉が、僕の脳裏に鮮やかに蘇った。
 見開いた目の前が真っ暗になる。 呼吸が詰まる。
 その清らかな言葉を今一度なぞるまでもなく、何を思うよりも早く。 僕は絶望に飲まれゆく心の中で、声を限りに叫んでいた。

 ……父を無残に殺され奪われても、自分の足元を醜く崩されても! なおその相手を憎むなと、赦せと言うのか!
 こんな不完全な人の身で、理不尽な悲しみに見舞われた心の行く末を破戒と断罪しあっさりと力を取り上げる、一体全体それが、慈悲深き神の所業なのか……!

 どこまでも広がる光のようなアルタナの翼を象った、滝のようにまっすぐと高いレリーフ。
 あらゆる命を包み込むが如きその美しい放射線は――今や怒りと憎しみと苛立ちに満ちた眼差しを向ける僕をただ冷たく見下ろし、その岩肌のような質感そのままに僕を拒絶してやまない、底なしの存在と化していた。 僕は呻く。
 無理だ、この上まだ心を平らかに持てだなんて、そんなのは僕には無理だ、無理だ、無理だ…………!!

「あなたに何が判る!」

 イヴァンが叫んだ。 冤罪を訴える死刑囚のようにひび割れたその声に、再度僕の意識は吊り橋の中央に引き戻される。

「守られる側のあなたに、何が判る! 俺は必死なんだ! あいつの為に――」
「判らないわよ! いいえ、判りたくもないわ!」

 火照る頬に流れた涙をぐいと拭って、グレーティアが噛み付くような反論を始める。

「何よ、あいつの為とかあいつがいなきゃとか! あなたがアルダさんを大事に思ってるのは判るわよ、でも!」

 瞬間、ぞくり、と恐ろしい予感と寒気が僕を襲った。
 ああ、待って。 待ってくれ、ティア――

「その為に自分の全部を放り投げるなんて、やりすぎよ! 思考停止もいいところだわ!」

 頼む、頼むから言わないでくれ、それ以上責めないでくれ、僕を――

「自分の存在意義を、人に求めるんじゃないわよ! 自分の意志で、自分の足で立ちなさいっ!」


 僕を――――罵らないでくれ――――――


  *  *  *


 帯電したラムウの粒子が髑髏のような空模様から降りてきて、僕の目の前でちらついているようだった。
 僕の手は未だイヴァンの襟首をがっちりと掴んでいる。 しかしそれは締め上げるというよりも、ただその形のまま動けなくなってしまった、と言う方が正しかった。

「ねえ……本当にそんな理由で、おじさまを狙ってきたの? アルダさんを信じて――二人で頑張る事だって、できたんじゃないの?」

 熱の気配の残る息を切らして、怒りよりも哀しみの色を濃くしたグレーティアの声が続いていた。

「そんな理由、なんて……そんな理由なんて言わないでくれよ! 俺は、あいつが大事なんだ。 あいつもそう言ってくれる、そのアルダを放ってなんておけない! あいつを、あの家から解放する為なら、何だってしたいんだ! でも無理矢理に連れ出したらきっと契約を盾に捕まってしまう、だから金が必要で……俺はどうなったっていいんだ、犯罪者として追われようが命を落とそうが構わない、それでアルダが助かるなら俺は喜んで――」

 ――やりかねない。

 まるで吊り橋そのものがぐらりぐらりと大きく揺れているかのような、カタストロフという名の眩暈に一人襲われながら、僕はぽつりと、しかし断固として思っていた。
 そう、身の上を偽って狙った者に近付く事も、その金銭を奪う事も、不平等に憤るあまり引き金を引く事だって。
 『グレーティアの為』――ただ一言そう唱えさえすれば。 僕だって、やりかねない。 やらない、という保証は、どこにもない。 何よりも今、僕自身が、保証できる気がしない――

 赤い色が見える。 親父の部屋に広がっていた、絶対的な最終的な赤い色。 そのイメージがじわじわと、僕の胸の中から全身へと広がっていく。 望んでもいなかったねじくれた現実感を伴って染み込んでいく。
 あれは――誰が、やったんだ? 僕なのか? いや、やったのはイヴァンで――でも彼を理解できてしまった僕は、きっと彼と同じように生きてきた僕は、ならば引き金を引くのだろうか。 まさか――まさか、僕も。 親父を殺すのか。 あの赤は、誰が――僕の手も、ともすれば彼と同じように……
 ああどうしよう、何だか判らなくなってきた――――

「それがおかしいって言うのよ!」

 叩きつけるようなグレーティアの声に、イヴァンの体がびくりと痙攣した。 だからきっと誰にも悟られずに済んだだろう、彼を掴む僕の肩もまた小さくすくんでいたことは。

「お互い大事なら、相手が自分の為に堕ちて行くことなんか望まないわ! 彼女の為に、自分を大事にしなさいよ! あなたは酔ってるの、他人に身を捧げる自分の傷に酔ってるの! そんな動機でおじさまが死ななきゃならなかったなんて、私は許せないわ、許せるものですか!」

 ああ、ティア。 ティア。 お願いだからそんなに怒らないでくれ。 叫ばないでくれ。
 僕も酔っていたのだろうか。 思考を停止して、自分の存在意義を、君に押し付けていたのかい。
 痛くて痛くて気を失いそうだ。 どうしようもなくイヴァンの方にひきずられていく僕はもう、君のその言葉が誰に向けられたものなのかわからないんだよ。

「じゃぁ! どうすればいいって言うんだよ!」

 僕の凍りついたような視線の下、必死で反論しながらも、イヴァンの瞳もグレーティアの言葉にかすかに揺らいでいた。
 その様子を目の端に捉えるともなく捉えて、僕は唐突に理解する。

 そうか……この男はグレーティアに、アルダという子の影を重ねずにはいられなかったんだ。
 だから優しくしてしまった。 だからその糾弾に怯えている。 そう、僕と同じように――

「どんなに綺麗事を言ったってアルダは帰ってこないんだ! 今しもあの家で何か怖い思いを、辛い思いをしてるかもしれないだろう! それで平然と暮らしていられるもんか!」
 張り裂けんばかりの声というのはこういうのを言うのだろう。 どんな慰めも励ましも、今のイヴァンに通じはしない。 それがひしひしと判る、深い失望の淵から響いてくるような叫びが、地下壕の縦穴に連綿とこだまする。
「どうして、どうして俺が――いや、アルダがこんな目に遭わなきゃいけない!? どうしてヴィンスロットはのうのうと暮らしていける、あんたらはその下で幸せにやっていける! ああ笑いたきゃ笑えよ、金も取れずに捕まった、逆恨みのあげくがこのザマさ! だがな」
 僕とグレーティアを、力の限り睨みつけるイヴァンの目。 どこまでも暴走した暗い怒りに思うさま病んで――そして、泣きそうに歪んでいる。

「俺は恨んでやる。 似たような境遇なのに何の障害もないあんたらを恨んで、ろくな結果を招かないヴィンスロットの仕事を心底蔑んでやるよ。 はっ、どうぞボコボコに殴って、お上にでも突き出したらどうだ。 それじゃ足りないってんなら、そら、このまま橋から突き落としゃいい」
 彼の自暴自棄な言葉に突かれて、僕の目がふらりと橋の下を伺う。 大きな井戸の底のようなむきだしの岩肌が、奇妙に安らかな寝床に見えた。
 そうだな、突き落としてくれても構わないや――

「アルダの為に何もできない俺なんかどうなったって大して変わりゃしねぇよ。 けど捕まろうが死のうが、俺は恨み続ける! この存在をかけて、あんたらの人生にでっかい影を落としてやる! ヴィンスロットの銃は、こんな悲劇を世に残したっていう事実をな! 何一つ上手くいかなくたって最後の最後、これだけは俺の自由だ! ざまぁみろっ!!」

 何と高らかな勝利宣言だろう。
 僕に組み伏せられグレーティアに打ちのめされながらも、こいつは僕達の手の届かない高みで――いや、地獄の底で。 誇らしげに断末魔の雄叫びを上げるのか。
 今にも途切れそうな意識の片隅で、僕は思う。
 例えそれが、狂気に片足を踏み入れていたとしても。 一人の人間の為に、こんなにも強い思いに殉じることができるのは、一種の幸せと言えるのではないだろうか――

「――冗談じゃないわ」

 と。 渦巻く怒りを抑えるように低く低く呻いたグレーティアが、その一言を置いたかと思うとふいと踵を返した。 足音が、橋の上を遠ざかっていく。
 どこへ行くの、ティア。 親父の所か。
 ごめんよ、僕はもう何も出来ない。 共に悲しむ資格すらない。 ただ一つの力だった、癒しの呪文すら唱えられなくなってしまったんだ。
 僕は――僕は、どうすればいいんだ。 親父の所に、行っていいのか。 君の所に行っていいのか。 それとも……
 頼む……教えてくれ、ティア…………


  *  *  *


 円形にそびえ立つ灰色の岩壁に囲まれ、しん、と音の消えた吊り橋の上で、うなだれる僕の腕からゆっくりと力が抜けていく。
 叫び続けた言葉に全てのエネルギーを使い果たしたようなイヴァンは、僕の手から開放されても、諦めたようにそのままぐったりと橋の上で大の字になっていた。
 そしてふと僕は――ここに来てようやく、騒ぎを聞きつけた数人の町人が遠巻きにこちらを伺っている事に気がついた。

 彼らから見れば、イヴァンが加害者で親父が被害者、そして僕とグレーティアは被害者側の人間だ。 今、僕はそういう立場に居る。 焦点の定まらない瞳を晒す僕は、親族の死を呆然と悲しむ男と映っているのだろう。 どうにかそれだけは認識できた。
 けど……けど。

 こんな悲壮な背徳を、醜い不義を抱えたままで、僕はこいつを裁かなければいけないのか。
 彼を鞭打ち、怒りに震えてみせて、皆の前で親父の代わりにこの青年の罪を問えと言うのか。
 もはや僕の目にこいつは、僕自身の姿としか映らないというのに……


 僕の愚かさを微笑んで受け止めてくれた父は、もういない。
 その父を殺した相手の中に、濃い自分の影を見てしまった。
 心の奥底に巣食った憎しみに、癒し手としての力も失った。
 グレーティアは否定の言葉を残して、僕の元を去っていく。


 どうしよう。
 もう、何も残っていない。

 不毛の野のような荒涼とした心と、今や瓦解寸前の八年間を抱えて。 僕は吊り橋の上に力なくへたり込んでいた。
 白い聖装の裾が泥で汚れている。 構うもんか。 好きなだけまみれるがいい。 穢れるがいい。
 何一つ償えない救えない、まっとうな悲しみにすら見放された僕に、もう白い色をまとう権利など微塵もありはしないのだから。



 いつしか雷は止んでいた。



to be continued
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