テノリライオン
Blanc-Bullet shot16
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匿名ユーザー
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工房の底で銃をいじる親父の後ろ姿なら、何パターンでも思い出せる。
見ていたのはいつも背中ばかりだったから。 幼稚な意地と反抗心が邪魔をして、いざ親父がこちらを向いたときにはぷいとそっぽを向いていたから。
でも、そんなことを気にせずに、親父を見ていられる時があった。 いかついスナイパーや狩人達が、親父を尋ねてやってきた時だ。
普段は気弱そうな親父が、彼らが来ると途端に生き生きと目を輝かせる。 客人も朗らかに楽しそうに、あるいは真摯に真面目そうに、時間を惜しんで銃について語り、議論する。
そうなると親父は他の事には目が行かない。 僕は扉の外を通りすがる振りをして、親父とそんな男達の姿を遠慮なく眺めていたものだ。
プロフェッショナル、という言葉の意味を正しく知ったのはずっと後の事だったけれど、その言葉に僕はすんなりとあの工房の熱気を思い出した。
銃を作る者、銃を使う者。 その重みを知っている親父と、そしてこの工房にまで足を運ぶ彼らは、プロと呼ぶに相応しい男達だったのではないかと思う。
客が銃を手にするときの真剣な顔と、彼らの差し出す右手を嬉しそうな誇らしげな笑みで握り返す親父。 密な空気がいつも工房に流れていた。
そう、親父は、誇っていたんだ。
自分の仕事を、親父は誇っていた。 あの満ち足りた笑顔は客の男達にだけでなく、自分自身にも贈られたものだったはずだ。
ヴィンスロットの銃を巡って、いくつかの悲しい出来事が起こったのは事実だ。
泣いた人もいただろう。 やりきれない思いをした人もいただろう。 親父自身もその一人になった。 行き場のない罪悪感を抱え、まるで詫びるように故郷を去った。
けれど。
親父と男達が「ありがとう」と言い交わす時に結ばれるあの信頼や、単なる製作以上の時間をかけて昼も夜も工房の奥で銃と向き合う親父の汗を、努力までを。
否定することが誰にできる? 汚すことが誰にできる?
イヴァン、答えてくれ。
お前のその哀しい呪いは、そこまで届いてしまうのか。
もはや全身に浴びたお前の慟哭を拭い去ることもできない僕は、その呪いをも認め、背負って生きて行くしかないのか…………
* * *
「……はっ」
不意に、小さく鼻で笑う声が聞こえた。 気だるげに肘をついて上半身を起こしたイヴァンが、傍らに座り込む僕を見て漏らした声だった。
「何だよ、殴んねえのかよ」
「…………」
タブナジア地下壕の巨大な縦穴を横切る吊り橋の上で、僕はのろのろとその声の主に視線を戻す。
暗い光を宿したままの目で、疲れきったような自虐的な笑みを浮かべる青年が、そこにいた。
イヴァン。 親父を殺した男。 憎いはずなのに――憎まなければいけないのに。
すっかり彼の毒気に当てられた僕は、溢れるべき感情がみな薄いヴェールの向こうに逃げていったかのように、無残に麻痺してしまっている。
そんな不甲斐ない理由で、思うように憤ることすらできなくなっている自分が、もどかしい。 忌々しい。 哀しい。 親父に、申し訳ない――
「――はん、死人みたいな目だな」
僕の顔を見て、イヴァンは言った。 彼の目にも僕は、父親を亡くしたショックで放心しているように見えるのだろう。 違うのに。 恐らく彼にとってはもう少し不愉快な理由で、僕は彼の前でこうして呆けているのに。
だけどそう思っても、何の感慨も浮かんではこなかった。 全てが遠い彼方の出来事のようで、頭も心も地熱を失ったマグマのようにどろりと重い。 体までが捨て鉢になったように、ぴくりとも動こうとしなかった。
「そうだ、そうこなくっちゃなぁ。 金も何も手に入らなかったんだ、せめてこのぐらいの効果は上げておきたいってもんだ」
禍々しい活気を乗せたイヴァンの目が僕を眺めている。 口元が笑みの形に吊り上がる。 ああ、鏡の向こうの僕は、何てねじくれたエネルギーに満ちているのだろう。
イヴァンが嘲るような鬱屈した笑い声を上げ、僕はただそれを浴び。
そうして二者の雌雄が、完全に決まるかに見えた時。
それは、起こった。
座り込んだままの僕の背後から足早な靴音が近付いてきたかと思うと、どさりと音を立ててイヴァンの目の前に何かが投げ出された。
驚いた僕とイヴァンの視線を受けるそれは、両手に載るぐらいの大きさの茶色い革袋。 何やら砂のようにずっしりとした質感を持って――
「その取引先への負債はいくらなの」
グレーティアの声だ。 低いけれど、光を放つダイヤモンドのようにきっぱりと硬く鋭い声が、僕の頭上から響いた。
「え――」
「いくらなの、って聞いてるのよ」
訳が判らずうろたえるイヴァンの声に、グレーティアは畳み掛けるように訊く。
「な……700万と、ちょっと……だけど」
「ちょうどいいわ。 そこに800万ギルあるから持って行きなさい」
「え……っ」
イヴァンが目を見開き、ぽかんと口を開けてグレーティアを見上げた。 僕も驚いて思わず彼女を振り仰ぐ。 すると。
そこにいたのは、勝利の女神だった。
高い灰色の壁に真っ赤に掲げられたタブナジアの軍旗を背に、己の正義を確信しすっくと立つ、緑色の狩人の衣装をまとった細身の女神像。
いつしか雷雲の払われた高い空から淡く降り立つ太陽の光を受けて、紅茶色の長い髪が柔らかい輝きを躍らせている。 僕はその眩しさに、見上げる目を思わず細めた。
「800……ちょ、ちょっと待ってくれ、急にそんな金、どこから」
突然示された数字にイヴァンはすっかり狼狽している。 800万。 確かそれは――
「私と、そこにいるディナルド=ヴィンスロットが子息、エリクスの蓄えたお金です。 つまりヴィンスロット家の資産。 それをあなたにあげます。 そのお金で、アルダさんを買い戻しなさい」
グレーティアの声が、大地に穿たれた空間に凛と響く。
彼女の持ってきた革袋。 あれは確かに僕が、僕とグレーティアが力を合わせて貯めたものだ。 何の後ろめたい事もない、僕の努力の結実だ。 その存在が今、イヴァンに突きつけられて――
「ど……どういう……何で、何でそんな」
「勘違いしないで」
もはや完全に体制を崩しおろおろと言葉を垂れ流すイヴァンを見下ろし、グレーティアは鋭く言い放つ。
「あなたを助けようとしてるんじゃないわ。 あなたは、おじさまを殺した」
ぎゅっとグレーティアの表情が歪む。 改めて溢れそうな涙をこらえているのだろう。 しかしその声は力強く、悲しみや憂いに一片たりとも揺らぐことはなかった。
「勝手な逆恨みでおじさまのお金を取ろうと企んで、おじさまを妬んで憎んで、おじさまの仕事までも貶めて逃げようとしたわ。 そんな狼藉は、そんな横暴は絶対に許しません」
迷いなく決然と放たれる言葉は一陣の風。 吊り橋の上で僕達の上に澱んでいた、いびつに病んだ空気を見る間に祓っていく。 狭まっていた視界が明るく開放されるような感覚を覚える。
と同時に、目の前の革袋がぐんと力を持った。 それを前に、グレーティアが高らかに宣言する。
「だから、あなたにそれを与えます。 ヴィンスロットの名による、清廉潔白なお金を与えます。 それでアルダさんを取り戻してしまえば、あなたは金輪際、銃工ヴィンスロットを恨む事はできなくなるのよ」
その瞬間。 体中でどろどろと渦巻いていた重苦しい毒素が、彼女の言葉によって瞬く間に浄化されていく清々しさに僕は包まれていた。
僕達が蓄えたギル。 僕の血と汗が染み込んだギル。 それがイヴァンの恨みを断ち切り封じ込める。 アルダさんを助ける。 親父を、守る。
風穴があいた気がした。 小さな革袋の力が、僕を映していた鏡を粉々に打ち砕く。 途端に息が楽になって、僕は大きく息を吸い込んだ。
イヴァンの告白によって気付いてしまった、僕自身の脆さと虚しさ、そしてそれ故の密かな罪が、これで救われ清算されるなどとは到底思わない。
けれど――二人の未来の為、毎日体を動かし知恵をひねり、一進一退を繰り返しながら無心にこつこつと貯め続けた、このギルには。
僕の弱さを少しだけ赦し、穴埋めできるだけの優しさがあると思えた。
イヴァンの念を退け、親父の名誉を守れるだけの強さがあると思えた。
僕の体を、ゆっくりと戻ってきた力が起こす。 混濁していた五感が音もなく正しい位置に戻ると、僕は自分の体が暖かいことに気付いた。
それと引き換えに静かになっていくイヴァンに、不可視の雷の如きグレーティアの鋭い言葉が突き下ろされた。
「苦しみなさい。 あなたが手にかけてしまった人からの憐憫を受けることで取り戻した幸せを噛み締めて、自分の愚行を死ぬまで恥じるがいいわ。 これは呪詛返しです。 あなたを助けてなんか絶対にあげない。 あなたなんかに、おじさまは汚させない」
それは、一世一代の憎まれ口だった。 これ以上ない程の、完璧にして強烈なカウンターだった。
グレーティアのしている事が、言っている事の意味がようやっと正確に理解できたのだろう。 ふらふらとその革袋に伸びかけていたイヴァンの手が、はっと止まった。
それを手にした後の己の心境を思い知って、彼の顔がみるみると躊躇いに、怯えに、そして屈辱に歪み染まっていくのが、僕の目にもありありと見て取れた。
それはそうだろう。 逆恨みと知りながら殺した相手の一族に、憎まれるどころか完全な施しを受けてしまうのだ。 しかもそれで問題は解決する。 理不尽を承知の憎しみだけで己を支え行動してきた彼にとって、こんなにも惨めで逃げ場のない辱めはあるまい。
それならばまだ違う苦労を覚悟してでも、この革袋に背を向けてしまった方がいいのでは――反射的によぎるそんな思いから、進退窮まり宙に浮いたイヴァンの指は細かく震えているのだろう。
しかしグレーティアは、それをも許さなかった。 氷柱のようにぴんと伸ばした背筋、鋭い眼差し。 彼にとってとどめの一言が、静かに告げられる。
「さあ、受け取りなさい。 あなたの大事なアルダさんの為に」
ついにイヴァンが、がくりと肩を落とす。
僕は膝に手をつき、ゆっくり立ち上がった。 グレーティアにより奇跡的に暗い淵から引きずり上げられた僕の足元は、まるで生まれたばかりの草食動物のように少しだけふらついた。
そして目の前でうなだれる金色の頭に、僕はやっと視線を向けて思いを紡ぐ。
イヴァン。 立て。
お前に道は示された。 そして僕にも。
お前の道は僕のそれよりきっとずっと厳しく険しいけれど、その差分は僕の親父を手にかけた報いとして、味わい尽くして欲しい。 親父になりかわってそう思う。
僕達は、自分の足で、自分の意志で、歩かなきゃいけないんだ――
裁きと救いの革袋を前に、怯えたようにおずおずと上がるイヴァンの目が、グレーティアを見た。
だが、彼女は何も言わない。 まっすぐ下ろして握った拳とその瞳に強い意思を湛えて、ただイヴァンを見返している。 もはや語らない女神像。
「……受け取れ」
続けて僕に流れてきたイヴァンの視線を受け止めて、僕は静かに言った。
「受け取ってくれ。 それで、アルダさんを連れ戻してくれ。 頼む」
僕が彼に「頼む」などと言うのは、傍から見ればおかしな世迷言に違いない。
だけど僕は言わずにいられなかった。 それはほんの僅かな差で過ちを犯してしまったもう一人の僕に対する、これから茨の道を進むもう一人の僕に対する、引導でありはなむけだったから。
親父の気弱そうな笑顔がふと浮かぶ。 ああ、今の僕の気持ちを話したら、親父はやっぱり笑って聞いてくれるのだろうか。
怒りも悲しみもまだ麻痺したままだ。 後でいい。 後でいくらでも泣こう。 そんな自分を責めるのも後回しだ。 今はしっかりと立っていなくては。 そう思った。
僕とグレーティアの視線の先で、イヴァンが革袋を睨んで震えている。 悲壮な表情で歯を食い縛り身体をこわばらせ、膝の上で握り締めた手が白く固まっていた。
その様子をついに見ていられなくなった僕は、身を屈めて革袋を掴み上げるとぼすんと彼の手の上に置いた。 少しだけ乱暴に。 少しだけ突き放してやるように。
その衝撃に弾かれたようにイヴァンは立ち上がった。 両腕でずっしりと重い袋を抱き締め、震える瞳と今にも泣き出しそうな怯えたような面持ちで。 その唇が小さく開く。
「……いつか」
「やめて頂戴」
か細く搾り出されるイヴァンの言葉を、グレーティアのすげなく低い声が遮った。
「あなたの稼いだお金なんて、欲しくもないわ」
ああ、グレーティア。
今の君は、渦巻く怒りとプライドの中でそう言っているのだろうけど。
今の彼は、君の言葉を奈落の底に突き落とされるような気持ちで聞いているだろうけど。
いつかそれが、優しさと名付けられる事を、僕が保証する。
君が思わなくても、誰が思わなくても。 僕と、そしてきっと親父が、時間をかけてそうしてみせる。
イヴァンもまた、そう気付いてくれる事を、僕は切に願う。 切に、切に、願う――
「…………っ」
イヴァンがぎゅっと目を瞑った。 何かを振り切るような仕草。
そしてがばっと僕達に頭を下げると、身を翻して吊り橋を駆けて行った。
その足は町の出口へと。 逃げるように。 追われるように。 何かを叫ぶように――
to be continued
見ていたのはいつも背中ばかりだったから。 幼稚な意地と反抗心が邪魔をして、いざ親父がこちらを向いたときにはぷいとそっぽを向いていたから。
でも、そんなことを気にせずに、親父を見ていられる時があった。 いかついスナイパーや狩人達が、親父を尋ねてやってきた時だ。
普段は気弱そうな親父が、彼らが来ると途端に生き生きと目を輝かせる。 客人も朗らかに楽しそうに、あるいは真摯に真面目そうに、時間を惜しんで銃について語り、議論する。
そうなると親父は他の事には目が行かない。 僕は扉の外を通りすがる振りをして、親父とそんな男達の姿を遠慮なく眺めていたものだ。
プロフェッショナル、という言葉の意味を正しく知ったのはずっと後の事だったけれど、その言葉に僕はすんなりとあの工房の熱気を思い出した。
銃を作る者、銃を使う者。 その重みを知っている親父と、そしてこの工房にまで足を運ぶ彼らは、プロと呼ぶに相応しい男達だったのではないかと思う。
客が銃を手にするときの真剣な顔と、彼らの差し出す右手を嬉しそうな誇らしげな笑みで握り返す親父。 密な空気がいつも工房に流れていた。
そう、親父は、誇っていたんだ。
自分の仕事を、親父は誇っていた。 あの満ち足りた笑顔は客の男達にだけでなく、自分自身にも贈られたものだったはずだ。
ヴィンスロットの銃を巡って、いくつかの悲しい出来事が起こったのは事実だ。
泣いた人もいただろう。 やりきれない思いをした人もいただろう。 親父自身もその一人になった。 行き場のない罪悪感を抱え、まるで詫びるように故郷を去った。
けれど。
親父と男達が「ありがとう」と言い交わす時に結ばれるあの信頼や、単なる製作以上の時間をかけて昼も夜も工房の奥で銃と向き合う親父の汗を、努力までを。
否定することが誰にできる? 汚すことが誰にできる?
イヴァン、答えてくれ。
お前のその哀しい呪いは、そこまで届いてしまうのか。
もはや全身に浴びたお前の慟哭を拭い去ることもできない僕は、その呪いをも認め、背負って生きて行くしかないのか…………
* * *
「……はっ」
不意に、小さく鼻で笑う声が聞こえた。 気だるげに肘をついて上半身を起こしたイヴァンが、傍らに座り込む僕を見て漏らした声だった。
「何だよ、殴んねえのかよ」
「…………」
タブナジア地下壕の巨大な縦穴を横切る吊り橋の上で、僕はのろのろとその声の主に視線を戻す。
暗い光を宿したままの目で、疲れきったような自虐的な笑みを浮かべる青年が、そこにいた。
イヴァン。 親父を殺した男。 憎いはずなのに――憎まなければいけないのに。
すっかり彼の毒気に当てられた僕は、溢れるべき感情がみな薄いヴェールの向こうに逃げていったかのように、無残に麻痺してしまっている。
そんな不甲斐ない理由で、思うように憤ることすらできなくなっている自分が、もどかしい。 忌々しい。 哀しい。 親父に、申し訳ない――
「――はん、死人みたいな目だな」
僕の顔を見て、イヴァンは言った。 彼の目にも僕は、父親を亡くしたショックで放心しているように見えるのだろう。 違うのに。 恐らく彼にとってはもう少し不愉快な理由で、僕は彼の前でこうして呆けているのに。
だけどそう思っても、何の感慨も浮かんではこなかった。 全てが遠い彼方の出来事のようで、頭も心も地熱を失ったマグマのようにどろりと重い。 体までが捨て鉢になったように、ぴくりとも動こうとしなかった。
「そうだ、そうこなくっちゃなぁ。 金も何も手に入らなかったんだ、せめてこのぐらいの効果は上げておきたいってもんだ」
禍々しい活気を乗せたイヴァンの目が僕を眺めている。 口元が笑みの形に吊り上がる。 ああ、鏡の向こうの僕は、何てねじくれたエネルギーに満ちているのだろう。
イヴァンが嘲るような鬱屈した笑い声を上げ、僕はただそれを浴び。
そうして二者の雌雄が、完全に決まるかに見えた時。
それは、起こった。
座り込んだままの僕の背後から足早な靴音が近付いてきたかと思うと、どさりと音を立ててイヴァンの目の前に何かが投げ出された。
驚いた僕とイヴァンの視線を受けるそれは、両手に載るぐらいの大きさの茶色い革袋。 何やら砂のようにずっしりとした質感を持って――
「その取引先への負債はいくらなの」
グレーティアの声だ。 低いけれど、光を放つダイヤモンドのようにきっぱりと硬く鋭い声が、僕の頭上から響いた。
「え――」
「いくらなの、って聞いてるのよ」
訳が判らずうろたえるイヴァンの声に、グレーティアは畳み掛けるように訊く。
「な……700万と、ちょっと……だけど」
「ちょうどいいわ。 そこに800万ギルあるから持って行きなさい」
「え……っ」
イヴァンが目を見開き、ぽかんと口を開けてグレーティアを見上げた。 僕も驚いて思わず彼女を振り仰ぐ。 すると。
そこにいたのは、勝利の女神だった。
高い灰色の壁に真っ赤に掲げられたタブナジアの軍旗を背に、己の正義を確信しすっくと立つ、緑色の狩人の衣装をまとった細身の女神像。
いつしか雷雲の払われた高い空から淡く降り立つ太陽の光を受けて、紅茶色の長い髪が柔らかい輝きを躍らせている。 僕はその眩しさに、見上げる目を思わず細めた。
「800……ちょ、ちょっと待ってくれ、急にそんな金、どこから」
突然示された数字にイヴァンはすっかり狼狽している。 800万。 確かそれは――
「私と、そこにいるディナルド=ヴィンスロットが子息、エリクスの蓄えたお金です。 つまりヴィンスロット家の資産。 それをあなたにあげます。 そのお金で、アルダさんを買い戻しなさい」
グレーティアの声が、大地に穿たれた空間に凛と響く。
彼女の持ってきた革袋。 あれは確かに僕が、僕とグレーティアが力を合わせて貯めたものだ。 何の後ろめたい事もない、僕の努力の結実だ。 その存在が今、イヴァンに突きつけられて――
「ど……どういう……何で、何でそんな」
「勘違いしないで」
もはや完全に体制を崩しおろおろと言葉を垂れ流すイヴァンを見下ろし、グレーティアは鋭く言い放つ。
「あなたを助けようとしてるんじゃないわ。 あなたは、おじさまを殺した」
ぎゅっとグレーティアの表情が歪む。 改めて溢れそうな涙をこらえているのだろう。 しかしその声は力強く、悲しみや憂いに一片たりとも揺らぐことはなかった。
「勝手な逆恨みでおじさまのお金を取ろうと企んで、おじさまを妬んで憎んで、おじさまの仕事までも貶めて逃げようとしたわ。 そんな狼藉は、そんな横暴は絶対に許しません」
迷いなく決然と放たれる言葉は一陣の風。 吊り橋の上で僕達の上に澱んでいた、いびつに病んだ空気を見る間に祓っていく。 狭まっていた視界が明るく開放されるような感覚を覚える。
と同時に、目の前の革袋がぐんと力を持った。 それを前に、グレーティアが高らかに宣言する。
「だから、あなたにそれを与えます。 ヴィンスロットの名による、清廉潔白なお金を与えます。 それでアルダさんを取り戻してしまえば、あなたは金輪際、銃工ヴィンスロットを恨む事はできなくなるのよ」
その瞬間。 体中でどろどろと渦巻いていた重苦しい毒素が、彼女の言葉によって瞬く間に浄化されていく清々しさに僕は包まれていた。
僕達が蓄えたギル。 僕の血と汗が染み込んだギル。 それがイヴァンの恨みを断ち切り封じ込める。 アルダさんを助ける。 親父を、守る。
風穴があいた気がした。 小さな革袋の力が、僕を映していた鏡を粉々に打ち砕く。 途端に息が楽になって、僕は大きく息を吸い込んだ。
イヴァンの告白によって気付いてしまった、僕自身の脆さと虚しさ、そしてそれ故の密かな罪が、これで救われ清算されるなどとは到底思わない。
けれど――二人の未来の為、毎日体を動かし知恵をひねり、一進一退を繰り返しながら無心にこつこつと貯め続けた、このギルには。
僕の弱さを少しだけ赦し、穴埋めできるだけの優しさがあると思えた。
イヴァンの念を退け、親父の名誉を守れるだけの強さがあると思えた。
僕の体を、ゆっくりと戻ってきた力が起こす。 混濁していた五感が音もなく正しい位置に戻ると、僕は自分の体が暖かいことに気付いた。
それと引き換えに静かになっていくイヴァンに、不可視の雷の如きグレーティアの鋭い言葉が突き下ろされた。
「苦しみなさい。 あなたが手にかけてしまった人からの憐憫を受けることで取り戻した幸せを噛み締めて、自分の愚行を死ぬまで恥じるがいいわ。 これは呪詛返しです。 あなたを助けてなんか絶対にあげない。 あなたなんかに、おじさまは汚させない」
それは、一世一代の憎まれ口だった。 これ以上ない程の、完璧にして強烈なカウンターだった。
グレーティアのしている事が、言っている事の意味がようやっと正確に理解できたのだろう。 ふらふらとその革袋に伸びかけていたイヴァンの手が、はっと止まった。
それを手にした後の己の心境を思い知って、彼の顔がみるみると躊躇いに、怯えに、そして屈辱に歪み染まっていくのが、僕の目にもありありと見て取れた。
それはそうだろう。 逆恨みと知りながら殺した相手の一族に、憎まれるどころか完全な施しを受けてしまうのだ。 しかもそれで問題は解決する。 理不尽を承知の憎しみだけで己を支え行動してきた彼にとって、こんなにも惨めで逃げ場のない辱めはあるまい。
それならばまだ違う苦労を覚悟してでも、この革袋に背を向けてしまった方がいいのでは――反射的によぎるそんな思いから、進退窮まり宙に浮いたイヴァンの指は細かく震えているのだろう。
しかしグレーティアは、それをも許さなかった。 氷柱のようにぴんと伸ばした背筋、鋭い眼差し。 彼にとってとどめの一言が、静かに告げられる。
「さあ、受け取りなさい。 あなたの大事なアルダさんの為に」
ついにイヴァンが、がくりと肩を落とす。
僕は膝に手をつき、ゆっくり立ち上がった。 グレーティアにより奇跡的に暗い淵から引きずり上げられた僕の足元は、まるで生まれたばかりの草食動物のように少しだけふらついた。
そして目の前でうなだれる金色の頭に、僕はやっと視線を向けて思いを紡ぐ。
イヴァン。 立て。
お前に道は示された。 そして僕にも。
お前の道は僕のそれよりきっとずっと厳しく険しいけれど、その差分は僕の親父を手にかけた報いとして、味わい尽くして欲しい。 親父になりかわってそう思う。
僕達は、自分の足で、自分の意志で、歩かなきゃいけないんだ――
裁きと救いの革袋を前に、怯えたようにおずおずと上がるイヴァンの目が、グレーティアを見た。
だが、彼女は何も言わない。 まっすぐ下ろして握った拳とその瞳に強い意思を湛えて、ただイヴァンを見返している。 もはや語らない女神像。
「……受け取れ」
続けて僕に流れてきたイヴァンの視線を受け止めて、僕は静かに言った。
「受け取ってくれ。 それで、アルダさんを連れ戻してくれ。 頼む」
僕が彼に「頼む」などと言うのは、傍から見ればおかしな世迷言に違いない。
だけど僕は言わずにいられなかった。 それはほんの僅かな差で過ちを犯してしまったもう一人の僕に対する、これから茨の道を進むもう一人の僕に対する、引導でありはなむけだったから。
親父の気弱そうな笑顔がふと浮かぶ。 ああ、今の僕の気持ちを話したら、親父はやっぱり笑って聞いてくれるのだろうか。
怒りも悲しみもまだ麻痺したままだ。 後でいい。 後でいくらでも泣こう。 そんな自分を責めるのも後回しだ。 今はしっかりと立っていなくては。 そう思った。
僕とグレーティアの視線の先で、イヴァンが革袋を睨んで震えている。 悲壮な表情で歯を食い縛り身体をこわばらせ、膝の上で握り締めた手が白く固まっていた。
その様子をついに見ていられなくなった僕は、身を屈めて革袋を掴み上げるとぼすんと彼の手の上に置いた。 少しだけ乱暴に。 少しだけ突き放してやるように。
その衝撃に弾かれたようにイヴァンは立ち上がった。 両腕でずっしりと重い袋を抱き締め、震える瞳と今にも泣き出しそうな怯えたような面持ちで。 その唇が小さく開く。
「……いつか」
「やめて頂戴」
か細く搾り出されるイヴァンの言葉を、グレーティアのすげなく低い声が遮った。
「あなたの稼いだお金なんて、欲しくもないわ」
ああ、グレーティア。
今の君は、渦巻く怒りとプライドの中でそう言っているのだろうけど。
今の彼は、君の言葉を奈落の底に突き落とされるような気持ちで聞いているだろうけど。
いつかそれが、優しさと名付けられる事を、僕が保証する。
君が思わなくても、誰が思わなくても。 僕と、そしてきっと親父が、時間をかけてそうしてみせる。
イヴァンもまた、そう気付いてくれる事を、僕は切に願う。 切に、切に、願う――
「…………っ」
イヴァンがぎゅっと目を瞑った。 何かを振り切るような仕草。
そしてがばっと僕達に頭を下げると、身を翻して吊り橋を駆けて行った。
その足は町の出口へと。 逃げるように。 追われるように。 何かを叫ぶように――
to be continued