テノリライオン
Blanc-Bullet finalshot
最終更新:
corelli
-
view
少し強い風には、朝の匂いが濃く残っていた。
タブナジア地下壕からルフェーゼ野に出る洞窟を抜け、途端に吹き込んでくる涼風を正面に受けた僕は、肺いっぱいにその空気の塊を吸い込んで空を仰いだ。 胸がひやりと冷える。
少し雲が覆っているけれど、雷鳴は聞こえない。 ここではいい天気の部類に入るな、と思いながら僕は一人歩き出した。
小振りの花束を手に提げて、谷間を渡る吊り橋の中央を足早に進む。
昨日の今日なのにどこから手に入れたのか、ダニエル夫妻が僕に用意してくれたその花束は、よく見れば控えめでしっかりした花びらのものを選んで集めてある。
荒い風にもその可憐な色をさらわれることなく、手の中で小さく躍る花束を僕は眺めた。
地下壕で気の毒そうに、それでも優しく微笑んでくれる夫人から受け取った時には、こんな細やかな気配りには気付かなかった。 こうして外に出て危うい風にあおられてみて初めて、その存在を知るのだ、僕という人間は。
ふと、まだ心の奥底に沈殿したまま動かない幾つもの感情のうちから、情けないな――という一つがぽこりと浮き上がってきた。
きっとこの花束の作られ方のように、僕は自分で思っているよりもずっと沢山の助けを、人からもらって生きてきたのだろう。 例え気付いていても時には鬱陶しいとないがしろにしてきた僕の事だ、知らぬままに食い尽くした思いやりがどれだけあるのかなんて、それはもう想像するだけで目を覆いたい気持ちになる。
見えるまで気付かない、痛い思いをするまで判らないというのは、一体男という生き物に何歳まで許される過ちなのだろうか――
吊り橋を渡り切り、少し開けた野原を下る。
やっと少しばかり眠気が顔を出して来た。 僕は軽く手のひらで顔を擦りながら、徐々に潮の香りが乗ってくる冷たい風にぶるっと背筋を震わせた。
やっぱり冷えるな。 残ると言って聞かなかったから置いてきたけれど、また風邪がぶり返してやしないだろうか。
俯き加減に、緩いつづら折りになった段差に残る壊れかけた柵を回り込んで進む。 踏み締める足の下で雑草が立てるさくさくという音を、風が後ろに流していった。
下り切った段差の向こうに更に伸びる、短い谷間のような細い通路を通り抜ける。
もう一度大きく開ける視界。 右手を見る。 なだらかに傾いた草原の遥か向こうに、濃い群青色の水平線が横たわっている。 その線と交差するようにして、木で組み上げた簡素な見張り台がぽつんと人を待っている。
ざぁ……ん、という潮騒が、小さく聞こえてきた。
海原から吹き付ける風の軽い抵抗を感じながら、僕はそこで太古から途切れることなく繰り返す低い波音が誘う方向へと、静かに歩いていく。
緩く下る大地はやがて、空中でごっそりと削り取られたように途切れて消える。 その手前に、大きな段差が一つ。 荒海を望む高い断崖絶壁に敷かれた最後の草原へと降り立つ前に、僕は段差の上で立ち止まった。 白い聖装の裾がふわりと広がる。
その上に昇って間もない太陽を隠した、少し明るい薄曇りの空。
それは水平線を境に、黒にも近い藍色の海に塗り換わる。
見下ろす海原は岩壁の近くで霧のような波頭を踊らせ――そして岩壁の上に横たわる草原。
藍色と若草色、奈落の海と風の大地を分けてカーブを描く緑の絶壁の上、少し右手にぽつねんと。
立てられたばかりの、小さな墓標。
そしてその前に、うずくまるようにしゃがみこむ、長い髪の少女の姿があった。
ざぁ……ん、と遠く砕ける潮騒だけが、僕と小さな花束を出迎えた。
* * *
「寒くない?」
ぎゅっと座り込んで自分の肩を抱きかかえ、その腕に深く顔をうずめるグレーティアの隣にしゃがみながら、僕は彼女に声をかけた。 じっと動かないその様は、まるでそう作られた置き物のようだ。 さらりと流れた紅茶色の髪が、地面につきそうになっている。
「…………ん」
小さな返事と共に、グレーティアはゆっくり顔を上げた。 その可愛い頬がすっかり濡れているのを見て、僕は涙よりもかえって微笑みを浮かべてしまう。
しゃがんで手近な石ころを拾い上げ、それを重石にして持ってきた花を墓標の前に供える。 石はなくても大丈夫かな――と思ったことで、吹く風が少し優しくなっていることに気がついた。
僕はグレーティアと並んでよいしょ、と腰を下ろす。 嫌ではなかったけれど、何だか今は少し照れ臭かった。 何しろ目の前に親父がいる。
ざぁ……ん、という潮騒が、二人を包んだ。
「……ごめんね」
やがてグレーティアがぽつりと言った。 消え入りそうな、小さな声で。
「うん?」
「せっかく貯めた、お金……全部、あの人に渡しちゃったから……」
叱られた子供のようにしおれきった声。 僕はこっそり微笑んで言った。
「ああ、いいんだよ。 ティアは正しい事をしたんだから。 僕がぼけっとしてる間に、ティアが僕の代わりにみんなやってくれたんだ。 感謝してるよ。 本当だ」
そう言って僕はぽんぽんと彼女の頭を撫でる。 頼りない、つるんとした髪の感触。
途端にくしゃりと、僕のてのひらの下でグレーティアの顔が涙に歪んだ。 俯いてぶんぶんと首を振り、涙声で彼女は言葉を絞り始める。
「私……私、本当に嫌な女だわ。 自分だけのお金じゃないのに、エリクスも頑張って貯めたお金なのに、勢いに任せて全部叩き付けちゃって……それに、嫌味もいっぱい言った。 おじさまを撃った事は勿論許せないけど……でも、彼の事情なんか全然知らない私が、偉そうな事をたくさん言った……」
そう言って彼女はぼろぼろと涙をこぼす。 僕の涙腺も少し熱いけれど、それは穏やかな笑顔の中に苦もなく熔かすことができた。
表に出そうな僕の涙を、みんな引き受けて流してくれるグレーティア。
「だって……だって、嫌だったのよ。 おじさまを……あんなに蔑まれたままにするなんて、どうしても嫌だったの。 おじさまは、もう……もう自分で、名誉挽回できないんだと思ったら……。 なのに、私、あんなやり方しか、思いつかなかった……」
しゃくりあげるグレーティアの声が切々と続く。 僕はそれに細かく言葉を返すことはせず、代わりに彼女の背に手を置いて、やはりぽんぽんと叩き続ける。
「でも――でもね、お願い、聞いて」
グレーティアが抱えていた膝を崩すと、隣に座る僕の方に向き直って言った。 すがるような瞳が涙に光っている。
「吊り橋の上でイヴァンに追いついた時、私、思わず銃を抜きそうになったの……直してもらったばっかりの、おじさまの銃を。 バストゥークで、おじさまに教わったのに。 銃を取り出す時を見誤るなって。 身を守る時だけしか、銃を人目に晒しちゃいけないって。 私もずっとそう思ってた、どんな理由があったって、無為に人の命を奪ったり傷つけたりするのは絶対いけないって思ってた……なのにあの時、私、あの人が憎くて憎くてどうしようもなくて……いっそこの銃で仇を――なんて恐ろしい考えが、頭をよぎったのよ」
僕の腕をぎゅっと握る暖かい彼女の手が、小さく震えている。
「怖かったわ。 おじさまの為って思う事で、そんな事を考える自分が、すごく怖かった……これじゃ、今まで自分が心に留めてきた事はみんな綺麗ごとじゃないかって、それでイヴァンの事が言えるのかって、自分に言われた気がした」
グレーティアの声が、高くかすれてひび割れる。 何かに怯えるように。
「でも、ここで私が言いつけを破ったら、自分の衝動に負けたら、私までもがおじさまに背く事になってしまうって――ヴィンスロットの名に、泥を塗ってしまうって思った……だから私、耐えたの。 すごくすごく口惜しかったけど、今はその時じゃないって、銃を手に取る時じゃないって、必死で自分に言い聞かせてた…………ね、エリクス、私、ちゃんとやれたわよね? おじさまのことを――ちゃんと――ねぇお願い、褒めて頂戴――」
小さくしゃくりあげながら、懸命に越えてきた葛藤を吐露する、健気な勝利の女神。
僕はその華奢な頭を抱き寄せると、万感の思いを込めてゆっくりと言った。
「勿論だよ。 本当に立派だった。 ティアは、僕と親父に代わって、親父の名誉を守ってくれたんだ。 偉い。 偉いよ。 ありがとうな」
細い肩が、また静かな嗚咽に上下を始める。
僕は腕の中でそれを感じながら、目の前にひっそりと佇む墓標に心の中で語りかけていた。
――どうするよ、親父。 僕ら揃って、ティアに救われっぱなしだ――
イヴァンが去った後。 タブナジア地下壕の住人達の手を借りて、親父の簡略な葬儀と埋葬をした。
幸いにも滞在していたアルタナの牧師が段取りのほとんどを仕切ってくれたので、急な式でも滞りなく済ませることができたのだが。
僕を驚かせ、しんみりする暇すらなくさせてくれたのは、悔やみを言いに来てくれた予想を上回る数の人々だった。
たまたまこの地を訪れており、なおかつ親父の名を知っていた数名の冒険者たち。
一様に沈痛な面持ちの彼らの中には、歳若い女性もいた。 背にマッチロックガンを携え、グレーティアの着ているそれとは少し趣の違った、しかし一見してスナイパーと判る黒髪の女性などは、ぼろぼろ泣きながら手を合わせてくれた。
が、僕がヴィンスロットの息子であると知るや、彼女が我を忘れてがばと僕に掴みかかって来たのには驚いた。
「信じられません! 今度の仕事の報酬が入ったら、貯金をはたいてヴィンスロットさんの銃を買おうと思ってたんですぅ! なのにこんな……どうして、どうして待っていてくれなかったんですかぁ!」
その声がこの場にも彼女の出で立ちにも、更には言っている内容にもそぐわないやたらめったら可愛らしいものだったのも相まって、涙目で訴える彼女にがくがくと揺さぶられる僕はひたすら口をぱくぱくさせていた。
しかしすぐ、彼女と一緒に訪れて黙祷を捧げていた同じく黒髪のエルヴァーンの男性がその騒ぎに気付くと、落ち着き払った声で「やめたまえ」と言いながら、泣き叫ぶ彼女をべりっと引き剥がしてくれた。
右頬に縦に大きな傷跡のある彼は、恐らく歴戦の戦士なのだろう。 銃器を扱う人種には見えなかったが、その彼が丁寧に、親父の業績を称え惜しむ悔やみと励ましの言葉を述べてくれる。 そしてまだべそべそと泣いている連れの女性を引きずりながら、ひっそりと影のように姿を消していったのだった。
少し奇抜ではあったものの。 その二人が改めて教えてくれたのは、目に見えない――だからこそ消えない、親父が生きた証。
それがこの世界に静かに浸透しているという、暖かい事実だった。
さらに。
地下壕の警備員やリタイヤした兵士といういかにも銃器にゆかりのありそうな人々から、毎日世話になった食料品店の主人までは判る。 けれど、どう考えても交流の薄そうな年寄り夫婦や、年端も行かぬ小さな子供達までもがぐすぐすと鼻をつまらせながら訪れたのには、涙を誘われる前に目を疑ってしまった。
聞けばどうやら親父は銃器類だけに限らず、機械全般の修理やらメンテナンスやらを自分の判る限り請け負っていたようで。 来るわ来るわ、家のラジオを調整してもらった老夫婦、愛用のミシンを直してもらった少女、ゼンマイのおもちゃを生き返らせてもらった子供達。
――何だよ親父、ずいぶん楽しそうにやってたんじゃないか。
静かな慌しさの中、そんな思いに僕は、哀愁や追憶よりも気の抜けたような安堵を感じていた。
葬儀の前までは、少し無理をしてでも故郷のバストゥークに戻してやるべきだろうかと、実はかなり迷っていた。 こんな遠い土地に置いて行かれるのは寂しいかな、と。
けれどこうして沢山の人が悼んでくれる声に囲まれながら、牧師の深く優しい声に「ルフェーゼ野の景観のよいところに眠らせてあげては如何か」と言われた僕は、それにごく素直に頷いていたのだった。
と、まる一日かけてそれだけの仕事を通り抜け、やっとこうして静かなひとときを取り戻したというのに。
不思議な事に僕にはまだ、親父がいないという実感がほとんど湧かないままだ。 下手をすればそれは、彼と――イヴァンと対峙していた時よりも、むしろ希薄なぐらいに思える。
もうずっと離れて暮らしていたのもいけなかったのだろうか。 そこかしこに親父の影を見て、色々な後始末をしながら「全くどこに行ってるんだ、自分で片付けろ」などと思ってしまう。
グレーティアが親父を偲んで泣いているのを見て、「ちょっと来て慰めてやってくれよ」と思ってしまう。
もう親父は自分で名誉挽回できない――なんて言葉を聞いても、何だかピンとこないのだ。
もう会えないという実感は、一体いつ訪れるのだろう。 やっぱりイヴァンのパンチが効きすぎて、まだ僕の神経はどこかが麻痺しているのかもしれない。
どちらにしても、その時が来たらゆっくり向き合えばいい。 多分僕は泣く。 だから、グレーティアのいない時を見計らわないといけない。 ああ、難しいな。
「また……お金、貯め直さないといけないわね……」
まだどこか申し訳なさそうに、グレーティアがか細い声で言った。 するとその言葉に体温を乗せて吐き出てしまったかのように、彼女は小さく身震いし、くしゅんとくしゃみをする。
「―――雪割りの花の温もりよ、息吹上がらば我が元へ――」
僕は傍らに寄り添う彼女に、詩を詠むような気持ちと調子で、一番簡単な癒しの呪文を施した。
そう、アルタナはいつのまにか、僕に力を返してくれていた。
あの時、本当に神が罰を下したのか、それとも僕が取り乱すあまり精神の集中ができなくなっていたのか。 突然に呪文を扱えなくなった原因は、今となってはもう判らない。
けれどあの、身の毛のよだつようなどす黒い憎しみの下で、多少なりともまともな癒しの術が成立するものかと問われれば――否、だろうと、今の僕は感じる。
そしてそれを認める事は、白魔道士のくせに僕が今まで鼻であしらってきた『あるもの』を、存在として許容せざるを得なくなる行為であり現象だったのだが。
仕方ない。 何しろその存在の、最も判りやすい顕れを――祈る、という行為を。
こんなにも自然に、あっけなく僕に認めさせてしまうのだから。 行わせてしまうのだから。
目の前の、海風の中に佇む、真新しい墓標が。
「――その、お金の事なんだけどね」
そして僕は、ゆっくりと口を開いた。 グレーティアが僕の横顔を見る。
さあ、彼女と親父の前で、やっと決めることができた最初の一歩を、ちゃんと宣言しておこう。
「モンスターを狩りに行くのは、勿論今まで通りにやるんだけど……ちょっと、副業を始めてみようかと思うんだ」
「……副業?」
グレーティアが、促すように首を傾げる。
「うん。 合成品ってやつにね、手を出してみたいんだよ。 うまくやれるかどうか判らないけど」
「…………まぁ」
僕の口から出た唐突な言葉に、少し呆気に取られたようなグレーティア。 一拍置いて、その表情のままで目と口をほころばせた。
「あら……あら、何だか、変な感じだわ。 エリクスが、自分から何かをしたいって希望を出すのって……不思議ね、今まで、そう……あまり、なかったのかしら……?」
実に半端に言葉を選びながら、喜ぶのが先か訝しむのが先か迷っているような微妙な表情のグレーティアを見て、僕は思わずふっと笑ってしまう。
あまり、じゃないよ。 一度たりともなかったはずさ。 心の中でそう呟きながら、僕は言葉を続ける。
「手を付けたいのは鍛冶。 ああ、そうするとノノに教わるのが早いのかな?」
「鍛冶? え、もしかして……おじさまの、跡を?」
少し高くなったグレーティアの言葉に、僕は苦笑いする。
「ま、そんな大層なものじゃないけどね。 いきなり稼ぎにはならないだろうけど……って言うか、むしろお金を使っちゃうかもしれないけど。 長い目で見れば、白魔道士以外にも手に職があるといいだろ?」
手元の雑草をひとつまみむしって、見上げる頭上でぱらりと離す。 細かい草を海風がみんな後ろに運んでいって、朝焼けを隠す薄い灰色の空だけが残った。
「でも――そう、行く行くは、ティアのデリンジャーをメンテナンスできるぐらいまでにはなりたいと思う。 ああ、そもそも自分にその素質があるかどうか、見極めたいってのもあるな。 幸い道具だけは山ほどあるし」
のんびりとした言葉の裏で、遠く星の大樹をバックに、商売人にしては逞しいレオ氏の姿が胸に浮かぶ。
『人間というのは、どんなに近しくても一人と一人で構成されているという話さ』
そうだ、やっと判ったよ。 何もかも、あなたの言う通りだ。
自分の行く道までもすっかりグレーティアに任せっきりにしていた僕は、自分と彼女が別々の人間だってことすら、いつのまにか見失っていた。
だから僕は今、彼女の影から滑り出よう。 己の姿を晒して、自らの足で歩こうと思う。
誰のせいにもしない、何の大義名分もない、ただ自分の決めた道を。
グレーティアと繋いだ手は離さずに――
「……いいじゃない。 素敵だわ」
遥か水平線を、目を細めて見やりながらそんな事を思う僕に、グレーティアは嬉しそうな声で言った。
「きっとノノも、喜んで手伝ってくれるわよ――いやだ、何だか私の方が楽しみになってきたわ」
ふふっと、何だかくすぐったそうに笑うグレーティア。 ああ、その様子だと、気付かれずには済んだみたいだ。
八年前。 君の家の庭で、大きな出窓越しに小さな僕らが出会った、あの日に。
しっかり者の君はちゃんと切っていた、新しい世界へのスタート。
そのラインを、怠け者の僕はどうやら、今から走り出すらしいんだよ――
「ねえ、でも、いきなりどうして? ひょっとしておじさまに、何か言われたのかしら」
「んー……」
僕は後ろに両手をついて、広い空を仰ぎ見る。 顎の下を、涼しい風が滑っていった。
さて、言えるだろうか。 いやいや、言えるが訳ない。
昨日あの吊り橋の上で僕に落とされたのが一体どんな爆弾で、それを投下したのが誰なのかなんて。
そんな赤面ものの思い出話は、いつかしわくちゃのおじいさんとおばあさんになってから、暖かい窓際でお茶をすすりながらさせてもらうとするよ。 今はなけなしの男のメンツってやつを守っても、バチは当たるまい……と、思いたい。
「ま、心境の変化ってことでね。 僕ももうちょっと、しっかりやろうと思ったのさ。 このまま行くと情けなくも尻に敷かれることは確実だからなぁ」
「まぁひどい、私がいつ――」
軽く憤慨したように、グレーティアが僕の膝をぴしりと叩いた。 拗ねたように微笑む彼女の頬の涙は、もうだいぶ乾いたようだった。
「――じゃ、そろそろ行こうか。 できれば少し休んでから、一旦ウィンダスに戻らないとね」
「ええ、そうね……」
よいしょと立ち上がる僕に少し遅れて、グレーティアが名残惜しそうに腰を上げる。
服の裾についた草を払い、もう一度手を合わせて「おじさま、また来ますから」と小さく呟く彼女の声を聞きながら、僕は遥か遠い東の空を仰いだ。
鼠色の薄雲を優しく貫いて、広がる幾本もの陽光が大地に向かって手を差し伸べている。
何かを迎えているのだろうか。 それとも何かを降ろしているのだろうか。
人がそこに神の影を浮かべてきた、儚くも揺るぎない天上の輝き。
薄いヴェールのように大地と空とをぴんと繋ぐそれは、まるで一日ごとに上がる幕のようだ。
だから。 どうかこの墓標に、毎日見せてやってくれないか。
僕とグレーティアが歩く様子を。 変わることのない日常を、でもきっと少しずつ新しくてどこかが違う日常を。 空から空へと運んで、その静かな光の中に、ひととき映し出してほしい。
この墓標に眠る刻を、未来へ。
閉ざされた過去に澱ませることなく、僕達と一緒に、遠い未来へと運ぶ光に――
ざぁ……ん、という潮騒が、終わることなく繰り返す。
いつまでも、いつまでも――
End
タブナジア地下壕からルフェーゼ野に出る洞窟を抜け、途端に吹き込んでくる涼風を正面に受けた僕は、肺いっぱいにその空気の塊を吸い込んで空を仰いだ。 胸がひやりと冷える。
少し雲が覆っているけれど、雷鳴は聞こえない。 ここではいい天気の部類に入るな、と思いながら僕は一人歩き出した。
小振りの花束を手に提げて、谷間を渡る吊り橋の中央を足早に進む。
昨日の今日なのにどこから手に入れたのか、ダニエル夫妻が僕に用意してくれたその花束は、よく見れば控えめでしっかりした花びらのものを選んで集めてある。
荒い風にもその可憐な色をさらわれることなく、手の中で小さく躍る花束を僕は眺めた。
地下壕で気の毒そうに、それでも優しく微笑んでくれる夫人から受け取った時には、こんな細やかな気配りには気付かなかった。 こうして外に出て危うい風にあおられてみて初めて、その存在を知るのだ、僕という人間は。
ふと、まだ心の奥底に沈殿したまま動かない幾つもの感情のうちから、情けないな――という一つがぽこりと浮き上がってきた。
きっとこの花束の作られ方のように、僕は自分で思っているよりもずっと沢山の助けを、人からもらって生きてきたのだろう。 例え気付いていても時には鬱陶しいとないがしろにしてきた僕の事だ、知らぬままに食い尽くした思いやりがどれだけあるのかなんて、それはもう想像するだけで目を覆いたい気持ちになる。
見えるまで気付かない、痛い思いをするまで判らないというのは、一体男という生き物に何歳まで許される過ちなのだろうか――
吊り橋を渡り切り、少し開けた野原を下る。
やっと少しばかり眠気が顔を出して来た。 僕は軽く手のひらで顔を擦りながら、徐々に潮の香りが乗ってくる冷たい風にぶるっと背筋を震わせた。
やっぱり冷えるな。 残ると言って聞かなかったから置いてきたけれど、また風邪がぶり返してやしないだろうか。
俯き加減に、緩いつづら折りになった段差に残る壊れかけた柵を回り込んで進む。 踏み締める足の下で雑草が立てるさくさくという音を、風が後ろに流していった。
下り切った段差の向こうに更に伸びる、短い谷間のような細い通路を通り抜ける。
もう一度大きく開ける視界。 右手を見る。 なだらかに傾いた草原の遥か向こうに、濃い群青色の水平線が横たわっている。 その線と交差するようにして、木で組み上げた簡素な見張り台がぽつんと人を待っている。
ざぁ……ん、という潮騒が、小さく聞こえてきた。
海原から吹き付ける風の軽い抵抗を感じながら、僕はそこで太古から途切れることなく繰り返す低い波音が誘う方向へと、静かに歩いていく。
緩く下る大地はやがて、空中でごっそりと削り取られたように途切れて消える。 その手前に、大きな段差が一つ。 荒海を望む高い断崖絶壁に敷かれた最後の草原へと降り立つ前に、僕は段差の上で立ち止まった。 白い聖装の裾がふわりと広がる。
その上に昇って間もない太陽を隠した、少し明るい薄曇りの空。
それは水平線を境に、黒にも近い藍色の海に塗り換わる。
見下ろす海原は岩壁の近くで霧のような波頭を踊らせ――そして岩壁の上に横たわる草原。
藍色と若草色、奈落の海と風の大地を分けてカーブを描く緑の絶壁の上、少し右手にぽつねんと。
立てられたばかりの、小さな墓標。
そしてその前に、うずくまるようにしゃがみこむ、長い髪の少女の姿があった。
ざぁ……ん、と遠く砕ける潮騒だけが、僕と小さな花束を出迎えた。
* * *
「寒くない?」
ぎゅっと座り込んで自分の肩を抱きかかえ、その腕に深く顔をうずめるグレーティアの隣にしゃがみながら、僕は彼女に声をかけた。 じっと動かないその様は、まるでそう作られた置き物のようだ。 さらりと流れた紅茶色の髪が、地面につきそうになっている。
「…………ん」
小さな返事と共に、グレーティアはゆっくり顔を上げた。 その可愛い頬がすっかり濡れているのを見て、僕は涙よりもかえって微笑みを浮かべてしまう。
しゃがんで手近な石ころを拾い上げ、それを重石にして持ってきた花を墓標の前に供える。 石はなくても大丈夫かな――と思ったことで、吹く風が少し優しくなっていることに気がついた。
僕はグレーティアと並んでよいしょ、と腰を下ろす。 嫌ではなかったけれど、何だか今は少し照れ臭かった。 何しろ目の前に親父がいる。
ざぁ……ん、という潮騒が、二人を包んだ。
「……ごめんね」
やがてグレーティアがぽつりと言った。 消え入りそうな、小さな声で。
「うん?」
「せっかく貯めた、お金……全部、あの人に渡しちゃったから……」
叱られた子供のようにしおれきった声。 僕はこっそり微笑んで言った。
「ああ、いいんだよ。 ティアは正しい事をしたんだから。 僕がぼけっとしてる間に、ティアが僕の代わりにみんなやってくれたんだ。 感謝してるよ。 本当だ」
そう言って僕はぽんぽんと彼女の頭を撫でる。 頼りない、つるんとした髪の感触。
途端にくしゃりと、僕のてのひらの下でグレーティアの顔が涙に歪んだ。 俯いてぶんぶんと首を振り、涙声で彼女は言葉を絞り始める。
「私……私、本当に嫌な女だわ。 自分だけのお金じゃないのに、エリクスも頑張って貯めたお金なのに、勢いに任せて全部叩き付けちゃって……それに、嫌味もいっぱい言った。 おじさまを撃った事は勿論許せないけど……でも、彼の事情なんか全然知らない私が、偉そうな事をたくさん言った……」
そう言って彼女はぼろぼろと涙をこぼす。 僕の涙腺も少し熱いけれど、それは穏やかな笑顔の中に苦もなく熔かすことができた。
表に出そうな僕の涙を、みんな引き受けて流してくれるグレーティア。
「だって……だって、嫌だったのよ。 おじさまを……あんなに蔑まれたままにするなんて、どうしても嫌だったの。 おじさまは、もう……もう自分で、名誉挽回できないんだと思ったら……。 なのに、私、あんなやり方しか、思いつかなかった……」
しゃくりあげるグレーティアの声が切々と続く。 僕はそれに細かく言葉を返すことはせず、代わりに彼女の背に手を置いて、やはりぽんぽんと叩き続ける。
「でも――でもね、お願い、聞いて」
グレーティアが抱えていた膝を崩すと、隣に座る僕の方に向き直って言った。 すがるような瞳が涙に光っている。
「吊り橋の上でイヴァンに追いついた時、私、思わず銃を抜きそうになったの……直してもらったばっかりの、おじさまの銃を。 バストゥークで、おじさまに教わったのに。 銃を取り出す時を見誤るなって。 身を守る時だけしか、銃を人目に晒しちゃいけないって。 私もずっとそう思ってた、どんな理由があったって、無為に人の命を奪ったり傷つけたりするのは絶対いけないって思ってた……なのにあの時、私、あの人が憎くて憎くてどうしようもなくて……いっそこの銃で仇を――なんて恐ろしい考えが、頭をよぎったのよ」
僕の腕をぎゅっと握る暖かい彼女の手が、小さく震えている。
「怖かったわ。 おじさまの為って思う事で、そんな事を考える自分が、すごく怖かった……これじゃ、今まで自分が心に留めてきた事はみんな綺麗ごとじゃないかって、それでイヴァンの事が言えるのかって、自分に言われた気がした」
グレーティアの声が、高くかすれてひび割れる。 何かに怯えるように。
「でも、ここで私が言いつけを破ったら、自分の衝動に負けたら、私までもがおじさまに背く事になってしまうって――ヴィンスロットの名に、泥を塗ってしまうって思った……だから私、耐えたの。 すごくすごく口惜しかったけど、今はその時じゃないって、銃を手に取る時じゃないって、必死で自分に言い聞かせてた…………ね、エリクス、私、ちゃんとやれたわよね? おじさまのことを――ちゃんと――ねぇお願い、褒めて頂戴――」
小さくしゃくりあげながら、懸命に越えてきた葛藤を吐露する、健気な勝利の女神。
僕はその華奢な頭を抱き寄せると、万感の思いを込めてゆっくりと言った。
「勿論だよ。 本当に立派だった。 ティアは、僕と親父に代わって、親父の名誉を守ってくれたんだ。 偉い。 偉いよ。 ありがとうな」
細い肩が、また静かな嗚咽に上下を始める。
僕は腕の中でそれを感じながら、目の前にひっそりと佇む墓標に心の中で語りかけていた。
――どうするよ、親父。 僕ら揃って、ティアに救われっぱなしだ――
イヴァンが去った後。 タブナジア地下壕の住人達の手を借りて、親父の簡略な葬儀と埋葬をした。
幸いにも滞在していたアルタナの牧師が段取りのほとんどを仕切ってくれたので、急な式でも滞りなく済ませることができたのだが。
僕を驚かせ、しんみりする暇すらなくさせてくれたのは、悔やみを言いに来てくれた予想を上回る数の人々だった。
たまたまこの地を訪れており、なおかつ親父の名を知っていた数名の冒険者たち。
一様に沈痛な面持ちの彼らの中には、歳若い女性もいた。 背にマッチロックガンを携え、グレーティアの着ているそれとは少し趣の違った、しかし一見してスナイパーと判る黒髪の女性などは、ぼろぼろ泣きながら手を合わせてくれた。
が、僕がヴィンスロットの息子であると知るや、彼女が我を忘れてがばと僕に掴みかかって来たのには驚いた。
「信じられません! 今度の仕事の報酬が入ったら、貯金をはたいてヴィンスロットさんの銃を買おうと思ってたんですぅ! なのにこんな……どうして、どうして待っていてくれなかったんですかぁ!」
その声がこの場にも彼女の出で立ちにも、更には言っている内容にもそぐわないやたらめったら可愛らしいものだったのも相まって、涙目で訴える彼女にがくがくと揺さぶられる僕はひたすら口をぱくぱくさせていた。
しかしすぐ、彼女と一緒に訪れて黙祷を捧げていた同じく黒髪のエルヴァーンの男性がその騒ぎに気付くと、落ち着き払った声で「やめたまえ」と言いながら、泣き叫ぶ彼女をべりっと引き剥がしてくれた。
右頬に縦に大きな傷跡のある彼は、恐らく歴戦の戦士なのだろう。 銃器を扱う人種には見えなかったが、その彼が丁寧に、親父の業績を称え惜しむ悔やみと励ましの言葉を述べてくれる。 そしてまだべそべそと泣いている連れの女性を引きずりながら、ひっそりと影のように姿を消していったのだった。
少し奇抜ではあったものの。 その二人が改めて教えてくれたのは、目に見えない――だからこそ消えない、親父が生きた証。
それがこの世界に静かに浸透しているという、暖かい事実だった。
さらに。
地下壕の警備員やリタイヤした兵士といういかにも銃器にゆかりのありそうな人々から、毎日世話になった食料品店の主人までは判る。 けれど、どう考えても交流の薄そうな年寄り夫婦や、年端も行かぬ小さな子供達までもがぐすぐすと鼻をつまらせながら訪れたのには、涙を誘われる前に目を疑ってしまった。
聞けばどうやら親父は銃器類だけに限らず、機械全般の修理やらメンテナンスやらを自分の判る限り請け負っていたようで。 来るわ来るわ、家のラジオを調整してもらった老夫婦、愛用のミシンを直してもらった少女、ゼンマイのおもちゃを生き返らせてもらった子供達。
――何だよ親父、ずいぶん楽しそうにやってたんじゃないか。
静かな慌しさの中、そんな思いに僕は、哀愁や追憶よりも気の抜けたような安堵を感じていた。
葬儀の前までは、少し無理をしてでも故郷のバストゥークに戻してやるべきだろうかと、実はかなり迷っていた。 こんな遠い土地に置いて行かれるのは寂しいかな、と。
けれどこうして沢山の人が悼んでくれる声に囲まれながら、牧師の深く優しい声に「ルフェーゼ野の景観のよいところに眠らせてあげては如何か」と言われた僕は、それにごく素直に頷いていたのだった。
と、まる一日かけてそれだけの仕事を通り抜け、やっとこうして静かなひとときを取り戻したというのに。
不思議な事に僕にはまだ、親父がいないという実感がほとんど湧かないままだ。 下手をすればそれは、彼と――イヴァンと対峙していた時よりも、むしろ希薄なぐらいに思える。
もうずっと離れて暮らしていたのもいけなかったのだろうか。 そこかしこに親父の影を見て、色々な後始末をしながら「全くどこに行ってるんだ、自分で片付けろ」などと思ってしまう。
グレーティアが親父を偲んで泣いているのを見て、「ちょっと来て慰めてやってくれよ」と思ってしまう。
もう親父は自分で名誉挽回できない――なんて言葉を聞いても、何だかピンとこないのだ。
もう会えないという実感は、一体いつ訪れるのだろう。 やっぱりイヴァンのパンチが効きすぎて、まだ僕の神経はどこかが麻痺しているのかもしれない。
どちらにしても、その時が来たらゆっくり向き合えばいい。 多分僕は泣く。 だから、グレーティアのいない時を見計らわないといけない。 ああ、難しいな。
「また……お金、貯め直さないといけないわね……」
まだどこか申し訳なさそうに、グレーティアがか細い声で言った。 するとその言葉に体温を乗せて吐き出てしまったかのように、彼女は小さく身震いし、くしゅんとくしゃみをする。
「―――雪割りの花の温もりよ、息吹上がらば我が元へ――」
僕は傍らに寄り添う彼女に、詩を詠むような気持ちと調子で、一番簡単な癒しの呪文を施した。
そう、アルタナはいつのまにか、僕に力を返してくれていた。
あの時、本当に神が罰を下したのか、それとも僕が取り乱すあまり精神の集中ができなくなっていたのか。 突然に呪文を扱えなくなった原因は、今となってはもう判らない。
けれどあの、身の毛のよだつようなどす黒い憎しみの下で、多少なりともまともな癒しの術が成立するものかと問われれば――否、だろうと、今の僕は感じる。
そしてそれを認める事は、白魔道士のくせに僕が今まで鼻であしらってきた『あるもの』を、存在として許容せざるを得なくなる行為であり現象だったのだが。
仕方ない。 何しろその存在の、最も判りやすい顕れを――祈る、という行為を。
こんなにも自然に、あっけなく僕に認めさせてしまうのだから。 行わせてしまうのだから。
目の前の、海風の中に佇む、真新しい墓標が。
「――その、お金の事なんだけどね」
そして僕は、ゆっくりと口を開いた。 グレーティアが僕の横顔を見る。
さあ、彼女と親父の前で、やっと決めることができた最初の一歩を、ちゃんと宣言しておこう。
「モンスターを狩りに行くのは、勿論今まで通りにやるんだけど……ちょっと、副業を始めてみようかと思うんだ」
「……副業?」
グレーティアが、促すように首を傾げる。
「うん。 合成品ってやつにね、手を出してみたいんだよ。 うまくやれるかどうか判らないけど」
「…………まぁ」
僕の口から出た唐突な言葉に、少し呆気に取られたようなグレーティア。 一拍置いて、その表情のままで目と口をほころばせた。
「あら……あら、何だか、変な感じだわ。 エリクスが、自分から何かをしたいって希望を出すのって……不思議ね、今まで、そう……あまり、なかったのかしら……?」
実に半端に言葉を選びながら、喜ぶのが先か訝しむのが先か迷っているような微妙な表情のグレーティアを見て、僕は思わずふっと笑ってしまう。
あまり、じゃないよ。 一度たりともなかったはずさ。 心の中でそう呟きながら、僕は言葉を続ける。
「手を付けたいのは鍛冶。 ああ、そうするとノノに教わるのが早いのかな?」
「鍛冶? え、もしかして……おじさまの、跡を?」
少し高くなったグレーティアの言葉に、僕は苦笑いする。
「ま、そんな大層なものじゃないけどね。 いきなり稼ぎにはならないだろうけど……って言うか、むしろお金を使っちゃうかもしれないけど。 長い目で見れば、白魔道士以外にも手に職があるといいだろ?」
手元の雑草をひとつまみむしって、見上げる頭上でぱらりと離す。 細かい草を海風がみんな後ろに運んでいって、朝焼けを隠す薄い灰色の空だけが残った。
「でも――そう、行く行くは、ティアのデリンジャーをメンテナンスできるぐらいまでにはなりたいと思う。 ああ、そもそも自分にその素質があるかどうか、見極めたいってのもあるな。 幸い道具だけは山ほどあるし」
のんびりとした言葉の裏で、遠く星の大樹をバックに、商売人にしては逞しいレオ氏の姿が胸に浮かぶ。
『人間というのは、どんなに近しくても一人と一人で構成されているという話さ』
そうだ、やっと判ったよ。 何もかも、あなたの言う通りだ。
自分の行く道までもすっかりグレーティアに任せっきりにしていた僕は、自分と彼女が別々の人間だってことすら、いつのまにか見失っていた。
だから僕は今、彼女の影から滑り出よう。 己の姿を晒して、自らの足で歩こうと思う。
誰のせいにもしない、何の大義名分もない、ただ自分の決めた道を。
グレーティアと繋いだ手は離さずに――
「……いいじゃない。 素敵だわ」
遥か水平線を、目を細めて見やりながらそんな事を思う僕に、グレーティアは嬉しそうな声で言った。
「きっとノノも、喜んで手伝ってくれるわよ――いやだ、何だか私の方が楽しみになってきたわ」
ふふっと、何だかくすぐったそうに笑うグレーティア。 ああ、その様子だと、気付かれずには済んだみたいだ。
八年前。 君の家の庭で、大きな出窓越しに小さな僕らが出会った、あの日に。
しっかり者の君はちゃんと切っていた、新しい世界へのスタート。
そのラインを、怠け者の僕はどうやら、今から走り出すらしいんだよ――
「ねえ、でも、いきなりどうして? ひょっとしておじさまに、何か言われたのかしら」
「んー……」
僕は後ろに両手をついて、広い空を仰ぎ見る。 顎の下を、涼しい風が滑っていった。
さて、言えるだろうか。 いやいや、言えるが訳ない。
昨日あの吊り橋の上で僕に落とされたのが一体どんな爆弾で、それを投下したのが誰なのかなんて。
そんな赤面ものの思い出話は、いつかしわくちゃのおじいさんとおばあさんになってから、暖かい窓際でお茶をすすりながらさせてもらうとするよ。 今はなけなしの男のメンツってやつを守っても、バチは当たるまい……と、思いたい。
「ま、心境の変化ってことでね。 僕ももうちょっと、しっかりやろうと思ったのさ。 このまま行くと情けなくも尻に敷かれることは確実だからなぁ」
「まぁひどい、私がいつ――」
軽く憤慨したように、グレーティアが僕の膝をぴしりと叩いた。 拗ねたように微笑む彼女の頬の涙は、もうだいぶ乾いたようだった。
「――じゃ、そろそろ行こうか。 できれば少し休んでから、一旦ウィンダスに戻らないとね」
「ええ、そうね……」
よいしょと立ち上がる僕に少し遅れて、グレーティアが名残惜しそうに腰を上げる。
服の裾についた草を払い、もう一度手を合わせて「おじさま、また来ますから」と小さく呟く彼女の声を聞きながら、僕は遥か遠い東の空を仰いだ。
鼠色の薄雲を優しく貫いて、広がる幾本もの陽光が大地に向かって手を差し伸べている。
何かを迎えているのだろうか。 それとも何かを降ろしているのだろうか。
人がそこに神の影を浮かべてきた、儚くも揺るぎない天上の輝き。
薄いヴェールのように大地と空とをぴんと繋ぐそれは、まるで一日ごとに上がる幕のようだ。
だから。 どうかこの墓標に、毎日見せてやってくれないか。
僕とグレーティアが歩く様子を。 変わることのない日常を、でもきっと少しずつ新しくてどこかが違う日常を。 空から空へと運んで、その静かな光の中に、ひととき映し出してほしい。
この墓標に眠る刻を、未来へ。
閉ざされた過去に澱ませることなく、僕達と一緒に、遠い未来へと運ぶ光に――
ざぁ……ん、という潮騒が、終わることなく繰り返す。
いつまでも、いつまでも――
End