テノリライオン
黒魔道士の一日
最終更新:
corelli
ぱかりと抜けるような高い太陽の日差し。その光を避けて座った浅い軒の下の日陰で木の壁にもたれ、バルトは膝の上に載せた魔道書に目を落としていた。
開いたページを押さえる指の先で、紙の隅がぱたぱたと小さく三角にはためいている。澄んだ海風が、彼の顔と本の間を、そこに細かく並ぶ文字と同じ方向に流れていく。
紙の上をゆっくりと左右になぞる彼の瞳は、半ば眠たそうに半ば微笑むように細められて――
「バルトさぁーん、まぁーだ本読んでんすかーぁ」
そんな彼に、緊張感というものがとことんまで抜け切った少年の声が投げかけられた。太陽光に溶けかけたチョコレートのようなその声に呼ばれてバルトは、ふいと本から顔を上げる。
そして今度は本当の眩し 爽やかな、涼やかな潮風の中を進む。
ぱかりと抜けるような高い太陽の日差し。
その光を避けて座った浅い軒の下の日陰で木の壁にもたれ、バルトは膝の上に載せた魔道書に目を落としていた。
開いたページを押さえる指の先で、紙の隅がぱたぱたと小さく三角にはためいている。
澄んだ海風が、彼の顔と本の間を、そこに細かく並ぶ文字と同じ方向に流れていく。
紙の上をゆっくりと左右になぞる彼の瞳は、半ば眠たそうに半ば微笑むように細められて――
「バルトさぁーん、まぁーだ本読んでんすかーぁ」
そんな彼に、緊張感というものがとことんまで抜け切った少年の声が投げかけられた。
太陽光に溶けかけたチョコレートのようなその声に呼ばれてバルトは、ふいと本から顔を上げる。
そして今度は本当の眩しさに、彼は改めて目を細めた。
彼の足元を、さぁぁ……と穏やかに水面を切る音がくすぐっている。
目の前にはひたすら明るく、そして真っ平らな南の海がこれでもかと広がっていた。
深いコバルトブルー、浅いマリンブルー。
入り混じる澄み切った青という青の上を、浮き沈みするレース模様のようなさざ波が生き物のように滑っていく。
遠い水平線の上は、雲ひとつない青空。
じき天頂に届きそうな太陽だけがたった一つ、そして強烈にそこから輝き下ろしている。
どこまでも青い色が支配する海洋航路、プルゴノルゴ島行きの、ここはマナクリッパーの船上。
「んー、今終わった」
エルヴァーンの黒魔道士、バルトルディ――通称バルトは、そう言って章をひとつ読み終えた魔道書をぱたんと閉じ、うーんと大きく伸びをした。
日よけのためにかぶっていた黒いとんがり帽のつばが背後の壁に当たって、ずるっと顔に落ちてくる。
短い白髪の上でそれをもぞもぞと直しながらバルトは、声のした方向に目をやった。
さんさんと陽の光が降り注ぐ広い甲板に、人影が二つ。
運良く彼らの貸し切り状態となっているこの船の上、ど真ん中で大の字に寝転んでいるのは、タルタルで暗黒騎士のやんちゃ坊主、ルードだ。
灰色のくりくり頭を海風に散らし、アイデンティティーのように佩びる黒い大鎌以外はすっかり町着並みの軽装に装備を落として、もうこの船と太陽はおれのもんだと言わんばかりに底抜けの日光浴を満喫している。
「いやーきーもちいいっすよー、このヤケクソな太陽。
やっぱ男は日焼けっすよ日焼け。
バルトさんもここは一つ焼きましょうぜ、黒魔道士はひきこもりのモヤシっ子だと言われない為にも!」
「仮にも冒険稼業の魔道士にそんなご挨拶、世界でお前が今初めて言ったよ」
だだっ広い甲板でせんべいを焼くようにごろごろと裏表になりながら、気持ちよさげにうーとかあーとか唸っているルードに鼻で笑ってそう返し、バルトは更にその向こうへと視線を向けた。
二人に背を向け、船べりに静かに腰を下ろして釣り糸を垂れているもう一つの人影は、ヴォルフ。
ルードとは対照的に、きっちりといつも通りの紅い魔装に身を固めている。
赤魔道士のトレードマークのような、少し縁の反ったやはり紅い帽子が、長い白髪を後ろでひとつにまとめた頭の上に行儀よく収まっていた。
その左右から、エルヴァーン特有のぴんと尖った耳が覗く。
目深に傾く帽子の陰で見えない表情と、片膝を立てたままぴくりとも動かず無造作に釣竿を伸ばしている姿は、そのまま夢でも見ているのか、はたまた優雅な帆船の船首に彫られた美しい女神像さながら、まるでこの船の装飾にでもなってしまったのではないかと思わずにはいられない雰囲気を醸している。
ただそんな無機質な女神像と違うのは、船の周囲に果てしなく広がる鏡のような青の中くっきりと対照的な彩を放つ彼の紅い色、そしてその背で爽やかな海風にたなびく一筋の白い髪が、間違いなく生きた人間のそれであるという事だった。
手にしていたぶ厚い魔道書を背負い袋に戻し、よっこらしょ、とどこか年寄りじみた掛け声を呟いてバルトは立ち上がる。
そしてマナクリッパーの船首に据えられた、小さな操舵室のひさしから抜け出た。
途端に、からりと輝く日差しが惜しみなく彼に降り注ぐ。
湿気の少ない気候なので、日陰と日向の温度差が段違いだ。
普段と同じ黒を基調としたローブを着込むバルトには、後からその暑さがじわじわと染み込んでくるかもしれなかったが、今は海原を進む船が作り出す涼やかな風が心地よい。
バルトは大きく息を吸い込んで、視界いっぱいを埋める空を仰いだ。
町中やその周辺ではお目にかかれない、有無を言わせぬ怒涛の自然の恵みが、彼の頭の中で躍り続ける細かい文字列を根こそぎ奪い去っていくようだった。
知らず彼の口元から、諦めたような開放的な笑みがこぼれる。
「釣れますか?」
ごろんごろんと芋虫のように甲板を転がるタルタルをやりすごして、バルトはヴォルフの傍らにぶらぶらと歩み寄ると声をかけた。
「ん……まあまあだな」
少し反応が遅かった。
どうやら本当にうつらうつらとしていたようだ。
そんな彼の傍らに置かれたバケツをひょいと覗き込むと、中ぐらいのサイズの魚が二尾、窮屈そうにたゆたっている。
それを見てバルトは楽しそうな声を上げた。
「まだ出航してそんなに経ってないのに、さすがですねぇ」
意外にも卓越した釣りの腕を持つヴォルフ。
じっと待つのは苦でもない、と言わんばかりに、炎天下でも汗一つかかず船すらこいでいる赤魔道士は、ん、と小さく返事をした。
ぴーっ、と高い笛のような鳴き声を響かせ、彼らの遥か眼前をイルカが跳ねて横切った。
* * *
「――潮干狩りやってみたいんすよね、潮干狩り」
ある日の午後、いつもの食堂。
珍しく三人だけで顔を突き合わせて食事をしていた彼らのうち、ルードからそんな声が上がった。
「ひ……おしがり?」
パーティのブラック役、猪突猛進爆弾小僧から発された、どちらかと言うとのほほんとしたイメージを持つ言葉に、バルトが一瞬その意味を掴みかねたようなおうむ返しをした。
しかも文字がずれている。 ルードが頷いて答えた。
「知らないっすか?
最近プルゴノルゴ島で始まったサービスっつか、リゾートの一環みたいなもんで。
バケツとか貸してくれんすよ」
「いや、それは知ってるけど。
ルード、興味あるのか?」
「ええまあ、新しもの好きの俺としてはね。
なんで、一緒に行きませんか」
「へっ」
唐突なお誘いに、バルトが頓狂な声を上げる。
それに構わず、ルードは一緒にテーブルを囲むヴォルフに顔を向けると言った。
「ヴォルフさんも良ければ。 どうっすか」
「いや、ちょっと待ってくれ。
あれか、大胆にも野郎ばっかで南の島になだれ込もうと言うのか?」
バルトが持っていたグラスを置き、泡を食ったようにルードの言葉を引き止めた。
そう、そもそも何が哀しくて男三人むさ苦しく(ビジュアル的には決して鬱陶しくはないが)顔を突き合わせて食事をしているのかと問われれば。
それはとりもなおさず、いつもの仲間うちの女性陣――ルカ、ドリー、フォーレの三人が、現在優雅にも総出でホルレーへと温泉旅行に繰り出している最中だからに他ならない。
ちなみにもう一人の男性、イーゴリは用事ができたということで一人外出。
すなわち残るはこの三人という訳である。
「いいじゃないすか、男三人水入らず。
求めるのは潤いじゃない、非日常と新たな挑戦!
向こうが『ドキッ!
女だらけの温泉大会』なら、こっちは『クワッ!
男だらけの磯掘り大会』としゃれ込みましょうぜ!」
「そのキャプションで一気に行く気が失せた」
「えええええ」
渾身のタイトリングをバルトに一蹴されたルードが絶望的な声を上げる。
ナイフとフォークを手にしたヴォルフが、ちらりと視線を皿から上げた。
その先で、バルトが困ったような思案するような表情を見せている。
彼のパートナーである所のアルカンジェロ――ルカの捨て身とも言える努力が無事に実を結び、バルトが喪っていた声を奇跡的に取り戻したのは数週間前の事。
そして誰もが予想していた事ではあったが、そこからの彼はまさにノンストップだった。
半ば頼み込むようにして立て続けに狩りへと向かい、無くしてもいなかったカンを取り戻すかの如く無尽蔵に魔法を撃つ。
撃って撃って撃ちまくる。
始めのうちは暴走が過ぎて、ドリーが何度彼を怒り狂う敵から庇ったか知れなかった。
それが多少落ち着くと、今度は部屋に貯め込んでいた魔道書をあらいざらいひっくり返し始めた。
詠唱をルカに頼っていた間に買って読んでいた本も、一から読み直す。
自分で唱えられるとなっては、また違った視点からおさらいをしたくなるというものだった。
当然今も読みかけの資料が、そして未読の魔道書が山ほどある。
仲間の半数以上が留守をするこの数日間、ならば腰を入れて研究に没頭しよう――密かにそう思っていたのだ。
ルードの予定外の申し出に、バルトが渋い顔を見せるのも無理はない。
「えー、行きましょうよー、南の島っすよー」
「うーん」
「本ばっか読んでると、あれですよ、体に良くないっすよー」
「んーー」
「なんか放っとくとメシも抜きそうじゃないすか。
それはほら、まずいっしょ」
「うー……、?」
何やら立て板に水とばかりに浴びせられるルードの誘いの言葉に、バルトはふと首をかしげた。
仲間内で一番のわんぱく株である彼が、体に悪いとか食事の心配とか――ついぞ、聞いた事がない。
そうだ、そういう母親のような小言はむしろ――
「――飯も食わずに部屋にこもってると、心配されるんじゃないのか」
と。
そんな彼の思考を見透かしたかのように、それまで黙って食事を進めていたヴォルフが、顔も上げずにぼそりと言った。
「…………」
成程、そういう事ですか――
バルトは内心で額を押さえる。
軽い苦笑いが漏れた。
ルカと、恐らくはフォーレもかもしれない。
周囲の監視の目から逃れた彼が文字通り寝食も忘れて魔術に没頭するであろう事を容易に察した彼女らが、ルードに頼み置いて行ったのだろう。
少し日の下に連れ出してやってくれ、と。
そう、思えばこの昼食も、彼が呼びに来てくれなかったらあっさりと抜いていたに違いない――
「――判った。 行こう」
「お、やった」
そう言ってバルトが頷くと、ルードの顔がぱっと明るくなった。
「じゃ明日、朝イチから行きましょうや。
ヴォルフさんも行くっすよね?
釣りできますよ、釣り」
「ああ」
何につけても、意見もしない代わりに滅多に首を横に振るということをしないヴォルフをちゃっかり頭数に確保して。
ルードは潮干狩りに、ヴォルフは釣りに、バルトは息抜きと日光浴に。
男三人、南の孤島プルゴノルゴへと繰り出したのだった――。
* * *
「おっしゃー到着ー! 掘るぞごるぁー!!」
ずどどどど、という擬音と蹴立てる砂煙が見えそうな勢いで、ルードが船着き場の桟橋を駆け抜けていく。
それに遅れてのんびりと、赤と黒のエルヴァーン二人が白い砂浜に降り立った。
黒い方、バルトの口から思わず感嘆の言葉が漏れる。
「こりゃあ――綺麗ですねぇ」
「そうだな」
そこはまさに、地上の楽園だった。
太陽を照り返して眩しく輝く純白の砂浜、ビビッドな緑色の草木。
力強いモノトーンの岩場が作り出す日陰はひんやりと涼しく、照り付ける日差しはどこまでもエネルギッシュだ。
そんな激しくメリハリの利いた賑やかな風景なのに、驚くほど音は少ない。
強い風も吹かず、透明に近い青色を湛えた広い入り江に寄せる波は、いつでも静かに穏やかに白い砂を撫でるように洗っている。
微かな波の音と、さく、さくと砂を踏む音だけが耳に届く――いや、もう一つ。
「バルトさーん! 俺ひととおり砂浜回って来ますからー!
適当にやってて下さーい!」
早々と浜辺にいるミスラから専用のバケツとスコップをレンタルし、それをぶんぶんと振り回しながらルードが叫んでいた。
子供のように――というより、あれはもうすっかり子供だ。
何しろバルトが返事を返す前に、彼はもう波打ち際の彼方へと駆け出している。
好奇心旺盛なタルタルの少年は、ルカ達の頼み事という己が使命はもう果たされたとばかりにあっさり忘れ去って、目先の新しいイベントに健全にて単純なる闘志を燃やしているのだった。
「……潮干狩りってのは、あんなエキサイトをもって挑むようなレジャーでしたっけか」
「まあ、どんな行いにも無限の可能性があるものだ」
「違いない。
是非とも潮干狩り界のオピニオンリーダーを目指してほしいですねぇ」
ボキャブラリーの無駄遣い。
含蓄があるのかないのか判らない会話が交わされる。
「で、どこへ行きますか?」
「とりあえずは西海岸だな。
夕暮れの景観に一見の価値があるらしい」
言ってヴォルフは西へ足を向ける。
釣りの道具を担ぎなおすその様子は、相変わらず無表情ながらも少し機嫌が良さそうだ。
「成程。
じゃあ俺も、そこいらでぶらぶらを決め込むとします」
憩い以外は何一つない白い砂浜を、のんびりと雑談を始めた二人のエルヴァーンが歩き出す。
* * *
――朝早くに本土のビビキー湾からマナクリッパーに乗り込んで出航し、陽光と海原の只中に漕ぎ出したあたりから。
バルトの中でだけ、徐々に大きくなる囁き声があった。
それは風の歌。 水のうねり。 光の舞踏。
世界を満たす精霊達の声である。
「……確かに、ひきこもりではあったかも知れないなぁ……」
西向きに臨む海岸に腰を落ち着け、またしても日陰に陣取りつつ、しかし取り出した魔道書を開くには至らず。
バルトは目の前に広がる風景をうっとりと眺めながら一人呟いていた。
白浜と岩陰、くっきりと分かれる明暗の「明」の中で、太陽から降りてくる光の精霊がちかちかとスパークするように瞬いている姿が彼の瞳に映っていた。
小さな潮騒の中を風の精霊がゆったりと泳ぐ。
緑色の妖精のような姿をしたそれが一人、バルトの帽子の縁にとまって足をぶらぶらさせている。
遥か向こうで波打ち際に靴を浸しながら釣り糸を垂れるヴォルフの足元から、小さな女性の姿をした水の精霊が数人、ちんまりと見上げていた。
どうやらここでも彼は、女性の視線というものから逃れられないらしい。
腰を下ろした砂地から湧き上がる囁き声。
大地の精霊だ。
少し冷たい土の匂いの中から、驚くほどはっきりと聞こえる。
大地の力が強い砂漠でもこの声は聞く事ができるが、荒涼と灼熱した砂漠ではそれはまるで火の精霊といさかうようで、こんなにものんびりした囁きにはなかなかお目にかかれない。
バルトはふぅーっと寝起きのような息をつくと、背後のひやりとした岩壁にもたれ、それ以外にも様々感じられる精霊たちの息吹に身を委ねた。
――どれもこれも、何だかとても久し振りに見たような、会ったような気がする。
書物の中では勿論。
狩りの最中もまた取り戻した力を振り回すのに夢中で、それぞれの精霊が現れるのも消えるのも、単なるプロセスのうちだった――
「……サラマンダーの、子供達よ」
つと顔の前に人差し指を伸ばし、バルトはぽつりと声を出した。
古代語にも魔術言語にも乗せず、友に語りかけるように、精霊の名を呼んでみる。
と、掲げた彼の指の先に、ひとかたまりもある炎がぼうっと逆巻いた。
「うわっち」
予想よりも大きな返事に驚いて、バルトは慌てて手と顔を引いた。
そんな彼の様子をきゃらきゃらと笑うように、親しげに手を振るように、いたずらな火の玉は渦を巻きぴんぴんとはねながら消えていく。
その様子に、バルトはあちあちと手を振り回しながらも、思わず声を上げて笑っていた。
* * *
「バルトさーん」
もはや読書は完全に放棄。
魔道書を枕にして、頭上にせり出す岩肌から垂れ下がる長い蔦草が青空をバックにゆらゆらと揺れる様を鑑賞していたバルトは、タルタルの少年の元気な声と姿が飛んでくる方向に目をやると、のんびりとした声で迎えた。
「掘れたのかな」
「いやー、珍しいもんはなかなか出ないっすねー。
こんな感じですよ」
のっそりと上半身を起こすバルトの傍らに、もはや手も顔も砂まみれのルードは持っていたバケツを置く。
どれどれと覗き込むバルト。
細い筒のような貝殻、大きな二枚貝、鮮やかな珊瑚。
本土では見られない色合いのものも混じっていて、バケツの中はさながら何でも集めたがる子供の宝箱の如き様相を呈している。
「噂では高くに売れるものも掘れるらしいんすけどねー。
やっぱ難しいっすわ」
「ま、そうそう出ないから高価なのさ」
「そりゃそうっすけどー。
商売に初回特典って基本じゃないすかー。
南の島も気が利かねーなー」
灰色のくりくり頭がぷんと口をとがらす。
「商売って言うよりむしろギャンブルだからなあ。
胴元でないと儲からない仕組みになってるんだろう。
つまりこのバケツを貸す側に回るか、もしくはお前が島になれ」
「マジっすか」
やられた、という顔になるルード。
にやっと笑ってもう一度ごろりと横になるバルト。
遠くでぱしゃり、と水音がした。
ヴォルフが何か大物を釣り上げた音だろうか。
「いやっ、せめて何か一つ勝ちを取って帰りたい。
俺、もうしばらく回ってきますわ」
「んー、頑張れ。 バケツの底だけは抜かないように」
「任せてくださいよ、もうズバリ当ててみせます。
ってかバルトさんは掘らな……、あ」
バケツとスコップをがっしと掴みなおし、勇ましく立ち上がるルードのセリフが不意に途切れた。
「ん?」
どうした、とバルトがルードの顔を見上げると、彼の目がまっすぐ遠くに向いて何かを捕らえていた。
バルトは寝っ転がったままでその方向をひょいと見る。
と。
「……スライム?」
少し離れた岩陰から、何やら赤黒い、ぷよぷよとうごめく物体が顔を覗かせている。
形は見慣れたスライムやジェリーのそれだが、色だけがかろうじてこの島に似つかわしげな濃い赤をまとっていた。
「いや、クロットですよ」
ルードがそのモンスターの名前を口にする。
クロット、と小さく復唱するバルト。
どこかで聞いたような……
「――ああ、クリムゾンゼリーの……」
「そうそう。
バルトさんこないだ、高いってぼやいてたじゃないすか」
クリムゾンゼリー。
少し前に作り出された料理の一つで、簡単に言えば黒魔法の威力を大きく上昇させる効果を持つ、特殊な食べ物である。
当然バルトなどは狩りの時には常食にしたいくらいなのだが、どうやらそれに使われる食材が入手困難らしく、いつまで経っても売り値が落ちない。
その問題の食材の名が確か「ミニクロット」だった、と彼は記憶していた。
「……ほほーう」
改めて身を起こしたバルトは、続けてゆらぁりと立ち上がる。
その目の底にぎらりとした光が宿っていた。
「お土産狙って、いっちょやってみますか」
そんな彼の様子を見たルードが、言いながら威勢良く背負っていた鎌を抜こうとすると、バルトの手がすっと彼の肩を押さえた。
そしてにやりと笑いを浮かべ、見上げるタルタルに教師のような口調で問う。
「スライム系統の魔物に、最も効果のある攻撃方法は何か?」
「……魔法攻撃、特に炎、っすねぇ」
答えながら、バルトの言わんとしている所を察したルード。
はいはい、といった表情で鎌から手を離しつつ言った。
「判りましたから、足止めぐらいは俺にやらせて下さいよ。
いくら余裕ったって、見てるだけじゃつまんない」
「許可しよう」
これから襲い来る災厄も知らずに浜辺の方にのたのたと移動するクロットへと、バルトは嬉々として足を踏み出す。
その始末に負えない笑顔に反応するかのように、あたりの精霊たちがにわかに落ち着きを失った。
彼にしか聞こえない囁きがさわさわとざわめいて、砂浜を歩く黒魔道士を遠く近くに取り巻き始める。
「バルトさん、ただでさえあっついんだからファイアはなしにしませんか。
それに弱点なんか突いたら、それこそ一発で終わっちまいますよ」
「心得た」
隣を歩くルードの言葉にますます笑みを深めながら、バルトは頷いた。
そして視線だけで軽く周囲を見渡す。
呼べば現れはしたが、この島は意外と炎の力が強くない。
島の中央にまるでソフトクリームのように鎮座する山は火山なのではないかとバルトは思っていたが、どうやら違うかあるいは休止しているらしく、そこにイフリートの影は見当たらなかった。
それとも、この平和一辺倒な島では炎も暴れ甲斐がない、ということだろうか。
そんな姿の見えない赤い火とかげの代わりに今、その他の青や緑や土色の精霊たちが、あちらこちらから遊んでほしそうな視線をバルトに投げかけていた。
その合間から、離れた波打ち際に立つヴォルフが横目でちらりとこちらを伺ったのにバルトは気付く。
にっと笑ってみせると、肩をすくめるでもなくヴォルフはすいとその視線を海に戻した。
実にどうでもよさげである。
「ほんじゃ、バインドからいきますよー」
魔法の射程距離に入った。
爆発物を避けるかのようにバルトから心持ち距離を置いたルードが、露払いと舞台設定の為の捕捉魔法を唱え始める。
無言をもって了承に代えたバルトが、白い砂を踏みしめながらぱきぱきと指を鳴らす。
その手を解く。 そしてすぅーっと息を吸い込んだ。
「……ラギ・エト・ハリト ディーズヴィッケル――」
低く流れ始める呪文に、風を司るかわいい精霊達がきゃっと小さな歓声を上げた。
黒魔道士からの仕事の依頼を喜ぶかのように、先を争って彼の周囲で渦を巻き始める。
ルードの足止めの呪文が完成して素早く宙を飛んだ。
突然飛来した暴力的な戒めにクロットの体がびくっと震えるが、その犯人であるタルタルに手を伸ばすようにうねうねと蠢きながらも、赤黒いモンスターにそこから動く気配はない。
どうやら見事に効いたようだ。
よし、と呟くルードの髪を、嵐の前兆のような風が乱し始める。
一番手に選ばれた呪文の名を知った彼は、頭の中で次の補助呪文を選びながらちらとバルトを見上げた。
ミキサーの中ように渦巻く風の中心で、目を閉じて胸の前に両手をかざし。
少し俯く唇だけが小さく動いている。
思ったよりも真面目で静かな表情だ。
しかしルードには、その背景で風に踊る木々の姿が、彼の身の内を表しているように見えて仕方なかった。
楽しそうに愉しそうに、ざわざわとうずうずと、舞い踊る声を紡ぐ――
「アトーレラトーレ ティンターノールイェ……」
「ギズメドバーディナグーデルヴェズムド」
ひたすら途切れず続くバルトの呪文に、いっときルードの短い詠唱がかぶる。
息継ぎなしの、人が唱えるにしてはどこか禍々しいそれは、相手から能力そのものを奪い取る暗黒の呪い文。
完成する。
黒魔法の侵食に抵抗する為の精神力が、無形の魔物からから小さな暗黒騎士へとごっそり持ち去られた。
(あとは――)
更に何か呪文を紡ごうかと思考を巡らせかけて、ルードはそれをやめた。
再度見上げた先で、バルトがばちん、と目を開いたのだ。
彼の詠唱が終盤を迎えている。
小さなタルタルは掲げていた腕を下ろし、ぐっと足を踏ん張る。
遠くでヴォルフが帽子を押さえた――
「ナトラクゲフェルド イム=ディグ リトゥーラ!」
黒魔道士の腕がばっと広がる。
と同時に、晴天のプルゴノルゴに鋭い竜巻が舞い降りた。
陽光の中、視界に入る木々の全てが一斉にざぁっと傾く。
その中心点は一体の哀れなクロットだ。
海面が乱れ、白砂があちこちで巻き上がる。
空気の歪みが金属の擦れ合うような音を立てて、赤黒いモンスターの表面を乱打し見る間に切り裂いていく。
見えない刃が縦横無尽に踊り、敵を文字通り削り取る。
かまいたちの余波だろう、ルードの鼓膜を耳鳴りが襲った。
彼はたっぷり五秒は背けていた目を、細く開く。
と、そこには。
ごうごうという唸りを残して散っていく緑色の嵐の中、大ダメージに大きくささくれながらも未だ怒りにうねるクロットと。
詠唱の残響に開いた口の端を――誰が見ても明らかに、歓びの形に吊り上げる、黒魔道士の姿。
「まだまだぁあ!!」
その口が再度弾けた。
ぱんっと勢いよく両の手を打ち合わせると、即座に次なる詠唱に己を没入させる。
見えない力に煽られて、黒いローブの裾がぶわりと舞い上がった。
もうそれが開いていなくてもルードには判る。
バルトの瞳が、魔術という名の美酒に酩酊を始めていた。
怒涛の如く織られる詠唱は吹きすさぶ風の音のようで、もはや止めるという発想からして欠如している。
こうなってしまっては、攻撃対象が滅ぶまで待つしかない。
やんちゃな暗黒騎士は久々の脇役待遇に軽く苦笑いしながら、念の為もう一度その攻撃対象に足止めの呪文をかぶせた。
そう、なるべく「穏便に」、事を終わらせる為に。
入り江が沸いている。
バルトの囁くような詠唱をまるで巨大なドラムロールと思っているかのように、海面全体がざわりざわりと逆立って、彼とクロットを目指して寄せ始めていた。
水の乙女の金切り声。
大気そのものにも混じり出す異様なまでの水分が、暑くてもさらりと乾いていた肌にまとわりついて一気に汗を引きずり出す。
洪水がやって来るのだ。
「リーゲルウィーゲル、エリトスディルトス……」
詠唱のボリュームが徐々に上がる。
それに合わせ鼓舞されるように、入り江を覆う波が生き物のように高く盛り上がっては崩れ落ちる。
「……キュリヴェルニーデン、ハージェスゴード!」
高らかな結びを聞き届けた海が、しゅっと凪いだ。
次の瞬間。
クロットの遥か頭上を忽然と、天地を違えて荒れ狂う海面が覆った。
その膨大な量の水そして水が、まるで糸で引かれるように小さなモンスター目指して突き落ちる。
どずぅん――という轟音が降り注いだ。
長く激しく散り続ける奔流が、その側から空気に還っていく。
スライム族は半分、水のようなものだ。
だから滝の如き怒濤の圧迫が消えた後、クロットはかろうじてまだそこに居ることができた。
しかしそれは、もはやぼろぼろの、吹けば無残に飛ぶような――
「よく耐えた、化物!」
――褒めやがった。
嬉しそうに、感謝するように、まだやらせてくれるのか、ありがとうとでも言わんばかりに――
その歓喜の雄叫びに呆れたつもりのルードに、かすかに残忍な微笑が伝播する。
バルトが大きく両腕を広げ、その手のひらを大地に向けた。
三度朗々と紡がれ始める呪文。 始めは微震だ。
進む詠唱が一文字ごとに大地に振動を吹き込んでいく。
周囲の岩が、木々が、細かく打ち震え出し――
ヴァイオリニストが、ストラディヴァリウスを弾くように。
スキージャンパーが、K点を超えるように。
極みに向かえる恍惚が、そこに行き着ける歓びが、彼の全身を隈なく呑み込んでいた。
嬉しい、楽しい、嬉しい嬉しい嬉しい――――
「ゲヴォルド――シェンクト、……っ、アーデルイルメル――」
詠唱の合間に忍び笑いすら漏れる。
知識だけを抱えてなお無邪気な子供のような、満面の笑み。
しかしそこから迸るのは、人類の精神と森羅の力場をより合わせた危険極まる破壊術。
大地の精が輪唱する中、徐々に徐々に、沸騰するように湧き上がるこの地震は、俺のものだ――
「……デグ=ゾラ
イェルト、ネーメル――エンデ!!」
歌劇の終章を思い切り歌い上げるような誇らしい力に満ちた声。
黒魔道士は最後の音と共に、何かを放つように天へと両腕を突き上げた。
それを合図に、そこにいる者の体全体を揺るがす、ずずずず……という響きが一気に膨らんだかと思うと、クロットの足元で一気に弾けて噴出した。
まるで大地という風船がその一点で破裂したかのように、轟音を伴い地面が空を目指して叩き上がる。
巨大な柱ほどもある鋭い杭がいくつも交錯するそれは、もはや満身創痍のクロットを情け容赦なく飲み込む。
磨り潰す。
ついに粉々に粉砕された赤黒い飛沫がそこかしこに飛び散り、ぼたぼたと大地に落ちては跡形もなく消えていった――
「――っ、どうだっ!」
大きく砕けていた地表が、彼の詠唱により注がれたエネルギーを使い果たしてゆっくりと鎮まる。
それを確かめるように一拍の間を置くと、大きく空に掲げていた右腕を振り下ろしてバルトは、びしっとクロットに――いや、クロットがいた大地にその指先を突きつけて叫んだ。
が。
「はぁーずれー」
地響きが収まるのを待ってぱたぱたとその跡地に駆け寄っていたルードは、おどけた声で振り返ると彼に収穫ゼロを告げた。
念の為辺りを見回してみても、スライムを小さく可愛くしたような形のミニクロットの姿は残念ながらどこにも見当たらなかった。
「……っちぇー」
それを聞いて両手を腰に当て、ほんの少しばかり息を切らしながらバルトは不満げな吐息を漏らしてみせる。
しかしその表情は、すっきり爽快、という以外に表現する言葉などないのだった。
「ま、そうそう出ないから高価なんですよ」
にやにやと笑って、ルードは先程彼から頂戴した言葉をそっくり返す。
バルトから失笑がこぼれた。
「ごもっともで……おろ」
それでも未練がましくきょろきょろと海岸を見回すバルトの視界に、何やらゆっくりと釣竿を畳むヴォルフの姿が飛び込んできた。
ふと、未だ興奮覚めやらぬバルトの胸を、何だか判らないがよくない色のものがよぎった。
彼は踵を返し、波打ち際に立つ物静かな赤魔道士へと歩み寄りながら彼に声をかける。
「ヴォルフさん、エサ切れか……何かですか」
「いや」
いつも通りの短い返事。
後ろからぱしゃぱしゃとルードが追いついてくる。
「魚が、全部逃げた」
「えっ……ああっ!!」
バルトは思わず大声を上げ、はたと入り江を見渡した。
台風一過。
外海からの波を遮っていつでもきらきらと静かなはずの入り江が、立て続けに襲った桁外れの天変地異にそれはもう上を下への大騒ぎになっていたのだ。
岩場には北の絶海のような波頭が立っている。
方向も何もなくだっぱんだっぱんと走り回る大波小波は、まるで修学旅行に来た私立ギガース第三中学校の男子連中がはしゃぐだけはしゃいで上がっていった後の温泉を思わせた。
勿論、そんな微笑ましい行事があるとすればの話だが。
とにもかくにも、これでは釣りも何もあったものではない。
この入り江に棲む魚は今やもれなく、どこか安全な岩陰の影でがたがたと震えている事だろう。
「うわやべ! バケツこれ!」
同じく状況を理解したルードが、焦りまくった声を上げる。
はっと見下ろせばヴォルフの足元、それまでの釣果を貯めていたのであろうバケツまでが、浅瀬の中で無残にひっくり返っていた。
バルトの顔からさぁっと血の気が引いた。
「え、えっと、えっとヴォルフさん」
わたわたわた。
無意味に手のひらを振り回し、咄嗟に言葉が出ずにおたつくバルトに構う様子も見せず、てきぱきと釣り道具を担いだヴォルフは最後にバケツを掴むと、無表情のままふいと二人に背を向けて言った。
「場所を変える」
「ああああ!
すいませんすいません、おおお怒って、怒ってま」
「別に」
「イヤー!! 怒ってルーー!!」
いつにも増して致命的に素っ気無いヴォルフの返事に、ルードが頭を抱えて甲高い悲鳴を上げた。
夕暮れを待たずにすたすたと西海岸を去る赤魔道士のつれない背中を、わーんごめんなさーい、すいませんでしたーと、母親に叱られた子供のように追いかける二人。
そんな彼らの姿を、浜辺の片隅、物騒なお祭り騒ぎから必死で身を潜めていた大きなクラーケンが、弱いものいじめするからだよー……という顔をして、岩場の影からそっと見送っていた。
End