【校長室】その2「そして*>9だけが残った」

わたしワタシというけれど、さぁて私は誰でしょう?

わたしの名前は星名紅子、17歳です。
結論から言いますと、わたし星名紅子はこの夏に山口ミツヤという名前の少女と別れることになりました。

それは八月のある日のことでした。
だから、今は七月ではありません。

それは、姫代学園の校長室でのことでした。
だから、ここは――いったいどこなんでしょうね?

それに先立つところ、暑気がすこしだけ去って蝉の声がうるさくなり始めた夕暮れ時のことでした、わたし星名紅子は釣りをしていました。
釣りというと、なんと呑気な! と叱られてしまいそうなものですが、これには理由があるのです。
薄いもやがかかった水面を糸が滑ります。ひゅうと風を切る音がします、ぽちゃり。水底の泥に針が引っかかる感触が手の内にやってきました。

ここまでが一呼吸、ぐっと吐息が漏れるところ、その音にかぶせる声の持ち主がありました。

「やぁ、釣れるかな?」
「申し訳ありませんが、ゲテモノ狙いなのです。あなたの美的感覚に添えるかは自信がありません」
数寄者は釣れたようですね? 振り返るや、はたしてそこにいらっしゃったのは「山口ミツヤ」さんでした。

楚々としたいでたちの、見た目だけはおとなしそうな少女の形をしたいきものです。
日本人形のようだと見た目だけしか知らない人はおっしゃいますが、あいにくと桐の粉ではできていません。
えいと、頬を押すとやわらかい感触が返ってくるのです。
試してはみませんか? 彼女と仲良くなるのは簡単なようで、とても難しいことなのですが。

「となり、いいかな?」
わたしが「是」の空気を放っているのを察したのでしょうか。
返事を待たずに、そっと座ります。「ささ、君も」 君も? 見えないお友達がいらっしゃるのかもしれません。

「いいか、悪いかはともかくとして、大漁のようだね……」
またもや返事を待たずにして、クーラーボックスが開かれます。彼女は顔をしかめました。
そこには、一般的に見てとても気色の悪い釣果がひしめいているのです。山口さんと目を合わせた視線は十や二十では効かないでしょう。

ここは、校舎にぐるりと囲まれた、鬱々とした深緑に囲まれた、みどろに彩られた、憩いとはほど遠い、薄暗く、不気味で陰気なお池、だから釣り上がるシロモノはとても悪いもの。
「ここは風水的にみて、とてもとてもとても……悪いところですから。わたしの母が作りました」
囲いを何重にも重ねに重ねて。専門的な説明は省かせていただきますが、わざと「陰」の気がわだかまり、凝るように作ったそうです。こんなことができるから母はわたしを産めるのでしょう。

そうこうするうちに、かかりがひとつ。

グイとした引きを感じて、眼前にまで引き上げてみると、やはり目が合いました。
それは、本来のそれとは違って人間の目玉が代わりについた金魚――のようなものだったのです。
今や眼球の付いた金魚というより金魚の付いた眼球というべきものは、わたしのことを憎々しげににらみます。

「水子供養は、この国にとって悪い風習です。本来なら『我』も結ばれていない『魚』にそれらしい錯覚を与えてしまう。こんなモノはあなたと違ってただの『モノ』だというのに」
それのことをクーラーボックスに放り込みながら、わたしはつぶやきます。
そういった風に、謎を解き明かしてくれたのは「あなた」でしたか。隣に座る山口さんを見ると「うん」と彼女はうなづきました。哀しいことも言うんだねとも、言われました。

もっとも、そっくりそのままが誰の本心なのか――、わたしの本心なのか――、それすらも――、わたしには到底わからないのですが――。

「お母さんの胎内にいるときは、胚子が生物の進化過程を辿るというのは有名な話だよね。
生物の授業で習うもの。だから、命に満たないまま産まれてこなかったものはだいたい魚の姿をしているものさ。

――と。いうのはありふれた連想だね。ダレだって思いつく。
『蛭子神』ではあるまいし、ただの人が個我を結ぶ前に怨念を為せるものではないよ。
ボクが思うに、1970年代に入ってから作られた水子供養の儀式は、母体がおのれ自身をさいなんで、きずつけることによって自分を罰することで満足感を得ようとする呪いの儀式だよ」

いいかげんに頃合いでしょう。テグスを巻き取りながら、わたしは立ち上がることを促します。
釣り糸はわたしの髪、釣り針はわたしの歯、そして釣り餌は――?
答えは、さて。
山口さんの口先はよく滑るようでいて、ほどよくブレーキが利いていますよね。

「だったら、良かったのですけどね、いいえマシでしたか。ここには骨すら最初からなかった」
「だからここは『想像妊娠の池』と呼ばれているんだったかな。
先だってボクたちが解決した、何番目かの『トイレの花子さん』の事例とは違う、ここにはヒト由来のDNAなんてなくて、金魚しかいなかったんだろう?」

ええ本来、この池はもっと禍々しい呼び名だったのです。誰かさん、いいえ、誰かさんたち、違うの、きっと私の母が付けた。だけど、山口さんが名付け返したことによって、ここはそう噂されることになりました。
ここには産まれることすら許されずに、羊水の代替物のなかをたゆたうモノは最初からいなかった。

わたしはうまれえなかったから、うまれているおまえがにくい。

死者から生者に向けた嫉妬と憎しみのことを、わたしは理解できます。
ただ、その死者が死者ですらなかったなら。
「おまえにその資格はないのだ」と、誰が誰に言えるのでしょう。

わたしは、振り返りもしませんでした。
罪もない想像に、罪を与えてしまう、それ自体が罪であって、まさに堂々巡りだったからです。
最初から拒絶することしかできないもの、最初からすくえないものを母はなぜ作ろうとしたのか?  後知恵でしたが、答えは最初から出ていました。身代わりにするためです。

なんでもいいですね。年頃の娘さんの口口から生まれてしまいました。口伝、噂、流言飛語、怪談が……、無責任な言霊を介して生まれてしまいました。
骨のない蛭子神に遥かに満たない、肉付けだけのちっぽけな怪物がうようよ生まれてしまいました。
結果として、あの池にいるのはそういうものでした。本当の怪物を産むよりはマシだと、そのはけ口として母はあの池を作ったのです。

暗鬱とした森に代わって、糸杉が葬列のように粛然と並ぶ舗装路を歩きます。
道すがら、「首吊りの木」の根元に釣りの産物を供えるとお返しとばかりに吊り下がってきた生首に似た果実を収穫し、今はもう使われるはずのない焼却炉を回り……、などとなど、えとせとら。
そうこうしているうちに赤々とした照り返しが去っていき、青々とした夜の気配がやってきます。赤の次はいつだって青なのでした。

夏の風がもたらすぶるりとした感覚は、わたしにはきっと無縁のものであって、知識だけで知っています。
隙間風が、体の間をすり抜けていくのは気のせいでしょうか。制服が防いでくれるはずなのに。これは先入観? それとも願望? 日本の夏は、思ったよりも暑いけれど、どこか空々しくて寒気がするようでした。

たんっ、たんと小気味よくステップを踏むように、先行する山口ミツヤさんが楽しげに見えてしまうし、朗らかに語っているように聞こえるのは、こんなことばかりが頭をよぎってしまうからかもしれません。

こうして複数の学校の七不思議を経由しながら、わたしたち二人は問題となる「校長の銅像」に辿り着いたのでした。

「『手』だねぇ」
「『手』ですね……」

銅像といいつつ、仰々しい台座にちょっこりと座っていたのは、人体の一部としての手でした。
切り落としたばかりで生々しく、今にも動き出しそうな躍動感、といったやつなのでしょうけど、それよりも
場違いな感覚が、、、

【&#KV わ、姫代学園第一放送室からやってきました。
チューニングは? チャンネルは? そのまま! 放送は私がお送りします。

はい、私です。私なんですよ、わたしワタシ。
 ・
 ・
 ・】

 、
 、
 、
唐突にはじまった、さらなる場違いな放送によって打ち消されました。
親しみやすいような、懐かしいような、おぞましいような、不思議で奇妙な女の子の声でした。
放送の声が告げている通りに、姫代学園には不思議がたくさんあります。

よって、この声もまた不思議のひとつであることは想像には難くないかもしれません。
さてこのわたしワタシさんなのですが……。

「今日も校長は快調このうえないねー、いったいなんの話をするんだろ」
姫代学園の校長であるらしいのです。校長先生ではありません、校長です。すなわち、理事長はどうか知りませんが、姫代学園で一番偉い人、人? ということになるのでしょう。
いずれにせよ、彼女は不定期かつきまぐれに、少女らしい物言いで不吉を楽し気に語ります。決まって、聞いたものの感情を困惑の一択に突き落とす犯人に他なりませんでした。

【七月。
お昼休みに彩志井(あやしい)さんが〇×△■ちゃんは声をかけたわ。もちろん名乗ることは忘れない。
彩志井さんは中学二年生、高等部に足を運んだから、印象的だった大きな瞳を不安でうるませていたかもしれない】

七月だと校長は言いました。
だから今は七月ではありません。
と。手持無沙汰に手の銅像の感触を確かめていた山口さんは、ちらりとこちらを見ました。
「姫代学園の歴代の校長はたった三代って知っていたかい? 初代がつつがなく退職した後、二代目になにかあって、それ以来顔も姿も定かじゃない、声だけの三代目がずぅーーーーっと続いてるんだ」

放送に釣られて山口さんがわたしのことをじっ、と見ないのはきっと配慮なのでしょうか。
わたしがこの姫代学園に転入してきたのはごく最近であって、校内の情報にとんと疎いものですから。
このようなわたしに対して、校内では常識! らしい校長の話を教えていただいたのは嬉しいことでした。

同じく同好の士に対して、友誼を図るのは処世術……なのだそうですが、はたしてすんなり受け取っていいものか。
いいえ、今は感謝を、感謝だけを目の前のあなたに。
もっとも、そうこうしているうちに校長の話は続いていくのですが。
その内容は、気恥ずかしいので割愛しましょう。それでも、断片だけでも耳に飛び込んできてしまうのは、わたしも名誉欲を捨てきれていない俗物ということなのかもしれません。

「『鏡の国のアヤちゃん』か……、間髪入れずのスピード解決だったからボクに声をかける必要がなかったんだね」
山口さんがどこかすねたような口調になっているのは、やはり気のせいなのでしょうか。
あまりにも気のせいを重ねすぎると、きっとひどい目に遭うよ、というのは山口さんの忠告ですが、どうもわたしには守れる気がしません。だって、すべては「気」のせいなのですから。

【でもね、藍ちゃんはやめなかった。
何度も何度も、首の骨が折れそうになってもがんばったの】
校長の言葉に合わせて。山口さんは最上級の絹の布のように、すべらかな頬に指先を添わせて、こてりと首をかしげるのです。
ええそうです、すべては気のせいなのですから。

「あの、これって女の子の手なんじゃないでしょうか……?」
誰かが言いました。校長のバラバラ死体が銅像になって校内に散らばっている、というのもよく聞く話らしいです。
だから、それはきっと気のせいではないのでしょう。

校長の銅像は校内に点在していますが、そのほとんどが抽象的なものです。
なかには「鳩」の銅像を校長だと言い張っているものもあるとか、学園の美術部が適当に作ったものがいつの間にか公式に採用されたケースもあったりで、真偽もあやふやです。もっとも、それはわかり切ったことらしく。

「教頭がぼやいてたよ」
この学校は、校長って飾りのポジションが生徒である誰かさんのものだからそれに迎合するのだとか。
校長先生と一般には言うけれど、必ずしも先生である必要はなくて、校長は校長だけで意味が通じるのだから不思議なものだね。などと山口さんは続けて言いました。

先生、老師(ラオスー)は日本にも増して尊ばれる風潮がある台湾出のわたしにはよくわからない感覚です。
もっとも、生徒といって遜色のないお年頃の女子が校長を務めるのは、日本でもそうそうはないようですが。

山口さんはどこか楽しげに、口ずさみながら興味を失した銅像を放って、次の目的地へ向かいます。
都合よく開けていた、いいえ、開けておいた昇降口のその先に、一階、二階、三階と階段と踊り場を回りながら、私たちは上ります。

踊り場の鏡も、階段の段数も、カイダンは怪談の宝庫。
だけど、今だけは語るほどのことは何も起こらなくてあっという間に、屋上へ。
ここで、わたしたちをさえぎるものはいないのですと、積極的に迎え入れんばかりでした。

屋上への扉を開くや否や、びゅうごうと、風がやってきます。
満点の星々なんて、わたしたちがこれから見知ろうとすること、体験しようとすることがらにはふさわしくないと、曇天が蓋をしてくれたようでした。

屋上の縁に人影がひとり立っていました。あの人が校長でしょうか?
「キミが校長かい?」
短いながらに、だからこそ端麗なのか、よく響く誰何の声が遮るものない校舎の屋上を駆け抜けました。

そして、その言葉は返ってくることなく、山口さんは舞台役者のように影をめがけてカツカツと距離を詰めます。 
「……」
屋上にいても聞こえる校内放送に混じって……?
かそけき声がするのです。そちらに青い目を向けてみても、やはり誰もいないというのに。
聞き間違いでし「はい、そうです」ょうか? 「なんだ、鏡じゃないか? 鏡――!」
山口さんがいぶかしげな顔で「迎えに来ましたよ」、こちらを振り返るや、青ざめた顔で私のことを指さします。

「目が――!?」
目? 過不足なく見えている青い目をそっと指でさらうと、何ら過不足なく増えても減っても「そっちじゃない!?」

【「ねぇアヤちゃん」】

【「私が校長なんですよ、」それと、話の中で「綾志井さん」さんのことをさんざん呼び捨てにしちゃったことをどうか許してね。

まるで、耳元で誰かがささいているような。
でも、なんら気配もなくて、そこに誰かいるという実感がなんらわかなくて。
うつろになっている、眼窩に手をやるとそこには。いや、そこからはすごい力で押しのけられて。

さg;jmら。
おミツさrんhをあなたンV8楽しかtyんm地でvq、@Pありvpとうrmちm私は稲;mhこの学園のcy;音qh長でした】

不明瞭な音声が響く中、わたしの躰はどぷりとした重く、不可解な感覚に襲われました。手、手手手、手手手手、手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手……、真っ青な視界に映るのは無数の手、いったいどこから、その疑問はたやすく氷解します。そうですか、わたしの中にはこれだけたくさんの手が詰まっていたのですか。

わたしの躰の半分は死んでいるのですから、それも当然でしょう。
うつぶせになることが許されずに、顔の片側から体全体が持ち上げられます、そのことが片側だけになった視野から断片的にわかってしまいます。痛みは感じませんでした。
ただ、自分が生ぬるく、冷たい手に包囲されていること、それだけは不快でした。

鉄のように重い液体の中をくぐらされたようでした。血液でしょうか、いいえ、羊水かもしれません。
今更になって生まれ変われとは、神様も酷なことをおっしゃいますねと、力なく笑うわたしの思考はぐちゃぐちゃで言葉になりませんでした。
だけど、私のこの惨状を身近で見せ付けられる羽目になった山口さんに申し訳なく思うのです。

今となっては遠くなってしまった、山口さんの声が聞こえます、「ろん!」キミだったのか。
その意味は分からず仕舞いでした。きっと、その呼び名について私が知る資格はないのでしょうが。

そして、わたしの意識は暗転しました。それは一瞬でしょうか、いいえ、もっと――?
めまいのような、今はまだ経験のない悪酔いのような頭を締め付ける、不快感から目覚めます。
果たして、そこは「校長室」とプレートがかかった一室の前でした。

探しに来たのは、山口さんとわたしのふたりだったのですが、招かれたのはわたしだけですか。
そういったうぬぼれた考えをどうぞ後押ししましょうと言わんばかりに、板チョコのような扉が音も立てずに開かれました。さぁどうぞという招きに憤りも悲しみもなく、わたしはするりとその隙間に体を滑りこませました。

校長室は、立派な机と椅子に、何かのトロフィーが飾った大きな棚がある。普段は入れない。
と聞いています。

なるほど立派な机です。人が飾り立てられているから。
なるほど立派な椅子です。人が磔にされているから。
大きな棚にはたくさんのトロフィーが入っていました、これをトロフィーだと言えるのは確かにこの国のこの学園の由縁でしょう。

人の生首、主に見目麗しい女生徒たちのかんばせは、それが人工物であったのならば非現実的な美しさを強調して、確かに見世物にはなったでしょう。すなわち、それは生首でした。
首狩りの風習はこの島国は元より大陸でもありましたが、絶えて久しいはずですね。
だけど、ここに存在するということは――?

「気になりましたか? 気になりますよね! 校長室へようこそ〇×△■ちゃん!」
十字架上の背もたれにピンと張られたままで、磔にされた“校長”が朗らかに答えます。
わたしはぞんざいに答えました。第一の質問。
「第一放送室からお送りします、といったのはウソだったんですね」
「うん、ごめん」
機先を制するつもりが少々間抜けたやり取りになってしまいましたが、残酷で不器用な少年が標本にしてしまったかのような、少女の残骸から目を背けずにわたしは続けます。なら第二の質問。

「いいです、この姫代学園に食べられてしまった生徒や教師のみなさんはこの校長室に来るのでしょう?」
机の上にばらばらと散った肉片、目立った人体のパーツと磔にされた体のくぼみを見比べながら、わたしは言いました。ところで、山口ミツヤさんは友達にはなれませんでしたが、間違いなく尊敬できる頭脳の持ち主でした。

どこか虚を突かれた風の「私」さんあらため校長に向かって、わたしは続けます。
「だから、さしずめ。あなたは『神』ですか?」
真っ赤に染め上がった室内の空気はひどく不安で、異界のものに他ならなくて足元の赤絨毯はじゃりじゃりとして触りが悪かったですが、気にはなりませんでした。最後に第三の質問です。

「そうですよ? 正確には無原罪に見立てられた、ただの人に過ぎなかったんですけど」
この学園はカトリックの影響が長く続いたと聞きました。
そして、今もエクソシストがパパ様のところから送られるくらいには縁が深いとも。
「そして、あなたは殺されて。ここにいる。校長とは学園で一番偉いからすなわち神様である、上帝である、犠牲の供物であるという幼稚で雑な理屈に乗っかって、まがいものでも偉いものであるという認識で固まってしまった」

ほうと、ため息を吐く校長は、呆けているのか、それとも呆れているのかどちらでしょう。
一瞬、メロンパンと見間違えた物体は机の方にそっくりそのまま、形を保ったまま残されていました。
椅子に括られたその体の方からこぼれるべき脳漿は一片たりとも残っていなかったので、きっと彼女は脳髄で物事を考えていません。だからと、侮りもせずに、わたしは淡々と事実を告げていくのみだったのです。

「あなたの悲劇に同情はしません、あなたの過去に興味もありません。あなたがわたしに望むものはたったひとつでしょう」
たとえ、彼女の口から詳細に語られようとも、時計の針は戻せません。どうしようもないことに興味は持てませんでした。校長がわたしに興味を持っていることは夏休み前にはもうわかっていたことです。

わかっているなら、山口さんに頼んで情報を集めて仮説を立ててもらうことはたやすいことでした。
「だから、身代わりを求めている、いいですよ、なってあげますからそこをどいてください」
校長は間髪を入れずに望んでいたことを、犠牲にしようとした当人から「是」といわれて困惑しているのでしょうか。

わかっています、わかってますとも。
こんなところにいるのはつらいですし、その枷をずっと外せずにいるのも辛いですよね。
虚をつかれて、何も言えずにいるのですね。
だから、と錆びついた釘に手をやると、ぼとりと音がしました。

「ぼとり」、形の良い、そこだけは綺麗だった唇が落ちる音です。
「ぼとり」、人並みに嘘をつくから一枚しかなかった舌も落ちました。
「ぼとり」、「ぼとり」、目も耳も一つきりでは大変だったでしょう。
「ぼとり」、「ぼとり」「ぼとり」「ぼとり」「ぼとり」……、もう数え切れません。

すっかり何もなくなってしまった椅子の上にわたしが座ろうとすると、机の上に散らかされた校長の残骸はそれを待つことなく消え去っていました。

きっと、大半はどこかに行くのでしょうが、幾分かは山口さんのところに行くのでしょう。
校長から堕ちたナニカについて、きっと山口さんは理屈をつけて正体を教えてくれるのでしょう。それから別れを告げるのかもしれません。
わかっています。わたしの「鏡の国のアヤちゃん」について山口さんが関わることがなかったように、山口さんの「ツェルベルスの喰魔」についてわたしも関わることはなかったのですから。

きっと乙女には誰だって余人相手に語ることができない秘密があります。わたしの語る領分はほかにあるのです。
「姫代は秘城――、そうでしょう? 山口さん」
ぎぃと背もたれに体重を預けると、思ったより心地が良くて「おや」となります。
立ち上がる分には自由なようでした。校長室に置かれた高そうな装丁の本もたくさん読めるし、プレイステーションもあったのでしばらくは退屈しなさそうです。

ああそうですか、同じ神様に祀り上げられた単なる「鬼」でも天帝と冥府の女王とではきっと解釈が違うのですね。
意を決して、手袋を外すと、申し訳程度に肉が付いた骨の手が見えます。
意を決して、髪をかき上げると、虚ろな眼窩からぽとりと蛆が落ちました。

半身が死んでいて、もう半身は生きている。そう言った女神さまの名前を、山口さんなら知っているでしょう。
だから心配ないですよと、せいぜい陰気で元気で威厳あって親しみやすいそういった校長閣下を目指しましょうか。

さ、ぁ校長としての初仕事をはじめます。
マイクのボリュームは、この辺でいいでしょうか? まいくてすと、まいくてすと。

「姫代学園の新校長に就任しました、〇×△■です。
一応、領分として申し上げておきますと姓名はいわゆる忌み名というやつですので明かすことはできません。
どうかご容赦ください」

挨拶はそこそこに、今度は呼び出しをかけていきましょう。
いずれも姫代学園の卒業生です。

S県?市にお住いのB南O奈さん
T都@郡にお住いの赤U由Nさん
H道¥村にお住いのTC月美さん……、繰り返します」

時間をかけて反復すること、二度、三度、数十名の名簿を読み上げていきました。
いずれもごく最近に亡くなられた方々です。
校長室に残されていた本を読む限りは、放っておけば、校長室のトロフィーに成り果ててしまうらしいのでわたしは、山口さんの良心に賭けることにしました。

この試みは幸か不幸か、今が八月から九月になり十月十一月……、つまるところは地獄の窯の蓋が閉じるまで山口ミツヤが事態に関わってこれない。
復学まで時間がかかったという形で結果を残したことになるのですが、とまれ山口さんは奔走してくれたのです。

重ねて申し上げるに。こうしてわたしは校長になりました。
だけど、校長室がどこにあるのかはわかりません。

今はもうないという旧校舎でしょうか?
それとも神を祀るにふさわしかった廃教会でしょうか?
わかりやすく墓地の跡? もしくは地下洞窟?
ひょっとしたら、わたしがならいとした女神さまにちなんだ「地獄(ヘル)」かもしれませんね。

だから、こんなところに、五体満足で訪れる輩がいたとしたら。
前の校長にちなんできっとわたしはこういうのでしょう。

「だから、最初に聞きますね。
ねぇ、なんで生きてるの? 理由あるの? そんなの理由あるの?
ないなら、なんで死んでないの? わたしのとこにきたのにさ」
と。


最終更新:2022年10月30日 21:50