「委員長。大人になるって、どういうことだ?」
「うーん……哲学的な話? お母様の受け売りだけど、他人の命を守る立場になる、ということよ」
「なんだそりゃ。やっぱあたし、大人になりたくねー」
「そうね。今はそれでいいと思う」
姫代学園、2年1組。
健康な精神と肉体の学び舎を掲げる女子高校として設立されたこの学校に、今日も悩み多き生徒たちの声が響く。
既に教室に残っている生徒の数は少ない。
2学期の終業式が終わり、年内最後の授業が先程終わったばかりだからだ。
「君たちは高校生活の半分以上を過ごしました。
もうすぐ大人になるという自覚を持ち、計画的に時間を使う意識を持ちなさい」
そう言う先生の言葉がどうしても受け入れられなかった。
いつまでが子供で、いつからが大人なんだ。
教師はいつも綺麗事ばかり並べる。生徒の気持ちなんて知らずに。
あるいは、単に冬休みに不祥事なんて起こさないように、というだけの話だったかもしれない。
それだけのことに引っかかりを覚えるなんて、まだまだ子供だったな。
――彼女はそう結論を付けて、自虐的に笑った。
「それよりさ、委員長。見てくれ、あたしの自信作なんだ」
教室の隅の机に座る彼女は、横に備え付けた鞄の中からこけしとサングラスを取り出す。
それを興味深く机の向かい側から覗き込むのは、クラスの学級委員長である少女だった。
委員長は面倒見がよく、いつも教室が空になるまで居残りを行っては、困った生徒を見ては放っておかない性格だった。
いつも教室に馴染めず、ひとり寂しく謎の研究に没頭している生徒も無視することは出来ない。
一体何が彼女をそこまで駆り立てるのだろう。
彼女はクラスの問題児でもあった。
校内の備品を勝手にカスタマイズして爆発させたり、同級生に怪しい薬を飲ませて生体実験を行うなどなど――。
教師の目にも余る行動ばかりしていたので、自然と委員長のお世話になることが多かった。
2人はそういった経緯での出会いだったが、今では親しい間柄だ。
いつも教室に最後まで残っているのは彼女たちだった。
「また学校に変なもの持ってきたのね……まあいいわ。これは何?」
委員長は口では呆れつつも、興味津々といった様子でこけしを指差す。
一見して店売りしていてもおかしくない、至って普通の木製こけしだった。
彼女は「よくぞ聞いてくれました」と妙に誇らしげなドヤ顔を浮かべ、サングラスを装着する。
こけしの頭を人差し指で抑えると、そのままカチッという音がするまで押し込んだ。
直後、信じられない光量で七色に輝き始め、教室は光の海に包まれた。
「ぎゃあああああ! 目がぁああああ! 目がぁあああああ!!」
咄嗟のことで対応出来なかった委員長は直接光を浴びてしまい、教室の床をのたうち回ることになった。
ワインレッドフレームのメガネを抑えながら、ゴロゴロゴロゴロ――。
ひとしきり目の痛みが引くまで床を転がり続けていた委員長は、回復するなり彼女にげんこつの一発を与えた。
サングラスが衝撃で机に転がる。
「せめて一声かけなさいよ。失明するところだったじゃない」
「委員長のリアクションって何か古いよな」
「やめなさい。私をコミカルな人間みたいに言うな」
芸術性すら覚える委員長の反応に満足した彼女は、この発明に確かな手応えを実感していた。
――名付けて、こけしスペシャル。
「……で? これが何の役に立つのよ」
「警察に追いかけられたときに目眩ましとして使える」
「お願いだから犯罪者にはならないで頂戴」
倫理観の欠如した発言に、委員長は「やっぱり私が付いてないと駄目ね」と呆れた。
いつか彼女が警察に捕まったとき、マスコミに囲まれ「学校ではおとなしい子でした」と発言させられる係は既に決していた。
「その情熱をもっと、別のことに活かせないかしら」
「例えば……どんな風に?」
「そうね。それこそ、他人の命を守るために使うとか」
「うげげー」
大人になれと言いたいのだろうか。
面白みのない答えに辟易した彼女は、口を尖らせて嫌がって見せた。
そんな彼女を見て、委員長はくすぐったそうに笑う。
――キーン、コーン、カーン、コーン。
16時半を知らせる最後の鐘が教室に響く。
部活の居残り活動などが無ければ下校しろ、という意味のチャイムだった。
「いけない。先生に頼まれ事されていたのを忘れていたわ」
「約束を破るなんて委員長も不良ですなぁ」
「校則を守らないあなたには言われたくない!」
夕日も沈み始めた教室に賑やかな声がこだまする。
いつものやり取り、いつもの言い合い。
――いつもと違うのは、これが2学期最後の日で、年内最後の登校日だということ。
――馬鹿みたいなやり取りが出来る日もすぐに終わりを迎えて、みんな大人になってしまう。
委員長は既に荷物をまとめると、教室の扉から手を振っていた。
「それじゃあ、また3学期に会いましょう。バイバイ」
「良いお年をー」
机に突っ伏しながら、不貞腐れ気味に手を振り返した。
タッタッタッ、と委員長の力強い足音が徐々に遠ざかっていく。
――――。
取り残された教室に静寂が満ちる。
今日は部活動も無いはずで、学校に残っている人は数少ない。
家に帰っても口うるさく勉強しろと言ってくる親が居るだけで楽しくないので、学校に居る時間の方が好きだった。
とはいえ委員長の他に自分に構ってくれる人も居ないし、暗くなる前に帰った方が良いだろう。
「……あたしは大人になんて、なるもんか」
冬仕様の制服の上から、更に白衣をまとって少女は自分を取り戻す。
――自分は天才マッドサイエンティストだ。
命を守る大人になんてならない。いつまでも身勝手に、自分のやりたいことだけをやってやる。
こけしスペシャルを白衣のポケットに突っ込むと、荷物をまとめて教室を後にした。
*
教室を出て、廊下を少し進むと道の真ん中に見慣れないオブジェクトが置かれているのを見つけた。
まるで黒いカーテンを纏ったマネキンのような――。
否、それは置物なんかじゃない。
背後を向いたまま、そのマネキンは喋り始める。
「すみません、そこのお嬢さん。人を捜しているのデス」
「…………」
見るからに怪しげな人物だった。
こんな薄暗い校舎の、ましてや女子校に教師以外の男性が入り込むなんて、これが不審者でなければ何なのだろう。
彼女の頭の中に危険を知らせるアラートが鳴り響く。
こんなヤツ、まともに相手をする必要はない。
そうして無視を決め込むのは簡単だった。
しかし、男の次なる発言がそれを許さなかった。
「この学園に、徳田愛莉という生徒が居ると聞いたのデスが」
「――アンタ、あたしに用があるのか」
遂に学園一の天才マッドサイエンティストに仕事が来たのか。
と、一瞬でも楽観的に捉えた彼女――愛莉は、その考えをすぐに後悔することになる。
マネキンの首がカクンと180度回転すると、頭だけがこちらを向いた姿勢になった。
上下に生え揃った銀歯を隠そうともせず、常時なら近づくことさえ躊躇うレベルの胡乱な顔をした男性がニタァと笑っている。
「素晴らしイ! 我輩の勘は今日も冴え渡っていマスね!
そうデスか……あなたがそう――神に選ばれし人、なのデスね!」
「ひっ」と愛莉は全身に悪寒が走るのを感じた。
こいつからは逃げなきゃいけない――本能がそう告げているのに、足は思うように動かない。
「愛莉サン……貴方に会えたこと、心の底から感謝シていマス」
男は肩をバキバキと鳴らしながら、首から下も振り向いて対面する形となる。
黒いカーテンに見えたそれはマントで、マントの下は半裸にボクサーパンツ一丁と筋金入りの変態のようだった。
身長差にして30cm以上は愛莉より男のほうが上だろう。
まだ距離があるとはいえ、圧倒的な体格差を前にして、彼女は為す術もない。
手をワキワキとさせながら、男は高らかに名乗りを上げる。
そして――ここまで来た目的を明かした。
「我輩の名前はルート666デス! 滅亡協会に所属シている殺し屋デス!
愛莉サン……あなたを神のお告げに従い、始末サせていただくのデス!!」
「何言ってんだ……おい、さっきから何言ってんだか全然分からねぇよ!」
神のお告げなどと軽々しく口に出すやつは絶対にやばい。
殺意さえも露わにしたルート666なる男に恐怖を感じた愛莉は自分を奮い立たせると、回れ右をして逃走の準備を始める。
まずは1階まで降りて教師に助けを求めれば何とかなるだろう。
――そう考えていた、その時だった。
「何しているの、あなたたち!」
男の背後から聞き慣れた声がする。
愛莉はその声に一瞬安堵したが、すぐにそれは間違いだと気付く。
「委員長、そいつは危険だ! 今すぐここから逃げて!」
「愛莉……? そこに居るの?」
巨漢の男――ルート666を挟んで、勇ましくも戦いにおいては無力な少女2人は対峙する。
まだ状況が飲み込めていない委員長を背にした彼は、銀歯を覗かせながらニタァと笑っていた。
「これはこれは……運命とは甘くも残酷デスね。とても美味しそうな匂いがシていマスよ。
予定変更――まずは前菜から味わうのデス!!」
男がクルリと向きを変える一瞬、怯えに満ちた委員長の顔が見えた。
女子校という温室で育てられた彼女たちは、剥き出しの悪意をぶつけられることに耐性が無い。
男は巨大な鬼か悪魔のように映っている。
狩る側と、狩られる側は、既に決定付けられていた。
「あ、あなた……ふ、不審者ね! 警察に通報してやるわ!」
「もう遅いデスヨ!」
委員長が動くよりも早く、男はマントごと両手を広げる。
それはムササビが自分を大きく見せながら飛びかかるような所作にも見えた。
そのまま男は突進すると、ガバッと委員長を抱き締めるようにしてマントの内側に飲み込んだ。
愛莉はそれを、絶望したまま見ていることしか出来ない。
「な――何!? 身体が痺れて……動けない……?」
始めは動けないことに気付く。
「やだ、何かが当たって……やめて、変なところ触らないで!」
次に、何かに『障られて』いることに気付く。
「……っ!? や、やめて! それだけは――お願いだから!!」
次に、自分がこれからされることに気付く。
「い――痛ぁあああああ!!
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――!!」
後は痛みだけが続く。
それは肉体への痛みではない。精神への陵辱。
今まで彼女が築き上げてきたものを嬲られ、奪い去られたことへの痛み。
ルート666は手足を動かすことすらなく、少女の悲鳴を心地よく受け入れ、恍惚としていた。
「やめて……もうやめて……」
それは愛莉の口から自然と漏れ出ていた。
あまりに理解の範疇を超えた、一方的な絶望。
攻撃の正体すら掴めないまま、親しい友人の悲鳴を黙って聞いていることしか出来ない自分への、後悔。
これは何の冗談だろう。
いつか高校生活が終わりを迎えることは分かっていたし、みんな大人になることも分かっていた。
自分だけが取り残されても、誰かが手を差し伸べて優しくしてくれるだろうと――そんな甘い期待も。
突如現れた男の手によって、全ての未来が打ち砕かれる。
誰も大人になんてなれない。みんなここで死んでしまうのだから。
「甘美デス! 祝福デス! 絶望デス!
――そろそろ頃合いデスね。もう彼女には抵抗する気力も残っていないようデスよ」
ドサリ、と大きな音を立てて委員長が倒れ込む。
その瞳は虚ろで――面倒見の良かった頃の面影はどこにも無い。
「――委員長!」
脇目も振らず、愛莉は痛ましい姿の友人に駆け寄った。
意外にもルート666はその行為に対して何も行動を起こさず、彼女たちの行く末を見守っている。
まるで――どう足掻いても無駄だと、知っているように。
「しっかりして、委員長! 何が……一体、何をされたの!?」
「あい、り……」
駆け寄る愛莉の肩を借りて、委員長はゆっくりと立ち上がる。
そのまま静かに微笑み、緩慢な動作で廊下の窓へと近寄った。
「委員長……?」
「愛莉……あなたの味方になれなくて、ごめんなさい。
私のことは忘れて――あなただけでも、大人になって」
そのまま窓のフレームに手をかけると、迷うことなく彼女は身を投げた。
まるで窓の方へと吸い込まれるように――有無を言わせない、一瞬の出来事だった。
「――あ。ああ……ああああああああああああああ!!」
取り残された少女だけが、絶叫。
既に何も残されていなかった。
彼女が大事にしていたものは全て奪われ、最後に『生きているだけ』の抜け殻から、彼女は解放された。
最後に伸ばした手は、あまりにも遠く。
後追いする勇気すら愛莉には無かった。
背後からルート666の耳障りな声がする。
「予定は狂ってシまいまシたが、最高のエンターテイメントを見せてもらいまシた。
我輩の能力、『アビス・ゲート』はマントに飲み込んだ対象の精神を搾り取り、絶望だけを与えマス。
唯一の欠点は、これを使った相手が高い確率で自殺シてシまうということデスよ。強すぎる力も考えものデスねぇ」
「……て……る」
それは、地の底から湧き上がってくるような声だった。
――あたしたちは大人にはなれなかった。
――他人の命を守るような人には、なれない。
「お前だけは許さない! ぶっ殺してやる!!」
その言葉を聞いて、委員長はどう思うだろう。
子供みたいと笑っただろうか。
今は――そんな詰りさえ、愛おしく思える。
だけど、今だけは。
「それでいい」と優しく言って欲しかった。
――あたしは天才マッドサイエンティストなのだから。
――いつまでも身勝手に、自分のやりたいことだけをやってやる。
「安心シてください。すぐに御学友のところまで連れてイきマスヨ」
ルート666はマントごと両手を広げ、愛莉の元へと飛びかかってくる。
彼女は、その瞬間だけを待っていた。
「くらえっ! こけしスペシャル!」
信じられないほどの光量で七色に輝き、廊下を光の海で包み込む。
眩しすぎる光を直接浴びた男は目を抑え、床にうずくまることしか出来なかった。
一瞬の隙をついて、彼女は逃走を図る。
――これ以上被害を増やすぐらいなら、あたしがここで食い止める。
あえて1階の職員室ではなく、3階の第2美術室へ。
愛莉が最も得意とするフィールドで、決着を付けよう。
「むぅ……なんと小賢シい真似デショう! 我輩の曇りナき眼を傷ツけた罪、万死に値シマス!」
失明一歩手前まで追い詰められた男も、彼女が上に登ったことを足音から確認し、ゆっくりと歩みを進める。
――流石は神に選ばれし者。一筋縄ではいかないようだ。
――しかし、戦力差は圧倒的。彼女は何も出来ず、死期を少し先延ばししただけに過ぎないのだ。
結末からは逃れられない。
ルート666はニタァと笑った。
*
階段を駆け上がると、すぐに第2美術室の扉は見えてくる。
愛莉はドアの引手に手をかけると、既に施錠されていたため一瞬足止めを食らってしまう。
背後からルート666のドスドスと重みを感じる足音が聞こえてきた。
その足音に追いつかれるのが怖い反面、しっかり自分に付いてきていることに安心する。
彼の狙いは最初から愛莉だけで、第三者を無差別に襲い始めるような真似はしなかった。
――委員長を毒牙にかけたことだけは決して許さない。
白衣からスペアキーを取り出すと、素早く錠前に差し込み鍵を開けた。
内側から再び鍵をかけて、簡単には入ってこれないようにしてやり過ごす。
第2美術室は愛莉の専用部屋と言っても過言ではない。
たまに授業で使われている場合を除き、危険なことをしなければ自由に使ってもいいと教師から許可を貰っているのだ。
ここには何だってある。
石膏を削って刃物を作ったり、こっそり火薬も運び込んだので簡易な爆弾を作ることも可能だ。
時間さえあれば、いくらでも戦力差を埋めることが出来るだろう。
「愛莉サン、どこデスかー? 3階、廊下にてルート666様がお待ちデスヨー?」
――ドスドス、ドスドス。
廊下から男の声と足音がする。
愛莉が第2美術室に居ることはバレていないようだが、しかし見つかるのも時間の問題だった。
――そう、時間だけが足りない。
「……なんで。ここまで来たのに」
彼女は再び足から崩れ落ちる。
目眩ましで時間を稼ぐところまでは良かった。
だが――どんなに頑張っても、その次が無い。
「こんなことなら……作っておけば良かったなぁ」
刃物、爆弾、グレネード、銃器――。
作ろうとしたことはあるものの、いつも委員長に「必要ないでしょ」と笑われて、愛莉自身も積極的にストックを貯めようとは思わなかった。
まさか、こんな事態が起こるなんて誰が予想するだろう。
「ごめん、委員長――あたし、ここまでみたいだ。
大人にはなれなかったよ。……最後に委員長の笑った顔が見れないのも、辛いよ」
敗北を認めたら、少しだけ気持ちよく涙を流すことが出来た。
走馬燈の代わりに流れてきたのは、彼女が手を差し伸べてくれた思い出ばかり。
「ありがとう……最後まであたしの味方でいてくれて」
――誰の命を守ることも出来なかった、こんなあたしの傍に居てくれて。
「時間さえあればいいのよね?」
命を放棄しようとした一瞬、懐かしい声が耳を撫でる。
*
「――起きて、愛莉。ねぇ、起きてってば!」
誰かに揺すり起こされて、愛莉は覚醒する。
それが誰であるかを確認するまでもなく、彼女は飛びついた。
「……っ、委員長! 生きていたんだな!
良かった……無事で、本当に良かった……」
少し前までは照れくさくて、こんなことは出来なかった。
抱きつくと確かな体温があって、鼓動を感じて、息遣いを感じる。
忘れようもない、紛れもない委員長がそこに居た。
しかし、彼女は静かに笑ってそれを受け入れつつも、首を横に振った。
「……ごめんね。私は委員長だけど、委員長じゃないの」
「どういうこと……?」
彼女が視線を上げるので、つられて辺りを見渡す。
そこは先程まで居た第2美術室ではなく、簡素な作業部屋のようだった。
冷蔵庫にシャワールームやトイレの他、作業机の上に3Dプリンターや各種工具、生成器、更に工作に使えそうな雑多な部品が棚に収納されている。
そして――、
「私はあなたの願望が生み出した存在――助手ロボットよ」
「どう見ても委員長……」
それがどういう意味かを理解して、愛莉は途端に耳の裏が熱くなるのを感じた。
確かに彼女が居てくれれば何よりも心強い。
だが――自分は自分が思うよりも、委員長という存在に依存していたのだろうか。
それはさておき、ここまでの説明で自分の身に何が起きたのかを理解してきた。
絶体絶命のピンチに陥ったとき、壮絶な体験をしたとき、それを克服するため特殊能力に目覚めることがあるという。
――つまり、愛莉は魔人能力に目覚めたのだ。
「あなたの能力は10畳間ぐらいのラボラトリーを生み出す能力。そこで何をするかは――愛莉、あなたが決めなさい」
「でも、時間が……!」
ここがどれだけ安全かは分からない。
しかし、悠長に構えて武器をこしらえている時間は無いはずだ。
もしもラボが見つかれば――今度こそ、愛莉は始末されてしまう。
「――大丈夫。ここは外界よりも時間がゆっくり流れる。
彼が1秒を無駄にするなら1分の猶予が、彼が1分を無駄にするなら1時間の猶予が与えられるわ」
「……信じられない。でも、もし本当にそうだったら――」
確かに時間が欲しいという愛莉の願望は叶った。
これなら、あるいは。
「さぁ、愛莉博士。作業に取り掛かりましょう」
委員長、もとい助手ロボットに手をひかれ、愛莉は作業机に座らされる。
発明することは――何よりも容易い。
まだまだ大人にはなれない。
想像力が働くままに、自分の好きなことを好きなだけしていたい。
だけど、少しだけ見えてきた。
大人になるということが、何なのか。
人の命を守れるだけの力が――ここなら、見つかるかもしれない。
「取り戻しましょう。
私たちの、奪われた正義を」
今度こそ、反撃開始だ。
*
ルート666は夕暮れの校舎を彷徨っていた。
彼は強大な能力を持っていたが、その仕事ぶりは完璧とは程遠い。
その理由のひとつは、知性や品性に欠けていること。
アメリカの小さな州で生まれ育った彼は、近所に住む女児への片思いを拗らせて魔人能力に目覚めた後、性欲のままに生きていた。
本を開けば眠くなり、映画を観ればトイレに行きたくなると、とことん知識欲の欠けた薄っぺらな人間だった。
そのため、情報収集というものを一切行わない。
神のお告げに従い、徳田愛莉という少女を殺すことになった彼だが、彼女がどういう趣味を持っているかといったことにも、興味は無かった。
それがこんな形で仇となっている。
彼女がどこに逃げ込んだのか、まるで検討が付かなくなっていた。
足音がしなくなったのでそう遠くへは逃げていない――その確信だけで、姫代学園の校舎3階を手当り次第に探すこと、およそ10分。
時折音を鳴らして炙り出しを行うだけの考えは持っていたが、未だ収穫は無い。
ここは一旦諦めて他の人を襲おうか――と、ルート666が踵を返した、その時だった。
「――待ちな。返してもらおうか、あたしたちの正義を!」
飛んで火に入る夏の蛾――。
ハニーブロンドのツインテールをなびかせて、彼がまさに探し求めていた少女が今、目の前に現れた。
ルート666はニタァと口を歪める。
「神に捧げる祈りは済ミまシたか? それともママにお別れの挨拶をシていたのデスか?
――運命には逆らわない方が良いデスよ。我輩のアビス・ゲートで、イマ楽にシてあげまシょう!」
「お前の目は節穴なのか?」
その言葉で彼はようやく、彼女が武器を手にしていることに気付いた。
夕暮れの中では視認性が悪く、彼自身も失明しかけているため見えなかったのだろう。
黒光りする鉄の塊。
それは小さくとも常人の命を奪うには十分な代物だった。
しかし、そんなものは彼の敵ではない。
思わず吹き出しそうになるのを堪えて、ルート666は口を開いた。
「愛莉サン、どこへ行ッたかと思エば、そンナものを捜シていたのデスか?
日本の女学生はマせてイるのデスねぇ。おぉ、怖イ怖イ」
「ちっ――口の減らないヤツだ。痛い目を見ないと分からねぇみたいだな!」
――パンッ、パンッ。
乾いた音がして、ルート666の肩に2発の銃弾が食い込む。
素人のおままごとかと思えば、やけに正確な狙いを付けた射撃だった。
しかし、それは痛くも痒くもない攻撃だ。
「無駄デス! 無駄デス! 愛莉サンは知ラなかったかもシれませんが、我輩はソノ程度でハ傷一つ付かないのデス!」
愚かなルート666が今日まで生きてこられた理由のひとつ。
それは――無敵とも称される、身体の頑丈さ。
銃弾の雨を身体で受け止めてきた回数なら、誰にも負けないだろう。
ルート666は何事も無かったように肩に刺さった銃弾を指でつまみ上げると、そのまま床に転がした。
「肩は駄目か……なら、次は頭だ!」
――パンッ、パンッ。
宣言通り、ルート666の脳天に2発の銃弾が刺さる。
常人でなくとも、大抵の生物なら命を落としてもおかしくない攻撃だった。
だが、彼は何も言わずニタァと笑い、後頭部をトントンと叩いて弾丸を摘出する。
無論ノーダメージだ。
――パンッ、パンッ。
互いに声を上げることなく、次は不意打ち気味に2回。銃声が暗い廊下に響き渡る。
今度はどこを狙った攻撃か。
ルート666はしかし、その射撃がどこを狙ったのか分からなかった。
それもそのはず。
攻撃が思ったように通らないことへの焦りか、震えか。
銃弾は彼の背後でただ燻っているだけだった。
「おやおやァ、現実ハ百発百中とハいかナイものデスねぇ。
サぁ、次ハどこを狙いマスか? 足デスか? 首デスか? それとも――」
「黙れっつってんだよ!!」
――カチッ。
愛莉が激昂に身を任せた次なる銃撃は、無情にも弾切れを知らせる音がした。
彼女の悪足掻きもここで終わる。こんな短時間で出来ることと言えば、犬も食わないような茶番劇だけだ。
もう彼女の弔いごっこに付き合うのは、十分だろう。
「サァ、オトナシクシテイナサイ!!」
ルート666はマントごと両手を広げ、自身の能力を発動させる。
――アビス・ゲート。マントに包んだ相手の精神を搾り取り、死ぬより恐ろしい目に遭わせる無敵の能力。
それは、彼の弱点そのものでもあった。
――パンッ。
「なン……デス……か……?」
「――悪いな、委員長。やっぱりあたし、『大人しく』なんて無理だ」
それは実に初歩的で安っぽいハッタリである。
拳銃は1丁だけと思わせて、実は2丁目を白衣の下に隠し持っていた。
――それだけではない。
ルート666は自身への異変に気付く。
内蔵から吹き出る血が止まらない。
いつもなら何とも無い攻撃のはずが、今は致命傷とばかりに身体に響いている。
「なにをナニヲなにをナニヲシたのデスか!?」
「何って、お前がアビス・ゲートとやらを発動する瞬間を狙ったんだ。目測通りだな」
彼が無敵の肉体を持つなら、どうして目眩ましの一撃を受けて決定的なダメージを負っていたのか。
それは彼自身すら気付かない、能力自体の弱点だったから。
アビス・ゲートを発動するほんの僅かな一瞬だけ、彼は無防備な状態となり、傷を負う。
初撃はまぐれだったかもしれない。
ルート666はそれを気にせず、愛莉だけが深く考察を行っていた。
――ただそれだけの違いが、彼を瀕死のところまで追い込んでいたのだ。
しかし、それだけではルート666を倒すことは出来ない。
何故なら、この弱点に気付いた彼が愛莉を弱らせるまで能力を発動しなければ、再び強靭な肉体を維持出来る。
能力に頼らない肉弾戦で勝利を収めればいいだけ、という話だ。
「我輩をここマで追い詰メたのハ称賛に値シマス!
デスが! 我輩の力はアビス・ゲートだけデはありマせん! 鍛え上ゲた、コノ肉体で! 愛莉サンを始末シマス!!」
「――ほう。じゃあ、付き合ってもらおうか。朝まで」
そう言って彼女は不敵に笑う。その瞳には勝利の確信があった。
愛莉は自身の隣に置いてあった白い鞄を持ち上げると、それを上下逆さにひっくり返した。
――ジャラジャラジャラジャラ。
鉄製の何かが大量に落ちる音がする。
それは短剣だったり、拳銃だったり、爆弾だったり、グレネードだったり――こけしスペシャルのスペアも見えた。
それもひとつやふたつではない、数え切れないほどの凶器が山積みとなり、愛莉の傍に散らばる。
悪寒が走るほどの殺意。戦力差。
かつてルート666が与えていたプレッシャーを、今度は彼が受け続けて戦う番だった。
「は、はハはハはハは――! 愛莉サン、すゴイですネぇ! 我輩、少シだけ泣いてシまいそうデス!
一体それだけの武器を、ドコに隠し持っていたのデスか!?」
ルート666が涙ながらに尋ねると、彼女はニヤリと笑ってみせた。
古今東西、博士という立場にあれば一度は言ってみたいセリフがある。
「こんなこともあろうかと――作っておいたのさ!」
彼女たちの正義は、ここに再び蘇った。
*
一途恋は空を見上げていた。
いつからそうしていたのか分からない。
ただ、手足が動かなくなって、首も動かなくなって、心さえ何も感じないまま、姫代学園の校舎をじっと見つめていた。
彼女は2階から飛び降りた。
距離にすれば大したことは無いはずだったが、頭からズルリと落ちたため傷は深い。
何よりも、彼女は既に痛みを感じない身体になっていた。
精神も摩耗して、魂だけが辛うじて生きているだけの、抜け殻となっていた。
彼女は医者の父親と政治家の母親に育てられたお嬢様である。
自分の行いが正しいと疑うことなく、彼女に必要なものは何でも与えられた。
徹底して行われた情操教育から来る、正義感は誰よりも強い。
それゆえ学校では率先してリーダーという立場に選ばれることが多く、頼りにされている。
姫代学園には他にも優秀な生徒が多く、生徒会に入る夢は叶わなかったが、それでも正義の心は失われていなかった。
「委員長、ちょっと助けてくれないかな。徳田さんが大変なんだ」
彼女がその問題児と出会ったのは春のことだった。
自分を天才マッドサイエンティストと称して憚らず、いつも問題ばかり起こす生徒がクラスに居たのだ。
「一途、ちょっといいか。徳田の面倒をお前が見てくれないか。
いや……俺も教師として注意しているんだが、やっぱり生徒の気持ちは生徒が一番よく分かるって言うだろ?」
「委員長、徳田さん見なかった? まだ授業に来ていないみたいなの」
「恋ちゃん、徳田さんと仲良いんだよね。ちょっと頼みがあるんだけど」
あまりの自由奔放さに、教師一同やクラスメイトも匙を投げ、委員長である自分に丸投げされていた。
――分かっている。何を言われても断れない性格が災いして、面倒事を押し付けられているだけだった。
いつも自分は正しいことをしていると思っていたし、周りもそれについて口を挟むことは無い。
それでも、常に迷惑をかけながら好きなことを出来る彼女が、少しだけ羨ましいと思ったりもした。
彼女はその日も第2美術室に篭っていた。
恋は教師に頼まれ、愛莉の話し相手をしている。
「徳田さん。今は授業中よ」
「……委員長。分かってるよ、さぼってんだよ」
一時期は彼女が学校の外まで抜け出して迷惑をかけていたので、専用の部屋が与えられていた。
美術室とは銘打っているものの、実際は彼女の趣味に合わせてカスタマイズされた研究室だった。
「どうしていつも、あなたは大人しく授業を受けていられないの?」
決して彼女は勉強が不得意というわけではない。
誰も気にしていないようだが、出席率のわりにテストの点数は良く、陰で努力を行っている姿は見えずとも分かっていた。
――だからこそ、純粋に疑問を感じていた。
「あたし……友達が居ないんだ」
彼女がポツリと弱音を漏らす。
「人付き合いが無理なんだ。せっかく出来た友達も、趣味が合わなくて話さなくなる。
両親も、あたしのことなんて興味が無くて、みんな嫌いだ。
――あたし、ひとりが好きなんだよ。放っておいてくれよ!」
そう言って涙する彼女を、責めることは出来なかった。
いつも眩しく見えていた天才マッドサイエンティストは、理解者を得られない泣き虫だった。
「……奇遇ね。私も友達が居ないのよ」
本当は誰もが孤独で、寂しいから友達が居るフリをするものだ。
――クラスに馴染めない半端者が2人、ここに集う。
自分の好きなことばかりして、誰にも理解されない者。
いつも正しいことばかりして、誰にも理解されない者。
鏡写しの孤独が今、交わる。
「――あれから私たちは、いつも一緒だった」
共に過ごした半年間は長いようであっという間だった。
彼女は授業に出席するようになったし、恋は少しだけ本当の自分を表に見せるようになった。
楽しいことばかりじゃなかった。
いつも方向性が違うから、喧嘩ばかりだった。
こんな時間がいつまでも続くと思っていた。
高校を卒業しても腐れ縁になって、互いが互いの支えになるんだって、信じて疑わなかった。
彼女の笑った顔が好きだった。
彼女の喜んだ顔が嬉しかった。
彼女の怒った顔が愛おしかった。
彼女の泣いた顔が放っておけなかった。
意識が徐々に遠のいていく。
身体が冷え切って寒いのに、それに対して何も思わなくなった自分が怖い。
――大人になるって、何だろう。
――他人の命を守ることなのかな。
――自分の命も守れないのに、そんなの身勝手だ。
――愛莉、あなたはどんな答えを見つけたの?
「起きて、委員長。ねぇ、起きてってば!」
誰かに揺すり起こされて、恋は意識を覚醒させる。
それが誰であるかを確認するまでもないだろう。
誰よりも自分勝手で、誰よりも強くて、誰よりも泣き虫なたったひとりの親友。
「あたし――やったよ。委員長の仇を討ったよ!」
「愛莉の馬鹿……そんなこと、誰が頼んだのよ」
ぼやけた視界の中で垣間見えた彼女は顔中傷だらけで、一体どんな無茶をしたのか検討も付かない。
それでも彼女の瞳には確かな光が宿っていた。
――見つけたんだね。あなたの正義を。
「彼を――殺したの?」
「ううん。……見逃してやったよ。もうあんなやつ、あたしたちの敵じゃないから。
――あたしたちの正義は、命を奪うことなんかじゃないから」
「…………そう」
何があったのかは分からない。
だけど、彼女は恋が思うよりもずっと強くなって、やりたいことを全てやっていた。
間違うこともあるだろう。
許せないこともあるだろう。
それでも、『正義』は人の心にあって、決して曲がることは無い。
「だからさ――委員長、お願いだ。
……あたしを、置いていかないでくれよ。ずっとあたしの友達で居てくれよ」
遠くから教師が自分を呼びかける声がする。
校舎に向かうパトカーや救急車のサイレンも聞こえる。
――やっと、自分が置かれている状況が分かってきた。
「委員長――目を開けてくれよぉ……!!」
もう目蓋を動かす力も残されていない。
だけど――見えなくても、分かる。
愛莉はまた、泣いている。
その涙を止めるにはどうしたらいいだろう。
――分からないから、懸命に口を動かした。
「愛莉……私のお願い、聞いてくれる?」
「……っ! それで委員長が助かるなら、いくらでも聞くよ……!」
「――恋、って呼んで欲しいの。友達や恋人が呼び合うみたいに、笑顔でね」
彼女が息を呑む音が聞こえる。
――これが最後になるかもしれないから、うんと困らせてやりたかった。
彼女との別れに、涙は似合わない。
もう彼女の顔は見えないけど、最期は笑顔で見送って欲しい。
「……れ、恋! これでお別れなんかじゃないからな! また元気になったら、あたしの研究に付き合ってくれよ!
恋にはこれから見せたいものがたくさんあるんだ。だから――だから、さ」
「愛莉」
目蓋が重くて動かない。
手足も動かなくなって、首も動かせなくて。
呼吸をするのも辛い。それでも彼女と一緒に居たい。
「笑って」
一途恋。
享年17歳。
*
運命は廻る。
誰かが愛した世界は、別の誰かによって壊されようとしていた。
それは理念の異なる正義か、あるいは唾棄すべき純粋悪か。
神に導かれるまま、正義と正義はぶつかり合う。
その先に待つのは破滅か、勝利か。
それとも――救いか。
*
人知れず混沌をもたらす少女――山乃端一人は、電車を乗り継いで東京に向かっていた。
ある日、彼女の元に現れ神は告げた。
東京へ向かい、命を捧げよ――と。
自身が死ぬことで世界中に仕掛けた爆弾を起爆させる能力者である彼女は、喜んでそれを受け入れた。
ところで東京とは東京駅のことで合っているだろうか。
「東京で会いましょう」とか「東京で働きます」とか言われてもちょっとピンと来ない。
人により、東京都全域を東京と言い張る人も居れば、東京駅だけが真の東京という場合もある。
東京都庁は新宿にあるし、東京ディズニーランドは千葉県の舞浜にある。
詰まるところ、彼女は具体的な行き先も分からず半信半疑のまま、お告げに従い行動していた。
西日暮里駅で東京メトロ千代田線を降りて、JR山手線へと乗り換える。
もはや東京駅は目と鼻の先のようなものだった。
――駅構内は平日の昼間だというのに人が多い。
2分間隔で次の電車がやってくるにも関わらず、ホームで並ぶ人の多さを見て彼女は辟易していた。
冷静な顔をして我先に乗り込もうとする人、急いでいるのか息を切らしながら階段を登ってくる人。
ベンチのイスから立ち上がろうとしない人、スマホから顔を上げない人。
音楽を聴いている人、食べ物を口にする人、本を読む人、会話中の人。
見渡す限り全ての人に等しく物語があり、全ては彼女の知る由もない物語だ。
世界はまだまだ広い。
――だけど、世界は唐突に残酷に終わりを迎える。
ホームドアが開いて、上野・東京行きの電車は到着した。
爆弾を積んだ電車は、何食わぬ顔で終末へと走り出す――。
*
遠い遠い、過去の記憶――。
一人には忘れられない友達が居た。
彼女は極度に病弱で、吹けば飛んでしまいそうなほど体重が軽かった。
移動する時はいつも車イスに乗って、誰かが押してあげないと駄目だった。
あまりにか弱い――少女の命。
医者は最善を尽くしたが、まだ日本の医療では治せないほどの難病を患っていた。
「持って半年でしょう」と、主治医は他人事のように告げる。
その軽薄で残酷な余命宣告に家族が、友人がボロボロと涙を流した。
「ひとりちゃん、元気だして。トカゲは変温動物だから毎朝日光浴して体温を上げないと活動出来ないんだって」
そう言う彼女――谷中皆は一人の大事な幼馴染だった。
いつも昆虫図鑑ばかり読んでいる彼女は少し感性が独特だが、決して悪い子では無かった。
彼女はいつもうっとりとした表情でぼやく。
こんなに短い命なら、ハチやカマキリになりたかった――と。
ミツバチは統率の取れた群れで暮らして身を守る。天敵のスズメバチがやってきたら群れで囲んで、蒸し焼きにしてから殺す。
メスのカマキリは交尾の最中にオスのカマキリを食べてしまい、とても大きな卵を産む。
人間には思いつきもしない、生きるための知恵を虫たちは実践している。
「わたしもそんな風になりたかった」というのが皆の口癖だった。
彼女は身体が弱いことを知っている。
一人と皆が一緒に居られる時間が僅かだということを、理解している。
それでも願わずには居られなかった。
――何かの奇跡が起きて、彼女の病気が治りますように。
神社に行って、お参りをして。
そこに暮らすアリの巣を見つけては、始まった彼女の雑学に耳を傾けて、あっという間に過ぎる時間。
車イスは少しずつ重くなっていく。
それは命の重さか、死の重さか。
ふたりで逢魔が時を待たずして赤みを帯びてくる空を見上げていると、それは突然やってきた。
「お前たちに救いを与えよう。
一生消えない呪いと引き換えに、どんな願いでも叶えてやる」
背後から伸びる影と見間違えるほどの、真っ黒な体躯。
人間よりも遥かに巨大な彼は、足を折って少女の願いを待っていた。
その心の内は同情か、気まぐれか。
彼は少女たちの境遇を知って、一石を投じようとした。
――それは決して生ぬるい救いではない。
生きているだけで様々な困難が降りかかるように、幸いと災いは同じタイミングでやってくる。
「私は――何もいりません」
一人は迷わずそう答えた。
幸せとは他人から得るものではなく、自分で見つけるもの。
たとえ後悔することになっても、自分で見つけたものなら納得できる。
しかし、皆はそのように考えなかった。
幸せとはどんなリスクを負ってでも掴み取るもの。
ましてや彼女が願ってやまなかった『奇跡』が目の前に現れたのだから、これを使わない手はない。
「わたしは願います。――ひとりちゃんと、これからもずっと一緒に居たい!」
「皆ちゃん……!!」
それがどんな代償を払うことになるのか、皆も考えてなかったわけではないだろう。
彼女の決意を聞いて、黒い影は満足そうに笑う。
パンと手を打ち、そのまま闇夜に消えた。
あまりに一瞬の出来事に、固まる一人。
車イスがふっと軽くなる。
もう病弱だった頃の姿はない。
皆の手の甲に走る爬虫類のような鱗に気付いて、一人は悲鳴を上げた。
「皆ちゃん……その手……!」
しかし皆は一人を心配させまいと、ニコリと微笑む。
「ひとりちゃん、大丈夫。トカゲは変温動物だから夜まで元気いっぱいだよ」
彼女が得たものは――皆と一人がずっと一緒に居られるための強い身体。
その引き換えに失ったものは――人間らしさ。
*
それから半年が経ち、もはや皆の身体におきた異変は隠せるものではなくなっていた。
外見の変貌だけでも凄まじいもので、トカゲやヘビなどの爬虫類を思わせる緑色の鱗は全身に広がろうとしている。
その呪いが内面にまで及んでいるかは一人の知るところではなかったが、皆は何故か嬉しそうにしていた。
「日本の医療を舐めないでいただきたいね。打つ手なんて無いよ」
娘の無事を縋った皆の両親は、医者のその言葉を聞いて膝から崩れ落ちたという。
病気にしては前例がなく、魔人能力にしては救いがない。
当の本人は「大丈夫だよ」といつも明るく振る舞っていたが、学校では気持ち悪いものを見るような目を向けられることが多くなった。
これ以上日常生活に支障が出る前に、と両親は娘をアメリカの名医に治療させるつもりらしい。
せっかく一緒に居られる願いが叶ったのに、呪いがふたりを邪魔していた。
治す術が無いことを少女たちは知っている。
それでも両親は諦めない。
たとえ治療出来ないと決まっていても娘のために最善を尽くす。
――それが愛というものだから。
「……そろそろお別れだね、ひとりちゃん」
成田空港の搭乗ゲートで少女たちは別れを告げる。
すれ違う人たちは皆のことを奇異なものを見る目を向けていた。
全身に包帯を巻いた、痛ましい姿。
「……手術、うまくいくかなぁ」
何かの奇跡が起きて、元の日常に戻れることだけを願っている。
皆が俯くたび、一人は彼女の手を握って励ましていた。
「きっと大丈夫だよ。私も応援してるから」
それは親友にかける言葉としては軽薄だったかもしれない。
けれど、一人はそれ以上の言葉を伝えることが出来なかった。
――こんなこと、望んでなかった。
あの日ふたりの前に何かが現れたとき、一人は何も望まなかったことを後悔していた。
呪いを受けるのは自分であるべきだった――と。
どうして彼女ばかりが酷い目に遭わなければならないのだろう――と。
「……ひとりちゃん」
「なあに?」
握った手が僅かに強張った。
包帯の上からでも、彼女の肌は硬い鱗で覆われていることが伝わる。
「わたしがどんな姿になっても、また一緒に遊んでくれる?」
恐る恐る尋ねるような声に、しかし一人の答えは変わらない。
――全身が鱗で覆われても。
――背中からコウモリみたいな羽根が生えても。
――頭がカマキリみたいになってレーザーを吐いても。
――腕が4本になって手首から鎌が生えても。
――体中からトゲが生えて何でも溶かす酸が出せるようになっても。
「私たちは、ずっと一緒だよ」
それは一人の願いではない。
それでも、皆が願ったもので皆が受けた呪いならば、断る理由なんて無かった。
少女たちは人目も憚らず、抱き合って別れを惜しんでいた。
本当は皆をここから連れ出して、ずっと一緒に居たかった。
それでも、残酷に時間は過ぎる。
自分たちはまだひとりで生きていけない年齢だ。
ロス行き航空機の出発時間が迫っていた。
「ひとりちゃん、大丈夫だよ!」
去り際、すっかりいつもの調子を取り戻した皆が叫ぶ。
「アリは腹部から出すフェロモンを辿って100メートル先の巣穴まで帰られるんだって!
絶対、戻ってくるからね! 手紙も書くからね!」
――あれから皆が帰ってくることは無かった。
手紙が届くことも無かった。
彼女とは音信不通となり、とても長い時間が無駄に過ぎた。
アメリカで治療を受けたという彼女の無事を知る者は誰も居ない。
それでも彼女が願ったことは、呪いを受けてまで叶えた奇跡を、一人は決して忘れない。
けれど、ひとつだけ思い出せなかったことがある。
最後の最後に彼女が言ったこと――それだけが。
確か――こうだったはずだ。
「わたしが戻ってくるまで、絶対に死なないでね」
どうしていきなりそんなことを言い出したのか分からず、呆気に取られたことだけを憶えている。
「元気でね」と言いたかった彼女なりの表現だったのかもしれない。
――まるで、今の自分を見透かされているようだ。
皆は今でも元気でいるだろうか。
世界を終わらせる前に、もう一度彼女の顔が見られないのが、心残りだった。
*
『――繰り返し、お客様にお知らせします。
先行する電車よりトラブルが発生したとの連絡があったため、この電車は当駅にてしばらく停車を行っております。
運転再開の見込みは立っておりません。お客様には大変ご迷惑をおかけしますが――』
備え付けのスピーカーから聞こえてくる運転手の声で意識を取り戻した。
一人は山手線に乗って東京駅へ向かっていた――はずだった。
乗車した後、急に激しい眠気に襲われたので空いている座席に腰を落ち着かせると、あっという間に眠りに就いてしまった。
そして目が覚めると、スピーカーから慌ただしく同じ内容のアナウンスが繰り返されていることに気付く。
要するに山手線は東京駅を前にして運転見合わせを行っているようだ。
周囲を見渡すと、既に乗客の殆どは降車していた。
何名か一人と同じように眠り続けている者、あるいは運転再開まで座り続ける者が車内に残っていたが、ここは動いたほうが良さそうだ。
山手線がダメでも他の線を使って移動する手段はあるだろう。
車内備え付けのモニターには『御徒町』という駅名が入れ替わり、複数の言語で表示されている。
乗り換え案内も表示されていたが、ここに乗り入れているのは山手線と京浜東北線だけ。
おまけに、いずれも『トラブル発生のため運転見合わせ』と無慈悲にも記されていた。
「……降りよう」
誰にともなく呟く。
少し前まで重い夢を見ていた所為か、どっと疲れが湧いてきていた。
地下通路を辿れば仲御徒町駅につながり東京メトロに乗り換えることも可能だが、そこまでして急ぐ必要は無いだろう。
御徒町といえば北口にはアメ横として親しまれる商店街があり、南口にはパンダ広場と呼ばれる待ち合わせスポットがある。
どちらも暇つぶしには丁度いい。
降車すると駅のホームは閑散としていた。
これが帰宅ラッシュの時間帯と重なっていればややこしくなっていたかもしれないが、乗客は他の駅に捌けたらしい。
南口改札を抜けると慌ただしく行き交う社会人が電光掲示板を見ては去っていく姿が見えた。
また、改札を通ろうとして駅員に止められている老人の姿もある。
一人はそんな光景を横目にパンダ広場を目指す。
時期によってはイベントが行われていることもあるらしい。
何か面白いことは無いかな、という期待が心のどこかにあった。
*
御徒町駅の南口は如何にもビル街といった様相を呈している。
高架下に位置するここから出口を抜けると一気に視界が開け、目の前のパンダ広場を囲むようにして多様な店やビルが立ち並んでいた。
電車の運転再開を待つ人だかりが出来ていることを除けば静かな駅である。
パンダ広場はフリーマーケットの会場になることもある敷地の大きい広場だが、あいにく今は何もやっていないようだ。
やっぱり北口まで回ってみるか――と思っていたが、広場が何やら騒がしくなっている。
どうやら広場の中心で赤い髪色をした少女が何かを叫んでいるようだった。
これはゲリラパフォーマーというやつだろうか。
もはや暇を潰せれば何でもいい、とヤケにさえなっていた一人は少女に近づいてみることにした。
「幼き民たちよ、このように魅力溢れる街をこれまで築き上げてきたことを大いに誇るがいい!
妾はとても感動した! 美味い飯、きらびやかな街並み、心の温かい人々――全てが美しいぞ!
じゃが――物価はとても高い。日本円はあっという間に無くなってしまうなぁ。
東京の者は特に心が温かいことを知っておる。ゆえに、妾にお金を――!」
回れ右をして立ち去ることにした。
「東京は素晴らしい――そこの童女もそう思わんか!?」
しかし目をつけられてしまった。
もしかして今日は厄日ではないだろうか。
彼女の言う『心の温かい人々』とは何だったのか、通行く人は彼女に対して見向きもしていない。
けれど注意をするほど暇な人も居ないため、彼女はここで物乞いのような活動を続けられたのだろう。
身なりまで貧相に見えるかというとそうではなく、何かの毛皮で出来たブラウン色のドレスを身に纏っている。
赤い髪色も地毛らしい自然な発色をしており、どこか異国情緒を感じさせる少女だ。
むしろ貴族らしい身分とさえ思えるが、お金の持ち合わせが無くなってしまったのだろうか。
「……これでいいかしら」
一人は鞄から約束手形を取り出すと、そこに100万円という金額を記して手渡した。
現金を持ち歩くタイプではないのでこんなものしか用意できないが、口座には腐るほど金がある。
「なんじゃこれ」
しかし少女は難色を示した。
よく考えれば今どき約束手形なんて通用しないのだろうか。
ここに互いの氏名と金額を書いて銀行に持っていけばお金の受け渡しが発生する、ただそれだけのことだ。
そのことを伝えると彼女は喜び飛び上がり――
「お金はもっと大事に使えよ」
「えぇ……」
なんてことはなく、なぜか優しく諭されてしまった。
どうやら100万円という途方も無い金額により、却って冷静になってしまったらしい。
「妾は昼飯のお金が欲しいだけじゃ。この手形とやらは過剰というもの」
そう言って少女は約束手形を破り捨てる。
「じゃが、妾に手を差し伸べたことは誇るがいい! 昼食を同行することを許可しよう!」
「はぁ……」
彼女は一人より幼い見た目に見えるが、上から目線を崩そうとはしなかった。
やはり貴族の出自なのだろうか。世界はまだまだ広い。
何かに巻き込まれる人生も、これで最後なのだ。
子供の悪ふざけであれ、大きな事件の前触れであれ、とことん付き合ってあげても良いだろう。
「……分かったわ。あなたの好きな店まで連れて行ってちょうだい」
「おお! なかなか話のわかる奴ではないか!」
少女は今度こそ喜び飛び上がった。
誰かに頼られるなんてしばらく無かったので、悪い気はしない。
そうと決まれば、いつまでも他人行儀ではつまらない――彼女はそう前置きして、高らかに自己紹介をはじめた。
「妾の名前はドラゴニュート。北欧より訪れし竜人族の末裔じゃ!」
漫画なら大開きのコマに「ババーン」という擬音が乗りそうなほどのキメ顔で。
……そういうのが流行っているのだろうか。
嘘か真か定かではない設定を明かされ困惑するも、しかし人間離れした髪色や服装から全くの冗談とも思えない。
何だか妙に胡散臭い話し方をする少女だとは思っていたが、やはり只者では無かったようだ。
「ところで、人探しをしておるのじゃが」
「……人探し?」
名乗られたからには今度はこちらも――と思った矢先、彼女は続いて目的を明かす。
どうやらご飯を食べるために生きているだけのお嬢様では無かったらしい。
「山乃端一人、という童女を知ってはおらぬか?」
どんな確率だ、と一人は内心毒づく。
まさか街中で偶然出会った少女が自分を捜していたなんて、宝くじの1等よりもあり得ない。
もしや分かった上でこんな芝居を、という疑いも頭を過ったが、ドラゴニュートは本気で尋ねているような素ぶりだった。
「ちなみに……その山乃端一人さんに会えたらどうするつもり?」
警戒心を露わにして慎重に対応する。
山乃端一人を尋ねる者に碌なものが居ないのは自分自身がよく知っていた。
大方借金の取り立て人か、異変に気付いた警察か。
忘れがちだが、一人は鞄に大量の爆弾を抱えている。一人の死によって起爆する爆弾だ。
ガワは可愛らしいぬいぐるみなので万が一職質にあっても隠し通せるが、内側まで調べられると火薬が見つかってしまう恐れがあり危険だ。
その場で射殺されるなら本望だが、逮捕されると非常に面倒くさい。
だが、ドラゴニュートはそのどちらでも無かった。
彼女はニッコリと笑い、両手の甲をこちらに向けながら言い放った。
「八つ裂きにして殺す」
なにそれ怖い。
一人が危惧していたものではなかったことに安堵した反面、安易に名前を名乗れなくなってしまった。
本来の目的を考えると利害の一致はあるのだが、もうしばらく様子を見てみよう。
「それって本気?」
「もちろん冗談じゃよ。ところで此奴を知っておるのか?」
そう言うドラゴニュートは僅かに語気が強くなったように感じた。
眼光がどこか鋭いものに変わっている。
…………。
いや、痛そうなのはやめておこう。葛藤の末に一人は日和った。
きっと東京まで行けば神様が不思議な力で安らかに眠らせてくれるはずだ。
何も出会ったばかりの自称竜人に八つ裂きにされてまで死にたいとは思わない。
「――ごめんなさい、知らないわ。私は山瀬瞳よ」
5秒で考えた偽名を名乗り、ランチに連れていくことにしたのだった。
――これが終わったらさっさと東京に向かおう。
楽に死ぬのもなかなか難しいな、と痛感する一人だった。
*
――ピンポーン。
「山乃端さーん。居ないっすかー? 留守なんすかー?」
亀有から少し離れた場所にあるアパートの一角。
閑散としたこの地で、来客を知らせるチャイムが鳴り続けている。
有間真陽は契約書に記された住所に従い、この場所を訪れていた。
8年前に結ばれた契約なので情報が古い可能性もあったが、そういった可能性を地道に潰していくのが彼女の仕事である。
――山乃端一人を捕まえること。
それは昨日、社長から下された業務だった。
真陽は今井商事に務める借金の取り立て人である。
何よりも優先してほしいとのことだったので、他の仕事を同僚に頼んで真陽は取り立てを執行する。
対象の身辺調査は後輩のるいなに任せ、体当たりで居場所を特定するのは真陽がやる――これがいつもの流れだ。
本当にここに住んでいるなら仕事はすぐに終わっていただろう。
しかしチャイムに応える声は無い。他の住人すら姿が見えない。
とはいえ平日の昼間という時間帯なので、少し留守にしていてもおかしくはない。
他の住人にも聞き込み調査をするっす――と立ち去ろうとした、その時だった。
部屋と部屋をつなぐアパートの通路の床に、何かが落ちている。
それはよく見ると――裏返しにされた黒い手鏡のようだった。
「……え。なんすかこれ。ホラーの導入っすか?」
まだ明るい時間帯とはいえ、古びたアパートの床にある落とし物は妙な不気味さを醸し出していた。
出来れば見なかったことにしたい。しかし他の住人とも話をしたい以上、落とし物を放置するのも人間としてどうかと思う。
………。
ただの手鏡ではないか。何を怯えているのだろう。
途轍もなく嫌な予感がするので表面を見たいとは思わないが、裏返しのまま人目のつく場所に移動させるとか、そういった解決方法はいくらでもある。
触るだけ。ちょっと触るだけだ――。
そう言い聞かせ、真陽は手鏡をちょいっと持ち上げた。
「…………」
いやいや、至って普通の手鏡じゃないか。
この前テレビを付けたらたまたまやっていたホラー番組の衝撃的なシーンが頭を過る。
鏡を覗いたら黒髪ロングの女性が手を伸ばし、そのまま男を連れ去り――。
「……アホらしい。ただの鏡っすよね?」
何も起こらないことに安堵し、真陽は好奇心から鏡面を覗いた。
そこに映っていたのは真陽ではなく、スーツ姿の男だった。
「うぎゃああああああ!! 出たぁあああああああ!!」
真陽は思い切り手鏡を床に叩きつける。
パリィという大きな音と共に、ガラスが粉々に砕け散った。
「私、ホラーとか無理っす! すぐに帰らせてもらうっす!」
いくら社長からの頼みとはいえ、こんな曰く付き物件と知っていれば断っていただろう。
真陽はターボババアにも引けを取らない脚力の持ち主だが、ホラーと名の付くものが大の苦手だった。
ホラーの恐怖とは得体の知れなさ――だけではない。
誰かが自分を怖がらせようとしている。
ホラーとは人間自身が生み出したものであるということが、真陽を最も怯えさせていた。
「お疲れ様でした!」
「ちょっと待ってください!」
真陽が裸足になってアパートから逃げ出そうとしたその時、背後から呼び止めるような声がした。
しかし、声はすれども姿は見えず。
薄気味悪いものを感じつつも、出処を探してしまうのが人間というもの。
キョロキョロ見渡すと――部屋の窓ガラスに映る男と目が遭った。
ニコリ、と男が微笑む。
「うおぉおおおおおおおおお!!」
「すみません、怪しい者じゃありません! 話を聞いてください!」
危うく拳でアパートの窓ガラスを割って器物損壊罪の一線を越えようとする真陽だったが、男の必死な呼びかけにより何とか思い留まる。
窓ガラスに映る男をよく見ると、整った顔立ちをしたサラリーマン風の好青年といった容貌をしていた。
先程まで手鏡に映っていた男とも同一だろう。どうやら鏡から鏡に移動することの出来る能力者のようだ。
「……心臓に悪いからやめろっす。出来れば直接会って話がしたいっすよ」
「諸般の事情により、このような姿でしかお目見え出来ない無礼をお許しください。
けれど、これは貴方にも得のある話です」
身振り手振りを交えながら、鏡に映る男は礼儀正しく言葉を続ける。
何だか既視感を覚える青年だが、比較してこちらはまともそうに見える。
――胡散臭さが無いのだろう。代わりに薄気味悪さを感じるのでどっこいどっこいだが。
「私は鏡助と申します。以後お見知りおきを」
軽く自己紹介を交わして、彼――鏡助は本題に移る。
「山乃端一人を助けてください」
そう言って、彼は頭を下げる。
あまりにフラットな声色で言われたので理解が遅れたが、それは穏やかではない頼みだった。
「それって……この、お前が映ってる部屋の住人のことっすか?」
「そうです。山乃端一人は今でもここに住んでいます」
それは真陽にとって思わぬ収穫だった。
確かに彼の言うことに耳を傾けていれば、山乃端一人の所在を掴むことも出来るかもしれない。
鏡に映る相手と会話するのは横から見るとシュールだろうな、と真陽は不意に思った。
「貴方のことはよく知っています。
山乃端一人が背負っている借金100億円、それを取り立てに来たのでしょう。
しかし時を同じくして彼女は命を狙われています。どうか、殺される前に救っていただけないでしょうか」
「ウチとしても借金を持ち逃げされて死なれるのは困るっすね。親族や連帯保証人に返せる額とも思えないっす」
取り立て相手は決して敵ではない。
少なくとも借金の返済が終わるまでは、大事な顧客であり守るべき対象でもある。
真陽はそう考えているし、同じ会社の仲間たちもそのように考えるだろう。
――選択肢は初めから決まっていた。
「……それで、山乃端一人はどこに居るっすか? 姿が見えない相手は救えないっす」
「あぁ……! ありがとう、私の目に狂いは無かった……!
私は見ての通り、鏡に生きる者。鏡を通じて世界を俯瞰することが出来ます。
――彼女は今、御徒町に居るようですね」
意図も簡単に所在を明らかにした彼に驚きつつ、真陽はスマホを取り出しここから目的地までの距離を調べる。
自動車用の道を調べると、一番近いルートで14kmほど。
――真陽が能力を使って全速力で走った場合、平均時速200kmと仮定しておよそ5分以内に目的地に到着出来る計算だ。
既に命を狙われそうになっていても助けられるだろう。
事情が事情だけに、一刻を争うかもしれない。
「お前の頼み、確かに私が引き受けたっす。
ただし、あくまで守るのは山乃端一人だけ。お前のメリットは何も無いけど良いっすか?」
「構いません。私は山乃端一人を救いたい――それだけで十分です」
それがどういう理由の発言だったのか、真陽はそれ以上追求しなかった。
ただ――漫然とした薄気味悪さだけが、消えない。
あの手鏡を見たときから感じる嫌な予感の正体は、一体何なのだろう。
真陽がクラウチングスタートを決める直前、振り返ることもなく鏡助に告げる。
「……出来れば、二度と私の前に現れないで欲しいっす」
「善処いたします」
真陽と鏡助――似て非なる正義が、それぞれ行動を開始する。
*
『愛莉、お前今日から学校来なくていいぞ』
電話越しに担任教師の声が響く。
徳田愛莉はそれを聞いて一瞬だけ戸惑い、しかしすぐに合点がいった。
決して愛莉が学校で大きな問題をやらかし停学処分を下されたわけではない。
『インフルエンザ感染拡大防止のため、しばらくの休校が決まった。
その間の課題は追って伝えるが、休みだからって浮かれずに自宅で大人しくしておけよ』
教師はそれだけ伝えると、一方的に電話を切った。
流行り病のインフルエンザ蔓延により、姫代学園の生徒は暇を抱えることになってしまった。
ルート666の襲撃、愛莉の魔人能力の目覚め、一途恋との別れ――あまりにも多くのことがありすぎたあの日から、2ヶ月が過ぎた。
一時期は学園の敷地外に出るたび報道取材を受けていた愛莉だったが、しばらく事件の進展が無いことからそれも落ち着いた。
愛莉は恋から正義を受け継ぎ、誰かの命を守るために日々勉強を続けている。
まるで彼女の代わりとなるように。クラスに欠けた委員長という役割を愛莉が引き受けている。
今までの素行からクラスメイトからは疑いの目を向けられたが、愛莉は与えられた責務を卒なくこなすようになっていた。
強い心を手に入れたから――だけではない。
無限にも等しい時間を手に入れたから――だけではない。
その両方が合わさることで、今の愛莉は誰よりも正しく居られるようになっていた。
「おかえりなさい、愛莉。……今日は学校じゃなかったの?」
それと、もうひとつ。
愛莉にきっかけを与えた、命の恩人。
一途恋の意志を継いだ愛莉の精神的存在――助手ロボットも心の支えになっていた。
愛莉の特殊能力は10畳のスペースにラボを設営し、そこで作業を行うことが出来る。
そこには開発のための道具一式が揃っており、住居スペースとしての機能性もそれなりにある。
何よりも『外界より時間がゆっくり流れる』という特性を勉強や睡眠に利用していた。
ラボで60時間過ごしても、外界では1時間しか経っていない――。
現代において最も重宝される能力、時間的アドバンテージはとても大きいものだった。
「レン、学校はしばらくお休みみたいだ。あたしはここで勉強を続けるよ」
そう言って、愛莉は薬学や生物学の本を机中に広げる。
いつまでも彼女を助手ロボットと呼ぶのは嫌だったので、愛莉は彼女にレンという名前を与えた。
彼女のオリジナルである一途恋から取った愛称である。
レンは愛莉の能力から生まれた精神的存在でありロボットだが、その活動範囲は人間と遜色ないものだった。
ラボの外に出ることも出来るし、食事や睡眠を摂ることも出来る。
自らの考えで動き、考え、感じることも出来る。
あくまで「愛莉がトレースした一途恋」という域を出ないものの、愛莉の良きパートナーとなっていた。
「ところで愛莉、あなたにお客様が来てたわよ」
「え……?」
そう言って彼女は黒いフレームのスタンドミラーを指差す。
これはラボに最初から備え付けられていたものだが――愛莉はそれを覗き込む。
そこに映っているのは愛莉ではなく、スーツ姿の男だった。
「悪霊退散!!」
「うわぁ、すみません! 決して怪しい者ではありません!!」
危うく愛莉は謹製のナイフ――通称『Dirty☆Dagger』で姿見を粉々に砕くところだったが、男の必死な呼びかけにより何とか思い留まる。
よく見ると彼は鏡の内側に生きている、魔人能力者のようだった。
ラボに来客があったのは初めてのことで驚いたが、レンが通したのであれば話ぐらいは聞いてもいいだろう。
「私は鏡助と申します。以後お見知りおきを」
そう言って、鏡助は鏡の中で頭を下げた。
その光景はまるでスクリーン上でしか動けないバーチャルな存在を思わせる。
「それで、要件は何だ? 遂に天才マッドサイエンティストであるあたしに依頼が――」
「山乃端一人を助けてください」
「……依頼?」
あまりにもサラッと言われたので一瞬反応が遅れたが、それは確かに依頼だった。
しかし全貌が見えてこない。男の目的も理由も不明だ。
「その、緊迫した状況なのは分かったけど、色々整理させてくれ。
――まず、山乃端一人とは誰だ?」
「不幸になる運命を背負わされているだけの、ただの一般女性です。命を狙われる理由なんてありません」
「どうしてお前がそれを知っている?」
「私は様々な世界を旅して、山乃端一人が救われる世界を探しています。
彼女が救われることだけが、私の望みです」
話を聞けば聞くほど分からなくなってくる。
どうやら彼はただの魔人ではなく、世界を渡るほどの実力を持つ者らしい。
そして何故か山乃端一人という存在に執着している――。
「最後の質問だ。どうしてそれをあたしに頼んだ?」
「彼女は命を狙われています。その相手は貴方もよく知っているはず。
――滅亡協会、彼らです」
「滅亡協会……!? 委員長を殺したあいつらが……!」
その言葉を聞いて、一気に正義の心に火が付いた。
滅亡協会――それはルート666が所属していた組織の名前である。
狙われていたのは恋ではなく愛莉の方だが、目的のためならどんな犠牲すら厭わないという印象が強い。
彼らはあの事件以降、表立って報道されることは無く、存在の足取りすら掴めていなかった。
その名前を今になって聞くことになるとは、なるほど鏡助が自分に依頼するのも納得出来る。
「これ以上犠牲を増やす前に――止めないと」
「はい。彼らを一番憎んでいるのは貴方だと思いまして、こうして依頼を持ってきた次第です」
果たしてルート666との再会となるのか、あるいは別の蛇が出てくるか――。
いずれにせよ、その名前を聞いた以上引き下がるわけにはいかない。
――誰かの命を守ること。
それが愛莉の持つ正義だ。
「分かった。その頼み、あたしが引き受けるよ」
「あぁ……! ありがとう、私の目に狂いは無かった……!
私は見ての通り、鏡に生きる者。鏡を通じて世界を俯瞰することが出来ます。
――彼女は今、御徒町に居るようですね」
おっと意外にも遠い。
愛莉の能力はあくまでラボに籠もることに特化したものであるため、移動にかかる時間を短縮することは出来ない。
今から向かっても電車で1時間以上はかかるだろう。
「……1時間、耐えてくれるかな」
言いながら悠長な考えであると自覚する。
やはり今回も時間だけが足りないのか――。
そう諦めかけたその時、鏡助が大きな助け船を出した。
「ここには等身大サイズの鏡があるようなので、貴方には鏡渡りの力を授けましょう」
「鏡渡り……?」
「貴方は鏡の国のアリスという童話をご存知ですか?
鏡を通り抜けて、世界を渡る話です。
一度鏡の内側に入って目的地の鏡から出る――それが鏡渡りの力です」
にわかには信じがたい力だが、こうして鏡の内側から話が出来る以上嘘ではないのだろう。
山乃端一人を救うため、彼も本気で協力してくれるらしい。
「既に鏡は繋げておきました。準備が出来たら飛び込んでください」
「飛び込むって……これに?」
姿見に特に変化は無い。
鏡に手足を入れるなんて、正気を疑う行為だ。
試しに謹製ナイフを差し込んでみると、それはガラスを傷付けることなくズブズブと沈んでいく。
慌てて引き抜くが、ナイフは原型を保っていた。
「何これキモい」
常識を捻じ曲げるタイプの力にはまだ慣れない。
鏡は鏡だという認識を捨てなければ、この先には進めないようだ。
「……ちょっと待って。荷物まとめる」
最低限の武器を白衣のポケットに詰め込んでいく。
ナイフと銃器、念の為発煙グレネードも持っていこう。
警察に見つかれば自衛用では済まされない立派な銃刀法違反だが、相手は凶悪な組織。
それもルート666のような魔人能力を持っている可能性が高い。十分に用心する必要があるだろう。
それ以外のものはラボに置いていく。
現地で安全な場所に設置すれば武器の補充も出来るので、手荷物が最低限で済むのも能力の利点だった。
「いってらっしゃい、愛莉。気をつけてね」
そしてレンに見送られながら、意を決して愛莉は鏡の中へと飛び込んだ。
*
鏡の向こう側には確かに世界があった。
どこまでも続く、白い世界。
空間の至るところにスクリーンが設置され、様々な場所に通じている。
そして鏡に映っていない鏡助とも初めての対面となる。
特に先程までの姿から変わった点は無いのだが何となく、テレビの芸能人と直接会ったような新鮮みがあった。
「ここが……鏡の世界……」
「はい。――ですが、ここは本来貴方が居るべき世界ではありません。
さぁこちらへ。こうしている間にも、山乃端一人は命を狙われています」
物珍しさから辺りをキョロキョロと見渡す愛莉を急かすように、鏡助は手を引いて目的地の鏡へと誘導した。
「ここに飛び込めば御徒町に出ます。
どうか、お気をつけて」
今度は鏡助に見送られながら、もう一度鏡の中へと飛び込んだ。
*
人が、車が、都会の街並みが、愛莉の目や耳に押し寄せる。
――本当に一瞬で都心まで移動してしまったらしい。
ふと振り返って見るが、そこにはコンビニの窓ガラスがあるだけで鏡助の姿は無かった。
「……来ちまったな。御徒町」
開放感から、少しだけ表情が明るくなる。
ここに滅亡協会の刺客が潜んでいるため、油断は出来ないが。
「――って、何だありゃ」
敵との接触までは時間がかかるかと思っていたが、異変はすぐに見つかった。
何かが街中を高速で移動している。
目で追えるギリギリの速度で何かが道路を横切るのが見えた。
それも車やバイクではない。――ただの人間が、常人ではあり得ない速さで移動している。
「……あれか。山乃端一人を狙ってるやつ!」
すぐに愛莉はそれを追いかけようと、走り出す。
追いつける気はしなかったが、彼についていけば山乃端一人も見つかるだろうという確信があったから。
彼は交差点を抜けると、すぐに人気のない路地裏へと入り込んだ。
まるで誘い込まれているような所作だが――戦いになるなら、むしろ好都合だ。
息を切らしながら愛莉は路地裏に駆け込むと、即座に銃を引き抜く。
見つけ次第先制の一発をくれてやろう。そう意気込みながら。
彼は――彼女は逃げも隠れもしていなかった。
ビルの合間の影に潜むようにして、銃口に反射する光だけが愛莉を正確に狙っている。
「お前が山乃端一人を狙う者っすか?
随分と幼い身なりっすね」
それは飾り気のないトレンチコートを身に纏った女性だった。
しかし現代日本において銃を所持していること、それで狙いを付けているということから、ただの素人ではないだろう。
そして彼女は有無を言わさず疑いをかけていた。
自分が山乃端一人を狙う者かと――
「……え? 今なんて?」
「いや、山乃端一人を――あれ、もしかして人違いだったっすか?」
愛莉がゆっくりと銃口を下げるのを見て、彼女も同じように銃口を下げた。
――どうやら、彼女も愛莉と同じ立場だったらしい。
「いきなり私をつけてくるから敵かと思ったっすよ。
――それで、君はそんな物騒なもので何をするつもりだったっすか?」
それはそれ、と言うように。
依然として銃を手にしたまま、彼女は質問を続ける。
一足先に状況を理解していた愛莉は彼女を刺激しないよう、冷静に答えた。
「あたしは徳田愛莉。見ての通り、天才マッドサイエンティストだ。
鏡助という男に頼まれて山乃端一人を救おうとしている。
――たぶん、あなたと同じように」
敵意が無いことを示すため、銃器を白衣のポケットにしまい込む。
その意図が伝わったのか、彼女もトレンチコートの中に銃をしまい込んだ。
そして、どちらともなく笑顔で手を差し伸べる。
「私は有間真陽。今井商事で取り立て業を営んでいる社会人っすよ。
愛莉ちゃんって言うんすね。よろしくお願いするっす」
鏡写しの正義、鏡写しの目的。
本来出会うはずのない者同士。
――東京にふたりの正義、集う。