1.『喧嘩上等』


 夜、午後11時過ぎ。『金』の時間。
 仙道 ソウスケ――《自浄する藍》との戦いを終えて、私、山乃端 一人と、望月 餅子は、手を繋いで歩き続ける。

 体が重い。精神はもう少し力が込められればぽきりと折れてしまいそうだ。
 それでも、一つの山を乗り越えた達成感が、私たちの脚を動かしていた。

 餅子は半歩、私の前を歩く。
 その歩幅は私よりも少し大きくて、時折私が小走りになったり、餅子が気付いて少し足を止めたりする。

 初めて餅子と出会った頃も、いつもこんな調子だった。
 ひとりぼっちだった私を、餅子があちこちへ連れまわし、色々な遊びにつきあわせた。
 彼女が、私を、新しい世界へと繋いでくれる扉だった。

 餅子は疲れ知らずで、信じられないようなバイタリティで、私を連れまわして、子どもの私ですら、追いつくのが精一杯だった。

 あの頃と同じように私の手を引く彼女の背中。
 その肩は、大きく上下して、息の深さと、餅子自身の疲労を示していた。

 餅子も、疲れるのだ。
 そんな当たり前のことに、私は少しだけ、安心してしまった。

 小さい頃の餅子は、本当に、体力という概念がないんじゃないかと思うほど、無限に動き回っていて、眠たそうだったりするところさえ、見たことがなかったから。

 住宅街の細い路地を抜け、大通りを越えて、雑然としたネオンの繁華街を進む。
 池袋駅の北口まで、もう少しというところ。
 妙に中華風の派手な飲み屋が並ぶ細い道で、餅子がふいに足を止めた。

「どうし……」
「後ろに。ひーちゃん」

 有無を言わせぬ口調。
 餅子の声は、明らかな臨戦態勢のそれだった。

 餅子の手を離し、後ろに下がって、彼女の背中ごしに前を見る。
 そこには、手を伸ばせば届きそうな距離に、巨躯の男が立っていた。

 いや、違う。
 疲労と脱力で麻痺していた脳の記憶が、一瞬のラグの後に正確な情報を処理する。

 男が立っているのは、10mほどの距離だ。
 近くにいると錯覚した理由は2つ。

 1つは、純然たる男の巨体。周囲の建物との比較でいえば、3mはあるだろうか。
 均整の取れた体格に、その巨大なサイズを脳が誤認し、遠近感が狂わされたのだ。

 そしてもう1つは、男の持つ、圧倒的な威圧感だ。
 腕を動かせば、その瞬間に握りつぶされているだろう、そんな確信が、10mの距離ですら、ないも同然の脅威として、印象付けられたのである。

 隆々とした筋肉が、比較的身体の線が出にくいワークパンツにレザージャケットという服装越しになお一目でわかる。
 人の美を体現したギリシャ彫刻というよりは、超越した現象の具現としての護法像に近い印象の、逸脱した肉体造型だった。

「よう、最強(オレ)だが。自己紹介は、必要かい?」

 その、巨大で太い体躯に相応しい、太い声で、男は呼びかけてきた。
 まったく敵意はなく、むしろ親しみすら感じさせる口調が、かえって不気味だった。

「いいえ。有名人だもの、あなた」

 私は、こいつを知っている。

 通称(コードネーム)群青日和(ぐんじょうびより)』。
 東京の裏社会において、『新宿の吸血姫』と並んで伝説となっている戦闘狂。
 曰く、この二十年間で、百人以上の被害を出した暴力抗争には必ず関係していたとか。
 曰く、力試しのためだけに新幹線の試験走行線路に立ち入り、真正面から受け止めて粉砕したとか。
 曰く、警察が逮捕、拘留、殺害などの対処を諦め、『A級殺人鬼』という別枠扱いをされているのだとか。

 規格外の力を誇り、無関係な人間を殺すことはないが、自分の目的――全力の戦いのために、あらゆる犠牲を躊躇わない、生きる災害のような男。それが、『群青日和』である。

「そいつは光栄だ。それじゃあ、感激でもしてもらえたかい?」

 相手の目的は不明。
 明確なのは、ここで答えを誤り、彼の機嫌を損ねれば、私たちは、1分もせず殺されるということ。

「――『泣きたい気持ちは連なって冬に雨を齎している』ってトコかしら」

 だから、私の回答はすでに、戦いの一手だった。
 男のコードネームは、彼が好きな歌のタイトルだという。
 今の言葉には、その詞を織り込んである。彼の気を引き、会話を長引かせて状況を把握するための情報を引き出そうという、戦術とも言えないような悪あがき。

 『群青日和』は、私の回答に、目を見開くと、ぱあっと破顔した。
 まるで無邪気な子どものような笑顔。
 悪あがきは、何とか功を奏したようだ。

「いや、こいつはまいった。単に『強敵』を引き寄せる撒き餌くらいに思ってみりゃあ、本人もなかなかどうして、芯のあるお嬢ちゃんじゃねえか」
「それはどうも」

 東京の各所に現れる《獄魔》の兆候を調べるため、この街の裏社会のことについては色々と調べてきた。それが、まさかこんな形で生きてくるとは。

 ともかく、友好的な反応は引き出した。
 これで、即戦闘が始まる可能性は低くなっただろう。
 暴れる心臓を押さえつけ、深呼吸をして、私は『群青日和』に問いかけた。

「それで、『裏社会の軍神』が、私みたいなただの女子高生に、なんのご用かしら?」
「ああ、それな」

 『群青日和』は満面の笑みを崩さぬまま、

最強(オレ)も、《獄魔》憑きだ」

 凄絶な殺気を放出した。

 甘かった。

 現代日本人には、暴力、特に致命に至る殺害行為に対するリミッターがある。
 それは、本能に根ざした同族食らいの禁忌に、社会的、教育的な倫理が上乗せされて作られた多重拘束。それを突破するのに、最も一般的なのは、負の激情と大義である。

 初対面の『群青日和』に、山乃端 一人を殺す大義はないはずだ。
 だから、好みの曲についての会話で友好的な感情を引き出した時点で、安全であると油断した。
 だが、この男が《獄魔》憑きであれば、話が違う。

 《獄魔》には、先天的に、私を殺す理由がある。

 ――本当に?

 電柱のように太い腕から繰り出される拳が迫る。
 死の象徴。圧倒的な暴力。いや、天災めいた蹂躙。

 それに私は死を覚悟し――

 瞬間、世界が、合わせ鏡めいて重なり、歪み、二つの人影が、私たちを守るように『群青日和』の間に立ちふさがった。

 1人は、白い華美なスーツの伊達男。
 1人は、フード付きのコートに、身体のあちらこちらを包帯で巻き、目元はサングラスで隠した、肌の露出の一片もない、身体の起伏からかろうじて性別が判断できる女性。

 『群青日和』の足元には、威嚇するように、何本かのナイフが突き立てられていた。

 突然の乱入者。
 それが、つい先ほどまで共闘した、山乃端 万魔や山居 ジャック、怪人ウスッペラ―ドと同様の『援軍』であると、私はなぜか、直感した。

 対して、『群青日和』は、ワークパンツのポケットに両の手を突っ込んだままだった。

「ひーちゃん。落ち着いて。殺気を当てられただけです。アレは、微動だにしていません」

 餅子が、スコップを構えて、私を庇うように立つ。

「――『15点』『5点』『10点』『1点』ってところか」

 白スーツの男、フード付きのコート女、餅子、私を順に見て、『群青日和』は値踏みするように口にした。

「戯言を。戦う気がないなら、道を空けるがいい、戦鬼」

 白スーツの言葉に対して、『群青日和』は、素直に道の脇に寄った。

「いい見切りだよ、伊達男。今日は、ただの宣戦布告さ。
 山乃端 一人。2週間後、この区画――池袋チャイナタウンで()ろう」

 妙な話だった。
 私を殺すことが目的ならば、ここで戦いを始めるべきだ。
 それだけの時間を置いて、私や餅子が体力の体力回復と、彼への対策期間を取らせるメリットが、『群青日和』にはない。

最強(オレ)の中に間借りしてる《灰羽の雄梟(グレイ・パラディオン)》とやらは、お嬢ちゃんの殺害が目的らしいがな。最強(オレ)の知ったことじゃない」

 私の疑問を読み取ったように、『群青日和』は笑った。

最強(オレ)の目的は、強者と戦うこと。お嬢ちゃんを殺そうとすれば、それを守ろうとする強者が現れる。仙道 ソウスケが実証してくれた。お嬢ちゃんと、そこのスコップ小僧も、万全だったら、そこそこ愉快な戦いができそうだ。なら、最強(オレ)は、『据え膳の完成を待って』いるだけでいい」

 自分に憑いている《獄魔》と対話して、支配権を完全に奪っている?
 その上で、完全な自由意志として、私を餌に、強者と戦う?

 これまでの《獄魔》憑きとはまったく違う行動原理だった。
 だが、それは幸いという他ない。
 今の私たちには、回復と、情報整理の時間が何より必要だ。

「時間はそっちが指定して構わねえ。グッスリ休んでバッチリ起きて、最高のコンディションで挑んでこい」

 人懐っこい笑顔で、『群青日和』は、山乃端 一人に、死への秒読みを宣言した。





2.『正解(裏)』



 午前5時26分。『黄』の時間。

 朝焼けが雪の積もった地面を照らす。
 冷たいアスファルトに、私は倒れ伏していた。

 戦いにすらならなかった。
 ただ、私は、『群青日和』の巻き起こした闘争の巻き添えを受けただけ。

 《獄魔》と封印者の戦いとしてではない。
 ただ、呼吸をするような彼の暴力的な日常に、近づいただけで力尽きただけのこと。

 これが『群青日和』。

 『灰』の獄魔《灰羽の雄梟(グレイ・パラディオン)》の《獄魔》憑き。

 人の形をした、人ではない暴力機構。
 時代が時代ならば、鬼、あるいは、神の類とされていたもの。
 野見宿禰や坂田金時、そんな英傑に比類する、人の種の外れ値。

「――おい、『群青』の」

 血に染まる雪景色。
 座り込んで煙草をくゆらせる『群青日和』の前に、女が姿を現した。

 女は、怒っていた。
 この闘争を起こした二つの組織、どちらにも属していない私が倒れているのを見て、眉を釣りあげていた。

「闘争したくない奴を巻き込むのは違うだろうが!!」

 デカい。あまりにもデカい声。そしてよく響く声。

「そいつは悪いことをした。配慮はしたんだがなあ。完璧にはいかないもんだ」

 『群青日和』は、愉快そうに笑う。

「お嬢ちゃん、名前は?」
「――喧嘩屋。我道 蘭
「――最強(オレ)だ。自己紹介は、必要かい?」

 そして、殴り合いが始まった。
 一秒ごとに力が失われていく肉体。
 なんて皮肉だ。

 今、『群青日和』と戦っているのは、『赤』の獄魔、《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》の《獄魔》憑き。
 この2人が戦っているならば、消耗した二柱を封印する好機だというのに。

(『逢魔刻(クライベイビークライ)』が命じる。黄泉の坂転げ落ちるもの、浸透する美、尊厳なき死に至る毒――)

 せめてもの悪あがき。
 消えていく命の灯に鞭打って、銀時計に封じられた力を行使する。

(《Ⅴ-憑黄泉の美姫(クリーピング・ビューティ)》)

 彼の《獄魔》が行使するのは、魅了の権能。
 物理的にあの2人に勝利する手を、山乃端 一人は持ち合わせていない。
 ならば、精神操作であれば、どうか。

 権能は確かに発動した。その手ごたえはあった。

 だが、2人の闘争は止まらない。
 きっと、あの2人は、何よりも、闘争それ自体に、心を奪われているから。

 もう打つ手なし。
 救いがあるならば、《獄魔》憑きのはずの女が、私の犠牲を悼んでくれたことだろうか。

 そして――私は踏み出した。
 どこへも辿りつけないない、行き止まり(デッドエンド)へと。

 山乃端 一人の人生の終わり。
 飢え乾いて希う者たちの、愚者の巡礼の、始まりへと。



  •  ◆ ・ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



『本日未明都内某所で希望崎学園に通う山乃端一人さんが遺体で発見されました、警察は殺人事件と見て調査を続ける方針です、続きまして都内広がる不審な噂がなんでもタロットカードが……』


支配時間 名称 司る色 権能
0時(と12時) 『白』
1時(と13時) 《I-漆黒の人形(エヴォン・ドールズ) 『黒』
2時(と14時) 《Ⅱ-灰羽の雄梟(グレイ・パラディオン) 『灰』
3時(と15時) 《Ⅲ-血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー) 『赤』 物理攻撃
4時(と16時)
5時(と17時) 《Ⅴ-憑黄泉の美姫(クリーピング・ビューティ) 『黄』 魅了
6時(と18時) 《Ⅵ-蘇生する緑(グリーン・フィンガー) 『緑』 植物操作
7時(と19時) 《Ⅶ-渇き飢える青(ディープ・ブルー) 『青』 水分制御
8時(と20時) 《Ⅷ-自浄する藍(インディゴ・パニッシュメント) 『藍』
9時(と21時) 《Ⅸ-彷徨する紫煙(パープル・ヘイズ) 『紫』 所有物引寄
10時(と22時) 《Ⅹ-銀鉄の巨塔(メタリック・バベル) 『銀』 金属操作
11時(と23時) 《Ⅺ-黄金の欲望(ミダス・デザイア) 『金』 性質強化





3.『玉座の罠』



「つまり、ジョン・ドゥさんと、クリープさんは、並行世界の『山乃端 一人』を依り代とした存在で、私を守るためにこの世界に写し身が召喚されて、今は私を依り代にしている……と?」
「ええ、おおむねその理解で間違いないかと」
「依り代がこのような小娘とは業腹だがな」
「……は?」
「はっはっは、ひーちゃんステイです! かぶってた猫が3枚くらいはげ落ちかけてますよ!」

 仙道 ソウスケ――十番目の《獄魔》、《自浄する藍》との戦いから一夜明けた翌日。
 私は池袋で合流した2人と情報交換をしていた。

 最悪の夢見の後にも関わらず、なぜかいちいち突っかかってくる白スーツをそれなりに大人の対応でいなした私は、もはや聖人認定を受けてもいいと思う。

 白スーツの優男の名は、ジョン・ドゥ。
 露出ゼロのフードコートの女性の名は、クリープ。
 2人とも並行世界の山乃端 一人の縁者であるらしい。

 彼らは、元の世界の山乃端 一人を助ける援軍を得ることを目的に、別の世界の山乃端 一人(私のことだ)を助けるという取引に応じた、魔人の鏡像なのだという。

 山乃端 万魔や山居 ジャック、ウスッペラ―ドのことを話したところ、それも同じ契約に応じた魔人たちだろうと、ジョンは答えた。

「昨日の3人はそのあたりをほとんど教えてくれなかったけど」
「契約者は俺に『私のことを山乃端 一人に話すな』と言った。ならば、俺は奴の名と素性は話さぬ。だが、経緯まで話さないのは、奴に忖度しすぎというものだろう」
「……それは都合よく解釈しすぎじゃない?」
「そこの小娘は古典を知らぬとみえる。俺は悪魔だ。悪魔とは契約を都合よく解釈することが性よ」

 はい来た、また気障な挑発!

 ……本当にコイツは、私を守る依頼を受けてきたのだろうか。
 私を守りきることが目的なら、こちらをイライラさせるのに意味などないと思うのだが。

「安心しろ。明示された契約の遵守も悪魔の矜持。後ろで黙って震えていれば、小娘ひとり、守ってはやるさ」

 深呼吸。OK、煽りはスルーが第一。
 それよりも、今は情報を整理するべきだ。何しろこちらは命がかかっているのだから。

 並行世界からの守り手。
 私を守れという、依頼者。

 にわかには信じられないが、毎夜のように並行世界の死の記憶を見せられている以上、そういうこともあるのだろうと思わざるを得なかった。

 何より、私が彼らを信じようと思ったのは、彼らの説明した事情が、昨日の3人の言動、行動を思い返したとき、しっくりきたからだ。

 ――たとえば、ある「呪い」を受けた女の子がいるとする。
 ――その子が死んだら暴発する、爆弾みたいな「呪い」だ。

 ――家族が、とても、ヒットリさんとそっくりなんです。だから、放っテ、おけマセン。

 ――望月 餅子。こっちの『山乃端 一人』は、頼んだよ。

 彼らにはそれぞれ、守りたい『山乃端 一人』がいて、そのために戦っていたのだ。

「信用してくださるのですか。ありがたいですが……よろしいのです?」

 クリープの言葉に私は頷いた。

 もしも、昨日までの自分だったら、彼らを疑っていただろう。

 ひとりで戦い、ひとりで死ぬ。
 そう、覚悟を決めていた。
 助力など、考えてもいなかった。

 けれど、餅子に助けられ、山乃端 万魔に、山居 ジャックに、ウスッペラ―ドに支えられた。それで、今、私は生き延びている。
 それが、目の前の2人を受け入れている理由だった。

 昔と同じだ。餅子に手を引かれて、新しい関係に繋がれた。

「……完全な善意を信じるほどお人よしじゃないわ。けれど、私を殺すことが目的ならば、幾らでもやりようがあったし。他に目的があったとしても、命よりは安いでしょ。借りにしてもらって構わないわ。後日、出世払いで確かに返すから」
「賢明な判断かと」
「はっ。浅慮と英断はいつも似た形をするものだ」
「はい! ご機嫌斜めのひーちゃんの口に、あたしとっておきのイチゴ大福をシュート! ジョン・ドゥさんはちょっぴり言葉の棘を巣鴨で抜いていただきたく!」

 ……口いっぱいに広がる甘酸っぱさに免じて、怒りをひっこめる。
 というか、餅子。あんたの力でシュートされると、大福も凶器なのだけど。
 呼吸とかかなりデンジャラスがヤバかったのですが。

「ということで! 能力の共有から始めてはどうかとこのひーちゃんの『最強』幼馴染、望月 餅子は提案いたします! 敵を知り、己を知れば100万パワー! 味方3人を知れば+100万パワー+100万パワー+100万パワーで400万パワー! そこにいつもの2倍のジャンプと3倍の回転を加えればあの金剛力士マッチョを上回る3600万パワーです!」

 とりあえずわかるのは、餅子が計算が苦手なことだけだが、能力の共有には賛成だ。
 その提案に従い、私たちは、それぞれの能力と、身体能力について情報を交換した。

 私、山乃端 一人の『逢魔刻(クライベイビークライ)』。
 餅子の『もちもちぺたぺた肌』(こんな名前だったのか。初めて聞いた。小さいころ、餅子のほっぺたを触って、そんなような事を私が言った気もする。まさかそれが魔人能力になるとは)。
 ジョン・ドゥの『大侯爵』。

 そして、順番は謎の女性、クリープへと回った。
 彼女は小さく頷くと、包帯に隠された口を開く。

「……私の能力は――『浸透する美姫(クリーピング・ビューティ)』。私の姿を――生身の一部でも視覚的に捉えた者を魅了し、廃人に至らしめる、制御不能、永続の異能」

 なるほど。
 姿を見たものを魅了し、精神崩壊をもたらす制御不明の能力。
 彼女の恰好は、その暴発を物理的に防ぐための、鞘のようなものだったのだ。

 だが――問題は、その名前だ。

 クリーピング・ビューティと、彼女は口にした。
 私はその名前を、知っている。

 銀時計を掴んでいた指に力がこもる。

 《Ⅴ-憑黄泉の美姫(クリーピング・ビューティ)》。
 『黄』の時間を司る、人であれ品であれ傾城の美を巡り起こる闘争の具象。

 偶然の一致であるはずがない。
 つまり、クリープと名乗る、この女性は――

「ええ。私は、こことは違う世界線の山乃端 一人お嬢様にお仕えする、デミ・ゴッドの一柱、そのものでございます」

 嫣然とした声だけで、彼女が全てを魅了する笑顔を浮かべていることが、私には理解できてしまった。

 《獄魔(デミ・ゴッド)》。

 山乃端 一人の命を奪うもの。
 全て封じて、取引することが、私の生存の唯一の道であるもの。
 その一柱、しかも、すでに銀時計に封じた《Ⅴ-憑黄泉の美姫(クリーピング・ビューティ)》の、並行世界の存在が、私を救いに来た。
 しかも、元の世界では、私を、「お嬢様」と呼んでいたということか。

 私を確実に殺すことよりも強敵との戦いを選んだ『群青日和』のように、《獄魔》に憑かれたものが、その支配を乗り越えて自分の意志を貫いたのならば理解できる。
 けれど、《獄魔》本体が、山乃端 一人に協力的であることなど、ありえるのだろうか?

 思考が混乱する。そういう可能性も当然にあるはすだという理性と、これまで自分を固くしてきた覚悟の前提であったものが崩れるような感情とが、相克する。

「ひーちゃん……」

 気遣うような餅子の言葉にも、私はしばらく、返事ができなかった。

 白スーツの悪魔が、冷ややかな目で私を見ていた。



  •  ◆ ・ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 能力の共有を終えた後、餅子とクリープは、菓子を作ると言って、台所に立った。
 自分を守ってくれる相手に家事をさせるのも、と立とうとしたが、足が笑ってろくに立ち上がれず、結局私は、ジョン・ドゥと一緒に、部屋に残された。

 正直、気まずい。

 理由はわからないが、この白スーツ超絶美形悪魔は、なぜか私に当たりが強い。
 名前すら呼ばずに小娘扱い、口を開けば煽り100%。ぱっと見の印象ではもっと余裕のある大人の男性っぽかったのだが、私に対する言動だけ妙に刺々しい気がする。

 対して、餅子とクリープは、初対面のはずなので、台所で和やかに談笑している。
 まるで仲の良い姉妹のようだ。

 不思議な光景だ。

 クリープは語った。

 彼女の世界の『山乃端 一人』は、十二柱の《獄魔》を顕現させて、賑やかな家族のように暮らしていたこと。

 人にそれを厭われ、刺客を差し向けられて、今は、クリープひとりが、『山乃端 一人』の守り手であること。

 人ならざる存在でありながら、家事の類はその日常の中で身につけたこと。

「自分が不倶戴天の『敵』であると認識していた《獄魔(そんざい)》、その前提が覆って、戸惑っているというところか?」

 ジョン・ドゥが口を開いた。
 その言葉は、単なる煽りではなく――私の葛藤の核心を突いたものだった。

「……今さらそんな感傷に意味はないわ。私が考えてたのは、クリープの世界の『山乃端 一人』が、十二柱の《獄魔》の同時召喚をできていたってとこ」

 もう、こいつ相手には猫をかぶる必要はないと判断して、私はあえて、ぶっきらぼうに答えた。
 その反論は、ジョン・ドゥの図星の指摘を反らすためでもあったが、まったくの言い訳でもない。

 ――『15点』『5点』『10点』『1点』ってところか

 昨日の、『群青日和』の言葉。
 あれはおそらく、彼自身を基準とした採点だ。

 ジョン・ドゥが15。
 クリープが5。
 餅子が10。
 私が1。

 ならばそれは、一体何を基準としたものか?

 決まっている。『群青日和』自身だろう。
 彼を100としたときの、相対評価とするのが妥当なところか。

 もちろん、彼は、こちらの魔人能力を知らないはずだ。
 幾多の修羅場を経て見るだけで看破するに至った、純粋な殴り合いのみでの評価だろう。

 それにしても、4人揃って、『群青日和』の1/3程度。
 全く戦力が足りていない。

 そんな中で、クリープの発言は、私にとって一つの光明だった。
 《獄魔》同時召喚。喉から手が出るほどほしい、戦力増強の可能性だ。

 私の『逢魔刻(クライベイビークライ)』は、時間に対応した《獄魔》のみを、しかも、権能の一端を行使する形でしか使えない。
 それと比べて、クリープ世界の『山乃端 一人』のやっている事は、明らかに上位互換の召喚だ。

 並行世界とはいえ、私は私。霊的魔的資質に大きな差異はないはず。
 ならば、私も、何かのコツを掴むことで、『逢魔刻(クライベイビークライ)』の多重行使を行い、『群青日和』との差を埋めることができるのではないか?
 そんな期待を抱いていたのだ。

「――なるほど。それで、俺が呼ばれた(・・・・・・)か」

 ジョン・ドゥは、席を立つと、私に背を向けた。
 表情を隠すように。内にある感情を見せないようにするかのように。

「小娘。子どもとしての貴様の情動的な『《獄魔》が味方となりえた世界線への動揺』と、戦士としての貴様の打算的な『《獄魔》多重使役の可能性の探求』。
 その2つは、結局のところ、同じ話だ」

 聞き捨てならない話だった。
 そして何より、この悪魔の言葉は、私の深いところを、いともたやすく暴いてみせた。

「……どういうことよ」
「我が能力『大侯爵』は、配下たる悪魔の力を行使する能力だ。俺はかつて、支配下にあった66の軍団に所属する全ての悪魔の力を自在に操った。だが、今、とある契約の結果、俺は往時とは比べるべくもないほど弱くなり――それでもなお、四柱の悪魔の力を使えている。山乃端 一人よ。この四柱と、他の悪魔の違いは何だったと思う?」

 唐突なジョン・ドゥの過去語り。
 わけがわからない。
 これが、私の2つの疑問が1つの話だという点と、何の関係があるのだろう。

 それでも、私はジョン・ドゥの問いに頭を捻り、答えを絞り出した。

「……宗教的な起源(ルーツ)を同一とするもの、みたいな相性とか? あるいは、魔力容量(キャパシティ)に収まるまで、新しい順に術式が消去されて、結果残ったのがその4つだったとか……」
「理論的だな。そうやって手がかりのないところから手持ちの知識をよすがに推論を重ね、十柱の亜なる神を封じてきたわけだ」

 なんだろう。唐突に褒められた気がする。
 私のこういった深読み癖は、大抵戦闘中の自問自答で完結するので、人に聞かれて評価されるのは少しくすぐったい感じがした。

「だが、違う」

 ジョン・ドゥは、遥か遠くを見ながら、静かに言葉を紡ぐ。

「66の軍団の悪魔たちは、玉座にある俺の力と権威に、隷属していた。それが、ただの、個としての、玉座を降りた俺になったとき――全てを投げうって、他者から見れば取るに足らぬものを心から望んだとき――それでも、四柱の悪魔は、個としての俺を是として力を預けたのだ」

 簡潔な言葉。他人事のような断言。
 その背景にあるものを想像して、私は茶化すどころか、返事すらできなかった。

 凋落した王が、かつて従えてきたものから見捨てられる。
 それは、歴史上よく見聞きする話だ。
 だが、当人から聞くとなると、それは、淡々とした言葉ながら、確かな重さがあった。

「元より悪魔とは自由なものだ。66の軍団を恨む気は欠片もない。むしろ、今、名無しの悪魔(ジョン・ドゥ)が掲げる『大侯爵』という看板に、なおも四柱(サムシングフォー)が集っていることこそ、俺の誇りである」

 けれど、それが、私の疑問と何が関係あるのだろう。
 私が、敵だと思っていた《獄魔》を、味方として扱っていた並行世界にショックを受けたことと、多重召喚の可能性と――

 いや。待て。
 深呼吸をして、情報を整理する。

 『大侯爵』は、支配した悪魔の能力を行使する異能である。
 『逢魔刻(クライベイビークライ)』は、封印した《獄魔》の能力を行使する異能である。
 以上の点から、両者を、同質の能力であると仮定する。

 ジョン・ドゥは、弱体化後、「力で支配しただけの悪魔の力は使えなくなった」が、「個人として友好関係にあった悪魔の力は使い続けることができた」。

 つまり、能力の行使は、対象との関係性、絆の強さに比例して容易になる(・・・・・・・・・・・・・・)

 クリープ世界の山乃端 一人は「個人として友好関係にあった(家族同然に同居したほどだ)《獄魔》を、多重召喚することができた」。

 そして、私は――《獄魔》を、命を奪おうとする敵だと思ってきた。銀時計の力、『逢魔刻(クライベイビークライ)』は、「《獄魔》を支配する力」だと思っていた。

「――私の『逢魔刻(クライベイビークライ)』が、クリープさんの世界の山乃端 一人の下位互換なのは、私と《獄魔》が、敵対関係だから? 無理やりに、従えているから、ということ?」

 ジョン・ドゥは、即答しなかった。
 その間が、次に発される言葉の重みを、私に予感させた。

「なまじ、力があって支配できてしまうと、見落としてしまう。鎖に引きずられて隷属する者と、横で共に歩むものの区別さえつかなくなる。玉座の罠とは、厄介なものだ。座る者、かしずく者。いずれもその役割に縛り付けてしまう」
「……それ、説教?」
「聖書を読んだこともないか? 小娘。説いて教えるは宗教家の領分。悪魔が為すは、単に誘って惑わすのみよ」

 意図はわからないし、言い方は回りくどくて面倒臭い。
 だが、それでも、この、名無しの悪魔、かつての『大侯爵』は、私に助言をくれたのだ。

「ありがとうとは言っておくわ。これまでの煽りは許さないけど」
「たわけ。人に赦しを求めるような魂なら、元より悪魔になどなるか」

 ジョン・ドゥの軽口に背を押されて、私は台所に足を向けた。

 まだ、『群青日和』攻略の手がかりが掴めたわけではない。
 それでも、まず聞くべきことは決まった。

 クリープに尋ねるのだ。

 彼女の世界の『山乃端 一人』の家族として暮らしたものたち。
 十二柱の《獄魔》、それぞれが、どんな性格であったのかを。
 何を好み、何を嫌い、そして、何を願って、散っていったのかを。





4.『海底に巣くう男』



 雑居ビルの一室。
 天井の高い応接室と思われる場所で、そこに不似合いなほどラフな恰好の巨漢、『群青日和』が、ひとり、手にした巨大タブレットと向き合っていた。

您好(こんにちは)老板(だんな)最強(オレ)だ。どうだい、頼んでいた件。そうかい、7割か。上々だ」

「なるほど。池袋北口(あそこ)新華僑(わかもの)の街だと聞いていたが。短くても、人間土地に愛着は湧くもんだな。まあ、期限ぎりぎりまで頼むぜ。最強(オレ)の名を出してもいいが、できるだけ穏便にな」

「金に糸目は付けない。どうしてもだめなら……本人はダメでも、親類縁者に金が回るようにしてくれ。保険金でも見舞金でも、名目は任せる」

 特別製のタブレットで、3mの巨躯の男が細々とした事務処理と、通話での根回しを進めていく様は、『群青日和』の名声を知る者には奇妙に映る事だろう。

 強者を好み、強者との戦いを何よりも優先する戦闘狂。
 その評価に、間違いはない。
 だが、彼はその戦闘への執着と粗暴さに、知性と理性をも兼ね備えた獣だった。

 『群青日和』は、戦いのための犠牲を厭わない。
 自分を慕ってくる戦士たちとは、共に戦い、自分に挑む戦士たちとは、ことごとく相対し、そして全ての屍の上に立ってきた。

 だが、同時に、戦略的、戦術的な意味がない犠牲を極力減らそうとするのも、この男の一面だった。

 なぜなら、生き延びた命から、新しい戦士が生まれるかもしれない。
 自分を凌駕しうる兵器を作る知恵が磨かれるかもしれない。
 自分を追い詰める組織を率いるカリスマが育つかもしれない。

 そんな些細な可能性すら貪欲に求めるのが、『群青日和』である。

(非効率だ。今回はどんな理屈で、こんな無駄を正当化するのだ?)

 『群青日和』の耳元に、彼にだけ聞こえる思念が響く。

 ぱちり、と『群青日和』が指を弾く。
 すると、空気中の水分が凍結し、透明な氷の梟が顕現した。

 自分の内側の声と、自分の自我とを切り分けるために、《獄魔》――《灰羽の雄梟(グレイ・パラディオン)》と会話する時に、『群青日和』は必ずこのアバターを作り出してきた。

 性質の外在化によって、異物を異物として整理し続け、自我を守る。
 ラバーダック・デバッグならぬ、アイスオウル・マインドセット、とでもいうべき、『群青日和』がこの、内なる異物と共存するための技法だった。

「理由は2つだ。仙道 ソウスケとの戦いでわかった。山乃端 一人は、周囲の犠牲を嫌う。それが怒りから敵に攻撃的に向かうならば敢えてそれを狙うのも手だが、ありゃあ自罰で己の動きを鈍らせるタイプだ。なら、気がねなく戦わせた方が楽しいに決まっている」

(もうひとつは?)

「おまえが言っていただろう。あのフード包帯女の能力だ。アレは、街に人が多いほど厄介になる。チャイナタウンに、俺に一矢報いることができる能力者はいないだろうが、無関係な人死にが出れば、警視庁が動く。それを掌握されたら、『戦う前に無力化する』奴らが動員されかねない。そいつはつまらん。そもそも、戦う気のない奴を魅了で巻き込まれるのも腹立たしいしな」

(……一定の効率を認めよう。よく舌が回る)

「回るのは頭だと言ってもらいたいね」

(並行世界からの邪魔者が、まさか『黄』(クリープ)だとは思わなんだ。アレは、面倒な女ぞ。貴様の図太い精神にあの能力はろくに効かぬだろうが、手段を選ばず目的を遂行することにかけては、我らの中でも3本指に入る)

 《獄魔》の言葉に、『群青日和』は楽しげに口笛を吹いた。

「おまえが身内について話すのは初めてじゃあないか? 聞かせてくれよ。十二の《獄魔》ってのは、どんなやつらだったんだ? 強そうな奴、戦うと面倒そうな奴だけでも教えてくれ」

(非効率だ。それを説明する必要性に、合理的な理由を求める)

「そりゃあフード包帯女だけじゃない、山乃端 一人は、《獄魔》の力を使うんだろう。その内容と、その能力に直結している精神性を把握することは、魔人戦闘の基礎の基礎だ。反論はあるかい、知恵の象徴、ミネルヴァの梟さんよ」 

(一定の効率を認めよう。……まず、戦うとして面倒なのは、『金』(ミダス)『黄』(クリープ)『黒』(エヴォン)。この3人は、策を弄して、戦い以前に場を制する。これは、戦いで意を決する際の効率に特化した我にとって、相性が悪かった)

「そのうちの一角が今回の援軍ってわけだ。厄介だな」

(真正面からの殴り合いならば『赤』(ハック)。おそらく、今代の山乃端の切り札も、此奴(こやつ)の力だろう。本気のおまえを物理的に傷つけうる能力は、十二柱でこれだけだ。本能で強者との闘争を求める性質もおまえに似ているな。効率で闘争を選択する我とは反りが合わず、よく殺しあったものだ)

「なるほど。今代の山乃端は《獄魔》そのものを呼び出して使うわけじゃない。ならば、厄介なのは、援軍としての『黄』と、山乃端自身が行使する『赤』ってわけだな」

 『群青日和』は、祈るように拳を握る。

 自分に間借りしている《獄魔》と同格の存在たち。
 それは、自分に、熱を、すがすがしい景色を、与えてくれるだろうか。

 この『最強』にとって、世界は冷たく、心を動かすような熱は見えども遠く、血をもってしても凍てた魂は溶けることがない。

 孤高である、と人は言う。
 否であると、『群青日和』は考える。

 彼がいるのは、暗く冷たい海の底。
 そこに、光と熱を求めて、彼は手を伸ばし続けるのだ。

 澄み切った群青の空のような、生きた実感を、こいねがうように。

(ああ、あとは――『白』か)

 そんな『群青日和』の内面に気付いてか否か、《灰羽の雄梟(グレイ・パラディオン)》が、思い出したように付け加えた。
 空気を読まない言動はこの梟の常だ。『群青日和』は黙って続きを促す。

(アレは、繋がるものによって、どのような色にも染まる。最強にも最弱にもなる。《獄魔》はそれぞれが闘争の化身だが、アレはそもそも性質が異なる。時に誰より強く、大抵は誰より弱い。ひどく非効率な在り方だが、無視をするのも危険だ)

 《灰羽の雄梟(グレイ・パラディオン)》の言う、『白』の能力は、全く脅威とは思えなかった。
 山乃端 一人が使ったとしても、せいぜいささやかな隙を生み出すことだけ。

 それでも、『群青日和』には予感があった。

 当日は、楽しい戦いになる。
 自分を、海の底から、群青の空へと、引き上げてくれる時間になると。





5.『絶対値対相対値』



 午後3時。『赤』の時間。

 池袋北口。

 新華僑のビジネスエリアとして関連店舗が展開され、観光地として知られる横浜、神戸、長崎の中華街とは異質のチャイナタウンとなった区画に、私たちは集まった。

「時間ぴったり、いい心がけだ」

 いつからそこで待っていたのだろうか。
 まるで彫像のように、微動だにせず『群青日和』はそこに立っていた。
 大きい。相変わらずの威圧感。遠近感が狂う。周囲の空気が歪んでいくような錯覚。

 これが、私を殺そうとするもの。
 私が乗り越えなければならない、敵だ。

「気が利くのね。人払い完璧じゃない」
死合(デート)に誘ったのはこっちだ。セッティングは完璧にしないとな」

 いつもならにぎわっているはずの街に、今は人のひとりも見かけない。
 どうやら、『群青日和』が根回しをしたらしい。

 一体、どれだけの準備をすれば、これほどのことができるのだろうか。
 人脈、影響力、資金、注ぎ込まれたリソースを想像するだにぞっとする。

「それで。本当にこの時間でいいんだな(・・・・・・・・・・)?」

 簡潔な問い。
 『群青日和』は、私の『逢魔刻(クライベイビークライ)』を知っている。
 おそらくは、奴の中にある《灰羽の雄梟(グレイ・パラディオン)》の知識だろう。

 ここまで、《獄魔》を認識し、共生している《獄魔》憑きは初めてだ。

「ええ」
「上等だ」

 鷹揚にうなずくと、『群青日和』は、ゆっくりと片足を上げた。

 足を上げる。上げる。上げる。
 ゆっくりと、揺らぐことなく、地に付いた足と、上げられた足が、一直線に天地を指す。

 そして、振り下ろす。

 大地が揺れた。
 振り上げた脚で、地面を踏みしめる。

 四股。地面にひそむ厄を踏みしめ祓うと信じられた行為。
 陰陽道における破邪歩法、反閇に通ずるともされる、原始的な神事。

 アスファルトで舗装された地面が、ただひとりの人間の足踏みで、ぐらぐらと揺れる。
 ひびが入り、陥没する。

 俗の街並みが、その儀式によって、不可侵の闘争の場へと変えられる。

「――『群青日和』。熱い戦いを期待する」



  •  ◆ ・ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「『逢魔刻(クライベイビークライ)』が命じる。血濡れのたてがみ、戦場の闖入者、己が道を疾く駆けよ――」

 『赤』の時間。
 この時を指定したのは、当然、私が最も頼りにする力が行使できるからだ。

「《Ⅲ-血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》!」

 銀時計より、『群青日和』に負けぬほどの巨体が現れる。
 熊を思わせる、筋肉の塊。赤に濡れた体躯。炎のようなたてがみに、爛爛と光る双眸。

 十二柱の《獄魔》の中でただ一柱、特殊な権能を持たないもの。
 そして、十二柱の《獄魔》で、最強の、物理的な力を振るうもの。

「行きなさい!」

 『赤』の《獄魔》が爆ぜるように跳んだ。

「はははは! 『最強(おれ)』に真っ向勝負かよ!!」

 『群青日和』と『赤』の《獄魔》。私の頭くらいはありそうな拳と拳がぶつかり合う。

 拳打と受け。肘といなし。膝と膝で合わせて止める。
 頭突きと頭突きが同時に爆ぜる。
 肉体がぶつかり合うだけで、大気が軋み、踏みしめた地面が震える。

 ビルにやすやすと風穴を空ける《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》と、まともに殴りあっている。
 噂には聞いていたが、やはり『群青日和』は化け物だ。

 しかも、『群青日和』は、まだ魔人能力を使っていない。
 事前の調べでは、彼は氷を操る能力者のはずだ。

 つまり、まだ様子見。
 それでなお、こちらの最大戦力と互角、あるいは、魔人能力なしでなお、やや『群青日和』優勢なほどだ。

「――『30点』。悪くない」

 だが――

一品ずつ(フルコース)の作法はなしだ。存分に喰らえよ、戦鬼」

 『赤』の《獄魔》の足元を滑るようにして、白スーツの伊達男が両者に割り込んだ。

 そう。元よりこれは一対一の決闘ではない。多対一の、乱戦だ。

「いいぜ。もう少し刺激(からみ)が欲しかったところだ」
「辛さと痛みは同義というな。なれば存分にくれてやろう!」

 『群青日和』の右拳を、『赤』の《獄魔》が両腕で掴む。
 その巨体の死角から、まるで見えているかのような精度で、腕を回り込ませ、ジョンの手刀が翻った。
 目を正確に狙ったそれを首を捻って避けるも、『群青日和』の頬に一筋の傷が走る。

 間髪を入れず頭上から降り注ぐナイフ。
 わずかに揺らいだ重心に、《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》が3mの『群青日和』を手近な壁に叩きつけた。

「乱戦混戦! いいねえ! 腕力が届かないなら頭を使えってな!」

 ぐるりと社交ダンスめいて回転して『群青日和』は身を捻る。
 一秒前までその身体があった空間を、壁の向こうから突き出されたシャベルの先端が貫いた。

「さすが、『最強』! ですが……あたしとてひーちゃんの『最強』の幼馴染! やすやすとは負けられないのです!」

 私たちの戦力は、誰ひとりとして、一対一では『群青日和』を倒せない。

 だから、《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》の巨体で相手の視界を制限しつつ、高台に陣取ったクリープの投げナイフによる牽制と、『大公爵:視界共有』で俯瞰(クリープ)の視界を共有したジョン・ドゥによる不意打ち、そして、餅子の遊撃という手数で押すのが、この時間における私たちの戦術だった。

 『群青日和』、《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》、餅子、ジョン・ドゥ。
 4人は、私の動体視力では追いきれないほどの速度で目まぐるしく 立ち位置を入れ替え、ぶつかり合い、距離を取り、間合いを測る。

 意外なことに、一番『群青日和』にダメージを与えているのは、餅子だった。

「『最強』ねえ」

 最もパワーに優れているのは『赤』の《獄魔》だ。
 最も間合いの取り方に優れているのは、俯瞰の視界を共有しているジョン・ドゥだ。

 だが、この2人の動きは、すさまじい力をあるがままに振るう、自然の暴威めいたもの。『群青日和』のそれに似ている。
 だからこそ、『群青日和』は的確にその攻撃をいなしている。

 それに対して、餅子の動きは、なんというか、他の3人に比べると「迫力がない」。
 仙道 ソウスケとの戦いでは、周りに真正面から戦う存在が少なかったから気付かなかったが、餅子の戦い方は、手にしたスコップの動きこそ豪快でも、体捌き自体は緻密で繊細だ。

 それがかえって、『群青日和』の呼吸を乱して、有効打を増やしているようだ。

「……それが、『最強』なあ」

 『群青日和』は、スコップの直撃でわずかに切れた唇から、血の混じった唾を吐いた。
 彼が視線を向けたのは、餅子だった。

軽いな(・・・)

 だが、強敵を求め、《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》とのぶつかり合いに嬉々としていたはずの彼は、最も自分に傷をつけたはずの餅子を、冷ややかな目で見つめていた。

最強(オレ)は、『最強』だ」

 私に向けられてのものではないにも関わらず、背筋が泡立つ。
 真正面から受け止める餅子が受ける威圧感はどれほどだろうか。

「『最強』とは! 最も強いことだ! 強い己を肯定することだ! 最も強い己で、全てをふり絞って己を謳歌することだ!」

 『群青日和』が消えた。
 残像すら追えないほどの高速移動。

 地面がわずかに凍結し、きらめいている。
 敢えて足元に氷を張ることによる滑走。
 とうとう、『群青日和』が魔人能力を行使したのだ。

 鈍い音と共に、餅子の身体が弾丸のように吹き飛んだ。

「『赤』も! 白スーツも! ちまちまナイフを投げてる『黄』も! 山乃端 一人すら! 己の力を肯定し! 全力で最強(オレ)()りに来ている!」

 受け身を取って立ち上がる餅子を、二度、三度と、神速に霞む体当たりが襲う。

「それなのに、おまえはどうだ!? 『最強』の幼馴染とやら!」

 私は『赤』の《獄魔》を餅子の守りに向かわせる。
 ジョン・ドゥがアスファルトを穿ち、滑走を妨げようとする。
 しかし、間に合わない。
 カウンターで突き出した餅子のスコップは、空中に生み出された氷の盾に弾かれる。

「『最強』を唱えながら! テメェ自身が自分の力を疑ってやがる! いや『怖がって』やがる! ふざけるな! 『最強』を叫ぶなら! 最強(オレ)の前に立つなら! テメェの全てを曝け出せ!」
「……っ!?」

 餅子の表情が変わる。
 体当たりを防ぐために構えていたスコップの動きが鈍る。

「テメェの『最強』は! 自分しか見てねえ! 最強(オレ)を見ろ! 絶対評価(ひとりよがり)じゃねえ! 相対評価(ガチンコ)の『最強』を見せてみろよ! 自称『最強』!!」

 まずい。
 餅子の何が『群青日和』の逆鱗に触れたのかはわからないが、間違いなく彼は激昂していた。
 ここで決着を急がれるのは、計算外。

 私とクリープの立てた作戦では、『赤』の時間は、本命ではない(・・・・・・)

「『群青日和』!!!!」

 だから、私は叫んだ。
 ここまでだ。この時間でこなすべき最低限のノルマは果たした。

一時休戦を提案する(・・・・・・・・・)!」

 私の言葉に、ぴたり、と『群青日和』は動きを止めた。

 その拳は、氷の刃に覆われ、その切っ先は、餅子の胸元数センチで静止している。

「……冗談ってワケじゃあ、ないんだな?」

 剣呑な瞳が、殺意が私を飲み込む。

「ええ。私には、まだ切り札がある。けれど、それは、今は使えない。だから、休戦を提案するわ」
最強(オレ)が、それを飲むとでも?」

 怖い。餅子を襲ったあの滑走で体当たりされれば、その瞬間に私は死ぬ。
 それでも、舌を止めれば、餅子は死ぬ。そして私も殺される。

「今の時間も、私の仕込み。それを踏まえて、十倍は楽しい戦いを約束するわ」

 心臓が跳ねる。ブラフとハッタリ。理屈も何もあったものではない。
 信じるのは『群青日和』が、私の殺害よりも「より楽しい戦い」を選ぶはずだという、そんな希望的観測だ。

 時間の感覚が狂う。暴れる鼓動が早くも遅くも感じられる。
 『群青日和』の能面のような表情が、その表常筋の動きミリ単位に全神経を集中する。

 やがて、『群青日和』は指を鳴らすと、アスファルトに張った氷と、手に纏われた氷刃が砕け散った。

「今回限りだ。二十四時間以内に再開しろ。指定時間は?」

 ピースが、またひとつはまった。
 崩れ落ちそうになる膝を支えながら、私は、クリープと相談していた通り、その時間を指定した。

「――午後11時20分。『金』の時間」




6.『化粧直し』



 デミ・ゴッドは夢を見ない。
 それは、眠らないという意味であり、希望的観測を抱かないということと同義である。
 疲労せず、睡眠せず、夢を希うことがない。

 だからこそ、よく生き延びたものだと、クリープは、山乃端 一人とその守り手たちを見て、そう思った。

 諦めていたわけではない。だが、この一時間で全滅する可能性を、クリープは5割程度と見込んでいた。希望的観測なしに当然と受け入れるにはあまりに低い可能性だ。

 とはいえ、代償は少なくなかった。

 戦術の核であった《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》の顕現と制御で、山乃端 一人の消耗は大きい。

 ジョン・ドゥは「見」に徹していたにも関わらず、『群青日和』の牽制だけで、相当のダメージを負っている。

 そして、最も心身共に消耗が大きいのが、望月 餅子だ。

 そもそもが、魔人能力による防御力強化、拡張知覚における回避へのアドバンテージのあるジョン・ドゥとは違い、望月 餅子は基本的に、素の身体能力で攻防を成立させている。

 身体的能力に差のある相手に対しては、極めて分が悪い。
 そしてそれ以上に大きいのが、彼女に対する『群青日和』の言葉。

 彼女は、自分が山乃端 一人のために『最強』であることをアイデンティティとしている。
 それを、全く異なる意味で『最強』にこだわる『群青日和』に惰弱と喝破されたことが、餅子の精神を揺さぶっているようだった。

(……いや、それ以前の問題ですか)

 クリープは、この世界に顕現し、望月 餅子と出会ってからのことを思い出す。
 彼女が精神的に崩れだしたのは、戦いが始まる前からだ。

『ええ。私は、こことは違う世界線の山乃端 一人お嬢様にお仕えする、《獄魔》の一柱、そのものでございます』

 クリープが、山乃端 一人にそう伝え、それに対して、山乃端 一人が衝撃を受けたような表情をした、その時。

 自分にとって不倶戴天の敵であるはずの《獄魔》と、並行世界の己が家族同然に暮らしていることを明かされ、戸惑っていた、その瞬間。

『……ひーちゃん』

 望月 餅子は、笑顔のまま、まるで消えてしまいそうなほど、頼りなく見えた。

 それから、望月 餅子は、山乃端 一人と距離を置き、クリープと行動を共にするようになった。

 餅子は、クリープの世界で、十二の魔人が山乃端 一人と暮らす日常の、本当にささいな出来事を聞きたがった。そして、クリープの語る、代り映えのないエピソードのひとつひとつに、熱心に耳を傾けていた。

 その行動の理由が、クリープには容易に想像できた。
 だからこそ、『群青日和』の言葉がトドメとなったこともまた、理解できる。

「餅子さん。まだ動けますか?」
「……大丈夫! あたしは、ひーちゃんの『最強』の、幼馴染なんですから!」

 仰向けに倒れたままの笑顔が痛々しいと、クリープは思った。

 山乃端 一人は、ジョン・ドゥと、最後の仕込みの調整のために、いくつかの建物を巡っている。

 山乃端 一人も、餅子が距離を置こうとしていることを、無意識のうちに感じ取っているのだろう。ここ数日は、ジョン・ドゥと行動をすることが増えている気がする。

「山乃端 一人さんに、言うことがあるのではないですか?」

 クリープの言葉に、餅子は、無表情に目を伏せた。
 クリープの前での彼女は、時折こうして、電源が落ちたように表情を消すことがあった。

「今、ひーちゃんの負荷は限界ですから。これ以上、あたしの都合で増やす気はないです」
「……そうですか」

 クリープは、それ以上追及しなかった。
 彼女が、こうと決めたら聞き入れない頑固さを持っていることを、クリープは長い付き合いで知っている。

 しばしの沈黙。
 餅子は、反動をつけて、ばねのような勢いで立ち上がった。
 表情には、いつもの屈託のない笑顔が戻っていた。

「それより、クリープさん。いざというときは、手はず通りにお願いしますね!」
「……山乃端 一人さんはこのことを?」
「はっはっは、御存知なはずないじゃないですか!」

 山乃端 一人には、勝算がある。
 午後11時、『金』の時間ならば、『群青日和』に対抗しうる手段がある。
 ジョン・ドゥにも、まだ伏せたままの切り札がある。

 それでも、勝率は高くて4割程度だと、クリープは分析していた。

 餅子が口にしている「いざというとき」は、その、一人とジョンの切り札でも、『群青日和』を倒し切れなかったときの策だ。

 事前に説明すれば、絶対に止められるであろう、捨て身の策。
 クリープと、望月 餅子だからこそ為し得る、最後の手段。

「……繰り返しますが、私はこの手段を使いたくありません。あなたが私に友愛を感じてくれているのなら。思いとどまっていただきたいというのが、正直なところです」

 餅子は、わかった、とは答えなかった。
 笑顔のまま、クリープに背を向ける。

「このタイミングで、ひーちゃんを助けに来てくれたのが、クリープさんでよかったです」

 ちらほらと、灰色の雲から、細かな雪が降り始める。

「クリープさんは、何も気にすることはないのです。あたしは、クリープさんの知っている誰かではないから。だから、必要であれば、これまでそうしてきた通りにして、そうしてきた通り、忘れてくれればいいのです」

 餅子の姿が、雪にけぶって、消えてしまいそうに、クリープには感じられた。

 池袋の街は、化粧直しで雪化粧。

 人と、人をはみ出したものと、人ならざるものの戦いは、白と黒の世界で、決着を迎えようとしていた。




7.『獣の理』



 午後11時20分。『金』の時間。

 うっすらと雪化粧の池袋チャイナタウン。
 人はおらずとも夜の繁華街の街灯がついているのは『群青日和』の手配によるものか。

 『群青日和』は、岩のような上半身をむき出しにして、立っていた。
 金剛力士像めいた男が雪の中、半裸で佇む姿は、どこか神事めいて見える。

「『逢魔刻(クライベイビークライ)』については把握してる。時間に対応する《獄魔》の権能を操る力。『金』の時間は、《黄金の欲望(ミダス・デザイア)》。性能強化の権能。能力切り替わりから20分の時間は、装備や地形に何らかの強化を施す準備のためだろう」

 『群青日和』の身体からは、湯気が立ち上っている。

「ジョン・ドゥの能力は、『身体能力強化』『知覚共有』。望月 餅子の能力は、『触れたものにくっつく』ってところか。クリープの能力は魅了。少なくとも、最強(オレ)には即効性はない」

 雪は、彼の肉が帯びる熱に、触れることなく溶けて水蒸気と化す。

「総合的に見て、おまえたちには、勝ち目がない。それが、一時間戦ってみての最強(オレ)の見立てだ」

 雪山登山級の着こみ方をしてなお、身体の芯まで冷えるこの状況で、『群青日和』は、サウナの中にでもいるかのように、悠然と構えを取った。

「予想を裏切ってくれることを祈るぜ」

 『群青日和』の見立ては予想通り、正確だ。
 私たちが、『赤』の時間で、「そう見せようと思ったとおり」の認識をしてくれている。

「『逢魔刻(クライベイビークライ)』が命じる。輝きの蜜、至高(さいじょう)の罪、トリスメギストスの夢」

 本番は、ここから。相手もこれ以上、様子見はしないだろう。
 今より先は伏せ札なし。大盤振る舞いの全力勝負でいかねば、瞬きの間に蹂躙される。

「貪れ――《Ⅺ-黄金の欲望(ミダス・デザイア)》」

 ――対象:山乃端 一人。『体力』黄金化(きょうか)

 心臓が跳ねる。
 次の一手は、リハーサルなしの大博打だ。
 理屈では、できるはずだ。
 クリープからのお墨付きもある。だが、試したことのない一発勝負だ。

「並びに――『逢魔刻(クライベイビークライ)』が要請する(・・・・)。血濡れのたてがみ、戦場の闖入者、己が道を疾く駆けよ――」

 『群青日和』の表情が、変わった。
 退屈から、喜悦へと。

「《Ⅲ-血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》!」

 銀時計より、『群青日和』に負けぬほどの巨体が現れる。
 熊を思わせる、筋肉の塊。赤に濡れた体躯。炎のようなたてがみに、爛爛と光る双眸。

 十二柱の《獄魔》の中でただ一柱、特殊な権能を持たないもの。
 そして、十二柱の《獄魔》で、最強の、物理的な力を振るうもの。

 『赤』の時間にしか、命令をきかせることができないはずの《獄魔》。

「――《Ⅺ-黄金の欲望(ミダス・デザイア)》」

 ――対象:《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》。『魔力効率』黄金化(きょうか)

「さあ、始めましょう。『群青日和』」
「ああ。スタートラインには、立てたようだな。山乃端 一人」


  •  ◆ ・ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 この戦いの数日前のこと。
 私は、クリープに対して相談を持ちかけていた。
 内容は単純。
 彼女の世界の山乃端 一人のように、私にも《獄魔》の並行召喚ができないか、だ。

「おそらく、私のお嬢様のように、あなたが、《獄魔》たちと和解し、並列召喚に至ることは難しいでしょう。あなたの根底には、《獄魔》への恐怖がある。敵対心がある。また、この世界線での『山乃端 一人』は、《獄魔》と敵対し、封じ続ける役目と聞きます。いくらあなたが表層意識で友愛を示そうとも、契約の在り方を変えることはできないと思います」

 クリープの言葉は、予想の範囲内だった。
 当然だろうという納得もあった。
 いまさら都合のよすぎる話だという自覚はあったからだ。

「まあ、そうよね。ありがと、クリープさん。可能性を一つ検討できただけでも前進よ」

 だが、クリープは、私を引き止め、言葉を続けた。

「ですが、和解は無理でも、取引はできるかもしれません」
「……取引?」
「先ほど、私はあなたに十二柱の性格をそれぞれお話ししましたね。《獄魔》にも個性があり、欲望があり、趣味嗜好がある。『山乃端 一人への敵対心』を越える『利益』があると提示できれば、和解はできずとも、『逢魔刻(クライベイビークライ)』での束縛によらず、力を借り受けることができる可能性はあります」
「和解をしなくても、同時に複数の《獄魔》の力を使える可能性があるってこと?」
「はい。あなたの『逢魔刻(クライベイビークライ)』の消耗が激しいのは、術師を傷つけさせない『束縛』、術者の目的へと行動を誘導する『制御』、この世界に存在を定着させる『顕現』の3つを同時に行わなければならないからと推測します」

 よどみなく語るクリープの言葉に、私は必死で頭を回転させた。

「私のお嬢様が、十二柱の並行召喚を実現できたのは、全員の合意を得て、『束縛』と『制御』に必要な力を不要にできたからです。ならば、《獄魔》が自分から、「『顕現』させるだけで山乃端 一人の役に立つ」状況――《獄魔》とあなたの、win-winの関係性を作れる場面に持ち込めばいい」

 《獄魔》が、自分から力を貸したくなるような状況を作れ、ということだろうか。
 だが、そんな都合のいい場面を、用意することができるのか。

 今の私の目的は、生き延びること。『群青日和』を倒すことだ。
 だが、私を生き延びさせたいと考える《獄魔》はいない。
 私が死ねば《獄魔》は解放される。理性的に考えれば、手を貸してくれるはずがない。

 ならば、選択肢は、理性よりも本能に従う性質の《獄魔》。
 クリープから聞いた、十二柱の《獄魔》、それぞれの性質を思い出す。
 長期的な自由よりも、目の前の、刹那的な、強敵との戦いを望むもの――

 私の脳裏に、ひとつの名前が浮かんだ。

「――《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》」
「ええ、御明察ですわ」

 クリープが微笑むのが、フードと包帯、サングラス越しでもなお、わかった気がした。

 『赤』の時間を司るもの、《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》。
 十二柱の中で、最も戦いを楽しみ、強者との闘争に渇望する《獄魔》。

「けれど、おそらくは『赤』(ハック)も、あなたの言葉に耳を傾けることはないでしょう。前提としては、3点。

 ・同じ《獄魔》である、私が交渉役になること。
 ・『群青日和』が、楽しむに足る強敵であると『赤』(ハック)に体験させること。
 ・通常の召喚よりも思い切り、力が振るえる状況を約束すること。

 この全てが揃ってやっと、交渉になるものと考えます」

 溜息が出る。
 今まで私は、《獄魔》を、狡猾な獣程度にしか考えていなかった。
 人の本能を刺激し、行動を闘争に方向づける程度の存在だと。

 だが、クリープの言葉は、間違いなく私よりも高い知性に裏打ちされたものだ。

「本当に、ありがとう。首の皮一枚って感じね」
「礼など不要です。私はただ――《獄魔》(わたしたち)が、あなたの友たりえるのだと知っていただけるだけでよいのですから」


  •  ◆ ・ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「やり方は任せるわ。《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》。好きに、やっちゃいなさい!」

 《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》に架せられていた、『逢魔刻(クライベイビークライ)』による束縛(セーフティ)を解き放つ。

 『赤』の獣が歓喜の咆哮を挙げる。
 自分の中からごっそりと、生命力がもっていかれる感覚。

 《Ⅺ-黄金の欲望(ミダス・デザイア)》で、私自身の体力と、『赤』の燃費を強化してなお、この消耗。
 それだけ、何かに憑くでなく、真の力を振るう、かの《獄魔》は、強力な存在なのだ。

「ははっ! そうかよそうかよ! テメェも! 全力が振るえないのは、退屈だったよなァ!!」

 足元から氷柱が牙めいて突き立てられ林立する。

 『赤』はそれを打ち砕き、まっすぐに『群青日和』に肉薄する。

 ただ腕を振るう。無数の氷槍に対して、『赤』がしたのはそれだけだ。
 武術どころか、戦技でもない。ただ肉体を無造作に振るうだけの動作。

「ッ!!!!」

 『群青日和』を守るように、三重に展開される氷の壁。

 それをガラスのように粉砕し、《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》の腕が『群青日和』の左腕を掴んだ。

 そのまま、密着した状態から、『赤』の拳が『群青』の鳩尾を打つ。
 一度。二度。三度。

 だが、『群青日和』の表情にはまだ余裕がある。
 いつの間にか、彼のむき出しのはずの上半身は、氷の鎧に包まれていた。
 それが、『赤』の拳を阻んだのだ。

 しかし、その展開はまだ読んでいる。

「はあああああ!」

 『群青日和』が背にしていたビルの壁を駆け降り、餅子が、氷で覆われた、『群青日和』の右腕に触れる。

 ――魔人能力『もちもちぺたぺた肌』多重発動。

 そのまま、ビルの壁に異能で張り付き、餅子自身を鎖として、『群青』の片腕を封じた。

 『赤』と餅子、それぞれが『群青日和』の腕を封じたこと。
 餅子が敢えて不意打ちの利を捨てて叫び、注意を引いたこと。
 全てが布石。

 ここに、最後から二番目の切り札――ジョン・ドゥの一撃を、叩きつけるための。

 ――『大公爵:思考加速』。

 それは、ジョン・ドゥの奥の手。
 緊急回避に使用することの多い、守りの切り札(ジョーカー)を、攻撃に費やす捨て身の戦技。

 ジョン・ドゥの『大侯爵:身体強化』は、強化する範囲を絞るほどにその効力を増す。
 そして、ジョン・ドゥの今の肉体は、人に準じた構造をしている。

 人体がただ「殴る」という行為は、厳密に細分化すれば、全身の筋肉が、関節が、繊細にほんのわずかずつのタイミングずらして駆動し、機能し、力を発揮するというプロセスの積み重ねである。普段は、一つの動作として、意識しているだけだ。

 つまり、その行動を限りなく細かいプロセスに分解して認識し、そこで要となる部位を局所的に強化することを繰り返せば、――『大公爵:思考加速』でそれを為せば、『大公爵:思考加速』は、通常の数十倍以上の威力を発揮する。

 『大公爵:身体強化』。『大公爵:身体強化』。『大公爵:身体強化』。
 『大公爵:身体強化』。『大公爵:身体強化』。『大公爵:身体強化』。
 『大公爵:身体強化』。『大公爵:身体強化』。『大公爵:身体強化』。
 『大公爵:身体強化』。『大公爵:身体強化』。『大公爵:身体強化』。
 『大公爵:身体強化』。『大公爵:身体強化』。『大公爵:身体強化』。
 『大公爵:身体強化』。『大公爵:身体強化』。『大公爵:身体強化』――

 体感時間にして10秒弱。
 奇しくも多重能力行使、その数、彼が往時統べたる軍団の数に同じく六十六。

 悪魔の大王との取引で名を失ったジョン・ドゥ。
 彼の力はその一瞬だけ、かつての魔界第六位たる『大侯爵』級をも超越する。

 ジョン・ドゥと「共有」している知覚から、脳を焼ききらんばかりの情報が流れこむ。
 必要なのは一撃。心臓を穿ち突き破る必殺。

 氷の盾を砕き、凍気の鎧を穿ち、皮膚を裂き、鋼のような筋肉を貫く。
 鋭い穂先の槍と化した指先が、金剛石めいた肉を切り拓く――

 ――だが、それは、致命には至らない。

 あろうことか、己が傷口を凍り付かせることで、『群青日和』は、ジョン・ドゥの手刀を防ぎきってみせたのだ。

 それなりのダメージはあるだろう。だが、命には届かない。
 凍てた傷口は彼の体力を奪うだろう。だが、動きをすぐに止めるには至らない。

「ははははは!!!」

 『群青日和』の身体がぐるりと回転した。
 餅子を、『赤』を、ジョンを、引きずったまま、雪の積もったアスファルトへと叩きつける。

 そして、ジョンの脚を掴むと宙吊りにし、無造作に殴りつけた。
 重力を感じさせない軌跡で、ジョン・ドゥは真横に弾き飛ばされた。

 ビルの壁を砕いて建物の中へと消えていく。

「《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》! ジョン・ドゥのカバーを!」

 私は、『赤』を、ジョンが突っ込んだ建物の中に飛び込ませる。
 『群青日和』は、その場に残った餅子と、ジョンと『赤』とが消えたビルを見比べると、餅子を無視してビルの中に駆け込んだ。

 私は、手はず通りに、自分の視覚を「ジョンと共有している視覚」へと切り替える。

 ジョンの4つの『大侯爵』に基づく権能のうち一つ、「視界共有」だ。

 ビルの中は、壁といい、天井といい、床といい、全てが真っ赤に塗りつぶされている(・・・・・・・・・・・・・・)

 その奥では、真正面から『群青日和』の一撃を受けて血まみれのジョン・ドゥと、

「へえ、こいつが俺を十倍楽しませる小細工かい」

 《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》が、『群青日和』を挟んで向き合っていた。

 これが、私の最後の勝ち筋。
 一時休戦の間に、《彷徨する紫煙(パーフル・ヘイズ)》で持ち込み、ジョン・ドゥと手分けしていくつも用意した『赤』の檻の、ひとつである。

 渾身の一撃でなおも『群青日和』を倒せなかった場合、彼をここにおびき寄せることが、ジョン・ドゥの役目だった。

「《Ⅺ-黄金の欲望(ミダス・デザイア)》――」

 ――対象:《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》。『魔力効率』黄金化(きょうか)解除。
 ――対象:《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》。『身体能力』黄金化(きょうか)

「私の全部くれてやる! 思い切り暴れなさい!!」

 『赤』の獣の肉体が、変容する。
 人を模した形から、より、闘争に最適化された――『赤』の《獄魔》の真の姿へと。

 《獄魔》には一匹ずつ、司る色があり、周囲に対応する色が多いほどに力を増す。
 それは意味などない、ただ純然たる呪的な法則。

 《蘇生する緑(グリーン・フィンガー)》が、校舎をまるまる植物で満たして『緑』の加護を得たように。
 《自浄する藍(インディゴ・バニッシュメント)》が、藍の夜空の中でこちらに相対したように。

 今、《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》は、司る色の加護を受け、あるべき力を取り戻す。

 四足の低い姿勢から、野生の動作が『群青日和』を襲った。

 『群青日和』は両の手を突き出し、眼前に氷の盾を顕現させ――

「――『大公爵:能力無効』」

 ジョン・ドゥの宣言と共に、具現化しかけたそれは霧散する。
 これが、『視覚共有』『身体強化』『思考加速』に続く、4つ目の彼の権能。

 本来は、対象への肉体の直接接触をトリガーとする能力だ。
 だが、今、彼の五体は『群青日和』に触れていない。にも関わらず能力は発動した。

 理由は、『群青日和』の足元。
 そこには、ジョン・ドゥが流した血だまりが踏みしめられている。

 ジョン・ドゥは悪魔。強欲たるもの。
 たとえ自らの身から離れたとて、血の一滴たりとて、自分の肉体であるとの認識に疑いなどない。そして、この世界において、認識こそが全てのルールを決定付ける。

 ビルの床や壁を赤く塗ったのは、『赤』に加護を与えるためだけではない。
 ジョンの血を、怪しんで『群青日和』が避けて位置取る可能性を避けるためでもあった。

 計算に入れていた氷の守りを失い、不意を打たれた『群青日和』の腕に、『赤』が喰らい付き、押し倒す。
 両の爪牙が、鋼の像めいた肉体に突き立てられる。

 『群青日和』を『赤』が傷つけるたび、意識が遠のき、思考が途切れかける。
 なんて消耗だろうか。

 『群青日和』はかつて、新幹線の直撃を無傷で受け止めたという。
 『群青日和』の肉体を傷つけるということは、それだけで、ビルに風穴を空ける何百倍もの力を要する、兵器めいた破壊力を要求される行為なのだ。
 そんな力を支え続けるのに、私という人間の精神はあまりに弱い。

 だが、まだだ。まだ意識は手放せない。
 まだ、『群青日和』は死んでいない。
 圧してはいるが、決定的なところまで追い込んではいない。

 肉体が、精神が冷えていく。

 『群青日和』の行使した広域氷結能力が、外からじりじりと私の体力を削っている。
 『赤』の暴走めいた蹂躙が、内から容赦なく私の精神力を薪として、振るわれる。

 餅子も、ジョンも、クリープも、『赤』と『群青』の闘争に立ち入れない。
 軽率に手を出せば、意図せぬ方向にバランスが崩れることを、皆が理解している。

 『群青日和』の右の腕を、『赤』が食い千切る。
 だが、その拘束が緩み、『群青日和』はのしかかる獣を投げ飛ばした。

 そのまま、『群青日和』は残る左腕を、力のまま床に叩きつけた。
 戦闘直前の四股とは違う。明確な、破壊を意識した一撃。
 それは、ただ人の拳ながら、人の作り出した建物の基盤を破壊するのに十分な衝撃。

 《黄金の欲望(ミダス・デザイア)》による強化を受けたビルを、その一撃は完全に打ち砕き、倒壊させた。

 能力無効化のトリガーとなる、ジョン・ドゥの肉体の一部である血のしみた床も。
 《血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー)》の真の姿を支えた『赤』の加護も。

 もろともに砕けてがれきとなった。

 『赤』の檻は、破られたのだ。

 これが、『群青日和』。
 息をするように『最強』を体現する、修羅。

 片腕を失い、全身を裂かれ、噛まれてもなお、その意気は軒昂。

「まあ、よくやった。十倍楽しめるってのは、ブラフでもなかったぜ、お嬢ちゃん」

 粉々になったビルが巻き起こす土煙の向こうから、私の最期がやってくる。

 用意していた手札は全て切った。
 私ひとりだけではできない多重召喚(ルールいはん)までした。

 それでも、届かなかった。

「ひーちゃん」

 いつの間にか、餅子が私の横に立っていた。

「大丈夫。実は、あたしには、ナイショの切り札があるんです」

 無理だ。

 餅子は、能力を使わない『群青日和』に掠り傷をつけるのが精一杯。
 それが厳然とした力量差だ。

 餅子の能力は、『触れたものにくっつく』だけのもの。
 一発逆転を狙えるものではない。
 魔人としての力量差を覆せる要素が、餅子にはどう考えても存在しない。

「だから――ちょっと、後ろを向いていてください。そうすれば、あなたの『最強』が、全部終わらせてみせますから」

 それなのに、餅子は、ぎぎぎ、と音が聞こえそうなほど、ぎこちなく笑った。




8.『群青日和』



 汚れっちまった悲しみに、今日も小雪の降りかかる。
 昔読んだ詩の一節を、『群青日和』は思い出した。

 『群青日和』の中にあるのは、寂寥で、悲しみだった。

 『赤』との戦いは、悪くなかった。
 命の危機を感じたのは、ずいぶんと久しぶりだった。

 それでも、男の理想とする、澄み渡った気持ち――『群青日和』には、ほど遠かった。

 戦った4人の中で、最も彼が期待していたのは、スコップ使いの少女、望月 餅子だった。

 彼女の戦技は、戦場格闘術をベースとしたものだろう。

 スコップを使うのは、戦場で塹壕掘りなどに使う、最も身近な工具だからだ。
 斧として、杖として、槍として自在に振るうことができる万能武具でありながら、持ち歩いても銃刀法違反に問われることもない。
 触れたものにくっつくという魔人能力も、道具を使った武具と組み合わせてよく練られている。

 自分の弱さを知り、生き延びる最善を磨き上げた技。
 それは、地力の差を覆しうる可能性を持つ。
 自ら『最強』を名乗る覚悟といい、自分に比肩しうる可能性があるのではと思った。

 だが、日中に実際に拳を交えて、『群青日和』は落胆した。

 望月 餅子には、確かに素質があった。秘めたポテンシャルを感じた。
 だが、それは、暴れ馬に目隠しと拘束具をつけ、臆病な騎手が乗っているような状態だった。

 自分の内にあるものを恐れ、それを御すために鍛え、その、御す力で『最強』たらんとしている。それが、『群青日和』の見た、望月 餅子だ。

 だから、憤った。
 なんて、もったいない。

 望月 餅子は常に、自分の中の「何か」と、自分が相対する敵の、両者と戦っている。
 つまり、『群青日和』と、片手間で相対しているのだ。
 とても許せることではなかった。

 彼女が、力を御するために積み上げた努力を、生まれ持った力を磨く方向に使っていれば、どうなったのか。

 しかし、ここに至っては、益体もない想像だ。

「まあ、よくやった。十倍ってのは、ブラフでもなかったよ、お嬢ちゃん」

 『群青日和』は、山乃端 一人を讃えた。
 自分は満身創痍ではあるが、それでも、山乃端 一人を殺すことに、支障はない。

 ジョン・ドゥには傷口から氷による浸食が蝕むよう、能力を行使してある。もう動くことはできないだろう。
 クリープは、直接戦闘に向く能力ではない。
 望月 餅子も、力量の底は知れている。
 山乃端 一人は、力を使い果たした。

 チェックメイト。
 打つ手なし。

 だが、『群青日和』の前にはなお、2人が立ちはだかっていた。

 クリープと、望月 餅子。

「……?」

 2人は、『群青日和』を――死そのものを前に、どこか和やかな様子だった。
 だからか。『群青日和』は、歩みを止め、2人の会話に耳を澄ませた。

 まだ、何かあるかもしれない。そんな期待もあった。

(非効率だ。もう殺してしまえ。そうして起きたハルマゲドンにこそ、貴様の望む強者が集うだろう)

 心の内の《灰羽の雄梟(グレイ・パラディオン)》の言葉を黙殺する。

 望月 餅子の、何かを覚悟したような表情に、『群青日和』は言い知れぬ感覚を覚えた。

「いいのですね、餅子さん」
「ありがとうございます」
「これから貴方を壊す相手に、礼なんて」
「はっはっは、確かに!」

 クリープと、望月 餅子が交わした言葉は簡潔だった。

「それでは。――悔いのない、最期を。望月 餅子さん」

 そして、クリープは、サングラスを外し、フードを脱いだ。
 包帯をほどき、その中から、「それ」が姿を現す。

 それは、美という名の凶器。
 それは、浸透していく狂気。

 見たものの魂を蝕み、やがて一色に染め上げる、傾国の姿。

 ――『浸透する美姫(クリーピング・ビューティ)』。

(目を閉じろ。この戦いに支障はなくとも、アレは時間をかけて貴様を蝕むぞ)

「冗談だろ? おい。一週間後、一年後を惜しんで、「コイツ」から目を背けろと?」

(非合理的だ。女の色香に貴様が惑うか――?)

 《灰羽の雄梟(グレイ・パラディオン)》はそこまで言いかけて、『群青日和』の視線が向いているのが、『黄』(クリープ)ではないことに気付いた。

 『群青日和』が凝視しているのは、その隣。
 真正面から『浸透する美姫(クリーピング・ビューティ)』を直視し、身体を振るわせる、望月 餅子だった。

 自らを蝕む絶対の美。それによる精神攻撃に、望月 餅子は、一切抵抗しなかった。

 まるで、自分を縛る理性を、敢えて、クリープの力で粉砕させるように。

「――ぁ――ぁぁぁぁ――」

 言葉にもならない呻き。
 そこに、『群青日和』は幻視する。

 望月 餅子という獰猛な暴れ馬の目隠しが外れ、拘束具が落ち。騎手が振り落とされる様を。

 彼女が抑えつけてきたものが、解き放たれる姿を。
 彼女の短い黒髪が見る間に伸び、雪のように白く透き通っていく変容を。

(あれは――)

「なあ、グレイ。あれは、そういうことで、いいのか?」

(ああ。――なぜこうなっているかまでは、理解できないが)

「上等だ」

 『群青日和』の闘気に呼応して、降る雪の勢いがさらに強くなる。

 今、彼は、眼前の敵が、自分を脅かしうるものであると認識し――

 衝撃。
 暗転。

 首を掴まれたまま、押し付けられる。
 ビルに叩きつけられ、アスファルトに押し付けられながら、『群青日和』は、風に煽られる凧のように、その暴威に蹂躙されていた。

 いつも自分がしてきたことだ。
 相手の意志を、抵抗を全て押し流す圧倒的な暴力。
 すべてが自分の意のままになる、熱も何もない、天災めいた『最強』。

 そんな絶望的な力の差が、生まれて初めて、『群青日和』の前に立ちはだかった。

「はははははははははははははははははははははははははははは!!!!」

 笑う。笑う。笑う。
 望月 餅子だったものに首を掴まれ、無造作に振りまわされながらなお、『群青日和』は笑う。

 間違いなく、望月 餅子だったものは、自らの力全てを、『群青日和』に向けている。
 『群青日和』だけを見て、『群青日和』を破壊せんとしている。
 今、ようやく、『群青日和』は満ち足りていた。

 氷の鎧が、氷の盾が、刃が、砕かれ、潰され、『白』の怪物に、傷一つつけられない。
 磨いてきた術理が、技巧が、重心を揺らすことも意識の間隙を縫うこともできない。

 ならば次はこうだ。これはどうだ。ならばこうしよう。
 哄笑の中で、『群青日和』は試行錯誤を繰り返す。

 これが戦いだ。熱だ。生き延びようという本能だ。

 痛みが生存の危機を訴える。
 苦しみが、状況を改善しろと求めてくる。

 生命の輪郭を、今まさに、『群青日和』は鮮明に感じ取っていた。

「こうか!!! こうか!!!!!!!」

 そして、世界が静止した。

 大地から突き立った氷が、『群青日和』もろともに、望月 餅子だったものを包む。
 棺のように、標本のように。

 包み込む氷全てが敵対する対象の皮膚を蝕み、体内から無数の棘となって、敵を破壊せんとする。

 だが。

 生み出された、氷の乙女(アイス・メイデン)の切っ先は、どれひとつとして、雪のように白い皮膚を貫くことはなかった。

 ぴしり。

 卵の殻が割れるように、氷の棺にひびが入る。

 ぴしり。ぴしり。

「――そうか」

 そして、崩壊した氷の棺の欠片の中心で、望月 餅子だったものは『群青日和』の首を掴んだまま、天に掲げた。

「――おまえが、おれの、『最期(さいきょう)』か」

 望月 餅子だったものは、答えなかった。
 手を離し、そのまま身を屈め、

 肩甲骨と上半身を回転させる無駄のない動き。
 人が人の肉体を限界まで行使するために磨かれた技巧を。

 今ここに、人を越えた肉体を持つものが行使する。

 地面から伸びあがるように繰り出された拳が、『群青日和』の顎を打った。


 飛翔する。
 重力を無視し、『群青日和』の肉体は、真上へと、空へと、射出される。

 降る雪を逆流し、その源である雲を突き破り、なおも天高くへと。

 薄れていく命の中で、『群青日和』はそれを見た。
 突き抜けるほどに透き通った夜空。

 青を重ね、それでも足りぬほど深い、群青の世界。

 命を燃やした果て。
 規格外の力による蹂躙。

(――ああ、なんて、群青日和(いいてんき)だ)

 空に散った男を悼むように、灰色の梟が一声、小さく鳴いた。





9.『闇なる白』



 私は、呆然と、その様子を眺めていた。

 クリープの能力に巻き込まれないよう、途中まで目を閉じていたため、私が見ていたのは、餅子が「変わった」後だ。

 理解が追いつかない。
 いや、その可能性に辿り着いているのに、思考が直前で足踏みを続けている。

 餅子の能力は、「触れたものにくっつく」ことだけのはず。
 そして、魔人は、魔人能力の再解釈による増強の他に、急激に力を増すことなど、ほとんどない。

 だから、望月 餅子が魔人である限りにおいて、この逆転劇は説明ができない。

 これまで思考の隅に追いやっていたことが、次々と押し寄せてくる。

 「いい子」の面しか存在しないかのような、人格を感じない、いびつな笑顔。
 『緑』に追い詰められた瞬間、私の前に現れることができた理由。
 銀時計を継承したあの日の、あまりに出来過ぎた出会い。
 そして、この一面の真っ白な(・・・・)雪景色の中で、『群青日和』を凌駕した、その事実。

 純白のパズルのピースが組みあがっていく。
 たとえ私が拒んでも。

 静かに降り積もる雪が、街を白く染め抜いている。
 その中心に立っていた餅子は、ゆらり、と倒れこむ。

 それを支えたのは、フードと包帯、サングラスで全身を再び隠した、クリープだった。

「――貴女は、疲れるのですね。貴方は、眠れるのですね。あなたは――」

 駆け寄った私は、確かに聞いた。

「――『白』(ヴァイス)。あなたは、『夢』を、見られるのですね」

 彼女が、聞いたことのない名で、餅子に呼びかけるのを。

「クリープさん……」

 並行世界のデミ・ゴッドは、餅子の「変容」の理由を語らなかった。

 望月 餅子が、どういう存在であることか。
 それを語るのは、餅子自身であるべきであり、あるいは、山乃端 一人が直接彼女に問うべきことであると、サングラス越しの視線が訴えていた。

「山乃端 一人様。餅子さんは、私の能力、『浸透する美姫(クリーピング・ビューティ)』の影響下にあります。意識の中で私の姿が占める割合が日々増え、やがて廃人に至るでしょう。彼女は、それを承知で、この姿になるため、私の力を受け入れた」

 ただ、彼女は静かに宣言した。
 望月 餅子に残された、わずかな時間を。

「《獄魔》の中で、精神に干渉できるのは、この世界の私を含め、三柱。つまり、24時間中、6時間は、私の能力が餅子さんを蝕むのを止められる。それをしたとして、彼女が彼女でいられるまでの時間は――」



  •  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「勝ったか、小娘」

 クリープがこの並行世界から退去した後。
 いつの間にかジョン・ドゥは、私の背後に立っていた。
 白スーツを血に染めて、大悪魔は皮肉げに笑う。

 だが、私は、何も答えられなかった。
 目の前に突きつけられた事実。
 突然に宣言されたカウントダウン。

 情報が多すぎて、感情が飽和して、思考が停止していた。

 ただ、背負った餅子の呼吸だけが、かろうじて、時間が流れていることを――私に残された時間が刻一刻と零れ落ちていくことを私に思い知らせてくる。

 十一柱の《獄魔》を封じた。
 私の目的が達成されるまで、あともう一息。

 そのはずなのに。

 自分を殺そうする敵を、最後の《獄魔》を倒して、ハッピーエンドをつかみ取るのだと、そう思っていたのに。

 どうして、こんなことになってしまったのか。
 どうして、こうなるまで、違和感から、目をそらし続けてしまっていたのか。

 話を聞くと、約束したのに。
 久しぶりに手を繋いだのに。
 まだ、あの時と同じ呼び方も、できていないのに。

「いつまで呆けている」

 ジョン・ドゥの輪郭が霞み、ところどころぼやけていく。
 どうやら、彼は、この世界からの退去を、無理やりに拒んでいるようだった。

 私は、ぼんやりと彼の整った顔を見た。
 そこからは、先ほどまでの皮肉げな笑みは消えていた。
 人界に堕した高位悪魔は、今、初めて、山乃端 一人を真正面から見据えていた。

「誇れ。山乃端 一人(・・・ ・・)。お前の『最強』の幼馴染とやらは、玉座の罠を破ったのだぞ」

 玉座の罠。
 いつか、そんなことを言われたような気がする。

 力があって支配できてしまうことで、見落とすもの。
 隷属と共生。
 支配するものされるもの。
 役割に縛り付けられる意識。

「俺は、只人を只人だからこそ我が花嫁として横にあらしめることを諦めぬ。貴様はどうだ」

 望月 餅子は、それを乗り越えたのだと。
 ジョン・ドゥはそれを乗り越えようとしているのだと。
 そう、彼は口にした。

 少なくとも、私は、そう理解した。

「不都合な真実を前に、貴様は迷った。ならば、この名無しの悪魔(ジョン・ドゥ)が誘い惑わせる価値がある。惑え。これまでの当然を疑え。
 悪を厭わず、軽薄を躊躇わず、言葉を尽くし、万魔を恐れず、己の欲望の奥に浸透し、悪魔の言葉に耳を傾け、真の願いに辿り着け」

 この悪魔が何を言っているのか、私にはよくわからなかった。
 ただ、何かを最後に伝えようとする意志だけは明白で、それが私の凍えた心に、小さな種火を灯した。

「終わりは近い。選択の時だ、支配の力を持つ者よ」

 呆としていた焦点が絞られる。
 霞んでいくジョン・ドゥを、瞳に焼き付ける。

 きっとこの悪魔は、やさしかったのだ。
 だから、苛立っていたのだろう。刺々しかったのだろう。
 山乃端 一人と、望月 餅子の間にある、透明な壁がもどかしかったのだろう。
 只人の横にあろうとする、彼だからこそ。

「貴様が、十二番目の供物に、何を選ぶのか。あるいは、選ばざるか。白紙に何を綴るのか。俺は、鏡面の向こうから、ゆるりと見せてもらうとするさ」

 ジョン・ドゥは最後にそんな言葉を残し、鏡像が割れるように消え去った。

 『群青日和』。己が内の《獄魔》の対話した《獄魔》憑き。
 ジョン・ドゥ。『逢魔刻(クライベイビークライ)』によく似た、支配の力を持つ悪魔。
 クリープ。並行世界の《獄魔》そのものであり、もうひとりの私と友誼を結んだもの。

 この3人との出会いを経て、私は、一つの問いを突きつけられた。
 即ち、私の『最強』の幼馴染、望月 餅子との関係性をどうするか。

 心細いほど軽い体重を背負い、私は重い足を引きずる。
 時間はない。私にも。餅子にも。 



  •  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 『浸透する美姫(クリーピングビューティ)』、望月 餅子の許容限界まで、あと13日。





支配時間 名称 司る色 権能
0時(と12時) 『白』
1時(と13時) 《I-漆黒の人形(エヴォン・ドールズ) 『黒』
2時(と14時) 《Ⅱ-灰羽の雄梟(グレイ・パラディオン) 『灰』 氷結能力
3時(と15時) 《Ⅲ-血塗れの侵入者(ブラッディ・ハッカー) 『赤』 物理攻撃
4時(と16時)
5時(と17時) 《Ⅴ-憑黄泉の美姫(クリーピング・ビューティ) 『黄』 魅了
6時(と18時) 《Ⅵ-蘇生する緑(グリーン・フィンガー) 『緑』 植物操作
7時(と19時) 《Ⅶ-渇き飢える青(ディープ・ブルー) 『青』 水分制御
8時(と20時) 《Ⅷ-自浄する藍(インディゴ・パニッシュメント) 『藍』
9時(と21時) 《Ⅸ-彷徨する紫煙(パープル・ヘイズ) 『紫』 所有物引寄
10時(と22時) 《Ⅹ-銀鉄の巨塔(メタリック・バベル) 『銀』 金属操作
11時(と23時) 《Ⅺ-黄金の欲望(ミダス・デザイア) 『金』 性質強化
最終更新:2022年03月26日 23:11