番外.ロストナンバー(裏)
ゴウゴウ、ゴウゴウと絶え間なく嵐が吹き荒れる。
天高く昇っているはずの太陽は分厚い雲に遮られ、東京の地に影を落とす。
激しい雨に降られながら、男は静かに薄暗い空を見上げていた。
その日、東京の地に半径1kmにも及ぶ巨大クレーターが発生した。
自然災害ではない。戦争でもない。それはたった2人の魔人、その戦いによって引き起こされたものである。
片やその魔人の名は■■■■■。3m超の人間離れした体躯、その性能をフルに引き出す超人的身体能力、更にはそれに相応しい凶悪な魔人能力を保有し、魔人となる前から戦闘型の魔人を葬った逸話すら持つ伝説のアウトロー。
『最強の魔人』は議論の余地あれど、『最強の人類』ならば彼をおいて他にいまい。裏社会の人間は雄弁に語る。
片やその魔人の名は鳳凰柳生院十四郎。前時代的なリーゼント以外は中肉中背、希望崎学園指定学ランを羽織った平凡な容姿の少年。
だが、その肉体は森羅万象を無条件で破壊し、迫る害意を無条件で遮断する。即ち、『無限の攻撃力と防御力』。魔人を超越せし者、転校生。
国家が保有する最高戦力、魔人自衛隊すら彼の前に殲滅され、その悉くが原型を留めぬ屍を晒していた。
人類史上最強の怪物と、最強であることを世界に許された超越者。
決して無事では済まされぬ。勝敗が決するのはどちらかの死を以てのみ。
その死闘は数時間にも及び、文字通り東京の地形を変えた。無数の破壊痕、並び立つ荒々しい氷柱。気温はマイナスにも及び、クレーター内の建築物は悉く崩れ、或いは氷で覆い尽くされていた。被害規模はあまりにも甚大、東京23区の一つが丸ごと消滅する結果を引き起こした。
――勝者は■■■■■。決着手は『窒息死』。魔人能力『凍京事変』による環境を激変させるほどの大規模氷結は大気にまで及び、それは呼吸を介して鳳凰柳生院十四郎の肺を浸食、破壊したのだ。
足元には蒼褪めた鳳凰柳生院十四郎の死体が転がっている。その死体は息絶えながらも一切の土汚れすらなく、転校生という存在の異常さを物語っていた。
魔人が転校生に勝利する。それは人の身で神に打ち勝つことに等しき偉業。
だが、それ故に支払う代償も甚大である。
■■■■■の右足は無限の攻撃力によって完全に消し飛び、肉の断面を晒していた。左眼球も抉られ機能損失。その他にも複数個所で骨が露出するほどの重傷。筋肉断裂。血液も際限なく溢れ出す。辛うじて命を繋いでいるのは彼の異常な生命力の賜物に他ならない。
日本に欠損レベルの負傷を治癒する魔人能力者は存在しない。裏社会の広大な人脈を駆使したとしても代替手段を得ることが精一杯であろう。恐らくは二度と、全盛期の力を振るうことは叶わない。
「だが……それでも、俺は勝った」
「ああ、その通り。キミは勝った、本当に素晴らしいことだ」
振り返ればそこには華奢な少女が直立していた。
華美な柄の着物に身を包み、草履はぬかるんだ土を踏みつける。先ほどから絶え間なく雨が降り注いでいるにも関わらず、長く伸ばした黒髪の毛先まで一切濡れていない。まるで、世界と彼女が分け隔てられているかのように。
■■■■■は直感的に理解した。少女もまた超常の『転校生』であることを。
だが、奇妙なことに敵意を見せる様子は無い。当然だよ、と少女は思考を読んだかのように口に出した。
「『転校生』に仲間意識など無い。彼が自らの意思でこの世界に来訪し、そして敗北して死んだだけの話だ。我々には一切無関係。報復なんてもってのほかさ」
「なら、お前は何のためにここに来た。野次馬根性のつもりか?」
「まさか! ボクはただの『メッセンジャー』、そして出迎えのようなものだ」
大げさな仕草と共に彼女はそう言った。
「魔人が転校生に『成る』ための手段は幾つかあってね。認識の衝突(コンフリクト)の体験なんかは我々にとって最もメジャーなパターンだが、キミに該当するのはまた別のものだ。即ち、『転校生の単独撃破』」
「……」
「複数の魔人が結託した結果、転校生が敗北することはままあることさ。だが、転校生を個人で上回る魔人が存在するならば、その魔人は逆説的に『転校生』に相応しい。つまり」
彼女は蠱惑的な笑みと共に、小さな手を■■■■■に差し出した。
「――キミが真に世界を望むのならばボクの手を取れ。そして『転校生』となるが良い」
その言葉に、■■■■■は――――
◆◆
血の匂いが充満する。壊され、引き裂かれ、凍結させられた死体が無造作に転がる。
屍山血河に果てあらず。文字通り地獄と形容される光景。
それが戦いの結果を物語っていた。
某日、新宿の街は戦火に包まれた。
新宿の裏社会に巣食う2大ギャング、「ONCEMORE」「黒沼会」による大規模抗争の勃発。
両組織は共に数千人の規模を誇り、有力な魔人を用心棒として抱え込むことで勢力図を広げていた。
戦力的にはほぼ互角。それ故に被害が出ることを恐れ、長年停戦協定が結ばれていたのだ。
しかし、数週間前に突如停戦協定は破棄された。しかも両者合意の上で。
これは両組織が共に『相手を確実に潰す戦力が存在する』と考えていることを意味する。
「ONCEMORE」と「黒沼会」。各組織のトップは自らの側近にこう伝えていた。
「大丈夫だ。俺達には軍神がついている。軍神がいる限り俺達は必ず勝てると」
――結果から言えば、軍神は裏切った。
軍神と呼ばれたその男は「ONCEMORE」「黒沼会」それぞれに味方をすると伝えておきながら容易く反故にした。
しかもそれを堂々と明かした上で両組織に対して宣戦布告を行ったのだ。
明らかな挑発。黙って見過ごせば面子に傷がつく。
この大規模抗争の構図は「ONCEMORE」と「黒沼会」の戦いではない。
新宿2大ギャングの連合軍とたった1人の男によるものなのだ。
戦いの結末は如何なるものだったのか。死亡者リストがその惨状を物語る。
数千人の構成員、死亡。裏社会でも名の通る100人の魔人傭兵、死亡。
各々が凶悪な魔人能力者でもあるトップ2名。死亡。
生存者、ただ1名。
魔人公安すら手を焼いた凶悪魔人犯罪集団はたった一晩で滅びたのだ。
「報告いたします。調査員より情報が入りました」
秘書風の若い女が男に対して報告を行う。
軍神と呼ばれた男はワークパンツを伊賀袴のように巻き付け、レザージャケットを無造作に羽織っていた。
その身長は3mを超え、長く伸ばされた金髪は無理やり後ろで括ってまとめている。
死体の山に腰を下ろし、懐から取り出した煙草を取り出す。女は何も言わずとも火を付け、男は深く吸い込んで煙を吐き出す。
「おお、そうかそうか。ありがとうな。で、何の情報だ?」
顔立ちは整っており、鼻筋は高く、長い切れ目の藍瞳が見た者に強く印象付ける。
男が少し口元を上げてやれば女はそれだけで顔を赤くして目を逸らす。
彼女が照れたのは美形だけが理由ではない。彼に付き従う者はその全てが彼の強さとカリスマに魅せられた者であり、狂信的な感情を向けているのだ。総数は1000人にも上り、既に一大組織の様相を見せている。
最も、男が彼らを従えるのは「手駒として都合が良いから」その一点であり、故にその集団に名前は無い。
「や、山乃端一人についてです。銀時計を掛けたシスター服の少女、そして長身の男が池袋北口の中華街周辺で目撃情報があったの報告を受けました」
「ほう!!」
男は関心を持ったように顔を上げる。山乃端一人の捜索は群青日和にとって最大の関心事だと彼に付き従う者たちは知っており、それ故に東京中で大規模な捜索が続けられていた。
「よしそれじゃあ、中華街を制圧するか。100人くらい動かして残りは周辺警戒。山乃端一人は見つけ次第捕縛すること。まぁ最悪殺しても構わない。指揮官はお前に任せよう。出来るか?」
「光栄です!!」
外は曇天。湿った匂いが数刻もしないうちに降るであろう大雨を予期させる。
「良いね、悪くない」
男はお気に入りの楽曲のリズムを口ずさんで立ち上がり、屍の山を背に東京の街をアップテンポで歩きだす。
その言葉の持つ意味を、男は畏怖と共に塗り替えた。
裏社会に名を轟かす軍神にして疫病神。人々を惹きつけ、同時に破滅を呼び寄せる男。
その名は、群青日和。
1.遭難
池袋駅北口。チャイナタウン。
赤を基調にした派手な装飾の店が並び、賑やかな歓声が響く。
そんな街並みを駆ける影がある。
影の名は望月餅子。12の《獄魔》と戦う山乃端一人の『最強』の幼馴染。
彼女の表情からは余裕が失われ、焦ったかのように呼吸は浅くなっていた。
仙道ソウスケとの戦いを終えて、自らのことを明日話すと約束した日。
彼女が眠りについて目を覚ますと、山乃端一人は姿を消していた。
連絡もつかない。彼女の住処にもいない。誰に聞いても知らないと答える。
何より、山乃端一人が銀時計だけを残して何処かに消えることなど有り得ない。
指先が震えた。血の気が引いた。嘘だと思いたかった。
――思い当たる最悪の可能性。《獄魔》、或いはそれに与する魔人能力者による先制攻撃。
餅子は咄嗟に銀時計を手に取り、そして走り出した。
それから丸1日が経った。東京中をその健脚で駆け抜けて尚、望月餅子は彼女の痕跡を発見できないままでいた。
それは彼女が山乃端一人に見せたことのない表情だった。
困惑、焦燥、そして悔悟。それらが混然として胸中から溢れ出す。
「どこ? どこ? どこにいるんですかひーちゃん!! 返事をして下さい!! お願いですから!!」
走る、走る、走る。彼女は必死に走り続ける。
銀時計に未だ変化は無い。《獄魔》の気配もそのままだ。『山乃端一人』の死と共に12の《獄魔》は解き放たれ、世界に闘争と混乱がもたらされるのが世界律の定めた法則。
皮肉にも、山乃端一人に圧し掛かる非常な運命だけが、彼女の生存を証明する唯一の証拠だ。
ならば足を止めることなど出来ない。
アテが無くとも探し続けるしかない。
「あたしは……! あなたの『最強』で、必ず守るって約束したんですから……!』
夜が明けた。
人だかりが増える。スーツを身に付けた人々が横断歩道を行き交っていく。
巨大なディスプレイは淡々と情報番組を映し出す。
『速報です。イベント業界最大手で知られるTENREIグループの総帥、典礼容疑者が本日未明逮捕されました。容疑は――』
新聞の上を踊る文章は何も教えてくれない。
『あの「凍京事変」から3年。捜査続くも指名手配犯「群青日和」の足取り掴めず。掛けられた懸賞金は50億に迫る見込み。「仙道ソウスケ」に並ぶ史上最高額か』
あちらにも、そちらにも、360°見回しても、どこにも『彼女』の姿はない。
こんなにも世界は広く、人に溢れているのに、ただ一人砂漠の海に取り残されたような心持ち。
そして太陽は再び沈む。
薄暗い夜を彼女はひた走る。
ただ愚直に、必死に探し回る。
どこまでも、どこまでも、諦めずにどこまでも。
――彼女は知る由もない。
この世界は、彼女が元居た世界ではないのだと。
世界の人柱として12の《獄魔》と戦う山乃端一人が『初めから存在しない』のだと。
正確に言ってしまえば、ここは25の可能性が統合されたセカイ。そして25の運命は1人の少女に集約され、彼女は26番目の物語を見出した。
「ひゃっ!!」
ドン、と何かにぶつかった衝撃と共に姿勢が崩れる。
手に握りしめた銀時計がその勢いで宙に放られ、カランカランと地面を転がった。
自分がぶつかってしまったらしい少女は尻餅をついている。
「大丈夫ですか!?」
餅子は素早く傍の銀時計を拾い上げると慌てて少女に駆け寄り、彼女の手を握って引き上げる。
「本当にごめんなさい! ごめんなさい!あたしの不注意で思いっきりぶつかっちゃって……! お怪我は! まさか骨折とか!」
「ええ、私は大丈夫ですよ。それよりも何やら急いでる様子に見えますが……」
「ああ!! そうでした!! あたし望月餅子と申します、またお会い出来ましたら必ずやお詫びを……!!」
「いえ、どうかお構いなく……。それより望月餅子と言」
「大変申し訳ありませんでした!!」
餅子は丁寧に深々と頭を垂れた後、彼女の制止を待たずに駆け出し、やがてその姿は見えなくなってしまった。
呆然を見送ったシスター服の少女、名は山乃端一人。
「やっぱりあの人は山乃端一人の……ジョン・ドゥ?」
そこで山乃端一人は困惑を見せる。銀時計を媒介に山乃端一人へと取り憑く悪魔、ジョン・ドゥの気配が無い。普段なら影の中に潜み、必要とあれば出てくるはずだ。
直後、身に付けていたはずの銀時計が地面に落ちていたことに気づき、拾い上げる。けれど、そこにすらジョン・ドゥの気配を感じ取ることは出来ない。
「……まさか」
山乃端一人は餅子が走り去った方向を振りむいた。既に彼女の姿は見えず。そして、恐らくは最悪の想像が的中したことを悟る。
落下した銀時計は2つ。
――片や地獄の大悪魔、ジョン・ドゥの触媒たる銀時計。
――片や12の《獄魔》、その十柱が封じられし銀時計。
奇しくもその見た目は瓜二つ。
もしその2つが、衝突の際に入れ替わってしまったとしたら?
望月餅子が走る最中、チェーンの切れた銀時計はブルリと震え、
そして彼女の影が形を変えて蠢きだす、
――遠く離れたその場所で2人は邂逅した。
◆◆
「何者だ、貴様は」
白いスーツを身に纏う長身の男が望月餅子の目の前に立ち、そして睨み付けていた。
顔立ちは非常に整っている。だがそれがむしろ、彼が非人間的な存在であることを理解させる。
「答えよ、我が花嫁をどこへやった。返答次第では殺す」
突如現れたかと思えばこちらに殺意を向けてくる男。望月餅子は警戒し、数歩後退する。
新たな《獄魔》? 否、違う。男からはそのような気配を感じない。
それどころか銀時計も全く別の気配を纏っている。それは目の前の男と同一のものだ。
「ごめんなさい、分からないです! 力になれなくてすみません! ところであたしは望月餅子って言います、あなたは何者ですか!」
餅子が素直に答えると、男は訝しんだように顔を顰め、そしてぼそりと口にした。
「名前の無い男。地獄に公爵の位を冠する大悪魔、だが訳あって真名は明かせない。――信じられんが貴様に害意の類は無いようだな」
ジョン・ドゥと名乗った男の態度が僅かに軟化する。
信じられないことに目の前の男は自らを悪魔と名乗った。その真偽は不明だが、只者でないことだけは理解できる。
だが、その次に口にした言葉で状況は一変する。
「今は異常事態だと判断した。故に問おう。『山乃端一人』、この名に聞き覚えはあるか? シスター服の女だ。覚えがあるなら教えろ」
「!?」
何故その名前をジョン・ドゥが。望月餅子が息を呑む。
だが、シスター服? そんなものを着ていた覚えなど無い。
違和感がある、だが同時に長い時間駆けまわって手に入らなかった手掛かりのキッカケでもあるのだ。
望月餅子は困惑と共に言葉を選ぼうとする。
しかし直後、状況は一変する。
「へぇ。その話、俺にも聞かせてくれよ」
闇夜より男が2人の前に姿を現した。
「常に2人で動いてるって聞いてたんだけど話が違うなぁ。もしかして何かあったりでもした?」
男はワークパンツを伊賀袴のように巻き付け、レザージャケットを無造作に羽織っていた。
長身のジョン・ドゥが見上げるほどの巨体、長く伸ばされた金髪は無理やり後ろで括ってまとめている。
その口調は柔らかいものでありながら、異様な鋭さを伴っていた
「それを知ってどうするつもりだ」
ジョン・ドゥが問いかける。
「ん? 殺すよ。そのために俺動いてるんだから」
男はあたかも当然のことのように、答える。
「貴様……」
互いの殺気が高まってゆく。
一切取り繕うつもりも無い。この男は「敵」だ。
「その前に貴様が死ね」
ジョン・ドゥが拳を構える。餅子は驚いた。理由は不明なれど、この人外の男は山乃端一人を守ろうとする者なのか。
「加勢します!!」
考えるまでもなかった。餅子はシャベルを取り出し、男に向ける。
「あなたが何者かは分からないですけど、悪い人じゃなさそうなので! それに、ひーちゃんに手を出すつもりなら絶対に許しません!!」
山乃端一人の所在は分からず、不安は募るばかり。
だが今は彼に協力し、山乃端一人を狙うこの男を倒すべきだ。
自分はひーちゃんの『最強』の幼馴染なのだから。
「うんうん。そっちの方が良いよ。タイマンだとすぐに終わってしまうから」
男がゆらりと拳を握る。軸足を一歩前に踏み出す。
ただそれだけのシンプルな動作が、押しつぶすような重圧を放つ。
明らかに尋常の者ではない。奈落のように底知れぬ存在感。
拳を交えずとも分かる。この男の強さは『本物』だ。
「名を名乗れ」
「群青日和」
男はただ、短く答えた。
そして目を細め、口角を上げた。
「――俺と一緒に死んでくれるか?」
2.能動的3分間
同時刻、深夜零時。
山乃端一人は夜の中華街を必死に駆けていた。
迫りくるのは武装した複数のアウトロー。中には当然魔人もいるだろう。ドラッグによって充血した瞳、下卑た罵声が彼女の恐怖心を駆り立て、心臓の動悸を早めてゆく。
時折指示を飛ばすような鋭い声が聞こえた。このアウトロー達は無軌道に動いているのではなく、何者かの意志の下統率されている。恐らくは自分の命を狙うため。
あの雨の日を思い出す。生まれ育った場所が焼かれ、這いつくばるように逃げた日。
あれから自分が生き残れたのはジョン・ドゥが傍でいてくれたからだ。尊大な態度を見せながらも献身的に守り続け、その理由も決して明かそうとしない彼。
そんな彼は今ここにいない。
建物の影に滑り込み、息を潜める。
足音がすぐそばを通り抜けて、また遠ざかっていくのが理解できた。
けれど、これでやり過ごせたわけではない。こっそり覗き込んでみると、幾人ものアウトローが巡回を繰り返している。周辺一帯は包囲されていると見るべきだ。彼ならばいざ知らず、無力な自分に強行突破する手段はない。
このままでは追い詰められる。
ただ逃げ続ける訳にはいかない。何かしらの打開策を見つけなければならない。
けれど、どうやって?
「お困りのようですね?」
「ひゃっ!?」
突如聞こえた声に驚き、声を殺しながら周囲を振りむく。
「ここですよ、ここ」
声の方を振り向けば、月光を反射する窓ガラスから若いスーツの青年がこちらを覗く。
建物の中から話しかけているのではない。まるで、鏡の中に映り込んでいるように。
「もしかして……鏡助さんですか?」
「ええ、お久しぶりです。半年前以来ですね」
彼はニッコリと微笑んで見せた。
「鏡助さん、どうして……?」
「私の話はまたいずれ。今は貴女の現状を打破することを優先致しましょう。訳あって貴女を直接手助けすることが叶わぬ身ですが、助言くらいは可能です。銀時計はありますね?」
山乃端一人は静かに頷き、その感触を確かめる。全く同一のデザインの銀時計は、しかし彼女のモノではない。本来の所有者は恐らく、別世界の山乃端一人。
「貴女の推測通りです。25のパラレルの一つ、世界に闘争をもたらす12の《獄魔》と戦う運命を定められた山乃端一人。その銀時計には彼女が倒した十柱の《獄魔》が封じられています。そして、その封じた《獄魔》を使役することで彼女は戦う力を得ていたのです」
「……まさか」
「はい。貴女は並行世界の統合と共に25の山乃端一人の運命を背負った存在。そして同時に、条件さえ揃えば貴女は彼女達全員の力を扱うことが叶う。幸運なことに、12の《獄魔》と戦った山乃端一人は例外を除けば最も強い山乃端一人と言える。その能力は貴女の頼もしい力となってくれるでしょう」
「でも、どうやって?」
「いたぞ!! 山乃端一人だ、こんなところに隠れていやがった!!」
怒号が上がる。武装した男達が迫る。
「今は深夜零時。『白』の時間です。ならば彼女を呼び出すことが叶う。さぁ、その銀時計を離さないように。そして私に続いて言葉を」
「――はい!!」
彼女は立ち上がり、銀時計を握りしめる。ドクン、ドクン、ドクンと、その銀時計から鼓動が伝わってきた気がした。
暴力が、怒号が、理不尽が迫る。
そんなものに決して折れぬと示すように、彼女は祈りと共に言葉を紡ぐ。
「「『逢魔刻』が命じる。踊る雪花、悪意の果実、その美貌は7人の小人を狂わせる」」
一人の男が振り下ろしたバットが直撃する前に、
「「惹きつけよ――《0- 純白なる美姫》」」
その詠唱は成り、彼女はこの世に『顕現』する。
「……何!?」
バッドは間一髪で止められていた。差し込まれたダマスカスナイフが質量差などものともせず容易く押し返し弾き飛ばす。
「舐めやがって!! ぶっ殺……せ????」
再び振りかぶろうとしたバッドはその手から滑り落ちる。そしてまるで力が抜けたかのようにへたり込む。その瞳は虚ろ。まるで、何かに『魅せられて』しまったかのように。
「あれぇ? おれはおれはおれは確か山■■一■を■すって言われて、いや違うそうじゃない俺はあの女の髪が瞳が胸が足が尻が犯す犯す犯す??? おかす??? あああああそうじゃないちがうちがうちがわないなにもかんがえられないあのひとがあのひとがおれのおれの??? ああああああああああああああああああああ――――――――」
肩口まで伸ばされた銀髪、燃えるような赤い瞳、透き通った白色の肌。その美しさは芸術品のように完璧な調和を見せ、それ故に彼女が『人間ではない』と誰もが理解する。
「かつては魔神と呼ばれし12の《獄魔》。見る者全てを魅了し、狂わせ支配する異能の美姫。そして、25の並行世界では山乃端一人を主と仰ぎ、守護した者。その真名を浸透する美姫。対多人数戦においてこれ以上に最適な人選は無いでしょう」
白のドレスがふわりと翻る。そんな仕草すら、まるで見惚れてしまうように美しく。
彼女は、山乃端一人の前でドレスの裾を持ち上げ、頭を垂れた。
「主様、ご命令を。私はこれより貴女の矛となり盾となり、全てを壊してみせましょう」
山乃端一人は正面からクリープに向き合って、言葉を紡ぐ。
「お願い、力を貸してください。私が生きるために、そして大切な人と再会するために」
3.修羅場
稲妻の如き速度と共にその身が駆ける。
『大公爵:脚力強化』発動。コンマ1秒を切る加速と共にジョン・ドゥが群青日和の間合いに踏み込み、そして肉体を躍動させる。
一手、初動で放つ最高速のローキック。重厚な刃のようにその蹴りは深々と突き刺さる。
二手、拳が腎臓を精密に打ち抜き、同時に全身が流れるように連動して動き出す。
三手、四手、五手。放たれるのは正中線目掛けた三連撃。その全てが殺意の篭る必殺の打突。
瞬く間に放たれたその全ては完璧に突き刺さる。にも関わらず、この手ごたえの無さは何だ。
「良いね。素手で挑んでくるっていうのも気に入った」
直後、反撃に転ずる群青日和。ジョン・ドゥに対して放たれる大振りのストレート。
それは例えるならば閃光。魔人の動体視力ですら捉えることは不可能な速度。それでいて尚絶望的な破壊力。
「グゥッ!!!!」
ジョン・ドゥは強化された両腕により受けた拳を辛うじて逸らすことで直撃を防いでいた。
だが、それでも尚骨が軋み、打撃の威力だけで数m後退するほどの威力。
対して群青日和がダメージを受けた様子は無い。ジョン・ドゥには『大公爵』による能力の無効化がある。肉体の直接接触が可能な限り、防御系の魔人能力は彼に対して一切意味を為さない。
これが意味することはただ一つ。
群青日和は純粋なタフネスのみでジョン・ドゥの攻撃を容易く受けきったのだ。
「俺の拳を受けきるか。久しぶりだなぁ、コイツは面白くなりそうだ」
「化け物め……!!」
連続で繰り出される群青日和の拳をジョン・ドゥが正面より受ける。
恐ろしい速度の拳が直線距離で打ち込まれたかと思えば、突如蛇のように軌道がうねり不定形の乱打が襲う。
セオリーを完全に無視する無形の拳。武の合理は「人間のため」に作られたのだと理解させる圧倒的な暴力。
反撃の隙を与えぬ猛攻が続く。受け続けるジョン・ドゥの表情に余裕は無い。ギリギリで逸らすたびに削られる体力。僅かにでも手元が狂えばその時が死だ。
これが1対1であったのならば間違いなく押し切られていたであろう。1対1であったのならば。
『大公爵:視覚共有』。タイミングを見計らったジョン・ドゥは微かに目線を動かし合図を出す。
群青日和の後方より風を切って迫る一撃。
「おっと!!」
気配より感づいた群青日和はジョン・ドゥを一気に突き飛ばし即座に反転。
後の先を取る異様なまでの反応速度。先制して振るわれたシャベルの柄を容易く掴み止める。
「こいつがお前の武器か」
掴んだシャベルを奪い取ろうとしたその瞬間、シャベルごと餅子の体は持ち上がり、その勢いのまま餅子は跳躍。群青日和の顎に膝蹴りが叩き込まれる。
望月餅子の魔人能力『もちもちぺたぺた肌』。
触れたものを決して放さぬようにすることが可能となる魔人能力。
餅子はシャベルと手を接着させることで武器の剥奪を防ぎ、同時に群青日和へのカウンターを炸裂させたのだ。
「ははははは!!!! 今のは効いたぜ……!!」
群青日和は愉快だとでも言わんばかりに獰猛に口元を吊り上げ、拳を握る。
振るわれた拳とシャベルが正面より激突し、大気を震わせる。
一合、二合、三合。膂力で圧倒的に上回るのは群青日和。打ち合う度に骨が軋み歯を食いしばる。正面から打ち合い続けるのは得策にあらず。
四度目の激突を迎える直前、餅子はシャベルを手放し、ギリギリで躱すように身を屈めながら鋭い蹴りを繰り出す。
その脚は落ちていくシャベルを捉え、そして触れれば決して離さぬもちもちぺたぺた肌。脚でシャベルを叩きつけるように放たれる意表を突いた一撃。
その一撃は確かに群青日和を捉えた。だが、動きを止めるには程遠い。
タフネスに身を任せたノーガードによる強引な踏み込み。間合いに捉えた群青日和は超至近距離から恐るべき剛腕を振るう。
(まずい!!)
回避は不可能、少しでもダメージを軽減するために餅子が構えた時、群青日和の体が揺れる。
背後より叩き込まれる不意打ちの一撃。それは僅かに隙を作り出し、餅子は間一髪で間合いから逃れる。
「すみませんありがとうございます!! 感謝感激誠に助かります!!」
「御託はよい、さっさと態勢を立て直せ」
「はい!!」
不意打ちを叩き込んだジョン・ドゥに対し、振り向きざまに放たれる群青日和の裏拳。
「――これを待っていた」
『大公爵:思考加速』、発動。
刹那の刻を数百倍に引き伸ばし、ジョン・ドゥの眼はスローモーションの世界でその軌道を見切る。
完璧なタイミングの掌握、全身の脱力。
顔面を拳が捉え、しかし回転と共にベクトルを捻じ曲げ逸らす受け流し。
狙いは受けた一撃の速度を利用する一撃必殺のカウンター。
『大公爵:肉体強化』発動。指先への一極集中強化。
形作られた手刀。それは例えるならば居合の理。
慣性による速度に踏み込みの加速が加えられ、僅か一瞬の間隙を狙い放たれる一刀。
拳の間合いと速度で放たれる刃を躱せるか、刃の鋭さで振るわれる拳を受けられるか。
「へぇ」
群青日和はそのどちらも選ばずに、ただ手招きするように指を動かして、
ガガガッ!!
直後、下から高速でせり上がる氷柱。それが防壁のように割り込んで防ぐ。
「――『凍京事変』。今からここが俺の領域だ」
瞬く間に周辺一帯の地面が氷で覆われ、埋め尽くされる。肌に感じる気温が急激に低下し、無数の氷柱がせり上がる。
まるで環境そのものを塗り替えるかの如き異様な出力と効果範囲。だが、それは群青日和が持つ強さの本質ではない。
「チッ!!」
逸らされる手刀の軌道、せり上がる氷柱によって封じられる視界。
その隙を突いて群青日和が取ったのは、クラウチングスタートを遥かに極端にしたかの如き異様な前傾姿勢だ。
放たれるのは直線距離のタックル。技とすら呼べぬ極めてシンプルな一撃。
だがしかし、
もしも、史上最も強靭な骨格と筋肉を兼ね備えた人類が全身のバネを限界まで圧縮し、更に魔人の身体能力を上乗せしたならば。
そして氷上の「滑走」による加速を手に入れたならば。
――次の瞬間、群青日和の姿は音を置き去りにして世界から消えた。
「――――ガッ!!!!」
群青日和の巨体が音速を超えてジョン・ドゥの肉体を捉えた。
まるでトップスピードの新幹線と激突したかの如き衝撃。
否、それは正しくない。こちらの方が威力は上だ。
骨が砕かれる。肉が裂かれる。防御など何の意味もなさぬ。
辛うじて原型を留めているのが奇跡としか呼べぬ圧倒的な破壊力。
膂力だけの問題ではない。技術だけの問題ではない。魔人能力だけの問題ではない。
種も仕掛けもなく、ただひたすらに『強い』。それが群青日和という男の持つ力の本質。
それだけの事実が、彼に相対する者全てに絶望を与える。
ジョン・ドゥの肉体は数度バウンドし、恐るべき速度で吹き飛ばされていく
「何ですか……それ……!!」
これこそが群青日和。数多の伝説を築きし最強の怪物。
「おっと、よそ見は良くないな」
「!?」
滑走による死角への高速移動、氷上を容易く破砕するほどの震脚。
次の瞬間には丸太の如き豪脚の蹴りが、望月餅子の胴体に亜音速で叩き込まれる。
「ゴフッ!!」
餅子の肉体は上空に打ち上げられ、更に振り下ろされた追撃の拳が彼女を氷上に叩きつけた。
内臓から大量の血が吐き出される。辛うじて手放さずに済んだのは意識だけだ。
立ち上がれ、立ち上がれ、早く立ち上がれ!!
脳が必死に命令を下す。だが四肢は反応せず、ただ痙攣し続ける。
「ん――、こんなところで終わりか。俺に能力使わせたのは大したもんだが、やっぱりダメだな」
「ま……だ……まだ……!!」
「まだ喋る元気はあるかね。丁度良い」
群青日和は倒れこむ餅子の髪を掴んで持ち上げる。
「山乃端一人ってどこにいるか知ってるか?」
「……何でひーちゃんの命を狙うんですか」
「質問に質問で返すなよ……まぁ良いけどよ。『山乃端一人』のことを知ってるならお前だって分かるだろ。山乃端一人を殺せば、それをトリガーに世界を巻き込んだ闘争が起こる」
「……」
「戦って戦って戦って戦って戦って、無数に積み重ねた屍の上で死ねるなら最高だ。そのためには強者が要る。俺と対等に戦える強者が。山乃端一人なら俺の願いを叶えられる。だから叶えさせる」
「――本当にそうですか?」
「……どういう意味だよ」
群青日和は眉間に皺を寄せ、顔を近づける。
餅子は淡々と、その言葉を吐き出した。
「戦って死にたいんじゃなくて、死にたいから戦ってる、の間違いじゃないですか?」
「――」
「だってずっと、目が笑ってなかったですから。戦闘狂のフリをしてるのに全然楽しそうじゃない。あたし、そういうのって一発で分かるんですよ。違和感アリアリです」
望月餅子は人の本質を見抜く目を持っている。そして時に、それは恐ろしく冷淡に発揮される。
髪を掴む手が僅かに緩む。群青日和の動揺、餅子はその瞬間を見逃さなかった。
飛び跳ねるように起き上がり、するりと蛇のように回り込む。そして、鍛え上げられた彼女の両腕が群青日和の首を強固に絞め上げる。
群青日和は餅子の腕を掴み、万力のように握力を掛けていく。筋肉が爆ぜ、骨が砕けていく。常人なら発狂し意識を失うほどの激痛。だが、代償に群青日和の体はもちもちぺたぺた肌によって固定され、触れた傍から肉体の動きを次々と縛っていく。
『もちもちぺたぺた肌』は触れたものを絶対に離さないようにする、ただそれだけの魔人能力だ。
応用こそ効くが、決して強力な魔人能力ではない。
持続時間は1秒。だが、己への負荷を代償に持続時間を延ばすことが可能。
現在、能力を発動してから既に十数秒が経過していた。
『最強』の自分が更に『最強』の相手に打ち勝つために、戦力差を埋めるために取れる手段は限られていると、望月餅子は理解している。
頭が痛い。吐き気がする。幻覚が見える。血の気が失せていく。命の灯が消えてゆく。
そんなもの知ったことか。歯を食いしばって耐えれば良いだけの話だ。
餅子は冷徹に覚悟を決めていた。群青日和はここで必ず殺す。
望月餅子の命が燃え尽きるのが先か、群青日和が死ぬのが先か。これはそういう戦いだ。
彼女が今の自分を見たらどう思うだろうか。怒って叱るだろうか。
ひとりぼっちにしてしまってごめんなさい。最後まで守り切れずにごめんなさい。本当はひーちゃんにもう一度だけ会いたかったけれど、どうやらそれも叶いそうにありません。
ひーちゃんは私を救ってくれた。だから私も、『最強』の護衛として務めを果たします。
「そんなことが許されるか、馬鹿め」
突如、そんな思考を遮るかのように言葉が聞こえて、同時に首元を掴まれる感触。
「死を以て役目を果たすのは替えの利く駒だけに許される所業よ。貴様はその程度の器でなかろう」
ジョン・ドゥは銀時計の所有者から10m以上離れることが出来ない制約を課せられている。では、仮に不可抗力で10m以上離れた場合どうなるか?
その姿は一度世界から消え去り、所有者の傍に再出現(リスポーン)するのだ。
『大公爵:能力無効』発動。『もちもちぺたぺた肌』が解除され、接着と餅子に掛かり続けていた負荷がふっと消える。そして群青日和から餅子を引き剥がし、抱き抱える。
「な、何で……!」
「話は後だ。逃げるぞ」
「どこへですか! そんな場所!」
「絶対に銀時計を離すな」
ジョン・ドゥは餅子を抱いたまま後方に倒れこむ。
そしてそのままトプンと、
背後に転がっていた「鏡」の中に2人の体は消えていった。
◆◆
「チッ、アイツか」
群青日和は不機嫌そうに舌を打つ。2人が消えていった鏡に近づき、踏み砕く。
鏡の世界を自在に出入り可能な魔人能力者を群青日和は1人しか知らない。
『山乃端一人』に肩入れし、力を貸す唯一の転校生。鏡助。
己が踏み砕いた鏡も、鏡助が脱出経路を想定して仕掛けていたものだろう。
今や肉体を失い、鏡の世界でしか生きられなくなったあの男は殆ど無力な存在だ。小賢しく動き回ることしか出来ない男に用は無い。
それよりも優先されることが今は一つ。
「第一陣構えッ!! 撃てッ!!」
放たれる無数の銃弾を形成される氷塊が防ぐ。
「第二陣用意!! 構えッ!!」
この掛け声は間違いない。自分の側近を気取り、山乃端一人の捜索を任せていた女の魔人能力『SANDANSHOT』。発声によって配下の行動を完璧に統率する能力は有用であるため傍に置いていたが、ここで裏切るとは。自分のカリスマも褪せてきたかとひとりごちる。
――否、違う。自らに牙を剥くアウトローの軍勢の中に一人異彩を放つ女がいることに群青日和は気づいた。
光沢を放つ銀髪に燃えるような赤い瞳。見る者誰もを惹きつける魔性の女。間違いない。この集団を真に支配しているのは彼女だ。
「よぉ、べっぴんさん。アンタの名前が知りたいな」
「大変申し訳ございませんが、主様に害を為す悪党風情に名乗る名などございませんので」
「そうかい、じゃあ仕方ねぇ」
『凍京事変』発動。
再び群青日和を中心に地面の氷結が広がっていく。世界が無慈悲に凍り付いていく。
対峙するはクリープ、そして彼女が支配せし100人の軍勢。
「その程度の数で大丈夫か? 聊か心許ないように見えるが」
「ええ、ですから」
パチン、とクリープが指を鳴らす。
無数の足音と共に、建物の影より続々と武装した者達が現れる。
彼らの瞳は悉くが虚ろ。
その総数は1000を優に超える。
「更に10倍の兵力を用意致しました」
「……控えさせてた奴ら全員洗脳したのかよ、コイツはしてやられたな」
「ご満足頂けて何よりです」
群青日和は深くため息をつくと拳を握り、ゆったりと構えた。
氷のように冷め切った瞳が、己の敵を無感情に捉える。
「だが、俺にとっては何の障害でもない」
クリープはダマスカスナイフを取り出し、気品のある仕草で礼をした。
降り注ぐ月光が、彼女の美貌をどこまでも引き立てる。
「存じ上げております」
『凍京事変』群青日和 VS 『浸透する美姫』クリープ
「私が請け負った 命令は『群青日和の足止め、時間稼ぎ』。そして『絶対に死なないこと』。ええ、完璧にこなしてみせましょう。主様、――そして今はこの世界に在らぬお嬢様。どうか、我が戦いをご覧じて下さいませ」
4.赤の同盟
モノクロームの海を深く、深く、ゆったりと沈み込んでいく。
空には月が、眼下には街並みが、それなのに派手な彩色も喧噪も程遠く。
ジョン・ドゥと望月餅子は鏡面世界にふわりと音もなく降り立つ。
「お待ちしておりました」
そんな2人を一礼と共に迎えたのは若いスーツの男。
この鏡面世界の主、鏡助。
そして、
「ジョン・ドゥ!!」
シスター服の少女が駆け寄って、そして彼に抱き着いた。
「我が花嫁、ここにいたのか」
「ええ、鏡助さんとクリープさんの力を借りて何とか逃げてこられました」
「クリープ? 聞き覚えが無いな、何者だ」
「私の頼もしい味方です。今は別の役目で動いて貰っています。それより……」
ジョン・ドゥのスーツに顔を埋め、やがて少女は嗚咽を漏らし始めた。
強く握りしめられた服の裾が皺を作る。
「不安……だったんですよ」
「……心配を掛けた。悪かったな。大公爵とあろうとも者が情けない」
「本当に、無事でよかった」
ジョン・ドゥは満身創痍の身で彼女の背にゆっくりと手を回す。そして、姿勢はそのまま頭だけを動かす。
視線の先には鏡助と餅子の2人。
「鏡助、この度は助力に感謝する」
「滅相もありません。貴方が山乃端一人を守護し続ける限り、私は貴方達への助力を惜しみませんよ、ジョン・ドゥ」
「あの……お知り合いですか? それにひーちゃんの名前が何故ここで」
困惑し、疑問を呈する餅子。鏡助はそうですね、と呟き彼女の方を向く。
「先ほどは彼と共闘して頂き誠にありがとうございました。貴女がいなければ、間違いなく詰み(デッドエンド)となっていたでしょう。貴女には話さなければなりません。この世界のこと、そして今貴女が置かれている状況について」
そして鏡助は語り始める。
無数の並行世界の存在。あらゆる世界で必ず死を迎える山乃端一人。
その中で生まれた25の運命の出会い。25の物語の始まり。
12の《獄魔》と戦う山乃端一人と望月餅子はその中の一つであること。
しかし今、並行世界は完全統合され、全ての山乃端一人の存在と記憶がたった一つに集約されてしまっていること。
僅かな沈黙。望月餅子は、その言葉を絞り出すよう。
「……じゃあ、ひーちゃんは」
「ええ、貴女の知っている山乃端一人はこの世にいません。それどころか、この世界は貴女の知っている世界ではない。」
「……元に戻す方法は」
「並行世界統合の原因は『転校生』の来訪にあります。転校生さえ打ち倒すことさえ出来れば、並行世界運営は正常化し、元の在り方を取り戻すはず。ただし、確実にとは言えません。過去に例のない事態であるが故に」
望月餅子は唇を噛んで言葉を失う。
大切な親友がこの世界にいないことには薄々気が付いていた。
入れ替わった銀時計、ジョン・ドゥの言葉の違和感、山乃端一人の命を狙うと公言していながらも、そこに《獄魔》の気配を一切感じ取ることが出来ない群青日和。
望月餅子は見た目や言動によらず決して愚かではない。冷静に事象を捉え、感覚的に本質を掴み取る彼女はむしろ聡明であるとすら言えた。
だが、この時ばかりは愚かでいたかった。
気が付いていながらも命を捨てるような愚行に走ったのは、どこか心の底で「取り戻せない可能性」に気づいて自暴自棄になっていたから。
彼女は自らの頬をゆっくりと這うようになぞる。
指先の動きに従って現れるのはロベリアの花を形取った銀の紋様。これが、山乃端一人に話すつもりだった彼女の秘密。
「――《Ⅳ- 銀色の悪意》。あたしに取り憑いている12番目の《獄魔》の名前です」
ポツリ、ポツリと。誰に促されるまでもなく、それはまるで懺悔のように。
「銀色の悪意は山乃端一人と最も親しい者に取り憑き、11体の《獄魔》が封印された時に初めて活動を開始します。権能は《無限の攻撃力と防御力》。封印の完遂を絶対に妨げ、山乃端一人を嘲笑う「悪意」によって生み出された最低最悪最強の《獄魔》。あたしは取り憑かれた時にこのことを全て理解しました」
「だから、あたしはひーちゃんから離れて1人で修練を行いました。『最強』になって《獄魔》との戦いでひーちゃんを護るために。銀色の悪意が動き出した時、自らの力で対抗できるように。――勿論、自害も込みで。長い時間が掛かってしまいましたが、あたしは確かに『最強』になれたと思います。けれど、今となっては……」
「あたしはひーちゃんに本当に救われて、だからひーちゃんのためなら命を投げ出したって良いと思ってました。だけど、あたしはひーちゃんを結果的にひとりぼっちにして、言えない秘密も抱えまくって、こんな唐突に別れちゃって。あたしはまだ……何も返せてないのに! 本当に最低だ……!」
少女の瞳からポロポロと涙が零れ落ちてゆく。
悔しさ、後悔、そしてどうしようもない諦観の涙。
「餅子」
そうやって、彼女の名前を呼んで手を握ったのは、山乃端一人だった。
呆気に取られる餅子、山乃端一人は言葉を続ける。
「私は25の山乃端一人の記憶を持っています。その中には貴女の知っている山乃端一人もある。――私は本当の意味で貴女のことを知りません。こんな傲慢なことが許されないのも分かっています。でも、どうしても伝えたくて」
「一体何を」
「貴女が『ひーちゃん』と呼ぶ山乃端一人は、貴女のことを大切に想って感謝していました。貴女が山乃端一人に救われたように、孤独に戦っていた山乃端一人も望月餅子に救われて、貴女のことを親友だって思っていた。貴女のことを信じたいと思っていた」
「――――」
「私達が必ず貴女と山乃端一人を引き合わせます。転校生を倒して、絶対に世界を元通りにします。絶対にです。――だから、私と私の悪魔のことを信じてください」
鈴のような声で、懸命に伝えられる言葉。
根拠も確信もない。それなのに何故言い切ってしまえるのか。
「なん、ですか、それぇ……!!」
溢れんばかりの涙を流す望月餅子の手を、山乃端一人はずっと握りしめていた。
泣いて、泣いて、ひたすら泣いて。泣き続けて。
「……ええ、分かりました! 分かりましたとも!」
やがて涙が枯れ果てた時、彼女の表情はどこか晴れやかになっていた。
未来がどうなるかは望月餅子には分からない。本気で楽観視出来るほど強くはない。
けれど、この時ばかりは山乃端一人を信じると決めた。
胸をドンと叩き、声を張って、意気衝天と面を上げて見栄を切る。
「ひーちゃんの『最強』の幼馴染、望月餅子!! 今はこんなことになってはしまいましたがこれも合縁奇縁に多少のご縁と申しましょう!! 『最強』の敵を倒すため、『最強』のあたしが『最強』の皆様に助力致します!!」
そして彼女はいつもの如くにかっと笑ってみせたのだった。
5.群青日和
モノクロームの空。色褪せた電灯。灰色の街並み。時の概念すら存在せぬ作り物の世界。
鏡面世界の主、鏡助はその中心に降り立っていた。
魔人能力によって生み出されたこの鏡面世界は現実の法則から完全に切り離されいる。
故に、『逢魔刻』は時刻によって召喚可能な《獄魔》が変わる制約を無視してフルスペックを発揮することが可能。
本来この抜け道は12の《獄魔》と『逢魔刻』の仕組みが誕生した時から想定されたものだったが、それを知るのは鏡助ただ1人だ。
主戦力となるジョン・ドゥと望月餅子は『黄金の欲望』による自然回復力の黄金化を受け、万全とまではいかないが体力を取り戻した。
クリープは群青日和と戦闘を続け、現在に至るまで足止めを成功させている。
後は己が最後の仕上げを行うのみ。
鏡助は静かに目を瞑る。
「群青日和」
豪雨が降り注ぐ新宿、その路地裏で2人は出会った。
転がる大量の死体。洗い流せないほどの返り血を浴び、もはや立ち上がれぬほどに傷ついた男。
「ふざけるな。そんな馬鹿なことが許されてたまるか」
己に課せられた破滅と死の運命を知った時、彼は激昂した。その瞳には理不尽への憎悪と生存への執念を宿していた。
鏡助にとってそれは好ましいことであった。■■■■■の多くは初期段階で生存を諦め、そして死ぬ。運命を変えるためには運命に立ち向かえる人材が必要だ。
かくして2人の戦いが始まった。
あの男には何度も驚かされた。非魔人であるのに戦闘型の魔人と互角と渡り合い、何度も奇跡的な勝利を収めたのだ。超人的な身体能力に天賦の才能を男は有していた。時に敗走し、綱渡りの死闘を繰り広げながらも彼は戦い、それを鏡助は支え続けた。
「コードネーム? 何でそんなものが必要に? 我々は別に組織でも何でもないでしょう」
「だって格好良いだろ。それに本名はあんまり好きじゃない。……なぁ、何か考えてくれよ。アンタに名付けて欲しいんだ」
「ふーん。それじゃあ、『群青日和』なんてどうです? 耳にタコが出来るくらい聞いているじゃないですか、お似合いですよ」
「適当に決めてるんじゃねぇよ!? ……だけど悪くないな、よし決まりだ。今日から俺は『群青日和』だ」
そう言って、彼が照れくさそうににやけていたことを今でも鮮明に覚えている。
歯車が狂ったのは群青日和が魔人に覚醒した時だ。
彼は強くなった。強くなり過ぎてしまった。
あくまで人間の基準で大柄だった彼の体格は、3mを超える人間離れしたものに変貌していた。
戦闘型の魔人と互角に戦ったその拳は、裏社会で名を馳せた魔人の肉体を一撃で破壊するようになった。
時には魔人能力だけで容易く死体の山を積み上げることもあった。
『群青日和』の意味を、彼は畏怖と共に塗り替えた。
裏社会に名を轟かす軍神にして疫病神。ある者は恐れ慄き、ある者はその強さを狂信する。
絶大なカリスマを利用して大規模抗争を引き起こし、生み出された屍山血河の上に独り立つ男。
「俺と一緒に死んでくれるか?」
彼の強さを知っても尚、立ち向かう胆力を持つ強者達に絶望を与えながら群青日和は口にする。笑顔の仮面を被り、その瞳に氷のような冷ややかさを宿しながら。
「転校生にはならねぇ。世界なんて不要だ。そんなものどうでも良い。 全部無意味で無駄で無価値だ」
「――だから、代わりに俺が『山乃端一人』を殺してやるよ。どうせ近いうちに次代が生まれるんだろ。山乃端一人を殺し、破滅を呼び寄せて、全て破壊してやる。俺自身も含めてだ。邪魔をするなよ転校生。死にたくなければな」
26の物語の0番目。
死と破滅の運命を定められながらもその全てを単身で打ち砕いた英雄。
しかし英雄は「魔」に呑まれ、悪鬼に成り果てたのだ。
群青日和、その真の名を『山乃端一人』という。
◆◆
さあさあ聴いてくれたまえ。
これより語り始めるは、無数の正義の物語。
だが、正義とは、なんだろう。
ある者たちの正義こそ、ある者たちの不正義だろう。
ある集団の禁忌こそ、ある集団の常識だろう。
その答えは千差万別、表裏一体。世界は混沌としてうねりを繰り返すもの。
それでも、私には許容できないものがある。嫌悪するものがある。後悔するものがある。
故にこれは、私のエゴと祈りの物語でもあるのだ。
これより始まるは我が『虚堂懸鏡』の繰り出す大秘術。
現世と鏡面は対極にして反転にして等しきものなれば、
陰陽太極図の如き『流転』など容易きことである。
さぁ、これで舞台は整った。
祈り手達よ。運命の糸を手繰り寄せ、物語を紡ぐものよ。
どうか、私の友を止めてくれ。
破片よ集いて鏡画を描け――『虚去堂東懸顕鏡京』
◆◆
血の匂いが充満する。壊され、引き裂かれ、凍結させられた死体が無造作に転がる。
屍山血河に果てあらず。文字通り地獄と形容される光景。
それが戦いの結果を物語っていた。
総数1000人超の軍勢、その悉くが鏖殺。
返り血で濡れた群青日和がクリープの首を掴み、ギリギリと締め上げる。
純白のドレスが鮮血で染まり、その柔肌は幾つもの傷を負っていた。
「お前はよくやったよ。1000人超もの人数を洗脳して従える能力は素晴らしい、ナイフ捌きの鋭さも見事だった。だが、それまでだ」
「ええ……存じ上げています」
「山乃端一人の居場所を吐け。そうすれば楽に死なせてやる」
締め上げる力が強くなり、クリープは苦悶の声を漏らす。
絶体絶命の状況。それにも関わらず、
クリープは勝ち誇ったかのように顔をほころばせていた。
「何がおかしい」
「今に分かりますよ、全て」
パキパキパキパキ。
空間に亀裂が入る。周囲の光景が急激に色褪せる。
足元のコンクリートが泥のように形を失い、空に浮かぶ月は水彩画のようにゆるりと溶けて広がっていく。
「間に合いましたね」
やがて地面は崩壊し、群青日和の体は虚空に投げ出され、そしてモノクロームの空を深く沈んでいく。
群青日和は知っている。
鏡面世界と現実世界の境界を曖昧にすることで他者を強制的に鏡面世界へと引き込む『虚去堂東懸顕鏡京』。
鏡助め。鏡面世界を決戦の舞台にするつもりか。
自由落下の最中、空中に浮かぶ物体を蹴り飛ばし、強引に推力を得て地面に着地する。
目前に立つのはジョン・ドゥ、望月餅子、クリープ、そして山乃端一人。
「蹂躙してやる。一人残らずだ」
群青日和は表情を変えずに冷酷に呟いた。
最終決戦が今、始まる。
6.OSCA
踏み込みと共にフルスロットルで加速した2人が正面から激突する。
速度と共に群青日和が放つ渾身のストレート。
相手を容易く肉塊にする威力の篭ったその一撃は、しかしジョン・ドゥの迎撃を正面より受けて停止する。
群青日和は即座に転じて拳を引き、間髪入れずに更なる六連撃を放つ。直線と楕円が組み合わさる複雑軌道を描き打ち込まれる絶死の一撃。
それらを弾き、逸らし、いなして受ける。六連撃、悉くがジョン・ドゥに届かず。
完全にではない。だが、以前の戦闘と比べて反応速度が明らかに上昇している。
最後の六撃目に合わせてジョン・ドゥは大きく軸足を動かし間合いの内に踏み込む。拳風を纏う目にも止まらぬ直拳と交差するように叩き込まれる拳が腹筋に深く突き刺さる。
「グッ……!!」
その一撃を受けて群青日和の巨体が微かに揺れる。
対の手による追撃の掌底を群青日和は強引に払いのけ、大きく飛び退く。
だが、その背後から迫るのは望月餅子とクリープ。
「合わせます」
「『最強』のコンビネーションでいきますよ!!」
2人の獲物が的確なタイミングで群青日和の背に叩き込まれる。
「チッ!!」
『凍京事変』発動。群青日和の背後より高速で氷壁がせり上がる。
あらゆる攻撃に先んじる群青日和の反射神経と広域凍結能力がある限り背後を取られることは無い。
多重に形成された氷壁で攻撃を受け、作り出した隙によって一撃で仕留める。それが己の築き上げた黄金パターン。
「それは!! 読んでいました!!」
だが直後、空中から振り下ろされるシャベルが群青日和の頭部を真っ直ぐに捉えて穿つ。
「ガッ!!」
意識外から不意の一撃、それは本来の威力を上回るダメージを群青日和に刻み付ける。
続けて空中より放たれる左右からの2連撃が群青日和の肉体を抉る。だが、3撃目の一撃は大きく弾かれ、餅子は姿勢を崩す。
即座に転じて反撃を放とうとした群青日和を遮ったのはクリープが側面から放つ4本のナイフだ。
それぞれ初速と弾道を変化させて放たれたそのナイフを群青日和は左手で払い撃ち落とす。
頭部から血液が滴り落ちる。己がここまでの傷を負うなど何年ぶりのことか。
先ほどのシャベルの一撃。望月餅子の魔人能力を考えれば、恐らくは氷壁に張り付いて駆け上がり、空中から仕掛けたといったところだろう。
不意を突かれたとしても、己ならば後の先で対応が出来るという自負を群青日和は抱いていた。だが、そんな自らが遅れを取った。
態勢を整える間も無くジョン・ドゥと望月餅子が左右に回り込み挟撃を仕掛ける。
同時に打ち込まれる猛攻を受け続けるが傷は増えるばかりだ。
能力を発動しようとすればジョン・ドゥが踏み込み、発動を封じてくる。片方を一気に潰そうとすれば餅子のもちもちぺたぺた肌が先んじて動きを縛り、そして痛烈な一撃を叩き込んでくる。
更に2人を援護するように立ち回るクリープ。2人に比べれば戦闘力こそ一段落ちるが、それ故に引き際の見極めが上手く、絶妙に妨害を差し込んでくる。厄介度で言えば2人を上回るだろう。
強い。間違いなく強い。
だが、群青日和が感じていたのはそれ以上の強烈な違和感。
事実、この戦場には『対群青日和』を目的とした手が幾つか打たれていた。
一つは黄金の欲望による「反応速度」の黄金化。
もう一つはクリープの魔人能力。『浸透する美姫』の存在。
『浸透する美姫』はクリープの姿を視認させることで対象の理性を浸食し、思考をクリープに向けさせる能力である。
クリープが1000人超の軍勢を支配してみせたように理性の浸食が最終段階まで到達すれば自在に命令可能にすることも出来るが、浸食速度には大きな個人差がある。
クリープが短時間で支配が出来たのは彼らが『群青日和のカリスマ』という精神的な旗印に縋っているため、『浸透する美姫』が極めて効きやすい相手だったからに過ぎない。
群青日和のような強靭な精神力を持つ者相手に数時間で理性を崩壊させることなど不可能だ。
しかし、この能力の真価は理性浸食による支配のみに在らず。
彼女と交戦した群青日和の思考には微かに、だが確かにクリープの存在が植え付けられていた。
クリープの存在は、その思考からいつ如何なる時にも消え去ることは無い。例え思考能力の全てが要求される極限戦闘の最中にあったとしても。
クリープの存在が完全な集中を妨げ、思考能力を低下させる。無意識にクリープへ向けられた注目が、それ以外への反応速度を低下させる。
怪物、群青日和を人の域に引き摺り落とし、刃を届かせる。
今この戦場を支配しているのは十柱の《獄魔》を自在に率いる山乃端一人だ。
「ならば、コイツは止められるかッ!!」
群青日和は負傷も厭わず強引にジョン・ドゥと餅子を吹き飛ばし、大きく後退。
『凍京事変』発動。群青日和を中心として瞬く間に氷結が広がってゆく。そして、クラウチングスタートを遥かに極端にしたかの如き異様な前傾姿勢を取る。
史上最強の身体能力を余すところなく速度と破壊力に注ぎ込む一撃。防御不能、反応速度が強化されていようとも関係ない。
直後、破裂音。同時に爆発音。
直線距離で放たれた音速越えのタックル。
爆風を伴い、ミサイル弾頭に匹敵する破滅的速度で突き進むその一撃は、しかし山乃端一人に届くことはない。
山乃端一人に激突する直前、急激に勢いを失い停止する。
停止させたのは、ジョン・ドゥ。
「何だと……!!」
《Ⅸ-彷徨する紫煙》の引き寄せ能力によってジョン・ドゥを山乃端一人の目の前へと移動させ、《Ⅹ-銀鉄の巨塔》が散らばるダマスカスナイフを元に即席のワイヤートラップを作り出すことで、タックルの速度を軽減する。
そして、
『大公爵:肉体強化』 × 《Ⅺ-黄金の欲望》
重ね掛けによる脚力の極大集中強化。
だが、それでも尚膨大な威力を受け止めたジョン・ドゥの両手は壊れ、指はあらぬ方向に捻じ曲がっていた。
ジョン・ドゥはそれを一瞥し、
「何も問題は無い」
壊れた右拳が強引に振るわれ、群青日和の顔面を捉えて殴り飛ばす。
「シッ!!」
軸足で踏み込み、続けて撃ち込まれること五度。ジョン・ドゥの剛拳がモノクロームの世界に火花の軌跡を描く。刹那の一呼吸と共に全ての軌道が直撃し突き刺さる。
(有り得ない……!!)
強靭無比な群青日和の巨体が数歩よろめき、そして膝をついた。
転校生すら打ち破った『群青日和』の不敗神話が、今まさに崩壊しようとしていた。
「借りを返すぞ、群青日和」
悪魔が拳を振りかぶる。
『大公爵:肉体強化』『大公爵:思考加速』『大公爵:能力無効』発動。
強烈な軸足の踏み込みと共に最大初速、最短経路、最高効率で打ち込まれる一撃。接触の瞬間に運動量が解放、伝達され、拳速をそのまま威力に変換することで人体を破壊する。即ち発勁。
――渾身の一撃は群青日和の胴を捉え、そして意趣返しのように吹き飛ばした。
◆◆
視界の先にモノクロームの空が広がっている。広がる静粛、コンクリートの冷ややかさを感じる肌。だが血の匂いだけは死の気配と共に確かな実感を以て纏わりつく。
その五体は力なく投げ出され、群青日和は傷つき地面に転がっていた。
群青日和の肉体には既に莫大なダメージが蓄積していた。1度目の交戦、クリープによる時間稼ぎ。短時間に行われた度重なる戦闘が、じわじわと群青日和を蝕んでいる。
ここまで傷つき、苦戦したのは転校生、鳳凰柳生院十四郎との戦い以来だった。
あの死闘で群青日和は転校生相手に勝利を修め、運命に打ち勝った。しかし、代償に右足と左目を失い、内臓にも多大な損傷を受けた。
視界の半分を常に暗闇に支配される。どれほど頑丈な義足であっても生身でない以上力の運用に支障をきたす。今の群青日和の実力は全盛期の半分にも満たない。だが、それでも群青日和の『最強』は揺るぎないものであった。人々は群青日和を恐れ、或いは狂信した。
ならば、今の状況は何だ。何千もの魔人を単騎で殺し得た男がたった4人の魔人相手に押され、敗北しようとしている。
このままいけば間違いなく死ぬだろう。それこそが己の望んだ結末のはずだ。それなのに、このドス黒いものは何だ。怒り、憎しみ、複雑に入り混じった感情が己を突き動かす。
意識を朦朧とさせたまま一気に立ち上がる。
「もう良い。このまま全員死ね」
『凍京事変』、最大解放。マイナス237.15°。即ち絶対零度。生命活動を完全に絶ち、内外より体組織を崩壊させる絶殺空間の形成。かつて転校生すらも殺害し、半径1kmを崩壊させた最悪の運用法。戦闘も対話も無視し、全てを問答無用で無に還す EFB級能力の本懐。
『――群青日和』
解き放とうとした瞬間、声が聞こえたような気がした。
郷愁と寂寥感を含んだその一言が、内側に入り込んで。
「…………」
故に、群青日和は『凍京事変』を止めた。
そして代わりにただ拳を構えた。
群青日和は無意識のうちに、己の内に巣食っていた感情の全てを切り捨てていた。
残されたのは生存本能。死を否定し、生にしがみつく意志。
それこそが『山乃端一人』の名を持つ男が抱いた始まりの感情。
立ち上がろうとするジョン・ドゥを制して、少女が彼の正面に立った。
少女の名は望月餅子。12の《獄魔》と戦う『山乃端一人』、その『最強』の幼馴染。
「両手がぶっ壊れているのに無理しないで下さい。あたしがやります」
ズン、ズン、ズンと少女は歩みを進める。やがて、2人は互いの拳が届く距離へ。
群青日和のアドバンテージはその体格と圧倒的膂力。更に今、群青日和の心身は不純物をそぎ落とし、完璧に近い合一を果たしていた。天性の格闘センスと無数の戦闘経験によって形作られた群青日和本来の実力が、満身創痍を感じさせぬ抜き身の鋭さを発揮する。
望月餅子のアドバンテージはその魔人能力。受けより転じて打。打より転じて投。
正道にして変幻自在が彼女の持ち味。5年の歳月をただ1つの目的と献身のために注ぎし修練者。練り上げられてきた功夫と拳の重さは尋常のそれではない。体格差など容易く覆して見せるだろう。
3m超の男が少女を見下ろす。160cmの少女が男を見上げる。視線が交差し重なる。
そして、最後の殴り合いが始まった。
拳を振るう。蹴りを放つ、腕で払い、返しの肘を叩き込む。
頭突きから転じて打ち込まれる正拳突き。半身を引いて躱し、一拍遅れて打ち込まれる返しの拳。
2人の立ち位置は刹那の間に何度も入れ替わり、虚実入り混じる高速の攻防が繰り広げられる。
無限に等しい選択肢を読み合い、打ち合い、牽制し、放たれるカウンター。
繰り返し交わる拳が曼荼羅の如き複雑軌道を描く。殺意ではない。敵意でもない。最適化された、不純物無き生存闘争。
一合、十合、百合、千合。
度重なる状況の変化を経て、現状2人の戦力は拮抗。どちらにも容易く天秤は傾き得る戦い。
そして、長きに渡る打ち合いの果てに、それは決着を迎えた
ほぼ同時に振るわれた拳が互いの顎を掠め、一瞬意識を飛ばす。
肉体がぐらりと揺れる。膝から崩れ落ちる。
――踏み止まったのは、望月餅子。
餅子は群青日和の肘を掴み、そして足を掛ける。
触れただけで、一瞬くっついたまま、離れなくなる魔人能力。故にこれは回避不能の一撃。
技の名は、『大外刈』。
痛烈に叩きつけられた群青日和の頭部はコンクリートを砕き、それが確かな致命傷となる。
群青日和はブラックアウトする意識の片隅で望月餅子の姿を最後に捉えた。
そして、満足するように笑みを浮かた。
鏡面世界に激しい雨が降り始める。
仮初の曇天。その空はまるで、遠くより眺める誰かの感情を代弁したかのように。
こうして、エゴと祈りの物語がまた一つ終わりを告げた。
2日目 『凍京事変』群青日和 撃破
7.空が鳴っている
是にて4人の物語は幕を閉じる。
山乃端一人の召喚に応じ、その全霊を以て彼女への献身を尽くしたクリープ。
「主様、どうか貴女の行く未来に祝福を。そして幸運を。短いながら、貴女に仕えた時間は喜ばしいものでした。叶うならば、お嬢様に貴女を引き合わせたかった。きっと、素晴らしい友人となったでしょう」
短い一礼と共に、美しき彼女は風に攫われたかのように姿を消していた。
この世界では12の《獄魔》の1柱として彼女は在るが、並行世界ではまた異なる在り方を取っているのだという。その中には「お嬢様」と共に在る世界もあるのだろう。
どうか、彼女の未来にも幸福がありますように。山乃端一人は静かに祈る。
そして、もう一つ。物語の発端となった銀時計の入れ替わり。
群青日和を倒すまでは成り行きでそのままとなっていたソレは、最後の別れの時に再び交換される。
ジョン・ドゥの触媒たる銀時計は山乃端一人の元へ。12の《獄魔》が封じられた銀時計は望月餅子の元へ。
『逢魔刻』はもう使えないが構わない。あるべきものはあるべき場所に還るべきなのだ。
「もしもピンチになったらあたしを呼んでください! この『最強』の望月餅子が、ひとちゃんを助けるために地球の裏側からでもすっ飛んで来ますから!」
「ひ、ひとちゃん……?」
「ひーちゃんはひーちゃんなのでオリジナルの愛称を考えてみました! ……嫌でしたか?」
「ううん、嬉しい……! ありがとうございます、餅子!」
2人は固く手を握り合う。いつかお互いに使命を果たして、そしてもう一度出会えたならば。
今度は、平和な世界を一緒に歩こう。ひーちゃんも交えて3人で。
ジョン・ドゥを入れ忘れたと言う餅子に、彼は苦い顔をしてむしろ数に入れるな、居座りが悪くて仕方ないと答える。
山乃端一人はそんな彼の顔がおかしくて、クスクスと笑ってしまう。何がおかしいと渋い顔で抗議するジョン・ドゥを見て餅子も揃って2人で笑う。
ああ、これがどれだけ幸福なことか。彼女は深く噛みしめるのだ。
姿が見えなくなるまで手を振り続けた望月餅子を2人で見送った後、
「12時間後だ」
ジョン・ドゥはその言葉を口にする。
「群青日和が倒されたことで静観していた転校生が動き出す。奴らが顕現に要する時間は12時間。今日が決戦の日だ」
是より始まるのは正真正銘、彼と彼女の物語。
死と破滅の運命を定められた少女、山乃端一人。
少女に取り憑く悪魔、ジョン・ドゥ。
これは正義の物語であり、エゴの物語であり、祈りの物語であり、
そして愛の物語でもあるのだ。
◆◆
エーデルワイス。気高き白を意味し、純潔を象徴する。それは天に近い場所でのみ花を開かせる。
花言葉は『高潔な勇気』『大胆不敵』。そして、『大切な思い出』。
これは、悪魔と共に旅をした3日間。その最後の旅路の話だ。