私立妃芽薗学園中等部の入学式は4月1日に行われる。
桜の開花時期を待つ間もなく、日本が誇る全寮制女子校は鬱蒼とした森の中で開校を宣言していた。
天気はあいにくの大雨。
綺麗なセーラー服に身を包んだ100名以上の女子生徒たちは、講堂で静かに雨粒が木々の葉を叩く音を拝聴していた。
学園都市、妃芽薗。
最大の特徴は「許可なく魔人能力を発動できない」という点にある。
学園が独自に開発した『高二力フィールド』の影響下にあるここでなら、魔人も非魔人も関係なく、健全な青春を迎えることが約束されていた。
そして高二力フィールドは門外不出の秘匿事項とされており、入学式を以て全貌が知らされる。
基本的に魔人能力は中学生の内に目覚めることが多いため、新入生にはあまり関係のない話だ。
一通りのセレモニーを終えて、生徒たちは渡り廊下を歩いて自分の教室へと向かう。
制服の裾が雨で湿ったことを気にして、ハンカチで水滴を拭う姿もあった。
そんな中、ひとりだけ周りと違う黒い服に身を包んだ女子生徒がここに居た。
彼女はツバの大きなとんがり帽子を脇に抱え、不敵な笑みを浮かべている。
まだ授業が始まる前だというのにノートがぎっしり詰まった鞄を大事そうに持っている。
見るからに浮いているだとか協調性が無さそうという印象を与える彼女は、既に周りの生徒から変な目で見られていた。
時は移ろい、粛々と入学初日の段取りは進められていく。
黒い服を纏った不良少女と同じクラスになった女子生徒たちは「うへぇ」と陰鬱な気持ちになりながらも、態度に出すことなく静かに着席していた。
私立学園であり外部の人間との接触の少ない場所なので、制服を着崩したり着ないことにあまり意味は無い。
だが、そういうことはカースト上位の生徒だけが許されることであり、入学初日から行ってしまうのはあまりに「空気が読めない」というものだ。
そんな非難の目を気にする様子もなく、少女は鞄からノートを1冊取り出すと、おもむろに書き物を始めた。
どこまでもマイペースな人物のようだった。
*
失敗した。
何これ。
三国屋碧沙はノートに書き殴るようにして、己の失態を恥じていた。
これから学園一の賢者を目指す者として弱気な態度を出すものかと自制しているが、本当は今すぐここから逃げ出したい気持ちだった。
――聞いていた話とまるで違う。
妃芽薗は魔人学園と聞いて入学を志望したはずだったが、学園都市には変な力が張り巡らされていて、一切の魔人能力を封じられていた。
それが高二力フィールドというのは入学式で聞かされたことだが、誤算も誤算である。
こんなことなら素直に希望崎学園に入っておけば良かったとさえ思う。
おまけに真面目な生徒率の高さが異常だ。
右も左も判子で描いたように澄ました女子生徒ばかりで、まるで個性が感じられない。
気合を入れて魔女コスで登校したのも大きな間違いだったようだ。
自己紹介では挨拶代わりの魔人能力発動でクラスメイトに差をつけるつもりだったが、計画は全てパーである。
非難轟々の集中砲火を浴びながら、出来ることはノーダメージアピールをするぐらいのものだった。
しばらくノートに顔を埋めながら震えていると、教室のドアが開いてクラス担任の先生がやってくる。
たぶん卒業するまで憶えることのない、平凡な顔や名前をした男性教師だった。
その教師が二言三言話をした後、クラス全員の自己紹介が始まる。
名前順に1人ずつ前に出るという、これまた面白みに欠ける催しだった。
碧沙の順番は後ろから5番目だったので、しばらく退屈な時間が続く。
この学園は平和そのもので、自分以外に特別な存在は居ないようだった。
他人の自己紹介を聞いてそう確信した。彼女たちは非魔人ばかりのようだ。
こんな場所に3年間――それどころか6年間も在籍するなんて考えたくもないが、これも悪魔が与えし試練なのだろう。
やがて自分の番が回ってくる。
背丈を大きく見せるためにとんがり帽子を被り、しっかりとした足取りで黒板へと向かった。
深呼吸を1つすると、昨晩から練習してきたお気に入りの台詞を披露する。
「私の名前が知りたい? いいわ。貴女たちには特別に教えてあげる。
誰が呼んだか、魔術師ヘキサ。――あ、そんなに睨まないで。真名は三国屋碧沙よ。
この身に宿りし魔人能力に従い、黒魔術の研究をしているわ。以上よ」
台詞の途中で教師に睨まれるというハプニングこそあったが、自己紹介は淀みなく終わった。
教室がしんと静まり返る。
これで注目間違いなし――と思ったのだが、向けられていたのは冷ややかな眼差しのみだった。
やはり凡庸たる彼女らには崇高な考えは伝わらなかったようだ――。
そう諦めて席に戻ろうとしたとき、パチパチパチと手を叩く音が聞こえた。
それは自分の席の後ろに座っている、整ったおさげ髪が特徴的な少女が発していたものだった。
我関せずといった調子でむすっとした表情を浮かべるクラスメイトたちとは対照的に、彼女だけが碧沙の自己紹介に感銘を受けていたようだ。
周りから浮くことも気にせず、にこやかな笑顔を向けている。
無個性からはみ出た、選ばれし者は彼女のみ。
碧沙はフッと不敵な笑みを浮かべ、表舞台を去ることにした。
入れ替わるようにしておさげ髪の少女が黒板の前に立つ。
初めは緊張と怯えの入り混じった頼りのない表情をしていたが、やがて覚悟が出来たのか、凛とした顔つきになって彼女の自己紹介が始まった。
「は、はじめまして、私の名前は山乃端一人と言います。
将来の夢は小説家になることです。よ、よろしくお願いします……!」
深々とおじぎをすると、首から下げる銀色の懐中時計がキラリと輝く。
まるで鈴のように透き通った声で話す少女だった。
*
キーンコーンカーンコーン――。
自己紹介が終わって、休み時間。
先程までの静けさが嘘のように弾けて、あちこちで席を立って会話をするクラスメイトの姿が散見された。
他の人と同じように行動するのは負けのような気がして癪だが、振り向かずには居られない。
碧沙がくるりと後ろを向くと、ガチガチに固まっていた一人と目があった。
「わぁ」と情けない声が漏れて、しばしお見合い状態が続く。
どうやら互いに思っていることは同じだが、対人経験の乏しさから切り出せないで居るようだった。
先に口を開いたのは碧沙の方だった。
「貴女、黒魔術に興味は――」
「うん! すごく興味あるよ!」
食い気味に答える一人。
それがどういう意味合いを持つのかは、当人だけが分かれば良い。
拗れた者同士の挨拶のようなものなのだから。
碧沙と一人は、こうして同盟を結ぶことになった。
個性の抑圧された学園で出会った、奇妙な縁。
休み時間終了のチャイムが鳴って、碧沙は「また後で話しましょう」と切り上げる。
黒板に向き直る直前、一人が机に広げているノートが目についた。
それは恐らく、彼女が現在執筆中の作品が載っている1冊なのだろう。
表紙には綺麗な文字で『エーデルワイス』と書かれていた――。
*
2時間目の説明会を終え、そのまま帰りの会が始まり、その日は解散ということになった。
明日から本格的に授業が始まるわけだが、入学初日は生徒にとって易しめに設定されているようだ。
このまま寮に戻るも良し、学園都市を見て回るも良し、出来たばかりの学友と駄弁るも良し――そんな感じだ。
時間はまだまだたくさんある。
けれど、秘密の話し合いをするには、放課後の教室は少し騒がしすぎるのだ。
どちらともなく誘い、碧沙と一人は図書室で話の続きをすることにした。
校舎1階に設置されている図書室は立地のせいか蔵書数が少なく、ワンルームに収まった図書館といった印象を受ける。
学園都市に併設されている大図書館の方が蔵書が多いため、学園内の図書室を利用する生徒は少ないらしい。
だが、その寂れ具合がむしろ心地良かった。
碧沙たちは入り口から一番離れたテーブル席に座ると、声のボリュームが大きくならないように気を付けて話を始めた。
「そのノート、貴女が書いている小説かしら?」
「うん。今書いてるというか……考え中のオリジナル小説だよ」
碧沙が興味を示したのは『エーデルワイス』と書かれた一人の執筆用ノート。
何を隠そう、碧沙も小学生の頃から小説――もとい世界に隠された真実を書き記すことに執着しているので、親近感が湧いていた。
自分が執筆してきた21冊の魔法書についてどう言い出そうか迷っていると、一人は言葉を続けた。
まるで後ろめたい気持ちでもあるように、うつむきがちに話し始める。
「私ね、小説というか……オリジナルの魔人を考えるのが大好きなの」
「魔人?」
「う、うん。テレビでは魔人を悪者みたいに扱うけど、力も正しく使えば正義にもなるんじゃないかって、いつもそんな風に考えてる。
小学校の頃の友達にもこういうことを言うと『おかしいよ』って言われたんだけど……碧沙ちゃんは、どう、かな……?」
早口になってまくし立てたかと思えば、最後は消え入りそうな声で同意を求めてきた。
彼女は初対面の印象とは裏腹に、感覚のズレで悩む性格のようだった。
あるいは――孤立したという経験から来るアイデンティティによって、小説家になるという決心が付いたのかもしれない。
世間一般的な認識として、魔人と犯罪者はイコールで結ばれている。
どんなに譲歩されても犯罪者予備軍のレッテルを剥がすことは出来ないだろう。
いつも心の中に凶器を隠し持ち、自分勝手なタイミングで平和を乱そうとする者――それが正義の味方であるはずが無い。
フィクションの世界ではどうだろうか。
国語や道徳の教科書に載るような物語には当然、魔人が出てくるような話はあまり無い。
あったとしても善い王様を誑かす魔女だったり、妹をこき使う意地悪な姉だったりと、『悪』の象徴ばかりだ。
マニア向けの娯楽小説やハリウッド映画まで目を向けてようやく、「正義の心に目覚めた魔人が巨悪を滅ぼす」というダークヒーローものが見受けられる。
一部の層から支持を受けることもあるが、基本的にレビューサイトでのウケは悪い。だから供給も少ない。
魔人を根っからの正義として描こうものなら、「現実と創作の区別が付かないのか」とバッシングの嵐だ。
それぐらいに一人の思想は偏っているとしか思われないだろう。
「やっぱり……変、だよね……」
返答が遅いのを気にしてか、明らかに落ち込んだ様子の一人。
彼女は間違いなく変人だが、愛すべきタイプの変人だった。
もしも彼女が大成すれば魔人の定義そのものが覆るかもしれない。
「いいえ、貴女は立派な小説家に――立派な悪魔憑きになれるわ」
「えへへ……ありがとう。碧沙ちゃんならそう言ってくれると思った」
つい照れ臭くなって言葉を誤魔化してしまったが、その意図も含めて彼女は笑ってくれた。
どうやら似た境遇の者同士、本当に仲良くなれそうだ。
気を取り直して一人は執筆用ノートの最初の1ページを開いて見せる。
そこには主人公の名前や能力詳細と、手書きのイメージイラストが目についた。
黒いマントを纏いし、ダークヒーロー然とした大人の女性のようだった。
背景にはデフォルメされた太陽が描かれていて、そのモチーフがはっきりと伝わってくる。
だが、名前に振り仮名が振られていないため、何と読むのか分からなかった。
「ありま……まよう……?」
「ううん、これは有間って読むんだよ。有間真陽」
「なかなか癖のあるネーミングセンスね」
根っからの小説家らしく言葉遊びが好きなのか、繋げて読んだときにダジャレっぽくなる名前だった。
それから真陽という女性の設定について解説を受ける。
「彼女は今井商事という会社に勤める、借金取りの女性なの」
裏社会の人間だが正義心が強く、困った人を放っておけない性格の持ち主。
彼女が手を差し伸べた人には光が差し込み、誰もが救われてしまうという。
まさに太陽をモチーフとした明るい女性だった。
「能力名は『超速加速運動』。触ったものを加速させたり停止させたりする能力だよ」
「なかなか使い勝手が良いというか……色々と悪さ出来そうな能力ね」
能力が発現した背景や具体的な能力原理まで、ノートにはびっしりと書き込まれていた。
小説家を目指しているという彼女の熱意は遺憾なく発揮されているようだ。
次のページに目を移すと、くりくりとした目が特徴的な小柄な少女が描かれていた。
背景には何故かローマの世界遺産が描かれている。
「この娘は浅田るいな。真陽さんと同じく今井商事に務める女の子で、かつて真陽さんに救われた境遇の持ち主なの」
「主人公のパートナーみたいな存在かしら?」
嘘が嫌いで、常に真実だけを追い求める猪突猛進タイプな少女のようだった。
能力名は『真実の口』――あぁ、だからローマの世界遺産を。
周囲の人間が嘘を吐けなくなるという能力は一見地味だが、彼女の性格をよく反映しているようだった。
それから今井商事の主要人物が何人か続く。
よくこんなにポンポンと思いつくなと感心するが、肝心の物語はあまり見えてこない。
次のページをめくろうとすると、「あっ」と一人が静止を求める。
「あ、あの……元々これは人に見せるつもりは無かったの。だから……笑わないでね?」
ここまで来て急に弱気になる一人。
一体何が書いてあるのかと逆に気になりつつ、ページをめくっていく。
そこには目鼻立ちの整った美少女が居たが、今までのキャラクターとは異なりモチーフが分からない。
まるで何の取り柄も感じられない少女の背景には懐中時計が描かれていた。
相変わらず名前が読めない。
「やまのはな……こどく……?」
「えっと、やまのはじゃなくて、山乃花……下の名前は、孤独って言うの」
「――――あぁ!」
合点がいったようにぽんと手を叩くと、彼女は羞恥で顔を真っ赤にしていた。
いわゆる自己投影という奴だろう。名前の字を変えることで誤魔化そうとしている。
しかも彼女こそが本作のメインヒロインというのだから相当にイタい。
碧沙も同じようなことをした経験があるので他人を笑える権利は全く無いのだが。
「でも、孤独っていう字面はヒロインっぽくない気がするわね。普通に『一人』でいいと思うけど」
「そ、それだとストレート過ぎるから……でも、考えておく」
思えば一人という名前もそれなりに変わっているが、そこに言及するほど碧沙は無神経では無い。
物語は有間真陽が山乃花孤独――改め、山乃端一人と花屋で出会うところから始まる。
彼女は裁縫が趣味という以外にあまり取り柄のない一般女性だが、その気になれば大勢の人を巻き込める爆弾を抱えていた。
爆弾持ちであることを隠しながら生きていたある日、彼女は15年前に別れたきりの幼馴染と再会の約束を果たす。
これが全ての物語の幕開けだった――。
「――と、ここまでが第1話の冒頭だよ」
「なるほど。物語らしくなってきたわね」
合間に挟まるあらすじを読み進めつつ、ページをめくる手が止まらない。
次に飛び込んできたのは、今までの作風とは打って変わって悪役らしい風貌をしたカマキリ怪人だった。
「なんと、再会した幼馴染は悪の科学者の手によって人体を改造されていたのでした!」
「急にダークな話になったわね……」
幼馴染、もといカマキリ怪人の名前は谷中皆と記載されていた。
長い年月を越えた幼馴染との再会というハートフルなイベントは急転直下。
自我を失った幼馴染の暴走により、危うく一人は命を落としそうになる。
そこに真陽が駆けつけ、間一髪のところで命を救われる。
事情が分からない真陽は続けて皆を殺そうとするが、一人がそれを止める。
「揺れ動く心の葛藤! こんな姿になって街を破壊しようとしても――幼馴染が死ぬところは見たくない!」
次のページに進むと、制服の上から科学者のような白衣を身に纏った少女が描かれていた。
「そこに現れたのは正義の科学者! 徳田愛莉ちゃん!」
「なるほど、彼女の力で幼馴染を人間に戻すのね」
ややご都合主義が否めないが、科学に科学をぶつけるのはありがちな展開だ。
そして真陽に並ぶ『正義の魔人』の1人のようだった。
愛莉の力によって幼馴染は元の姿に戻りましたとさ――めでたしめでたし。
あらすじなのであっさり書かれている点は気にしないでおく。
「ここまでが第1話だよ」
そんな調子で第2話も語られていく。
第2話は希望崎学園からパーティーの招待状が届くところから始まる。
真陽と一人がその招待状の場所まで行くと、そこはデスゲームの会場になっていた――。
「今度はデスゲーム研究会の面子に命を狙われる孤独ちゃん……!」
「結構な急展開ね」
話の脈絡はあまり気にしないタイプなのか、終始無茶な展開が続いていた。
しばらくはデスゲーム研究会のメンバー紹介を交えつつ、デスゲームが進行していく。
相手にとって有利なルールばかり押し付ける彼らに苦戦していると、見知らぬ助っ人が参戦してくる。
「偶然デスゲームに居合わせていた丈太郎が、あらゆるルールを打ち破りながらデス研を倒していく!」
「彼女もなかなかに強い能力持ちね」
ロープが持つ性質を強化しながら戦う丈太郎の能力は、真陽同様に拡大解釈が捗る魔人のようだった。
どうやら第2話は丈太郎の能力説明に費やす回になるようだ。
「最後は真陽と丈太郎が力を合わせ、傲慢なデス研を打ち破ったのでした。めでたしめでたし」
そこまで語って満足したのか、一人はノートを手に持ちぱたんと閉じた。
どうやら現時点ではここまでの構想らしい。
「ど、どうだった……かな?」
「えぇ。貴女の書きたいものは伝わってきたわ。あらすじはともかく……本文もぜひとも読んでみたいわね」
「うん! また出来上がったら見せるね!」
果たして感想として適切なものだったかは分からないが、一人は満更でもなさそうにしていたので良かったのだろう。
せっかくなので、次の話についても聞いてみることにした。
「第3話は何を書きたいかって、もう決まっているの?」
「うん。今まで登場してきた3人の正義が力を合わせて、強敵をやっつける話が書きたいと思ってるところだよ」
「ふーん……それも面白そうね」
碧沙が感じた通り、愛莉や丈太郎は続投を前提に作られた魔人のようだ。
彼らが力を合わせたとき、一体どのような戦法を取るのだろう。検討もつかない。
「一応、こういうシーンを書きたいっていうイメージはあるの。今日インスピレーションが湧いてきたばかりだけどね」
「どれどれ」
ラフスケッチは別の場所にあるようで、先程までとは離れた場所にあるページを開くと、挿絵のような巨大イラストが現れた。
そこに描かれていたのは真陽、愛莉、丈太郎と対峙する黒い魔女の姿だった。
黒い魔女はとんがり帽子を被り、様々な魔法を駆使して3人を追い詰めようとしているシーンだ。
ふと碧沙は椅子から立ち上がり、自分の服装と黒い魔女の姿を見比べる。
偶然とは言えないほど一致しているように見えた。
「これってもしかして……私がモデルなのかしら」
「そ、そうかも。あはは……気に触ったならごめんなさい」
「いいえ、そういう訳では無いけれど。――面白いわね」
碧沙は能力の関係上、多くの魔人と敵対することを望んでいた。
高二力フィールドが幅を利かせている妃芽薗学園ではそういったイベントは望めそうも無いが、せめて創作の中では暴れたいものだ。
「ひとつ、私の魔術を教えてあげる」
「うんうん、聞きたい!」
案の定興味を示してきた一人に自分の能力を教えてあげると、「それは決戦に相応しいね!」と嬉しそうにしていた。
それからしばらく、エーデルワイスと銘打たれた物語をより面白くするためのアイデアを2人で出し合い、その日は解散となった。
*
「また新しいシーンが出来上がったの! 読んだら感想聞かせてね!」
登校するたびに彼女の執筆用ノートはどんどんページが埋まっていく。
それから碧沙が一人の小説のことを考えない日は無かった。
もはや何が面白くて何が不要かどうかすら曖昧になるほど、一人の書いた小説に耽溺する毎日だ。
彼女は決して速筆では無かったが、確かな足取りで物語を着実に進めていく力を持っている。
どうやって繋げるのか不安だったあらすじからは想像もつかないアプローチで、キャラクターが魅力的に動いている。
思わず嫉妬してしまうぐらい、一人は小説を書くのが上手だった。
「この台詞、ここのシーンの対比になっているのね。感情がよく伝わってくるわ」
「えへへ。そこに気付くとは碧沙ちゃんも読み上手だね!」
休み時間の間ずっと、そんな風に感想を言い合って、互いに良い刺激を与えている。
当然碧沙も読むばかりではなく、魔法書の執筆に精を出していた。
あっという間にエーデルワイスの第1話は出来上がり、第2話が幕を開ける。
デスゲーム研究会と真陽たちの戦いが激化してきた頃、事件は起こった――。
*
梅雨前線も活発になる季節。
あれから2ヶ月という期間を経て、エーデルワイスは早くも佳境に入っていた。
最初の頃から上手だった文章力も更に磨きをかけて、臨場感に溢れる文章が目に飛び込んでくる眼福な日々を送っていたのだが――。
「へ、碧沙ちゃん……これ、第2話の最後まで書いたの。また読んだら感想聞かせてね」
「あら、お疲れ様。――なんだか最近やつれてない? あまり無理しないようにね。すぐに読んで感想伝えるわ」
ここ最近、一人の様子がおかしい。
目の下にクマが出来ているだけでなく、まるで何かを隠しているようにぎこちない表情を見せることが多くなっていた。
根を詰めすぎて寝不足になっているのかとも思ったが、それだけとも思えない。
もうひとつ変わったことと言えば、一人に友達が増えたということだ。
群れないことを矜持とする碧沙にとっては歓迎したくない話だが、彼女にも彼女の都合があるので深入りするつもりは無かった。
だが、何となく嫌な予感がするのだ。
「おーい、一人ぃ! 今から体育館倉庫前集合なー! 遅れるんじゃね―ぞー!」
教室前のドアから粗暴な女子生徒の声がする。
――まるで個性を感じさせない、群れていないと話にならない、至って凡庸な一般人だ。
生理的嫌悪が凄まじい。どうしてこんな奴らと一人がつるんでいるのだろう。
「うん。すぐに行くね」
一人は振り返ると、粗暴な女子生徒に笑顔を見せる。
それはあまりにも痛々しい表情だった。
――やめろ。その顔を私以外に向けるな。
不意に湧いてきたドス黒い感情が表に出ないよう気をつけながら、冷静に声をかける。
「ねぇ、何かあったら私に相談しなさいよ。私たち、契りを交わした仲じゃない」
「うん……ありがとう。でも、全然大丈夫だから……」
明らかに大丈夫ではない様子で一人は立ち上がり、教室の外へと出ていく。
本当は付いていきたい気持ちが喉まで出かかっていたが、能力を持たない自分は無力そのものだった。
それに――自分が除け者にされているだけなんじゃないか、という虚しい思いも否定出来ずにいた。
本当は自分なんかよりも、一人は他の人と学校生活を送りたいのではないか――と。
途端に胸が苦しくなって、それでも小説ノートを渡されたのは自分だけなんだという虚勢を張る。
ノートを開き、エーデルワイスを読み進める。
書かれている文体から、どんな気持ちで彼女が執筆しているか大体分かるようになった。
何かを急いでいるように、綺麗な字体が崩れて描写に齟齬が生まれ始めている。
今日までに完結を間に合わせる理由があったのではないか――。
ページをめくる手が止まらない。
真陽は、丈太郎は、デスゲーム研究会は、一人は、一体どうなってしまうのか。
最後まで読むと、それは感動的な結末を迎えた。
だが、同時に「続きは書けない」と思わせるものを感じさせた。
あまりに綺麗に終わりすぎていて、第3話のことをまるで考えていないように思えたから。
これで最後、と突きつけられた気がした。
文字のナイフが胸を抉る――。
どうして――そこまでして自分を否定したいのか。
あんまりではないか。
最後の1行は何度も消しゴムで消したような跡の上から、「終わり」と記されていた。
「はじまり」ではなく、「続く」でもなく、それは「終わり」。
彼女は一体何を書いていたのかと、目を凝らして消えたはずの行間を読む。
それは幾つかの文字が重なって出来ていた。
『たすけて』
『死にたい』
碧沙は帽子も被らず、気が付くと教室を飛び出していた。
*
「どうして……もっと早く相談してくれなかったのよ!」
碧沙は無我夢中で走り続ける。
――気付けなかった。一番近くで見ていたはずなのに。
――本当は気付いていた。何も出来ないから、見ないフリをしていた。
――知らなかった。彼女がこんなに思い詰めていたなんて。
――本当は知っていた。痛いほどに伝わっていたのに、最後まで彼女を信じきれなかった自分が憎い。
全身が悲鳴を上げて泣き言が漏れそうになるのを必死に抑えて、何度も地面を蹴り上げる。
見知ったはずの妃芽薗学園の校舎が今は長く感じた。
物語に出てくる主人公のように速く走れない。
魔人能力を取り上げられた自分は無力だ。
体育館倉庫に続く渡り廊下には女子生徒らの人だかりが出来上がっていた。
まるで行く手を阻むように。特別になろうとせず、中立を気取る彼女たちが嫌いだ。
「どいて! ――私の友達がそこに居るの!」
人混みを掻き分けて、狭い通路を強引に進み続ける。
もう一度、彼女の笑った顔が見たい。
もう一度、彼女の書いた物語が見たい。
もう一度、彼女の描く正義の行く末が見たい。
もう一度、彼女の友達として傍に居たい。
「もう間に合わないよ」と誰かが言った。
到着した頃には、全てが手遅れだった。
体育館倉庫で見つかったのは5人の女子生徒。
死体と死体と死体と死体と死体。
内3人は碧沙が知り合うこともなかったどこかの誰か。
傷ひとつない身体で眠るように。既に息をしていなかった。
一人を連れ去った粗暴な女子生徒の姿もあった。
もう1人の女子生徒に倒れ込むようにして、他の生徒と同じように意識だけを失っている。
命だけが失われている。
碧沙は彼女たちを一瞥すると、綺麗なおさげ髪をした女子生徒の死体に駆け寄った。
その身体は痣だらけで、しかし誰かに刺された様子もなく、動かなくなっている。
明らかに普通では無い方法で、彼女たちはこの世を去っていた。
「山乃端……さん……」
その人形のように綺麗な死体をそっと抱きしめる。
彼女のどんな姿を見ても泣くものかと決めていたのに、行き場のない感情が嗚咽となって溢れて止まらない。
魔人にも正義の心を見出そうとした優しい作家の生涯は、あまりにも残酷に終わりを迎えた。
体育館倉庫に魔女の叫び声がこだまする。
その日、この世界の山乃端一人が死亡した――。
*
5人の遺体は駆けつけた教師たちによって事後処置が施され、碧沙と一人は引き離された。
耐えきれないほどの喪失感が全身を襲う。
あの光景を思い出すだけで膝から崩れ落ちそうなのに、おぼつかない足取りで教室に戻ろうとしていた。
まだ立ち止まるわけにはいかない。
彼女の遺作を――エーデルワイスを読まなくては。
明日になれば、何事もなかったかのように彼女は登校してきて。
「この表現、とても詩的で美しいね」とか。
「あの伏線はこのシーンを描くためにあったのね」とか。
他愛も無い会話で盛り上がって、次の作品を書き始めるのだから。
太陽が落ちてきて、世界は真っ赤に燃えている。
長い影が廊下で踊っている。
人の居なくなった校舎を、彼女が居なくなった校舎を、魔女は泣きながら歩いていた。
「せめて……感想を聞いてからでも良かったじゃないの……」
果たされることのない約束。
まるで作中のヒロインのように、山乃端一人という少女は真っ直ぐだった。
真っ直ぐに――死ぬことを選んだ。
もしも自分が有間真陽だったら、間に合ったのだろうか。
誰よりも速く走れる彼女なら、一人が死ぬことを止められたのだろうか。
あるいは――もっと早く気付いて、この状況を打破出来たのだろうか。
「そうね……自分の無力さを嘆くばかりだわ」
力があれば止められたかもしれない。
けれど、その力の使い方を誤れば、彼女を本当の意味で救うことは出来ない。
物語の主人公のように、強くはなれない。
他に生徒が居ない教室で、碧沙は立ち尽くしていた。
やっと見つかった希望の星が、こんなにも呆気なく失われてしまうなんて思わなかった。
彼女が残した光の残滓をそっと手で掬う。
砂粒のように綺麗な文章が、海のように広大な情景が、空のように果てしない物語が、ページをめくるたびに現れる。
美しいものばかり、彼女はこの世に残していた。
その意志を、今度は自分が継ぐ番だった。
この世にある美しくないものは、これから全て消し去らなくてはいけない――。
「なんだ、三国屋。まだ教室に残っていたのか」
夕闇に沈みきった教室にスーツ姿の男が現れる。
何の取り柄も感じられない、判子で描いたような公務員のようだった。
「――貴方、誰かしら?」
「おいおい……まさか2ヶ月も学園に通って担任教師の顔を憶えてないとか、冗談だろ?」
「そうだったかしら。――でも、貴方から私に話しかけてきたのは、これが初めてのことよ」
クラスの担任教師、雨水景。
名前の通りにこれといった特徴を感じさせない彼は、とにかく個性を毛嫌いする節があった。
出る杭を打ち、普通であることを美徳とする。
当然彼からすれば碧沙のような少女は不良であり、その隣に居る一人も憎むべき対象だったのだろう。
碧沙は以前、一人の様子がおかしいことを景に相談したことがあるが、まともに取り合う様子は無かった。
彼女が死んだ今――彼は何を思うだろう。
「貴方がちゃんと見ていれば……山乃端さんが命を絶つことも防げたかもしれないのに」
「そうだなぁ。何の罪もない4人の生徒を巻き添えにすることも無かったよなぁ」
「貴方ッ――!」
嫌味な言い方で返され、思わず頭に血がのぼり立ち上がる。
だが、景の言うことにも一理ある。
あの現場だけでは誰が加害者か見分けはつかないだろう。
大前提として、この学園には高二力フィールドが敷かれ魔人能力が制限されている。
そのため通り魔による魔人能力の発動で彼女たちが殺されたとは考えづらい。
全ての死体に目立った外傷が無いことからも、物理的な凶器が用いられていないことは明らかだ。
では、一人を取り囲んでいた4人のうち誰かの犯行か。
それも考えづらい。いくら一人が気に入らないとはいえ、心中のような真似をするほどの動機は無いだろう。
碧沙は一人のことをよく知っている。
だからこそ――あの惨状は彼女が引き起こしたもので間違いないと、確信している。
何らかの魔人能力に目覚めた彼女が高二力フィールドを狂わせ、自らの意思で破滅を選んだ。
それは山乃端一人の内に秘められた『正義』である。
そして、その考えに迎合できない全ての人にとっての『悪』である。
だから魔人は――嫌われる。
たとえ正義の心を持った魔人が居ても、それを別の側面から見れば悪い奴に違いないのだから。
「――それでも私は、貴女の味方であり続けたい」
個性を持つことは悪だろうか。
人と違うことは悪だろうか。
少数派が虐げられ、個性を認めないこの世界こそ、滅びるべき正義ではないか。
これは正義が悪を滅ぼすための物語ではない。
これは悪が正義を滅ぼすまでの物語である。
「ぶっ壊してやる……こんなつまらない世界、滅びて亡くなってしまえばいいのよッ!!」
その叫びとともに、碧沙の持っていた22冊の魔法書の入った鞄が膨れ上がっていく。
心に繋がれていた重い鎖が外されたようだ。
妃芽薗学園に来てからずっと感じていた不自由から、やっと解放される――。
鞄を机の上に載せると、勢いよく開封した。
中から何十羽ものカラスが飛び出し、教室の天井をあっという間に埋め尽くしていく。
「三国屋――お前、まさか魔人能力を!?」
景の表情が驚愕に変わる。
高二力フィールドが生み出した偽りの安全はこの瞬間に、音を立てて瓦解した。
魔人能力の本質は『思い通りにする』という人間のエゴ。
それを完全に打ち消すことは、最初から無理のある話だったのだ。
山乃端一人の死によって、世界は新しく生まれ変わった。
土の中に埋まっていた悪意が芽生え、新しい世界の春を告げる――。
「死になさい――クソ教師ッ!」
天井を覆っていたカラスは銀のナイフへと姿形を変えると、一斉に景を襲い始める。
彼は抵抗する間もなく、全身に鋭利な刃物を浴びることになったのだった。
黒板に鮮血が飛び散る。
だが――。
「痛ぇ……教師に手を上げやがったな、このアマ……!
さぁて――授業の時間だ。命乞いをしても終わらないと思え!」
男は激昂して腕を前に突き出すようなポーズを取る。
次の瞬間、景を取り囲むように直径10mほどの半透明のバリアが形成されていく。
そのバリアの内側にあったものが、ナイフが、机が、椅子が、碧沙に向かって襲いかかってきた。
「貴方も――魔人能力が使えるのね」
「――ほう、これがそうなのか」
景は元々非魔人の新人教師だった。
無知で弱い生徒だけを好み、尖った個性を持つ魔人を嫌っている。
決して他者を受け入れることのない冷たい性格が――遅咲きの魔人能力を目覚めさせた。
碧沙は飛んでくるナイフをバリケードのような形に変えて、自分の周りに突き刺す。
何度も叩くような音を響かせながら、机や椅子を難なく受け止めてみせた。
魔法書を自在に操る能力は、碧沙の能力の一部に過ぎない。
「チッ――これだから魔人はいけ好かねぇ」
「あら残念。貴方も今日から魔人なのに」
「誰も望んでこんな能力が欲しいなんて言ってねぇ――!」
景が一歩、近付いてくる。
バリアの内側に入ってきた物体は強力な磁場によって排斥されるようにゆっくりと動き始める。
一歩、また一歩。
碧沙もそれに合わせて一歩ずつ後退していく。
だが――後ろは壁だ。バリアと壁に挟まれるような形になる。
ダメ元で魔法書をナイフの形に変え、バリアに向かって解き放つ。
案の定、それが景まで届くことはなく、真っ直ぐ跳ね返ってこちらを狙ってきた。
「何者も寄せ付けないバリアフィールドってわけね……!」
まさに他人に踏み入ることを拒否し続ける教師にお似合いの能力だった。
ナイフは魔法書に戻り、碧沙の手元に収まる。
「なんつー地味な能力だよ……てめぇの泣き顔ひとつ拝めやしねぇ。
――だがな、この能力でてめぇを押し潰すことぐらいは出来るんじゃねぇか!」
能力の本質を理解した景がまた一歩、薄ら笑いを浮かべながら近付いてくる。
退路は絶たれ、壁に押し付けられるような形となった。
全身を裂くような痛みが走り、息が詰まりそうになる。
「ぐぅ……っ!」
「――ほほう。随分と苦しそうだな、三国屋。命乞いをするなら今のうちだぞ」
「誰が……貴方なんかに……!」
「ならば死ねい! 山乃端のようになぁ――ッ!!」
景の状態がまともでないのは碧沙から見ても明らかだった。
目は血走り、口角から唾を飛ばしながら憎しみの限りを女子生徒にぶつける様は、狂っているとしか形容できない。
魔人能力覚醒直後における、一時的な錯乱状態。――彼が持つ本性が浮き彫りになっているようだった。
碧沙の手元で、魔法書がパラパラとめくられていく。
まるで強い風が窓から入ってきたように、魔力を帯びた旋風が全身に吹き抜けていく。
碧沙が持つ魔人能力の真骨頂は――ここからだった。
「先生は自分が持つ魔人能力について……どのように思ったのかしら」
「この期に及んで生徒気取りか? だが、質問には答えてやろう。
――最悪の気分だ。よく分からないし、地味だし、自分の本性を剥き出しにされているようで、不快だ」
「そう。自分がどういう能力を持っているかまだよく分からない。『何これ』という状態なのね」
カチリ、とピースのひとつが埋まる。
感覚の共鳴まで、あと少し。
「先生はこれから『魔人』という、一生消えないレッテルを貼られて暮らすことになるわけだけども。
――貴方がずっと蔑んできた『個性』を手に入れた気分はどうかしら?」
「死んだほうがマシだよ。どうして奴らはこんなものに愉悦感を覚え、人より優れているなどと思い上がるのか分からん。
……あぁ、そうか。奴らはそうでもしないと生きていられないのか。惨めだなぁ――お前もそう思うだろ?」
「そうね。魔人能力は美しくないし、正義の力にも成り得ない。どうしようもない、悪魔の烙印よ」
もしも妃芽薗学園に高二力フィールドが無ければ、魔人能力を奮う機会があれば、碧沙はもっと輝けただろうか――。
その答えは否だ。過ぎた力の先に待っているのは破滅と敗北。良い思いをすることは一生無かっただろう。
今の自分があるのは、魔人が人並みに活躍する世界を夢想する、山乃端一人という少女のおかげ。
彼女と出会っていなければ――生きる理由を、失っていたかもしれない。
よく笑う友人の顔を思い出して、碧沙の瞳に決意が漲る。
その表情を見て、景は酷くガッカリした。はぁ、とため息をつく。
そして――時は訪れる。
「あぁ……失敗した」
天井を見上げ、景がぼそりと呟く。
その瞬間、魔法書の1冊が開かれ、目も眩むような黄金色の光が教室に満ちる。
「な、何だこれは……!?」
「――ビブリオヘキサ第21巻、128ページ」
碧沙は開かれた魔法書の箇所を読み上げる。
それは2ヶ月前の入学式のとき、丁度山乃端一人と出会う直前の暗澹とした気持ちが記されていた。
失敗した。
何これ。
右も左も無個性な生徒に囲まれ、自分だけが浮いていることを自覚させられたあの日の心情。
その気持ちが魔人になったばかりの彼と重なり、共鳴を始めたのだ。
「――記述との合致を確認。トレース、開始」
脳内に見覚えのない情景が次々と浮かんでくる。
彼の教室に映っているのは、同じ顔をした少女たちばかり。
同じであるから接しやすく、同じであることは心地よい。
その和を乱すように邪悪な顔をした生徒が2人居る。
――三国屋碧沙と、山乃端一人。
他人と違うことばかりに憧れを抱える、社会への貢献をまるで考えていない不良生徒だ。
他人と違うことは理解されず、他人と違うことは恐ろしい。
終わらない痛みと、滅亡ばかり。そこまでして手に入れたいものは無いはずだ。
この手で終わらせなければ――この手で殺さなければ。
どんな個性も許さない、完全な世界のために。
「……哀れな人ね」
他人を信じることが出来ず、拒絶することで自分だけが正義だと思い続けている。
彼の正義は『普通であること』――それは至って人間らしい考え方だ。
無味無臭無個性無価値の、レールの上を走るだけの人生。
行き着く先には――何も無い。
「な、何だその眼は……それが教師に向ける表情か!?」
「だから私も――貴方を拒絶してあげる」
押し潰されそうなほどの圧を跳ね除け、左腕が前に伸びる。
それを発動の合図として、碧沙の周囲を半透明のバリアが覆い始めた。
重圧からの解放。
瓦解する後ろの壁。
押し返すようにして、今度は景が吹き飛ばされる。
何の備えも無かった彼は受け身を取ることも出来ず、教室の床を転がり回った。
「うおッ――何だその力は……まさか俺と同じ能力を……!?」
「――そう。貴方の思想、正義、魔人能力――全てトレースさせてもらったわ」
「三国屋――貴様ァァァ!!」
激昂した彼は立ち上がり、バリアを纏ったまま突進してきた。
2つのバリアがぶつかり合い、『何者も寄せ付けない』という性質を守り続ける。
矛盾――ではない。
最強の盾と最強の盾による、力比べ。
「はは……人の能力を真似て、すぐに使いこなせるわけが無いだろう。もう一度押し潰されろ――三国屋ァ!」
「それはどうかしらね――」
一歩、また一歩。
じわりじわりと後退させられていく。
景の後ろに、黒板が迫った。
「な、何ッ――!?」
「同種対決なら、私が負けるはずがない。だって私は……悪魔と契約しているのだから」
幾度となく交わされた議論。
最強の剣と最強の剣がぶつかったら、果たしてどちらが強いのか。
――答えは簡単。腕力、戦術、速さのぶつかり合い。実力拮抗とは成り得ない。
「……そんなの、出鱈目だ」
魔人能力ではどうだろう。
同じ能力が同じタイミングで正面から衝突した時、どちらが優勢となるのか。
「認めねぇ」
神が賽を振って決めているのだろうか。
――否。それでは5割の確率で負けることになってしまう。
碧沙は小学生の頃から、幾度となく敵対する魔人に同じ能力をぶつけてきた。
その全てに勝ち、ここに立っているのは、運が良いから――だけではないのだ。
「俺の正義は……多数決で決めた正義は何よりも強い……そうだろう?」
悪魔に愛されているという、強い自覚――。
誰でもない、自分こそが世界の頂点に立つ魔人であるという独りよがり。
それこそが対魔人戦において最も有効だということを、碧沙は無意識の内に理解していた。
「お前みたいなガキが……大人に歯向かうんじゃねぇよ。
特別になんてなれねぇし、そんなものに意味はねぇよ」
だから――絶対に負けない。
他者の正義を認め、受け入れ、模倣し、自分のものとし、肯定し、否定し、跳ね返す。
「大人になれよ」
自分はこの先に進まなければいけない。
世界を渡ってでも、山乃端一人に会いに行く。
「『普通』になれよ」
そして、言いそびれてしまった感想を告げよう。
「面白かったよ」と。「続きが読みたい」と。
こんな場所で、立ち止まっている場合じゃない――。
「ぶっ飛べぇぇぇぇぇぇぇぇぇええええええええ!!」
根底の思いは違えど、他者を拒絶することにおいて碧沙の右に出る者は居なかった。
纏うバリアの射程範囲は際限なく広がり、世界がまばゆい光に包まれながら崩壊していく。
最終戦争――そんなものでは収まらない。
圧倒的な力による破壊行為。
妃芽薗学園を中心とした大いなる力の爆発は、地球という星を砕くのに十分だった。
それは一人が望んだ結末だった。
それは碧沙が望んだ結末だった。
無個性を強いる世界からの――脱出。
誰の指図を受けることなく、誰もが自由に生きる世界への、跳躍。
その日、山乃端一人が死んだ。
その日、三国屋碧沙が生まれた――。
彼女こそが全ての魔人を超越する者。
そして――三国屋碧沙は『転校生』と呼ばれるようになった。
*
それから10年の月日が流れた。
2022年、東京――。
時空を越えて依頼を承る転校生にとって、今が何年かどうかなんて些末なこと。
しかし、200以上の魔人能力をその身に宿した三国屋碧沙はまさに何でも出来る。
例えば、星を見るだけで時間が分かる。
例えば、人を見るだけで名前が分かる。
夜空を見上げ、正確な時刻と座標を取得した碧沙は、ここが東京都葛飾区に存在する山岳地帯であることに驚いた。
『逢迷山』という名前が付いているようだった。
「私の知ってる東京とは違うのね……」
東京の都市部に大きな山があるなんて、聞いたことが無い話だ。
あるいは魔人能力によって作られた土地なのだろうか。
同じようで、異なる世界。
その感覚には今も慣れない。
足元には不法投棄された家電製品があちこちに見られる。
あまり治安の良いところでは無いようだった。
「――ところで、どうしてここに呼び出されたのかしら」
転校生は依頼を受けた場所に飛ばされる。
その転移の瞬間に目撃者が居てはマズいので、人目の付かない場所で呼び出すのがマナーだ。
しかし、肝心の依頼主の姿が見えない。
「……もう帰りたいのだけれども」
イタズラのつもりだったのだろうか。
子供の仕業にしては悪質極まりないが、分別のつかない大人がやった可能性はある。
実際、碧沙はこれまでに幾つもの依頼をこなしてきたが、依頼主が紳士的だった試しが無い。
隙あらば契約を改竄し、報酬を出し渋る者。
「ついでにこれも」と契約に無い仕事を押し付けてくる者。
嘘の情報を与え、無駄に仕事を複雑化させようとする者。
一番の敵は身内だということをつくづく思い知らされる。
どれだけ能力を増やしても、人付き合いは未だに苦手だ。
「……下山しよ」
依頼主が何らかのトラブルに巻き込まれた可能性を考慮すると、勝手に帰る訳にもいかない。
ここがどんな世界なのか、ということにも興味があるので、しばらく歩き回ることにした。
魔女のように箒に乗って空を飛ぶことも可能だが、肝心の箒を探すところから始める必要があった。
木々や茂みをかき分けて、山の斜面を下っていく。
夜道なので足元には十分注意しているが、座標はいつでも分かるので遭難することは無いだろう。
ケータイやスマホのような文明の利器があれば、もっと分かりやすいのかもしれない。
しばらく進むと泥まみれで放置されたスタンドミラーを見つけた。
能力で掘り起こし、土埃を払って樹木に立てかける。
そして、鏡に映る自身の姿をじっと見つめた――。
大人になっても17歳ぐらいにしか見えない、少女のような容姿。
黒いとんがり帽子に黒マント――あの日から変わらない。
唯一変わっているのは、左目を隠すように着用している眼帯。
新しい中二病アイテム――ではなく、ある能力を封印するために付けたものだった。
世界を憂うような目つきと、肩まで伸びた長い黒髪。
肩掛けバッグには自身が執筆した22冊の『ビブリオヘキサ』と、一人の形見となった1冊の『エーデルワイス』が入っている。
「山乃端さん……」
彼女との再会が果たされることは無かった。
だが、どうやら彼女も魔人として転生を繰り返していることが分かった。
生まれ変わり、死ぬことで最終戦争を引き起こす切っ掛けを作っているらしい。
それが同姓同名の別人なのか、同一の記憶を持つ人物なのかは定かではない。
いずれにせよ、碧沙が呼ばれる頃にはとっくに彼女は死んでいる。
――今のところ、生きたまま再会することは一度も無かった。
鏡から離れて、再び歩き始める。
すると、どこからか喉を潰したような男性の声が山々に反響しながら聞こえてきた――。
『滅び亡き世界を望む者よ――』
どこか崇め奉りたくなるような、仰々しさを感じさせる声だった。
しかし、音はすれども、姿は見えず。
こんな山奥に――しかもこんな夜更けに、迷い込んだ人間の声とは思えない。
「……貴方が、依頼主で間違いないかしら」
碧沙が問いかけると、風が通り抜け、木々が忙しなく擦れ始める。
『――世界を滅ぼせ。さすれば、お前が望む物を何でもくれてやろう』
端的な依頼と、報酬の提示。
転校生が望むものとは、地位や名声、お金――ではない。
「じゃあ――報酬は山乃端一人と生きたまま再会すること。それでもいいかしら?」
どうせ無理だろうけど、と心の中で愚痴をこぼす。
運命の強制力とでも言うべきか、転校生が呼ばれるのは決まって最終戦争が発動した後のこと。
――世界の終盤。つまり、山乃端一人が死んだ後なのだから。
簡単に再会できるなら、こんなに苦労はしていない。
『構わない。この世界では未だ、山乃端一人が生きているのだから』
「はいはい、どうせそんなことだろうと――――え?」
予想していた答えとは随分異なる趣きに、思わず自分の耳を疑った。
一体どうして、彼女が生きている世界に呼ばれたのだろう――。
動揺が態度に出ないように、努めて冷静に振る舞う。
「……そ、そう。なら良いわ。先に山乃端一人の身柄をこちらで預かりたいのだけれど、どこに居るの?」
『対象は東京に居る。――だが、転校生にも匹敵する強い能力者たちによって守られている。今は攻め入る時では無いだろう』
「そっか……」
どこの誰かは知らないが、その能力者たちの働きによって山乃端一人の無事は保証されているわけだ。
どこかホッとしたような、どこか寂しいような複雑な感情に襲われる。
その平穏を乱すために自分が呼ばれたことに、ショックを隠し切ることは出来ない。
「じゃあ、契約内容は世界を滅ぼすこと。報酬は山乃端一人の身柄――これで間違いないわね?」
返答の代わりに、仰々しく木々が擦れる音が反響を続ける。
顔の見えない相手と会話するのは、何だか不気味な気持ちだった。
「ところで貴方、名前は何て言うの?」
その返事は期待していなかった。
一応形式的に聞いてみたつもりだったが、無くても契約に支障は無いのだから。
一層風が強まり、吹き飛ばされそうになるのを必死で堪えながら、言葉を待つ――。
やがて答えは為された。
『――人は我のことを、「神」と呼ぶ。全てを識り、全てを見通し、世界を滅ぼし、この世界を統べる者なり――』
神、と――彼はそう名乗った。
それは碧沙が最も嫌う名前だった。
悪魔と相対する、気まぐれに人の生死を決定付ける迷惑な存在。
「……『神』ね」
だが――それは物の例えだ。
彼の本当の名前では無いだろう。
恐らくは自分と同じく、先にこの世界に召喚された転校生ではないか、と推測できる。
それもよく知る人物のようだ。
先程までは声の仰々しさに惑わされて気付くのが遅れたが、よく聞けば特徴的な声質を持つ人物に心当たりがあった。
それに、山乃端一人について切り出した時、全く迷うことなく彼女の生死を明らかにした。
――本当は、彼女の安否を最も気にしているのは彼ではないか。
「貴方――鏡助じゃないかしら?」
碧沙と同じように山乃端一人を追い求める者――転校生、鏡助。
彼とは別の世界で共闘したり敵対したりと、浅からぬ縁があった。
鏡を通じて世界を見通す彼であれば、世界の掌握も容易いだろう。
今もどこかで鏡越しに話しかけているはずだ。
だが――どうして彼が世界の滅亡を望むのか。
どうして折角生きている山乃端一人を手放すことを良しとしたのか――不可解な点は幾つか残った。
しかし、彼が転校生なら確かめる方法がある。
それは――直接尋ねること。それだけだ。
『……人違いだ。私は鏡助ではない』
長い沈黙の後、彼は厳かな声音で答えた。
――転校生は嘘を吐けない。
つまり、本当に彼は鏡助ではない、ということになる。
勘繰りは大きくハズレだったようだ。
「そっか。……じゃあ、貴方のことは『神』でいいわ」
身内ではないなら、これ以上聞きたいことは特にない。
時が来れば再び彼が現れ、山乃端一人の居場所を教えてくれるだろう。
今はこの世界についてもっと知りたい。
出来れば、共闘相手を見つけられたら願ったり叶ったりだ。
敵が何人居るかも定かではない。
1人で立ち向かえば、きっと足元を掬われるだろう。
「――さようなら。また会いましょう」
結局箒は見つからなかったので、能力を使って箒のようなものを生み出す。
それに跨ると、重力を無視して上昇を始めた――。
冬の夜空に、微かな光を放つ星々が瞬く。
ベテルギウス、シリウス、プロキオンから成る大三角形を中心に、数々の星座が煌めいていた。
果たして、彼女も同じ空を見上げているのだろうか。
胸が高鳴るのを抑えて、魔女は空を横切る。
その先に待つのは崩壊か、再生か――。
それとも、世界の真実か――。
*
赤子も眠らぬギャングストリート、逢迷街道。
この街では夜行性の人々が集い、毎晩のように騒ぎ立てていた。
外の世界から見れば、ここは地図にない幽霊都市。
一体誰が何のために作ったのか、誰も知らない。
だが、この街のおかげでヤクザが一般人と接触する機会が減り、治安が良くなっているという見方もある。
ここは人間の抱える罪の拠り所。あらゆる悪行と後悔と破滅的な夢を詰め込んだ楽園――。
そんな場所の雰囲気に似つかわしくない、中学生ぐらいにしか見えない小柄な少女が重い足取りで街を横切る。
話しかけるなとばかりにどんよりとした空気を纏う姿に、入り口近くに居たアジア系の2人組も困惑を隠せないで居た。
ダウンコートを重ね着し、うつむきがちに動く影。
建物の灯りに照らされたその姿を見るなり、ある者は恐れ、ある者は畏れ、誰もが距離を取って離れていく。
誰もその少女に近寄り、関わろうとしない。
――その空気が読めない、不届き者を除いて。
「よう、嬢ちゃん。ここはガキの来る場所じゃないぜ。今すぐ帰りな。
――へへっ、それとも俺たちと遊びたいのかい?」
男は下心を隠そうともせず、少女の前に立ち塞がった。
冬場だというのにTシャツ短パンにサンダルという、何かの罰ゲームを受けているような格好の男だ。
少女は顔を上げて、しばし不思議そうに彼の顔を眺める。
まるで子供とは思えない、幾つもの苦悩を抱えた切なげな表情で、少女はにこりと微笑みかける。
「こんにちは。今日は冷えますね。――ここでの生活には、満足していますか?」
「お、おう。確かに寒いな。ここはお金も女も楽しみも尽きねぇ。昔の暮らしに比べたら、ずっと満足しているぜ」
「そうですか。それは何よりです」
少女の頓珍漢にしか聞こえない質問に、男は疑問を抱くことなく答えを返す。
――否、他に言いたいことがあったのに、まるで口が誰かに乗っ取られたように質問の答えだけを返していたのだ。
すぐに彼女が只者ではないことを理解する。
これ以上関わってはいけないと――脳が警鐘を鳴らし始める。
恐ろしくなって逃げ出そうとしたその時、背後に見知った影が現れる。
ガタイが良く背広を羽織った、縁日で見かけるタイプの男だった。
「ア、アニキぃ……!」
それは男と同じ組に所属するヤクザのまとめ役だった。
アニキと呼ばれた大男は、少女を一瞥すると相好を崩して笑いかける。
「誰かと思えば、るいな嬢でしたか。うちの部下がとんだ粗相をしたみたいで、申し訳ありません。
――うちに入ったばかりの新人でして。キツく絞めておきますのでどうかご寛大な処置を――」
「そう畏まらないでください。気にしてませんよ」
るいなと呼ばれた少女は大男に頭を下げられ、困惑したような表情を浮かべた。
弱冠18歳にして今井商事に務める社会人――浅田るいな。
彼女が持つ『嘘が吐けなくなる能力』は逢迷街道において最も警戒すべきものとして、多くの人々から忌避されていた。
その能力の射程範囲に入った者は嘘が吐けなくなる――それだけではない。
聞かれたことに対し、心の底から思っていることを口に出さずには居られなくなる。
嘘や誤魔化しは通用せず、本心を隠すには口を抑え、彼女から距離を取らなくてはいけない。
そして、彼女は見た目よりもずっと強い。
かつて現役女子高生ながら逢迷街道のヤクザ構成員として働いていた経歴もあり、戦闘力は並ではない。
おまけに多くの後ろ盾が付いている。彼女を敵に回すことは、逢迷街道を敵に回すということに等しい。
「それでは――わたしはこれから会社に戻りますので、これで」
ぺこりと一礼してから、るいなは逢迷街道の奥に進む。
その後ろ姿を大男が深々と頭を下げて見送るのを見て、周囲の人々も同じように頭を下げ続けていた。
まるで組織のボスが現れたときのような、異常な光景だった。
ヤクザがただの少女に頭を下げているという点では、それ以上かもしれない――。
るいなに声をかけた男が、そのままの姿勢で大男に尋ねる。
「アニキ……彼女は一体、何なんですか……?」
「あぁ。あいつのことは早く伝えておくべきだったな」
るいなが十分に離れたことを確認すると、大男は顔を上げた。
目を離せば消えてしまいそうなほど小柄な背中を見つめ、ぼそりと呟く。
「――あれは、今井商事が抱える特大の爆弾だ。
起爆したら手に負えない。……お前も、彼女の前では誠実に生きろよ」
小さい身体に溜め込まれた、嘘を許すことのない正義の感情。
それは今まさに、1人の標的をどうやって始末しようかと思案していたところだ。
正直者に丸を、嘘吐きには死を――。
虚飾に彩られたネオン街を散らすようにして、彼女は夜道を歩き続ける。
*
終わらない夜の喧騒に取り残されるようにして、1棟のテナントビルは明かりを落として佇んでいる。
逢迷街道の中でも指折りの魔人が集う建物――今井商事。
一部では伝説のように語られる金貸し屋も、深夜は明かりを落として闇夜に溶け込んでいた。
浅田るいなは自社の建物を見上げ、誰かが残っていないか確認する。
入り口には鍵が掛かっていたので営業は終了しているのだろう。
だが、客室のある2階の窓からぼんやりと明かりが点いていた。
帰社にあたり、特に連絡は入れていなかった。誰も出迎えが居なくても当然だ。
けれど――こんな時間に会社に残っているのは、あの人ぐらいだろう。
この胸に抱える大きな感情をぶつけられる相手かどうかは分からない。
会社の鍵を取り出し、錠を下ろす。
見慣れた建物を電気も灯さずに突き進んでいく。
階段を昇り、扉を開け放つ。
長い髪の毛を無造作に広げ、客室のテーブルで突っ伏したように眠る影――。
それは勤勉にして怠惰なエンジニア、入々夢美奈だった。
その美しい寝姿を見て急激な眠気に襲われるのを感じ、ポケットから取り出したミントガムを口に含んだ。
爽やかなミントの成分が素早く脳内に届き、頭がシャキッとしてくる。
しばらくして彼女はるいなの帰社に気付くと、ゆっくりと身体を起こした。
「……ふわ~ぁ。おかえり、るいなちゃん。
――どうだったかな、山乃端一人の身辺調査は」
いつものようにあくびを隠そうともせず、気怠げな態度で尋ねてくる。
3日ぶりながら変わらない先輩の姿に少しだけ安心して、るいなは客室の向こう側に座った。
この話を真っ先に伝えられるのは、彼女しか居ない。
――きっと美奈なら、この問題の最適解を出してくれるはず。
そう思って、わざわざ真夜中を選んで帰社したのだから。
あえて結論から入ることを避け、業務的な口調で調査内容を淡々と述べていく。
「――借り主は270件ものレンタル倉庫を契約して、荷物を世界各地に預けているようでした」
「……ふわ~ぁ。それは、すごいね。毎月の維持費がとてもとても……規模の大きな話だ」
るいなが数日前から行っていたのは、『最優良個人顧客』100億円の借り主、山乃端一人の身辺調査だった。
借金の取り立てを真陽が行っている傍ら、借金が正しく使われているかどうかを調べるのが自分の役割である。
ある時は今井商事の名前を出し、ある時は自身の交渉術を駆使しながら、るいなはどこまでも真実を追求していく。
そこには一点もの嘘があってはならない。偽りの無い世界こそ、自分が求めるものだから。
「配達員の男を篭絡し、いくつかの倉庫の中身を確認しました。
――ダンボールに詰められていたのは、大量のぬいぐるみだったのです」
「……ふわ~ぁ。随分とファンシーな趣味じゃないか。1人暮らしが寂しかったのかな?」
「それなら良かったんですけどね。……本当にそうだったら、もっと明るい場所で話してます」
頭を振って、レンタル倉庫で見たおぞましい光景を思い出す。
中にはぎっしりとダンボールが詰め込まれ、どの箱を開けてもデフォルメされた動物のぬいぐるみがぎゅうぎゅうに詰められていた。
ぬいぐるみの中身は綿で出来ているようで、持ってみても重さはそれほど感じないが、押し潰すように触るとざらざらとした粒を感じた。
違和感を覚え、これで何も無かったら申し訳ないと心の中で謝りながら、ぬいぐるみの腹をナイフで割いた。
そして――彼女がレンタル倉庫にこれらを隠した、本当の理由が判明したのだった。
「全てのぬいぐるみの内側から、少量の火薬が検出されました。
彼女はこれを使って――大規模なテロ行為を企てているようです」
何かの間違いという可能性はいくつか考えたが、どれも穏やかな話ではない。
信管が見当たらないことから、これ自体を爆弾としているわけではない――とも言い切れない。
彼女が遠隔で火薬を起爆させられる能力者という線も考慮すると、事は一刻を争う。
彼女は間違いなく――黒側の人間だった。
どうしてこんな危険人物が8年間も放置されていたのか、不思議でならない。
美奈はその報告にあまり驚いた反応を示すことなく、内容を頭で整理しているようだった。
報告の主旨は伝え終わったので、今度はこちらが情報を手に入れる番だ。
「入々夢先輩……それで、山乃端一人さんの行方は判明したのですか?」
8年前に契約した人物が、ましてやテロを企てるほどの曲者が、そう早くに見つかるとは思えない。
いくら足の速い真陽とはいえ、2~3日程度では進展は特に無いだろう。
そう思っていたのだが――。
「……ふわ~ぁ。彼女なら、今頃真陽ちゃんや卓成くんと一緒に会食中だよ」
「そうですか一緒に会食を――――え?」
進展があった、なんてレベルでは無かった。
あまりの急展開に頭を抱えつつ、ここ数日に起きた出来事を確認していく。
「あの……山乃端さんは、もう捕まったんですか?」
「……ふわ~ぁ。今朝、自ら出頭したらしいよ」
「それで、お金のことも解決したんですか?」
「……ふわ~ぁ。社長と話をつけて、一番優しい処置が取られることになったよ」
「――それで、どうして会食を?」
「……ふわ~ぁ。今井商事は、社長命令で全面的に彼女を守ることになったんだよ」
「何でわたしに一切連絡が入ってないんですか!?」
勢いに任せて机を叩くと、びくりと美奈の肩が持ち上がった。
不用意に仕事のことが外部に漏れるとまずいという理由から、連絡手段としてケータイが使われることはあまり無い。
まして、るいなは身分を替えて調査にあたることも多いため、報告を受けるタイミングが存在しないのだ。
それを加味しても――すれ違いが過ぎる。
「相手はテロリストですよ……何考えてるんですか……!」
「……ふわ~ぁ。ごめん、どうしても彼女からはそういう邪気を感じづらくてね。軽率だったかも」
美奈も事の深刻さにようやく気付き始めたのか、腕を組んで考えを凝らしているようだった。
立ち上がり、紙とペンを持ってくると、そこに何かを書き始める。
住所らしきものを書き上げると、それをるいなに差し出した。
「……ふわ~ぁ。これ、真陽ちゃんたちが居る場所ね」
「…………え?」
「……ふわ~ぁ。彼女の素性については、ぼくや社長も見抜けなかった。きみのお手柄だよ」
美奈の腕が伸びて、るいなの頭を優しく撫でた。
突然のことに驚きつつも、るいなは目を細めてそれを受け入れる。
「……ふわ~ぁ。それでるいなちゃんは、彼女を一刻も早く始末したいと考えているね?」
「――はい。何の拍子で起爆するかも分からないので、全ての真相を彼女に尋ねたいと思います」
るいなの能力は、近くに居る人間が嘘を吐けないようにするもの。
つまり、彼女が大量に仕入れた火薬をどうするつもりなのか、直接本人に聞いてみればいい。
本当にテロを計画しているようなら――その場で始末すればいい。
「……ふわ~ぁ。そう、それは。とても大変なことだよ」
ここに来るまでは、それがシンプルな解決方法になると思っていた。
だが――事態はあまりにも複雑に絡み合っているようだった。
果たして彼女は黒なのか――。
黒だったとして、彼女を殺す行為が正義になるのか――。
彼女と真陽を引き離すことが、自分に出来るのか。
大切な人の笑顔が失われることが辛い。
世界平和のために、自分は悪役に徹する覚悟があるのか。
正直に言って――怖い。
身内を敵に回してしまうことは、恐ろしい。
言葉に詰まり、しばし美奈と見つめ合う形となる。
やがて充電が切れたのか、これ以上の討論は不要とばかりにテーブルの上に突っ伏してしまった。
部屋に静寂が訪れる――。
メモをポケットにしまい、客室を出ようとしたそのとき、背中から声がかけられた。
「……ふわ~ぁ。ぼくはるいなちゃんの味方でもあり、山乃端さんの味方でもあるよ。
きみの性格なら、自力で彼女が居る場所まで辿り着いて、周りの声なんて聞かずに彼女を殺していてもおかしくなかった。
それが偽りでもいい。嘘でもいい。――きみが信じる、真実を見つけておいで」
チクリ、と胸を刺すような甘い言葉だった。
自分は何を選びたいのだろう。
世界平和なんてもの、望んでいるはずがない。
ならば――自分の正義とは何だろう。
嘘吐きを裁き、始末すること。
それともうひとつ――。
「……いってきます」
呟くようにそう言って、今井商事を後にした。
相反する2つの正義を抱えたまま、偽りだらけの夜に囚われる。
無意識に、真実を自分から遠ざけようとしていることに気付くのは、もう少し先のことだった。
*
吸い込まれそうなほど雲ひとつない夜空だった。
宝石箱の中身をばら撒いたように輝く、満天の星々。
地上からでは暗くて見えない微かな光さえ、高いところではよく見える。
こんなにも空ばかり見上げてしまうのは、この世界のどこかに一人が居ると知ったからだ。
何度夢に見たことだろう――三国屋碧沙は亀有駅付近の建物の屋根に降り立ち、しばし天体観測に耽っていた。
頭上には何羽ものカラスが舞っている。
魔法書から生まれた彼らは自分の目となり耳となり、この世界の情報を収集している。
あわよくば一人を見つけ出して独り占めしたい気持ちに駆られるが、もう少しの辛抱だ。
彼女の周りには強力な魔人が身構えているという。彼らとの戦いは避けられないだろう。
カァ、と戻ってきた1羽のカラスが鳴いた。
――どうやら味方になりそうな人物が見つかったらしい。
その人物は、山乃端一人に対して敵意を抱いているという――。
「……へぇ。それは利用できそうね」
目的は多少異なるが、戦力になるなら十分だ。
それは屈強な者か、それとも陰湿な者か――何だっていい。
そのカラスが箒に変わると、碧沙を乗せて夜空を駆ける。
瞬く間に街並みに降り立ち、その人物を目の前にする。
突然の光景に驚く者が居た。
突然の光景に驚かない者も居た。
亀有駅の北口で、少女と少女は出逢う――。
碧沙は彼女の前に立ち塞がるようにして、不敵に笑った。
それは――カボチャの馬車を引き連れ、シンデレラの前に現れる魔女のように。
手を差し伸べ、彼女に声をかける。
「いっひっひ、私の弟子に――――」
「弟子にならないか」と言いかけ、キョトンとする彼女の顔をじっと見つめた。
初対面のはずなのに、まるでずっと前から知っていたような気がする。
ダウンコートを重ね着して、雪だるまのように着膨れする小柄な少女。
無害そうな見た目だが、嘘を憎み真実だけを追い求める正義心の持ち主である。
ローマの世界遺産を背景に描かれていたのを、今でも鮮明に憶えている――。
「るいな……さん……?」
「えっと――どちら様でしょうか」
浅田るいな。
嘘や誤魔化しのない空間を作り出す能力者。
――能力名、『真実の口』。
10年前、山乃端一人が生み出したオリジナル魔人。
奇しくもそれと同姓同名、格好も能力も全て同じ。
「あぁ……そういうことなの」
どうして碧沙はこの世界に呼び出されたか。
どうして一人がこの世界で生きているのか。
ここは――山乃端一人が生み出した、山乃端一人の世界だったのだ。
「私は三国屋碧沙。通りすがりの魔法使いよ。
――貴女のことは、10年前から知っているわ」
もう読めないと諦めていた、エーデルワイスの第3話がやっと幕を開ける――。
魔女と3人の正義による最終決戦は、既に始まっていた。
*
「わたしたちが物語の登場人物――ですか」
運命のような出会いを果たした後、まずは座って話でも、と大衆居酒屋に向かうことにした。
忙しなく行き来する店員、狭い店内、飛び交う喧騒――。
決して雰囲気の良いところではないが、ここならどんな話をしていても怪しまれずに済む。
碧沙の魔女のような衣装について入店の際に一悶着あったが、それはさておき。
アツアツのつくね串を頬張りながら、ビールを片手に談笑を続ける。
久しぶりの食事だったので胃の中が歓喜に沸き立っていた。
「そう。10年前に友人が書いた小説に、貴女にそっくりの登場人物が居るの」
「何だか……にわかには信じられませんね」
「でも、嘘は言ってない。それは貴女が一番分かっているでしょう?」
「能力までお見通しですか」
それは奇妙な感覚だった。
かつて一人が考えた、正義の心を持った魔人が居る世界の話。
そんなの絶対にあり得ないと思っていたが、こんな形で実現させてしまうなんて、思いもしなかった。
驚きよりも、楽しいが勝る。
これは彼女から届いた挑戦状であり、招待状だった。
鞄を開けて、ノートを取り出す。
エーデルワイスと書かれた1冊の物語を目の前の少女に見せびらかした。
「それでも私が言ったことを疑うなら、ここに全てが載っているわ。……見たい?」
「うぅ……あまり良い気はしませんね。遠慮しておきます」
「それが賢明ね」
嘘やハッタリではないことを前提とした会話なので、話がとても早くて助かる。
いつまでもこうやって平和なやり取りを続けたい気持ちもあるが、さっと情報交換を済ませてしまおう。
この世界でやるべきことはハッキリした。
彼女の居場所も、彼女を守る魔人たちも、全ては第3話のプロットから出来ているのなら――。
後は仮説が正しいことを確認するだけ。
怪しまれないように、あくまで自然に問いかけてみる。
「山乃端さんは元気にしているのかしら?」
「はい。――多分、ですけど」
ビンゴだ。やはり一人は今井商事に居ると思って間違いないだろう。
しかし、あまり聞かれたく無いことだったのか、るいなは浮かない表情をしていた。
そういえば彼女は山乃端一人に対して敵意を抱いているらしい。
脳内で設定を反芻してみるが、ヒロインと真正面から対立するキャラになるとは考えられない。
――物語内の一人は自身の能力を最後まで隠し通すはずなので、そこで強い軋轢が生まれたのだろうか。
一度は戦力にしようと思ったものの、彼女を仲間に加えて上手くいくビジョンは見えてこない。
特に、今井商事の面々は普段であれば美奈やるいなの能力対策をしているはずなので、正面からぶつけても効果は薄いだろう。
どうしたものかと腕組みして悩んでいると、すすり泣くような声が聞こえてくる。
ハッとして見ると――るいなの瞳から涙がボロボロと溢れ始めていた。
「ご、ごめんなさい! 今の貴女から聞いたのは軽率だったわね!」
「すみません、そうではなくて……そうなんですけど、わたしどうしたらいいか分からなくて……ぐすっ」
一度決壊した涙腺に歯止めがきかないのか、綺麗な顔はあっという間にクシャクシャになった。
周囲のテーブル席に座っている客も何事かとこちらに視線を向け始めたので、慌ててフォローに向かう。
「目にゴミが入ったのかしら! それとも急に悲しくなってきた? お酒でも飲んで一旦落ち着きましょう、ね?」
「わたし未成年ですよ……ぐすん」
「18歳だったわねそういえば! こんな居酒屋に連れてきちゃってごめんね!」
必死でなだめる姿を見せることで周囲の客も事情を察したのか、視線を自分のテーブルに戻していく。
るいなも少しずつ冷静になってきたのか、目を真っ赤に腫らしながらも顔を上げていた。
「ごめんなさい……わたし、何を信じたらいいか分からなくて……自分が恐ろしくなってしまったんです」
「誰だってそういう時期があるものよ。私で良ければ相談に乗るわ」
初対面だが色々と込み上げてくるものがあり、ついつい彼女には気を許したくなってしまう。
今井商事で可愛がられているのも納得の、庇護欲を掻き立てられる少女だった。
彼女は言葉を選ぶように考え込んだあと、声を潜めて悩み事をぶつけてきた。
「どうすれば……大切な人を悲しませずにテロリストを始末できるでしょうか」
「テ、テロリスト――!?」
それぞれが誰を指しているかは、皆まで言わずとも予測はつく。
しかし、テロリストとは酷い言われようだった。
一体どうすればそこまでの誤解が生まれるのか。いや――誤解とも言い切れないが。
何と答えようか考え込むと、補足するようにるいなは言葉を続けた。
「その……始末したい人というのは、無視できない程の危険人物なんです。
だけど、その人はわたしの大切な人にとっての――大切な人だから」
より具体性を帯びて感情が重くのしかかってくる。
仕事を取るか、自分を取るか――そういうことなのだろう。
「そんなの――簡単じゃない」
最初から答えは決まっている。
もしも自分がるいなの立場だったら、迷わずきっぱり行動していただろう。
「まずは真陽さんに相談すればいいのよ。ひとりで悩む必要なんて無いわ」
「ひゃいっ――!?」
『大切な人』とぼかしていた部分をあっさりと見抜かれ、両手をぶんぶんと振りながらたじろぐ彼女。
やがて回答に合点がいったのか、今度は目をキラキラと輝かせ始める。
――忙しなく表情を変える様は見ていて飽きない。
「もっと、自分の好きな人のことを信じるべきね」
「確かに……そうですね。わたしが間違ってました!」
深い霧が晴れたのか、先程までの憂いが嘘のように笑顔が弾ける。
ガラリと椅子を引いて、彼女は勢いよく立ち上がった。
「そうと決まれば善は急げです! わたしはこれにて失礼しますね!」
深々と礼をしたかと思えば、あっという間に遠ざかっていく後ろ姿。
「ごちそうさまでした!」と元気な声が店内に響き渡る。
猪突猛進とは知っていたが――ここまで行動が早かったのか。
今の彼女は見ていて気持ちが良いほど、真っ直ぐだった。
「頑張りなさいな――――って、あれ?」
自分はこんなことをするために彼女と接触したのだろうか。
共闘相手を見つけるはずが、迷える子羊を導いてしまったようだ。
一応、次の目的は見つかったので、こちらも収穫が無かったわけではない。
今日のところは大人しくして、一人の身柄を確保するのは明日にしよう。
彼女の居場所は検討が付いた。今井商事に乗り込めば手がかりが見つかるだろう。
「すみませーん、追加注文お願いしまーす」
居酒屋でひとり、満足そうな表情を浮かべる魔女の姿があった。
夜はまだまだ終わりそうに無い――。
*
店の外に出ると、張り付くような冷気が無防備な肌に容赦なく襲いかかる。
先程までの温かさが既に恋しい。焼き鳥の1本ぐらい食べてくれば良かった。
「あのお姉さん……言動はアレだけど良い人でしたね」
自分や真陽のことを物語の登場人物と称して止まないという、奇天烈な人物だったが。
おまけに嘘や誤魔化しではなく、心の底からそう思っているのだから手に負えない。
仰々しい服装も相まって、まるで異世界から来たような人だった。
「……まさか、ね」
――それはさておき。
夜も更けて、亀有の街は閑散としていた。
こんな夜に出歩くのは酔っ払いか、カップル姿ぐらいのようだ。
手を絡めながら歩く男女が見せびらかすようにして、るいなの前を横切る。
片や白いスーツを着たモテそうな男、片や赤いドレスを着た華々しい女性だった。
しばし美男美女の後ろ姿に視線が釘付けになる。
「……わたしも、あんな風に」
大切な人と、いつも一緒に居たかった。
彼女とはすれ違ってばかりだった。
こんな能力を持っているから、人付き合いは上手くいかない。
それ以前から疑り深い性格もあって、誰かと親密になれることは無かった。
彼女と出会うまでは、とても荒んでいたことを憶えている。
初めて会った時は酷い言葉をたくさんぶつけてしまった。
それでも――彼女は真っ直ぐな心で、言葉で、自分を受け入れてくれた。
暗い世界から救ってくれた――太陽のような人。
たったひとりの、ヒーローだった。
自分では釣り合わないことは分かっている。
こんなにも汚い、醜い、今も中途半端な正義の中で揺らいでいる、どうしようもない人間だ。
彼女の傍に居られる資格も無い――。
まだ、間に合うだろうか。
まだ、やり直せるだろうか。
震える手でダウンコートからスマホを取り出す。
滅多に使うことは無いが、ここには社内全員の連絡先が入っていた。
当然――彼女のアドレスも入っている。
指先ひとつで彼女と繋がることが出来る。
けれど、電話するのは苦手だった。
顔の見えない相手は――自分の能力が及ばない位置に居る人と会話するのは――怖い。
寸前のところまで操作して、最後の一歩が踏み込めない。
善は急げと――そう言ったのは自分なのに。
また諦めてしまいそうになる――。
その時、強い風が吹いて鼻先を掠めた。
むず痒さが全身を駆け巡る。
「は――はっくちょんっ!! ……あ」
くしゃみの衝撃でスマホの液晶画面をタップしてしまい、コール中の画面に切り替わる。
そこには彼女の電話番号が記載されていた。
「――あ、あああああああ!!」
慌てて画面フリックで呼び出しを強制終了させた。
やってしまった――顔がかぁっと熱くなる。
しばらくして、スマホの振動と共に着信が入る。
それは彼女からの折り返し電話だった。
居留守を使うわけにもいかず、興奮も冷めやらぬままにスマホを耳にあてた。
「も、ももももしもし真陽先輩っ!? こ、ここここれは違うんです間違い電話で――!」
『お――落ち着いて欲しいっすよ。るいなちゃんから電話なんて、珍しいっすね。何かあったっすか?』
スピーカー越しに愛しい人の声が聞こえてくる。
直接顔が見えなくても、人懐っこく眩しい笑顔が容易に想像出来る。
それだけで膝を折りたくなるほど、身体がどうにかなってしまいそうなのを必死で堪えた。
じっとしていられなくなって、意味もなくウロウロと歩き回ってしまう。
こんなにも幸せな気持ちになれるなら――もっと早くこうすれば良かった。
スピーカーからは賑やかな、他の人の声も混じっていた。
会食中というか、宴会中のようだった。
きっとそこには――山乃端一人も居るのだろう。
「その……山乃端一人さんのことで、相談があるんですけど」
『あ、お仕事の話っすね。るいなちゃん、今どこに居るっすか?』
「えっ? 亀有、ですけど……」
『もう帰るところだったっすか。じゃあ――今からそっち向かうっすよ。直接会った方が話しやすいっすよね』
「い、今からですか!?」
彼女からの思わぬ提案に驚き、スマホを落としそうになる。
ファミレスから亀有まではかなり距離が離れているが――。
『私の能力なら、10分もあれば着く距離っすよ。待ち合わせ場所はどこがいいっすかね?』
「えっと……いつもの公園とか、どうでしょうか」
『了解っす。――じゃあ、一旦電話切るっすね』
あっという間に約束を取り付けると、電話は切られる。
大事な用件があることを察したのだろうか。
それとも、電話が苦手な自分のために配慮してくれたのか。
いずれにせよ――かなわない相手だった。
やはり自分では釣り合わない――。
「――い、いけない! 真陽先輩に会うんだから、シャキッとしないと!」
気を引き締めて、待ち合わせ場所になった公園へ向かう。
あそこなら人も少なく、話をするには絶好の場所だろう。
胸の高鳴りさえ受け入れて、恋する少女は前を向く。
*
公園は街灯の薄明かりに照らされ、誰も居ない遊具に影を落とし続けていた。
深夜にもなるとこういった場所には物好きが集まりそうなものだが、幸い今夜は誰も来ていないようだ。
もっとも――その物好きには自分も含まれるのだが。
時折聞こえる車の走行音に耳を奪われつつ、入り口から目立つ位置にあるベンチに腰を落とした。
誰も居ない場所に居ることに心細くなる反面、何だかいけないことをしているようでワクワクしてくる。
スーハーと深呼吸をして、着信が無いかとスマホを見つめ、彼女が来るのを子犬のように待ち焦がれている。
この時間が朝まで続いても構わない――。
けれど、彼女は真っ直ぐに駆け付けてくれることを、知っている。
遠くから、大きな風が吹いてくる。
ビルの隙間風のようにゴゴゥと勇ましい音を立てながら、その魔人はやってきた。
冬服のトレンチコートが空に舞い、自分から10メートルぐらい離れた位置に着地する。
「――ごめん。待たせちゃったっすか?」
「ううん、わたしは大丈夫ですよ。――真陽先輩、お疲れ様です」
「るいなちゃんも、お仕事お疲れ様っす」
にこりと笑って、互いの無事を確かめ合う。
誰よりも早く、彼女は自分の元へやってきた。
初めて会った日から何も変わらず――優しい瞳で、弱虫な自分を包み込んでくれる。
ずっと憧れだった人――。
あの時から、少しずつ距離は縮まっているだろうか。
「はい、これ。身体を冷やさないように、温かい飲み物を買ってきたっすよ」
「あ、ありがとうございます」
トレンチコートのポケットからおしるこの入った缶が2つ出てくる。
その片方を彼女から受け取ると、ぽかぽかと心地よい温度が手のひらに伝わってきた。
思わず頬にもくっつけたくなる衝動に駆られたが、はしたないと思われたくないので我慢する。
プルタブを開けようとするが、爪が引っかからず上手く開かない。
しばらく苦闘したのち――もしやと思い、彼女に尋ねる。
「真陽先輩、この缶開かないんですけど……」
「あ――保温のために能力使ってたの忘れてたっす。今解除するっすね」
その言葉を合図として、おしるこ缶の中に流れる時間が動き出す。
プルタブを爪で押し上げると、中から黒い液体が溢れてきた。
「わぁ」と驚きながら唇を尖らせて吸い上げると、口いっぱいに優しい甘みが広がる。
「えへへ。とっても美味しい!」
「それは良かったっす。――隣、座ってもいいっすか?」
「はい。もちろんです!」
座りやすいよう、軽く左にスライド移動すると、自分の右隣に彼女が座った。
すぐに身を寄せて、暖を取る。
「えへへ……真陽先輩、あったかいです」
「るいなちゃんはひんやりしてるっすね。心が温かいってことっす」
「ずっと外に居たからですよぉ」
求めていた――幸福な時間。
全てを投げ出して、ここに入り浸ることが出来れば何と素敵なことだろう。
贅沢は言わないから。
せめて――おしるこを飲み終わるまでは、こうしていたい。
ひとしきり笑って、優しくされて、甘やかされて、缶の中身が徐々に減っていく。
彼女からは何も言ってこない。――言いづらいことを抱えていることまで、お見通しのようだった。
「――真陽先輩!」
決意を固めて、缶底に残ったおしるこを喉奥に流し込む。
甘ったるさと熱さを全て飲み干し、勢いよく缶をベンチに叩きつけると、ベコンと軽快な音が鳴った。
彼女の方に向き直って、一番伝えたかったことを口にする。
「ずっと前から――先輩のことが大好きでした!!」
その叫びは夜の公園に寂しく響く。
つい勢いに任せて思いの丈をぶつけてしまったが――すぐに後悔した。
仕事の話では無かったのか。完全にプライベートの話ではないか。
沸騰したおしるこが逆流しそうなほど、顔が火照って熱くなる。
「す、すすすすみませんわたしそんなことを言うつもりでは――」
「私もるいなちゃんのことが大好きっすよ」
ぽん、と手が置かれ、髪を優しく撫でられる。
突然の告白にも彼女が動じることは無かった。
そのことに一抹の寂しさを感じる。
あまり本気にされていないようで――自分は惨めだ。
だけど――いつか、振り向かせてみせる。
そのためにも、彼女に真実を伝えなければ。
「あの……ありがとうございます。そろそろ、本題に入りますね」
「うん。よろしく頼むっす」
頭を撫で続けられる。
「その……手が。話せる雰囲気じゃないんですけど」
「大丈夫っすよ。続けてどうぞっす」
頭を撫で続けられる。
「そろそろ……あまり優しくされると、泣きますよ? いいですか?」
「辛いときは泣いてもいいっすよ」
頭を撫で続けられる。
「うわあああああああああん!! 真陽先輩のバカあああああああああ!!」
今日、何度目になるか分からない。
涙腺が崩壊して、ありったけの感情が吐き出される。
顔が暖かいもので包まれる。
ぎゅっ、と彼女に抱き締められていた。
その胸に顔をうずめると、溜め込んだ負の感情を全て溶かされるような心地がした。
優しく背中をさすられ、涙が出なくなるまで泣かされ続けたのだった――。
「すみません……真陽さんの大事なコートが、わたしの涙と鼻水でグショグショに……」
「能力で乾かせるから心配いらないっす。――それよりも、スッキリしたっすか?」
「はい。おかげさまで」
泣き疲れ、彼女が持つ底無しの優しさと包容力の恐ろしさを再確認した。
重たいものが取り除かれたため今度こそ、本題に移れる。
「それで――山乃端一人さんの身辺調査の結果ですが」
「うん。覚悟はとっくに出来てるっすよ」
一人が契約している複数のレンタル倉庫について、改めて整理をしながら彼女に話した。
270件ものレンタル倉庫の維持費を払い続けていること。
倉庫の中には大量のぬいぐるみが預けられていること。
そのぬいぐるみの中に火薬が仕込まれていること――。
そこから推測される、一人の魔人能力――遠隔操作によるテロ行為の可能性についても伝えた。
今の彼女がどのように振る舞っているかは知らないが、放っておけない危険人物ではないか――と。
その報告を、目の前の彼女は静かに聞いていた。
一人を守っている彼女は、果たして一体どのような結論を導くだろうか。
考え、悩み、咀嚼し、反芻し、彼女は口を開く。
「るいなちゃんは――私が山乃端さんの立場だったら、どう思うっすか?」
「えっと……それはどういう」
「もしも私がるいなちゃんと仲良くしている裏で、テロ行為を企てている悪者だと知ったら、始末するっすか?」
「それは――――」
想像し、酷く重い気持ちに襲われる。
優しさの裏側で、本当に彼女がそんなことをしていたら――ショックを受けるだろう。
少しだけ軽蔑するかもしれない。
今までのように接することは出来ないかもしれない。
けれど――。
「始末は……出来ません。それも含めて、真陽先輩だと思うだけです」
「そうっすよね。美奈先輩も祓くんも社長も――よく知らないだけで、腹に一物を抱えた人ばかりっす。
私やるいなちゃんにだって、荒れていた時期があったっすよ。山乃端さんも同じじゃないっすかね?」
「…………」
人は多かれ少なかれ、秘密を抱えて生きるものだ。
自分にも、知られたくないことはたくさんある。
母親のこと、魔人能力のこと、昔所属していたヤクザ組織のこと――。
けれど、それら全てが今の自分を構成しているものではないことも、知っている。
「私は――人間の強さを信じたいっす。単純な正義や悪では計れない人たちを、私はこれまでたくさん見てきたっす。
山乃端さんにも成長の機会があった。それは、昨日や一昨日の出来事だったかもしれないっすよね」
「それは――」
無いとも言い切れない。
自分が初めて彼女と出会った日のように――。
一人は、他ならぬ彼女と出会ったのだから。
「それと、憶えているっすか? 花屋で出会ったときの、山乃端さんのこと」
「はい。そういえば、あの時の女性が山乃端一人さんだったんですよね」
顔写真を手に入れる機会もあり、一人があの時の人物と同一だったことは把握していた。
だからこそ、人相が一致しない。綺麗な人だと思っていたのに。
「彼女からは、不気味なものは感じられなかったっす」
「あ――」
彼女は昔から、その人物が持つオーラを嗅ぎ分ける能力を持っていた。
魔人能力のように精度まで保証できるものではないが、長年の経験から産まれた危機回避能力だった。
一人が裏で悪巧みをするような者であれば、とっくに見抜いていただろう。
言いたいことに気付くと、彼女はくすりと笑った。
「私の直感なんて信用できないっすか?」
「いいえ。――わたしはいつだって、真陽先輩を信じています」
それはあまりにも単純過ぎる結論で。
自分が心配する幕は、最初から無かった――。
「良かった。じゃあ、山乃端さんとは仲良くできそうっすか?」
「むぅ……」
彼女は最初からそれを気にしていたようだった。
危険人物の容疑は晴れないが、一人は今井商事の『顧客』である以上、自分もお客様として丁重に扱う必要がある。
――社会人として、割り切ることも少しずつ覚えていかなければならない。
「……善処します」
「るいなちゃん、えらいっす」
不貞腐れながらも答えると、頭を優しく撫でられた。
また――少しだけ泣きそうになるのを、ぐっと堪える。
「後は本人に直接確認するだけっすね」
そう言って、彼女はベンチから立ち上がった。
真実だけで早合点する自分とは違い、彼女なら上手くやれるだろう――。
「今日のところは、お開きにするっす。るいなちゃん、ひとりで帰れるっすか?」
「はい、大丈夫です。今日は夜分遅くにありがとうございました」
名残惜しいが、いつまでも彼女の仕事の邪魔をするわけにはいかない。
ぺこりと一礼して、笑顔で別れを告げる。
――なんて、タダで帰すわけはない。
乙女を見くびってもらっては困る。
「――真陽先輩、忘れ物です」
「ん? 何か落としたっすか――っ!?」
振り向きざま、彼女のトレンチコートの裾をぐいっと引っ張る。
彼女のバランスが崩れ、よろめき、その端正な横顔がこちらに急接近する。
短く、リップの音が静かな公園に響いた。
愛しい人の頬にそっと口づけをした音だった。
彼女の驚いた顔がこちらを向く。
「るいなのこと――もっと本気にさせますから。今日のこと、忘れないでくださいね!」
自分でやっておきながら、恥ずかしくてたまらない。
気が付くと、公園から逃げるようにして駆け出していた。
甘い匂いがいつまでも消えない。
もう中身の入っていない、おしるこの缶さえ愛おしい。
「真陽先輩のバカあああああああああ!!」
恋する乙女の夜は、もう少しだけ悶々と続くようだった――。
*
「……成る程、そういうことか」
公園の電灯の上に立つ、黒い影。
赤い翼を広げ――竜人族の末裔、ドラゴニュートは彼女たちの話を盗み聞きしていた。
真陽と同じ速さで移動出来るので、ファミレスからここまで付いてくるのは容易いこと。
そして――山乃端一人の能力も、神が山乃端一人に執着する理由も、これで全てハッキリした。
「待っておれよ……お主の思い通りにはさせんからな」
人知れず、滅亡協会のリーダーは計画を進める――。
神殺しの日は間もなく訪れるだろう。
*
長かった夜が明けて――。
相変わらずの寒波が立ち込める中、有間真陽は今日も変わらず出勤する。
流石に一睡もしないわけにはいかないので、軽く睡眠を取ったところ太陽が昇りきってしまった。
今の業務は一人を守ることだけを考えればいいので自宅待機でも良さそうだが――。
昨日の一件を社長に報告すべく、今井商事に直行するのだった。
今日も1階の作業室から賑やかな声がする。
挨拶しようと扉を開けると、中から可愛らしいエプロンドレスを纏った少女がお出迎えした。
「おかえりなさいませ、御主人様!」
「――ここはいつからメイド喫茶になったっすか?」
るいなを彷彿とさせる童顔に小柄な体型の美少女。新人バイトの愛莉だった。
御徒町での白衣姿、勤務初日のビジネススーツ姿に続き、今日もコスチュームが変わっているようだ。
「お疲れ様です、真陽先輩!」
「お、おはようっす……今日も朝から元気っすね」
犯人には心当たりしかないので、事務室を見渡す。
案の定、満面の笑みで後輩を見守る卓成の姿があった。
スーツ姿で勤務に励む姿はどこへやら、ここ最近の彼は常に燕尾服を着用していた。
「祓くん、これは一体どういうことっすか……?」
「いえ。わたくしの正装が執事服なので、その対になる服装を考えたのですが」
「前提がそもそも間違ってるっす!」
はぁとため息が漏れるのも意に介さず、彼は弁明を続けた。
「社長もおっしゃっていました。オンリーワンの個性が無ければ勝ち上がれない――と」
「ウチはそういう会社じゃないっす。ただの金貸し屋っすよ」
いつもながら、彼の考えることは分からない。
これでも営業マンとしては適正があり、客先からの評判は高いのだから手に負えない。
甘いルックスと薄っぺらい言動に騙されているのである。
改めて愛莉の方を向き直る。
昨日の今日で制作されたとは思えないほど、サイズもぴったりでフリルをあしらった可愛らしい生地が使われていた。
「採寸とか裁縫とか――この短期間で誰がやったっすか?」
「あぁ、それなら山乃端さんがやってくれたんだぜ!」
「山乃端さんっすか――!?」
まさか一人まで出社しているとは思わず、慌てて辺りを見回す。
オフィスの一角にて、裁縫作業に励む彼女の姿があった。
目が合うと、嬉しそうに立ち上がって一礼をしてきた。
「こんにちは、有間さん。ちょっとお邪魔してます」
「なんか付き合わせたみたいで申し訳ないっす……」
「いえいえ。私、裁縫だけが取り柄なのでお役に立てたなら何よりです」
そう言って笑う彼女も、花柄のドレスを身に纏っていた。
初対面の頃から随分と華やかになった感じがする。
「山乃端さん、それにしても随分と針が早いっすね」
「いえ。これは私だけの力ではなくて――」
「おいおい真陽先輩、あたしの能力を忘れてもらっては困るぜ」
ドヤ顔で割り込んでくる小さなメイドさん――もとい、愛莉。
そういえば、彼女は10畳間のスペースさえあればどこにでもラボを設置できる能力を持っていた。
ラボの中では時間の進み方が異なり、ラボの中での1時間が外の世界では1分に変わる。
たとえば真陽が1時間の睡眠を取っている間に、60時間分の作業が出来るというわけだ。
つまり――そこに裁縫道具を持ち込んで、ということだろうか。
ならばこの完成度の高さにも納得がいく。
「愛莉ちゃんの能力はすごいっすね」
「へへーん、そうだろそうだろ! でもな――実を言うと、あたしも戦闘向きの能力が欲しかったんだけどな……」
規格外の時間操作能力を持つ彼女だが、それは汎用性のある能力ではない。
運動エネルギーを操る真陽、いつでもロープを召喚できる丈太郎に比べると、あまり戦闘の役には立たないだろう。
だが、この世には適材適所という言葉がある。
どんな能力も上手く使えば真価を見出だせる、はずだ――たぶん。
「大丈夫っすよ。今度魔人に襲われたときは頼りにしてるっす」
「本当か? へへっ、任せてくれよ! あたしの正義でみんなの命を守ってやる!」
どんな衣装を纏っていても、彼女の正義が揺らぐことは無かった。
その真っ直ぐな心は誰にも引けを取らないようだ。
満足そうに笑い、掃除の仕事に取り掛かる愛莉を横目に、メイド服を提案した元凶の方を向く。
「ところで、社長はもう出勤されているっすか?」
「はい。ですが、今は客室にてお客様と大事な話をされていますよ」
「――お客様?」
「春風財閥のご令嬢――春風飛信子様がいらっしゃっております」
「春風さん……あぁ、昨日のデスゲームで主催やってたあの子っすね」
彼女とは色々あったが、卓成の愛弟子だったりそこまで悪いオーラのしない人物だったりで、根は良い人なのだろう。
それと、春風財閥といえばCMでも耳にすることのある、多くの有名企業を経営する名家だ。
先日の打ち上げパーティーの際にも色々と話は聞いていた。
「それとデスゲーム研究会の方々もご一緒されておりますが」
「随分と2階も賑やかになってるっすね……」
1階には愛莉、卓成、一人、そして自分。
2階には社長、飛信子、創郎、黒子、丈太郎が居るということになる。
これから何か大きな催しでも開かれそうなほど、気が付けば大所帯になっていた。
「……もしかして、今後のデスゲーム運営に関する融資の話っすかね?」
「それもあると思いますが、一番の狙いは業務提携でしょう。
社長も大企業がバックに付くことを望んでおられますし、双方にとって利のある話かと思います」
「それって、ウチにどういうメリットがあるっすかね……? お金なら社長の力でいくらでも――」
社長――今井総の魔人能力は自動発動する運命操作である。
宝くじを買えばほぼ確実に1等が当たり、株を買えば売値が上がり続け、無限にも等しい資金源を生み出す。
本人の意志でコントロール出来ないため万能ではないが、他の財源に頼る必要は無いだろう。
そう口にしようとすると、卓成がやれやれと言ったジェスチャーをしてきた。
「お嬢様は何も理解しておられませんね」
「――その呼び方、気持ち悪いからやめろっす」
「社長の魔人能力が健在な内はそれで上手くいきますが、あの方はその先のことまで見据えているのですよ」
「あぁ――そういうことっすか」
不謹慎な仮定ではあるが、社長も不死身ではない。いつか死ぬこともあるだろう。
そうなった場合も社長の遺産を切り崩し、騙し騙しでやっていくことは可能だが、いつか底を尽きてしまう。
次はどんな手段を用いるにせよ、社会的な信用を得たほうがやりやすいこともあるのだろう。
「いえ、社長は我々の誰よりも長生きするので、その心配はありませんよ」
「ウチの社長を何だと思ってるっすかあんた」
「そんなことよりも――この世界にいつまでも魔人能力がある、という保証も無いということです」
「……それは、確かにそうっすね」
今の世代を生きる人間として、当たり前のようにある力――それが魔人能力。
誰もが平等に持っているものではないが、それは多かれ少なかれ社会に貢献し、無くてはならないものになっていた。
真陽もこの能力が無ければ全く違った人生を歩んでいただろう。
今井商事も存在していなかったかもしれない。
一方で、自分の能力に泣いている者を知っている。
一度得た能力を捨てることが出来ないため、周囲に馴染めなくなった魔人も少なくない。
るいなや美奈も、その代表例だろう。彼女たちは周りに悪影響を与えないよう、人前に出ることに対して消極的になっている。
魔人能力とは――何なのだろう。
いつから始まり、いつ終わるのか。
それが無くなった世界は、一体どうなってしまうのか。
不意に左手の傷口を思い出す。
「魔人能力が無くなれば、るいなちゃんや居助くんも人並みに生活出来るようになるっすかね」
「えぇ、おそらくは。――ところで、聞き覚えのない名前のようですが、居助様とは一体?」
「何度かウチに来てるっすよ。……まぁ、そういう魔人っす」
「成る程、理解いたしました」
生きながら――居ない者として扱われるもの。人として扱われないもの。
自分が知らないだけで、そういう魔人もごまんと居るのだろう。
全員が幸福になれる道は――無いのだろうか。
「とりあえず、今は目の前の仕事に集中するっす」
自嘲気味に笑って、難しい結論は先延ばしにする。
迷って、悩んで、今日も明日も同じ日々が続くと思っていた。
その日、世界が大きく変わることを、まだ誰も知らない――。