09
「…分かりました。昨日の詫びに俺が作ります、とんかつ」
「………へ!?」
どうして、こんな事に?
嫌いだって言ったよね?僕の事。きくいちに来て欲しくないって言ってたよね?
なのに、どうして君はそこに立っているの?
僕の家の台所に立つ彼の背中に、視線で問い掛けてみる。勿論答えが返ってくる訳はないけれど。
僕の視線に気が付いたのか、台所に向かっていた伊吹君が振り向いた。
「もうすぐ出来ますから」
そう言った伊吹君は、いつもより少しだけ穏やかな顔をしているように見える。
聞いて良いだろうか…、今なら聞けそうな気がする。
「ねえ、どうしてそこまでしてくれるの?」
「言ったでしょう、昨日の詫びです」
「それだけ?」
「それだけっていうか…、あんたが作ると折角の豚ロースが『豚肉にパン粉をつけて揚げた物』になるからです」
それがとんかつじゃないか、人がおかしな物を作ろうとしてるみたいにっ。
でも…、家まで来てそこまでしてくれるって事は、そんなに嫌われてる訳じゃないって思って良いのかなぁ。だって、本当に嫌いだったらこんな事しないよね?きっと。
油の音、包丁がまな板を叩く音――調理をしている音がする。
あの音を聞くのも、あの台所に立つ人の背中を見るのも久しぶりだ。
以前は毎日、当たり前のように見られた光景だったのに、今はもう見る事が出来ない。
彼女――美咲と伊吹君は身長も体型も全然違う。どこも似ているところなんてないのに、何故か懐かしく感じて、切なくて胸がぎゅっと締め付けられるようだ。
当たり前に存在していた現実は、今はもう過去のものになってしまった。
普段は考えないようにしてる…けど、ふと思う事があるんだ。どうして僕は『ここ』にいるんだろうって。
取り戻せない過去にしがみついたまま、それでも僕は流れていく現実に身を置いている。それは僕には矛盾しているように思える。
どんなに足掻いたって、あの幸せな日々は戻って来ない。だったら、『ここ』にいる事を止めてしまえば良い。
この現実に生きる事を止めて、あの日々の事だけを考えていられるならって時々思う。
だけど、それは出来ない――美咲を失ったあの日、僕は気が狂う事も死を選ぶ事もなく、ただ泣く事しか出来なかったんだ。
美咲のいない未来に絶望しながら、それでも『ここ』にいる事しか出来なかった
それが良いのか悪いのか、僕には分からない。良い悪いに関わらず、僕にはこんな風に生きていくしかないと思う。
流れていく時に怯えながら、美咲の面影を求める事にしか僕には道が残されていない。
それは僕のとって幸せな日々ではないけれど、それでもこの日常が変わらなければ、と思う。
変化なんていらない、僕自身にも僕の周りにも。変わらなければ、僕はもうこれ以上傷つく事なんてないんだから。
――変わりたくなんかない。
伊吹君の言葉に、思わず零れた本音。伊吹君に聞かれなくて良かった。
聞かれていたら、伊吹君は何て答えただろう。どう思っただろう。
でも、そんな事はどうでも良くて、知られたくないのは僕自身の問題。
人に僕の内側にあるものを覗かれるのは嫌だ。怖いと思う。
僕の内側は醜く、ドロドロしている。過去にしがみついたまま、それでもただ生きていく事しか出来ない僕は滑稽だ。
そんな自分を誰にも知られたくない、隠しておきたい。そう思う事すら滑稽なのかもしれないけれど。
それでも、僕はやっぱりこのまま生きていく事しか出来ないから。
「出来ましたよ…、どうかしました?」
だいぶ長い時間ぼんやりしていたのか、気が付けば息吹君がとんかつとキャベツの千切りが乗った皿を持って、目の前に立っていた。
「な、何が?」
「…何だか泣きそうな顔しているから」
泣きそうな顔?…ってどんな顔?僕はちゃぶ台を片付けるふりをして、伊吹君が顔を逸らす。
「な、何でもないよ。それより二人前分作ってくれたんでしょ?伊吹君も食べていくよね?」
「いや、俺は…。ていうか、何で二人分買ったんですか?一人暮しですよね?」
「あ、仏壇に上げる分だよ。でも、食べて良いから。どうせ上げても、明日には僕が食べるんだし」
仏壇は美咲が死んだ時に買った物だ。何かあった時とか美味しい物を食べれた時はお供えしてる。美咲に届くように。
実際届くかどうかは僕には分からないけれど、僕の気持ちの問題…かな?
「でも、それならやっぱり…」
「良いの良いの!いっつも一人で寂しいからさ、たまには賑やかな食卓を味わいたいんだもん、ね?」
「………じゃあ、遠慮なく」
伊吹君は暫く悩んだようだけれど、結局二人分の皿をちゃぶ台に置いた。
久しぶりに二人の食卓。伊吹君に使ってもらう食器が美咲が使っていた物になってしまうのは、美咲に悪い気がするけれど…。男の子だし、今日だけは勘弁してもらおう。
「お…、美味しそう…」
白いご飯に味噌汁、そしてメインのとんかつ、キャベツの千切りを目の前にして、僕は思わずそう呟いた。
美味しそうだ、本当に。まあ、僕が作ったってこんな風になる予定だったんだけどね?
「伊吹君は料理が上手いんだねぇ」
「まあ、一応料理人ですから。それより、本当に仏壇に上げなくて良いんですか?」
「うん………いや、やっぱり上げようかな、少しだけ…」
こんなに美味しそうな物、美咲に上げないのはやっぱり心苦しい。少しだけで上げよう。
僕は食器棚から皿を取り出すと、とんかつを二切れ、キャベツの千切りを少し乗せた。
「じゃあ、俺も…」
「良いよ良いよ、気にしないで」
「俺の分が仏壇用でしょう。全部食ったら、俺が盗ったみたいで気が引けます」
「うん…そっか、ありがとう」
伊吹君ってさ…、真面目というか律儀というか…良い子だよね、やっぱり。
いつだって真っ直ぐで多分嘘は吐けない――嘘が吐けるなら、僕の事が嫌いでもその場は愛想笑いで済ませるとか、もっと上手く立ち回れるだろう。
それが出来ないからきつい事も言うし、悪いと思ったら直ぐに謝れる。
真面目で律儀、真っ直ぐで嘘が吐けない――そんな伊吹君が僕には眩しく見えた。
その澄んだ瞳と同じように澄んでいて、何にも染まらない伊吹君。
そんな彼に、僕の内側を見られるのはやっぱり怖い。
自分が酷く汚れた存在に思えた。
最終更新:2009年12月10日 00:10