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瀬野さんの家は何となく寂しい雰囲気が漂っていた。
作家さんというと、何となく散らかった部屋を想像していたけれどそんな事もなく、居間には生活に必要な物しか置かれていない。
食器棚には二人分の食器が並べられているのが少し気になったけれど、瀬野さんの他に誰かが暮らしているようには思えなかった――ただの勘だけど。例えば玄関にはさっきまで瀬野さんが履いていたスニーカーしかないとか、そんなところから。

居間の隅には仏壇がある。比較的小さな仏壇には遺影もなく、どこか物悲しい雰囲気を醸し出していた。
その仏壇にさっきまで俺が作っていたとんかつの皿が置かれる。
瀬野さんと俺の分のとんかつ四切れとキャベツの千切りが少し。この場所に眠っている人に届くだろうか。そもそも誰が眠っているんだろう。

仏壇に手を合わせる瀬野さんの隣に並んで、俺も手を合わせる。拝む振りをして、俺は横目で瀬野さんを見た。
瀬野さんの左手の薬指には夕日にキラリと光る物がある。指輪だ、銀のシンプルな指輪。
そのデザイン、それを付けている場所、遺影のない仏壇、そして静かに目を閉じる瀬野さんはいつもの笑顔ではなく、真剣な表情をしている――まさかこの場所に眠っているのは…。

「ありがとう、伊吹君」

そう言って、俺を見た瀬野さんはもういつものように穏やかな笑みを浮かべていた。
死んだ人には勝てないってよく言うけれど。
さゆりさんの恋はやっぱり叶わないんじゃないだろうか――そう思うと俺は嬉しくなるどころか、何だか悲しいような切ないような、そんな気持ちになった。



とんかつは美味しい。当たり前だ、俺が作ったんだから間違いない。でも、あまり箸が進まなかった。
瀬野さんは美味しいって言って食べてくれているけれど、そんな瀬野さんに俺は笑みを返す事しか出来ない。
何だか言葉が出てこなくて黙々と箸を進めていると、瀬野さんの方が口を開いた。

「ねえねえ、一つ聞いて良い?」
「…何ですか?」
「さゆりちゃんのどこが好きなの?」

瀬野さんはいつものように穏やかに笑って、俺にそう尋ねた。
…それをあんたが俺に聞くのは、あまりにも無神経だと思うけど。ああ、本当に気が付いていないんだな、さゆりさんの気持ちに。
本当に天然なのかな。それとも周りが見えなくなっているんだろうか、あの仏壇に眠る人の思い出に浸って。

「…あんたは?」
「え?」
「さゆりさんの事、どう思いますか?」

いつか聞いてみようと思っていた。答えは分かってはいるけれど、確認の為に。
さゆりさんの想いは叶う事がないのか、これからもずっとそうなのか。それが聞けたら、何かが変わるような気がした。

「ど、どうってどうかな…。明るくて話し易いし、良い子だと思うよ。話してると癒されるっていうか…、可愛いと思ってる」
「…それだけですか?」
「うん、それだけだよ?彼女にしたいとかそんなんじゃないから心配しないで。妹みたいな感じかなぁ」
「でも、それはこれから変わるかもしれませんね。人の気持ちなんて変わるものだし」
「僕は…。いや、さゆりちゃんは彼女にしたい感じじゃないんだよね。それに、もし僕がさゆりちゃんを好きになったら、僕達恋敵になっちゃうじゃない」

…俺にとってはもう恋敵だ。分かってはいたけれど、本当に気が付いていない。怒りを通り越して呆れてしまう。

「心配しないで?絶対ないからさ」

さゆりさんに対して恋愛感情をない事を、そしてこれから芽生える事もない、ときっぱり宣言した瀬野さんに、俺はやっぱり複雑な気持ちになった。
瀬野さんの気持ちを知ったら、さゆりさんは悲しむだろう。泣くかもしれない。その時、俺はさゆりさんを慰める事が出来るのだろうか。

はっきり慰めると言えないのは、きっと俺が俺自身に自信がないからだろう。
さゆりさんと俺じゃ釣り合わない。他の誰が何と言おうと俺にはそう思えてしまう。

「僕が言ったんだから教えてよ、伊吹君」
「さゆりさんのどこが好きか…ですか?」

俺の問いに、瀬野さんはうんうん、と何度も頷いた。
さゆりさんの好きなところ――明るいとか笑顔が可愛いとか…、色々あるけれど。一番好きなのは多分…。

「…夢に向かって真っ直ぐで、妥協を知らないところ…かな」

さゆりさんには歌手になるという夢があって、その事を話している時が一番輝いていると思う。
そして、夢を夢で終わらせる訳じゃなくて、少しずつだけど確実に夢を現実のものにしようとしている。
いつだったか、さゆりさんが話してくれた。
諦めるという言葉は、自分の辞書にはない。どんなに苦労をしても、どんなに時間がかかっても、絶対に歌手になるんだって。

俺はそんなさゆりさんが羨ましかった。将来なりたいものがあって、それに向かっていける強さを持ったさゆりさんが。
それは俺にはないものだから。
小さな頃には夢もあったけれど、『俺なんかじゃ無理だ』って諦めてばっかりだった。その内、夢を見る事すら止めてしまった。

今の俺には何にもない。目標とか夢とか…、何にもなくてただ何となく毎日を生きている。
だから、たまに分からなくなるんだ。何の為に生きてるんだろうって、生きている意味なんてあるんだろうかって。
こんな事を考えてる俺は相当暗いかもしれない。でも、本当に分からなくて、考えてみても答えは出せた事がない。
ただ死にたくないから生きている、としか思えないんだ。

だから、夢に向かって真っ直ぐなさゆりさんに憧れるし、そんなさゆりさんとじゃ釣り合わないと思ってしまう。
俺にも人に誇れる何かが一つでもあったら、さゆりさんに想いを告げる事が出来るのかもしれないのに。

「うんうん、さゆりちゃんは歌手になる為に頑張ってるよねー。立派だと思うよ」
「そうですね、でも、あんたもでしょう?」
「え?」
「作家として頑張ってるじゃないですか。売れてなくても、これからも書き続けるんでしょう?」
「う、うん…。『売れてなくても』って失礼だなー!これから売れるの!」
「…そんな風に思えるほどやりたい事が、俺には見つからないから憧れます」

さゆりさんとこの人は同じ人種なんだ。夢に向かって確実に進んでいて、諦めるという事を知らない。これから先の未来で絶対叶うと信じている。
俺にないものを持った二人――入り込めない、取り残されている。そんな気がして、焦りや嫉妬のような感情が生まれる。
どうして良いのかなんて分からないのに、漠然とした不安だけが残る。

どうしたら良いかなんて、この人に聞いたってしょうがないし――きちんと夢を持った人には分からない悩みだから――きっと自分で答えを見つけるしかないんだろう。
いや、答えなんかないのかもしれない。一生何にもないまま生きていくのかもしれない。
答えなんかあってもなくても、何にもない俺は何にもない毎日をただ過ごしていくんだろう。
生きている意味なんか分からない――それでも生きていくしかないんだから。


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最終更新:2010年03月20日 19:14