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どうして俺はこの人と和気あいあいと会話を交わしているんだろう――ふとそう思った。
でも、不思議なほど穏やかな気持ちだった。この間の事が嘘のように。
…これでもこの人が嫌いだ、と言えるんだろうか?
店の扉ががらがら…と音を立てて開いて、中に入って来たのはお客さんじゃなくさゆりさんだった。
「戻りましたーっ。あ、瀬野さん!久しぶりっ!!」
さゆりさんは瀬野さんの姿を見つけると嬉しそうに笑顔を見せる。
ああ…、確かにさゆりさんにとってはかなり久しぶりなんだ。この間、俺と瀬野さんが言い合いをした日、さゆりさんはバイトが休みだったから。
「久しぶりって酷いなぁ。そんなに会ってなかったっけ?」
「会ってないじゃんっ。瀬野さん、全っ然来てくれないんだもん。…体調が悪かったの?」
「ううん、全然健康だよ。小説書いてたんだー」
「何だ、それだけー?それならそうって言ってよ、もうっ」
二人のやり取りを見て聞いていると、俺にはありありと分かってしまう。さゆりさんが瀬野さんを気遣う気持ちとそれに全く気が付かない瀬野さんの態度。
俺の立場としてはどういう態度を取れば良いんだ…。さゆりさんをフォローするべきか、それとも二人の仲を邪魔してみるか。
勿論さゆりさんの事が好きなんだから、敵に塩を送るような事はしなくて良い。いや、するべきじゃない。
だけど、さゆりさんの気遣いが瀬野さんに伝わらないのが何だか悔しくて。
「…さゆりさん、ずっと心配してましたよね、瀬野さんの事」
結局、さゆりさんをフォローするような事を言ってしまう俺は馬鹿だと思う。きっと誰が見たって。
何でこんな事言ってんだ。これで二人がくっついたら、傷つくのは俺なのに――でも、それはない気がするけれど。
「やー!ちょっと余計な事言わないでっ!」
少し頬を赤く染めたさゆりさんにバシっと背中を叩かれる。かなり痛い。
照れてるだけだって、ちゃんと分かってる。でも、さゆりさんの俺の扱いって酷いよな…。少し悲しくなってくる。
「ああ、そういえばこの間も伊吹君言ってたもんねー」
「え、この間っていつ?瀬野さん、店来たの?」
「うん、来たよ。さゆりちゃんはちょうど休みだって言ってたかな」
「ちょっとーっ、何で私が休みの日に来るのー?」
「いや、そんな事言われても…」
さゆりさんに何だか理不尽な事を言われて、瀬野さんは苦笑いだ。
確かに…。お客さんが従業員の休みを知る訳がないのに。無茶言うな、さゆりさんも。
「心配してくれてありがとう。でも、全然平気だから」
膨れ気味のさゆりさんだったけれど、瀬野さんのこの言葉と笑顔ですっかりいつもの笑顔に戻っている。
…やっぱり敵に塩を送る結果になったかもしれない。
「じゃあ、そろそろ帰るよ。ご馳走様」
「えー!?もう帰っちゃうの?」
「もうって…。だって、来てから結構経つし邪魔でしょ?あ、おばちゃん腰痛だっけ?お大事にって言っておいてね」
「うん…」
確かに結構経つけど、さゆりさんが帰って来てからはあまり経っていない。だから、さゆりさんは酷く残念そうだ。
そんなさゆりちゃんの気持ちに気が付かない瀬野さんは、いつもの笑顔でさゆりちゃんに千円札を差し出した。
「そうだ!忘れてた!!」
突然瀬野さんが上げた声に、驚いたのは俺だけじゃなくさゆりさんもで。
瀬野さんはお釣りを差し出すさゆりさんを無視して、俺の方へやってきた。
「あの伊吹君、昨日はありがとう」
と俺の前に差し出したのは同じく千円札。そうだ、この間貸したんだ、千円札。
「ああ、豚肉の…」
「そうそう、豚肉の」
「忘れてました」
「僕も忘れるところだった。本当にありがとう」
笑顔で差し出された千円札を受け取って、俺はジーンズのポケットに仕舞った。
「ねえねえ、何の話っ?」
「ううん、大した事じゃないんだ」
興味津々で聞きたい、と顔に書いてあるさゆりさんを、瀬野さんは笑顔で拒絶する。何でだ、別に何でもない事なんだから言ったって良いじゃないか。
…何だかさゆりさんに恨まれる気がする。
「じゃあ、本当にご馳走様でした。また来るね」
「ありがとうございました」
「また来てねっ!」
瀬野さんはいつも通り笑顔で店を後にした。すると、さゆりさんの鋭い視線は迷う事なく俺に向かってくる。
「…大した事じゃないですから」
先手を打って、そう言ってみる。だけど、そんな事でさゆりさんの追求が収まる筈がない。
「ずるーいっ!伊吹君、何でそんなに瀬野さんと仲良くなってんのよーっ!」
「いや、全然仲良くないですから」
「嘘!だったら、何で『豚肉の』だけで会話が出来んのよ!おかしいじゃないっ!」
確かにさっき会話は少し変だったかもしれない。でも、何で怒られなきゃいけないんだ。
「…財布を忘れて困ってたから、金を貸したってだけです」
「ほんとに~?」
「本当です…。男同士なんだし、別にやましい事なんてありませんよ」
「それはそうなんだけどー…」
さゆりさんは納得いかないのか、言いたい事があるように思えた。
俺はとりあえずさゆりさんの言葉を待った。
「…瀬野さんは私より、伊吹君に興味があると思う」
「…え?何で…」
「分からない…けど、好き嫌いは別としても、興味は伊吹君に向いてると思うから…」
そう言ったさゆりさんの目は真剣そのもので、嘘を吐いているようには思えない。
瀬野さんが俺に興味を持っている?――そんな馬鹿な…。いや、少なくともさゆりさんがそう思っている事は事実だ。
さゆりさんは俺をライバル視しているという事なんだろうか。そうだとしたら、あんまりだ。恋敵の所為で、好きな人に敵対心を持たれるなんて。
男同士だし、変な意味ではないんだろうけれど…。
「どうしてそう思うんですか?」
「何となく…女の勘。でも瀬野さん、ここに来たらいっつも伊吹君見てるよ」
「そ、れは多分深い意味はないですよ…。あまり気持ち悪い事言わないで下さい」
俺がさゆりさんに言った言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。俺自身、思い当たる節があるから。
よく目が合うんだ、瀬野さんと。少し前まで殆ど話した事がなかったのに、目だけはやたらと合っていた。
俺は恋敵である瀬野さんをただ単に睨んでいただけだけど、あの人が俺を見る理由って何だ…?いや、本当に理由なんかないんだろう。あった方が怖いじゃないか。
「深い意味はないかもしれないし、伊吹君にとっては気持ち悪いかもしれないけれど、瀬野さんが伊吹君をよく見ているのは事実だよ。だからどうって訳じゃないんだけどさ」
「どうって訳じゃないのに、俺は怒られるんですか?」
「うーん…、ただ羨ましいなってだけ。私、伊吹君にも負けてるんだなって思うと、伊吹君になりたいって思っただけだよ」
ま、私は私でしかないんだけどさ――そう言ったさゆりさんは笑っていたけれど、少し寂しげな瞳をしていた。
俺はさゆりさんにそう言わせた瀬野さんが羨ましくなった。そして、瀬野さんになりたいと思う。
本当に世界は上手く回らない。
最終更新:2010年03月20日 19:25