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もう直ぐさゆりさんのバンドの出番だ。
ぼんやりとステージを眺めながら、俺はさゆりさんが出てくるのを待っていた。あの時と同じように…。

さゆりさんのバンドのライブに来たのは初めての事じゃない。前にも一度だけ来た事がある。
半年くらい前だっただろうか。今日と同じように、さゆりさんにライブチケットを貰って来たんだ。
あの時は瀬野さんはまだきくいちのお客さんじゃなかったし、他に知っている人もいなかったから、一人で見ていた。今日と大体同じ場所で、壁に背をつけて。

スタンディングでのライブは、前に行った方が楽しめるのかもしれない。バンドとの一体感は味わえると思う。
だけど、曲をちゃんと聴きたいなら、これくらい後ろが一番だ。俺としては曲をちゃんと聴くのがライブだから。

――伊吹君、ちゃんといたぁ!?後ろのほうにいたの?もーっ伊吹君、ノリ悪い!

後で、さゆりさんにそう怒られたけど…。
ちゃんと聴いていたつもりなのに、そういう風に言われて少しショックだった。
でもあの時、さゆさんは笑っていたから、本気で怒っていた訳じゃないんだろう。

始まる前は凄くドキドキしていた。初めて聴くさゆりさん歌声――喋ると高くて可愛い声だけど、どういう歌声なんだろうって気持ちが高ぶっていた。
ライブが始まって、ステージ上で歌うさゆりさんは綺麗だと思った。声だけじゃなくて、さゆりさんを纏うもの全てが輝いて見えた。
演奏も他の対バンの中でも群を抜いて、素人の俺から見ても上手いと思った。

だからだと思う。さゆりさんのバンドの演奏が終わった時、酷く不安な思いに駆られて、暫くの間動けなかった。
この人はいつか遠い場所へ行ってしまうだろうなって、はっきりと実感した。
その時だ、俺とこの人は釣り合わないって思ったのは。
夢を持って、それに進んで行く力を持ったさゆりさん、夢を見る事すら出来ずにいる俺――その差は大きくて、俺にはとても越えられないものがある。

一時は諦めようと思った。さゆりさんじゃなければいけない理由なんて、どこにもない。俺には俺に見合った人がいるかもしれない。いや、恋をしなければ生きていけない性質でもないし。
だけど、出来なかったんだ。今は目の前にあるさゆりさんの笑顔が堪らなく好きだ。未来の事なんて考えられないくらいに。

いっその事、好きだと伝えてきっぱり振られてしまえば諦めもつくかもしれないのに…。
それすらも出来ずに半年経って、俺もさゆりさんも何も変わっていない。
今日もあの時と同じ気持ちになるのかと思うと、楽しみな分だけ憂鬱な気持ちもあって何だか複雑な気分だ。

あの時と違うのは今、俺の隣にいる人の存在だけど。
少し緊張した面持ちで、サービスのウーロン茶をちびちびと口に含んでいる瀬野さん――この人は俺の気持ちなんて、少しも理解出来ないんだろう。…さゆりさんもだけど。
憎たらしい、思いっきり頬を引っ張ってやりたくなる。だけど、無視していた頃ほど、嫌悪は感じなくなっている。あの頃だったら、こんな風に一緒にいる事すら考えられなかったし…。
何も変わっていない筈なのに、この人に対する感情だけは少し変化している。不思議なもんだな…。

さゆりさんのバンドの番まであと少しかなって時、瀬野さんは俺のTシャツの裾をぎゅっと握り締めてきた。
驚いて、思わず身体が強張る。顔を見れば、やっぱり緊張しているような表情。
俺が逃げるとでも思っているんだろうか。…まあ、良いか。Tシャツは伸びるけれど。
この人、俺より年上だよな…。時々、年上に見えないのはどうしてなんだろう…。

対バンの演奏が終わり、『ありがとうござました』と奥に引っ込んでいく。次はいよいよさゆりさんのバンドだ。
会場が少しざわつき始める。
さゆりさんのバンドは今日のトリだ。という事は今日のライブのメインバンド。
前は真ん中だったのに…。やっぱりさゆりさんは確実に前に進んでいる。

少ししてさゆりさん達がステージに現れると、会場は更にざわつき始め、歓声も上がり始めた。
そんな中、瀬野さんは俺のTシャツを一層強く握り締めて、

「さゆりちゃんっ!頑張れーっ!!」

と叫んだ…。
周りの客が、一斉に俺達の方に振り向く。
瀬野さんにTシャツを掴まれてるだけに、視線が俺も仲間だと言っている。あまりの恥ずかしさに、俺は頭を抱えたくなった。

空気、読めよ…。『大人しくしていて下さいね』って言っとけば良かった。言わなくても、大人しくしとけよ…。
それでもさゆりさんは、瀬野さんに向かって小さく手を振った。ほんのりと頬を赤く染めながら。

最初の曲はさゆりさんのアカペラで始まる。ああ、やっぱり綺麗な声だな…。
透明な声に、客が聴き惚れているのが分かる。それから、バンドの演奏が始まって、会場が揺れ動き始めた。
ステージ上のさゆりさんはやっぱり光り輝いていて、遠い人なんだと思った。
いつだって、手を伸ばせば触れられるところにいるのに…、現実がさゆりさんを俺の手の届かないところまで連れて行ってしまう。
こんなに好きなのに…、それだけじゃ何も出来ない事を思い知らされる。
苦しい――思わず顔をしかめてしまった。

瀬野さんは終始、目を輝かせてさゆりさんを見ていた。
この人はさゆりさんの近くにいて、簡単に触れられる。でも、その事に気が付いていない上に、この人はさゆりさんを求めていない。
だからと言って、この人がいなかったらさゆりさんが手に入る訳じゃない。結局、俺には叶わない人なんだ、さゆりさんは。

何曲か演奏した後、さゆりさんはマイクに向かって喋り出した。

「皆、ありがとーっ!次で今日最後の曲になります」

えー!という非難の声を浴びて、さゆりさんは苦笑いを浮かべた。

「ほんとにありがと。次は新曲です。…大切な人に捧げます」

大切な人――瀬野さん?
思わず横目で瀬野さんを見ると、瀬野さんは驚いたように目を見開いていた。
さゆりさんに好きな人がいるって知らなかった…?それが自分だなんて、もっと思いも依らないんだろうけれど。

「幸せな恋をしている人にも、辛い恋をしている人にも聴いて欲しい曲です。『The time that yearns for you』」

静かに目を閉じたさゆりさんを、俺は見つめる事しか出来ない。
さゆりさんが瀬野さんの為に作った歌を、瀬野さんの隣で聞く――やるせない気持ちになった。
どうする事も出来ない、自分では何も変えられない。それなのに悔しくて。
ただ強く掌を握り締めて、さゆりさんの歌声に耳を傾けた。


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最終更新:2010年03月20日 19:32