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「…大切な人に捧げます」

…え?大切な人って…。
まさかお父さんやお母さんって訳じゃないよね?さゆりちゃん、好きな人がいるんだ…?
それって…、僕の予想では伊吹君ではない筈。
ちらっと伊吹くんを見たら、伊吹君は苦しそうな辛そうな表情でゆりちゃんを見ていた。

「幸せな恋をしている人にも、辛い恋をしている人にも聴いて欲しい曲です。『The time that yearns for you』」

その言葉から、さゆりちゃんはやっぱり恋をしてるんだって分かった。
そして、伊吹君の浮かべた表情から、その相手が伊吹君じゃないって事も。



さゆりちゃんが最後に歌った曲は、切ない恋の歌だった。
今日会えるのか、会えないのかも分からない人を想った曲。
会えた日はその数十分を一日の糧にして、会えなかった日は目に映る全てのものをその人に変換して。
その人を想いながら、夜空を見上げて眠りにつく。
最後は『明日は会えるかな?』という歌詞で締め括られていた。

それが誰の事なのか、僕には分からない。
ただ、さゆりちゃんが切ない想いを重ねている事だけは伝わってきた。



「ねえ、伊吹君」

帰り道、とぼとぼと歩きながら、僕は何にも喋らない伊吹君に声を掛けた。
夏の夜は空気が湿っている。昼間よりずっと涼しい風も、顔や髪をべたつかせてうっとうしく感じた。
口を開かずに僕の隣を歩いている伊吹君は、ずっと俯いたままでその表情は暗い。
何を思っているのかは、僕でも容易に想像出来た。

「何ですか?」
「さゆりちゃん、好きな人がいるんだね?」
「…はい」

こっくりと頷いた伊吹君。
伊吹君は前から知ってたんだ…、さゆりちゃんに好きな人がいるって。その人の事、知っているのかな…。

「伊吹君の知っている人?」
「はい」
「…どんな人?」

そう尋ねると、伊吹君はぴたりと足を止めた。さっきと同じ歩調で歩いていた僕は、伊吹君に振り向く形になる。

「…知りたいですか?」
「う、うん」

怖いくらい真剣な表情をした伊吹君に、僕は言葉に詰まりながら頷いた。
どうしたんだろう、そんな表情するほどの事を聞いたっけ?
さゆりちゃんの好きな人ってどんな人?――そう尋ねただけだ、不自然な事じゃない。ただ伊吹君にとっては口にしたくない話かもしれないけれど。
さっきまでうっとうしかった夜風が、何故か寒く感じだ。

「それは………」
「それは?」

それは――それだけ言って沈黙した伊吹君は、僕から目を逸らすように俯く。そして、何か諦めるように、小さく息を吐いた。
何故か答えを聞くのが怖くなった。まさかとは思う。思うけれど…、まさかさゆりちゃんの好きな人って…。

「明るくて、いつも笑っていて、でもいつも同じ表情をしているので人形みたいに見えます。頭は良いんでしょうけれど、違う意味で馬鹿です」
「な、なんか凄い人だね」
「ええ、天然で鈍感で空気読めなくて、一緒にいると疲れます。でも…」
「でも…?」
「………良い人です」

伊吹君はそう言葉を切った。
えー…、良い人かな?そうかな?聞いてる限り、良い人には思えないんだけど…。
伊吹君が良い人だって言うくらいだから、良い人なのかな。
でも、恋敵を良い人って言えるなんて、伊吹君の方が良い人だなぁ。

「その人、若いの?」
「俺より少し上くらいだと思いますよ」
「…独身だよね?」
「当たり前じゃないですか。さゆりさんが不倫している訳ないでしょう」
「何だー、良かったー」

伊吹君がやたら怖い顔をしてるから、てっきり凄く年が離れた人とか不倫とか身体だけの関係とか…、とにかく禁断の恋を想像してしまった。
でも、全然違うみたい。良い人だって言ってたしね。
そうだよ、さゆりちゃんみたいな良い子にそんな恋は似合わない。本当は片想いなんかもしなくて良いんだ。だって、こんなに格好良くて誠実な良い子に想われているんだから。

「その人さ、さゆりさんの気持ちに気がついてないの?」
「………瀬野さん」
「何?」
「さゆりさんの好きな人、知らないんですか?」
「え!?し、知らないよ。何、僕の知ってる人なの!?」

僕が知っている人!?…って事は、きくいちの常連さんって事!?
でも、僕が知ってるきくいちの常連さんって、かなり年配の人しか知らないんだけど…。

「知ってるも何も…その人は――」

伊吹君がその人の名前を言おうとした時、それは何かの機械の音に遮れた。
伊吹君の携帯の着信音かな?買った時のままって感じの音が伊吹君らしい。

「あ、ちょっとすみません」

いちいち僕に断ってから携帯を耳に当てる伊吹君。本当に真面目な子だなぁ。

「もしもし?」
『もーっ!伊吹君ってば、何で帰っちゃうー!?楽屋にくらい顔出してよーっ!!』

電話の相手は、僕にも聞こえるくらい大きな声で喋っている。その甲高い声はさゆりちゃんだ。
伊吹君はあまりの声の大きさに、耳元を手を押さえている。…僕にも聞こえたくらいだからね。

「すみません、邪魔だと思って…」
『もーっ、全然邪魔じゃないのにーっ!!………』

ようやく落ち着いたのか、聞こえたのはここまで。でも、伊吹君がしきりに謝っているところを見ると、何となく何を言っているかは想像出来る。

「え?ああ…、一緒にいますけど…代わります?分かりました…、瀬野さん、さゆりさんです」

はい、と携帯を渡される。…電話は苦手なんだけどなぁ。
仕方なく、伊吹君から携帯を受け取って耳に当てる。

「瀬野です。さゆりちゃん?」
『あ、瀬野さん?もーっ、どうして楽屋に来てくれなかったのー?私、待ってたのにーっ!!』
「ごめんねー、感想は後日にした方が良いかなーって。ライブ、凄く良かったよ。楽しかった」
『ほんと!?良かったぁー。頑張ったかいがあったよーっ。…あのね、瀬野さん。最後の曲なんだけど…』
「ああ、凄く良い曲だったね。可愛いけれど、切なくて。さゆりちゃんの好きな人に宛てた曲なんでしょ?上手くいくと良いね」

そう言ってから、少し後悔して伊吹君を見た。伊吹君は何を思ったのか、深く大きな溜息を吐く。
…やっぱり拙い事を言ったかな?

『うん…、ありがとう。じゃあ、またね!きくいちに来てね!』
「うん、勿論。またねー」

そう言って、僕は通話を切った。
最後の方、さゆりちゃんの声が少し沈んでるように聞こえたけれど…。どうしたのかな?

「本当は伊吹君の恋を応援したいよ、僕は」

そう言いながら伊吹君に携帯を返すと、こっちも沈んだ表情。
…皆、大変だなぁ。恋なんて上手くいかない事の方が圧倒的に多いしね…。小説みたいにはいかないんだ。

「応援してもらっても、上手くいきませんけどね」

あ、本当に辛そう。駄目なのかな…、伊吹君の恋は。
何とかして元気付けてあげたい。どうしたら良いかな…。

「よし!飲みに行こう!今日はとことん飲もう!」
「…奢りですか?」

そう言われて、言葉に詰まる。だって、お金ない…。
人情は大切。でも…、お金も大切…。

「ご、ごめん。ワリカンで」

僕の情けない答えに、それでも伊吹君は笑ってくれた。…苦笑いだけど。


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最終更新:2010年03月20日 19:36