16
何でこんな事になったんだろう――そう思いながらも、俺は瀬野さんと近所の居酒屋に来た。
そこは全国にチェーンを連ねる有名な居酒屋で、味よりもリーズナブルな値段が売りの店だ。
客の入りは上々といったところで、味だってそんなに悪くはないんだろう。というか、俺は味の違いなんてそんなに分からないし、普通に美味ければそれで良い。
最初に飲み物を、と注文を聞きに来た店員に、俺は『とりあえずビール』とお決まりの台詞を言って、瀬野さんはウーロン茶は注文した。
「飲まないんですか?」
「うん、僕お酒は飲めないんだ」
「じゃあ、何で飲もうって…」
「いや、伊吹君に飲んでもらおうと思って。日頃の憂さを晴らしてもらおうと思って!」
「憂さ…」
「伊吹君、酔ったらどうなるのかなー。楽しみだな」
…飲めないなら、別にファミレスでも良かったじゃないか。大体憂さなんて、あんたの事以外ないよ。
そう言いたいのを我慢する。それもこれも、全てはさゆりさんの為だ。
他人の口から当人に恋心を告げられるなんて、さゆりさんは我慢出来ないだろう。俺だったら嫌だ。
…本当は言ってしまおうかと思った。あの時、さゆりさんからの電話がなければ、確実に『あんたです』って言っていたと思う。
この人があまりにも鈍感で、無神経だから。言わなければ、絶対に分からないと思ったから。
でも、言わなくて良かったと思う。言っていたら、さゆりさんに一生恨まれていたかもしれない。
さゆりさんは、いつか絶対に自分の口から告げると思う、瀬野さんに『好きだ』って。それが叶わない想いであったとしても。
俺はその時が来るのを、ただ待っているしか出来ないんだ。
「じゃあ、乾杯しよう!伊吹君の恋が実る事を祈って…」
「嫌です」
「な、何で!?良いじゃないか、祈るぐらい…」
「乾杯なんていらないですよ…。普通に飲みましょう」
「そ、そんな事言わないでよ。じゃあ、ちょっと仲良しになれた僕らに…っていうのは?」
「良いですよ」
「良いんだ!?」
俺が承諾すると意外だったのか、瀬野さんは目を丸くした。
確かに最近の俺は瀬野さんを受け入れてしまっているし…。仲良しかどうかは分からないけれど。
それは拒絶する理由が見つからないからだ。
自分でも不思議だと思う。俺の言葉で瀬野さんを傷つけてから、一週間も経っていないのに。
「じゃあ…、乾杯」
「はい」
乾杯、という言葉が少し気恥ずかしくて返事だけする。
ビールのジョッキとウーロン茶のグラスが重なって、カチンと音を立てた。
「あのね…、伊吹君に聞きたい事があるんだ。前にさ、僕の事嫌いだって言ったよね?」
「言いましたね、そんなニュアンスの事」
「だ、だよね。…今でも僕の事嫌いなの?」
「…嫌いだったら、今ここにいないです」
「そっか…、そうだよね!」
俺の答えに、瀬野さんはほっとしたように笑みを浮かべた。
「…本当は本気で嫌いだなんて、思った事ないんだと思います」
「…え?」
瀬野さんはまた目を丸くする。それはそうだろう、嫌いだって言われた人間から、こんな事を言われたら。
でも、多分これが事実だ。
最初から良い人だって分かっていた。必死で嫌いになろうとしていただけで…。
そんな自分に段々無理が出てきて、今に至るんだ。
「嫌われていた方が良かったですか?」
「え、ううん、そんな事ないよ!だって僕、伊吹君の事大好きだもん!」
「大好きって…」
「本当だよ!大好きだよ、伊吹君」
恋敵に告白されるなんて…、変な意味じゃないんだろうけれど。だからこそ笑えてしまう。
この人の前で、こんなに自然に笑えるなんて思わなかったけれど。
ここへ来て、一、二時間くらい経っただろうか。
食べたり飲んだり話をしたりを繰り返して、俺はふと瀬野さんが不自然に赤い顔をしている事に気が付いた。
「…瀬野さん、何飲んでるんですか?」
「えー、ウーロンちゃー。おいしーよ?」
…明らかに口調がおかしい。何でだ?酒は飲めないって言ってたから、自ら飲む筈がない。俺だって飲めない人に勧めるような事はしてない…筈なのに。
さっき店員に注文した物を思い出してみる。瀬野さんはずっとウーロン茶、俺は…ウーロンハイ。
しまった…、グラスを間違えたんだ。さっきからウーロン茶ばかり飲んでいる瀬野さんの前で、ウーロンハイは止めておけば良かった…。
「瀬野さん、もう帰りましょう。俺、送っていきますから」
「やだー!もっとのむのー!」
「いや、飲めないんでしょう?もう遅くなってきましたし…」
「ひどーいっ、やっぱりいぶきくんはぼくのこときらいなんだーっ!!」
子供になっている…。酔うとこうなるのか、この人。
酔ったらどうなるのかな――なんて言っていたくせに、酔った姿を見せてるのは瀬野さんの方じゃないか…。
とにかく店の迷惑になる前に、俺は会計を済ませて瀬野さんを連れて店を出た。
瀬野さんの家には、前に一度来た事がある。
一度たけでよく覚えていたなと自分に感心しながら、俺は瀬野さんのズボンのポケットから家を鍵を取り出した。
瀬野さんはというと…、
「いぶきくん、ぼくのことすきだっていったのにーっ!」
「好きだとは言っていません」
「うわーんっ、やっぱりきらいなんだーっ!!」
…とずっとこんな感じで、泣いたり喚いたりしている。
瀬野さんの家が一軒屋で良かった…。それでも近所迷惑な事に変わりはない。俺は瀬野さんに肩を貸す形で、早々と家の中に入った。
前に来た時は閉まっていた襖の向こうにベッドが見える。寝室が直ぐに見つかって良かったと思いつつ、居間を通って寝室に向かう。
その途中で、仏壇が視界に映った。小さな仏壇は月明かりに照らされて、一層寂しげに見える。
とりあえず瀬野さんをベッドに座らせる。泣き続けて、ぐすぐす言ってる瀬野さんに、ベッドの傍に置かれたティッシュで鼻を拭いてやった。
「とりあえず寝ましょうね」
「やだ」
「やだ、じゃなくて寝ましょう、本当に」
靴下だけ脱がせて――服はこのままで良いよな。そこまでしてやったら、逆におかしい――瀬野さんの身体をベッドに押し付けた。
「じゃあ、俺は帰りますけど…ちゃんと寝て下さいね」
聞こえているかいないか分からないが、とりあえずそう告げてベッドから離れる。
背を向けて歩き出すと、ふいに引っ張られて足が進まない。振り返ると、瀬野さんが俺のTシャツを掴んでいた。
「………で」
「え?」
「いかないで、おいてかないで…っ」
振り返ると、瀬野さんはまたぼろぼろと涙を零していた。
おいてかないで――さっきの口調とさほど変わりはない。でも、さっきまでの言葉とは、別の意味を含んでいる気がした。
「置いてかないで…。行くんなら僕も連れてってよ…」
「瀬野さん…?」
「何で置いてくの?何で一人にするの?傍にいてよ…、僕は美咲がいないと駄目なんだ…!」
みさき?誰だろう…、あの仏壇に眠る人…?
そんな疑問に捕われていたら、瀬野さんは更に強くTシャツを引っ張ってきた。
「ちょ…っ、瀬野さん!」
俺はバランスを崩して、ベッドの上に倒れ込んだ。その上に瀬野さんが馬乗りになっている。
瀬野さんの身体を押し返そうとしてみるが、凄い力で押さえ付けられて動けない。
この細い身体のどこにそんな力があるんだ…って、そんな事を考えている場合じゃない。
「瀬野さん、俺は伊吹です!」
と名乗ってみるものの、瀬野さんに届いている様子はない。
「寂しいよ、美咲…。お願いだからもうどこにも行かないでっ。傍にいてよ…!」
ふいに瀬野さんの顔が俺に近付いてくる。ヤバいとは思ったけれど、どうにもならない。
そのまま瀬野さんの唇は俺のと、しっかり重なり合った。
キスされてる…、瀬野さんに、男に。何でだ?何でこんな事に?
何が何だかよく分からないまま、柔らかい感触だけを鮮明に残して、瀬野さんは唇を離した。
「行かないで、お願い…」
みさき――と瀬野さんはもう一度誰かの名前を呼んで、ふらりと俺の上に倒れ込んだ。
「…瀬野さん?」
名前を呼んでも、返事がない。どうやら眠ってしまったようで…。
ほっとしつつも、俺は驚きと戸惑いで暫くの間動けなかった。
何だったんだ――考えてみても、寄った瀬野さんが誰かと俺を間違えてキスしてきた、という現状しかないんだけど…。
キスだけで済んで良かった、とは思う。それ以上の事なんて、男のプライドに賭けてさせないつもりだけど。
息を吐いて気を落ち着かせると、俺は瀬野さんの身体を退けて立ち上がった。
今はすうすうと安らかな寝息を立てている瀬野さんに、タオルケットを掛けてやる。
居間の電話の傍に置かれたメモ帳に走り書きを残して、俺は瀬野さんの家を後にした。
キスをするのが初めてって訳じゃないし、女じゃあるまいし…。
大して気にする事じゃない。相手は酔っていて、明日にはきっともう覚えていない。
そう思いながらも、瀬野さんの唇の感触が確かに残っていて。
気にするな、と思えば思うほど思い出してしまって、俺は口元を手で覆った。
最終更新:2010年03月20日 20:02