17
『暁』は夜が明ける頃を差す。一日の終わりと始まりなんだと思う。
名前の由来はよく覚えていない。昔、お母さんに聞いた事があった気がするけれど、もう忘れてしまった。
僕は名前の由来なんてあまり興味がないけれど。
ただ名前に反して、僕の空は明ける事なんかない。
ひたすら歩き続けてる、終わりも始まりもない暗闇の中を。
だって、僕は太陽を失ってしまったんだ。
閉じていた目を静かに開けば、そこはいつもと同じ僕の家の天井が広がっていた。
いつもと変わらない光景。目から涙が零れて、目尻を濡らしている。
よく覚えていないけれど、また美咲の夢でも見たのかな。それも珍しい事じゃない。
ゆっくりと起き上がる。頭に鈍痛が走って、くらりと眩暈がした。
「いった…っ」
な…、何が起こったんだろう。凄く頭が痛い。
昨日は何をしてたんだっけ?あまりよく覚えていない。
思い出さなきゃ、って思った。覚えてないのは拙い。何でも良いから昨日の事を。
昨日は…そうだ、さゆりちゃんのバンドのライブに行ったんだ。伊吹君と一緒に。
で、終わった後は伊吹君と飲みに行って――とても嫌な予感がするんだけど。
でも、お酒は飲んでない筈だよ!?だって僕、お酒飲めないんだから。
酒癖が悪いからお酒は飲むなって、美咲がよく言ってたし…。ちなみに少しでもお酒が入ると記憶が飛ぶから、自分では酒癖がどうとか分からないんだけどね。
でも、この頭痛に、昨日の記憶が途中からないっていうところから考えると…、お酒を飲んだっぽいよね…。
伊吹君に迷惑かけちゃったのかな…。
頭痛を堪えながらベッドを抜け出して、僕は居間に向かった。
いつもと何ら変わらない居間。だけど、テーブルに一枚のメモがあった。
それは電話の傍に置いてあるメモ帳を破いた物で、右肩上がりの綺麗な字が並んでいた。
『鍵は郵便受けに入れておきます。
お大事に。
伊吹』
…ごめんなさい、やっちゃったみたいです。
ていうか、ホントに何やったんだろう?変な事言ったり、したりしてないかな。伊吹君に迷惑かけてないかな。
折角少しは仲良くなれたのに…。お酒はろくな事がないよ、ホントに。
とにかく謝りに行こう。…で、何をしたのか聞こう。
ああ、その前に二日酔いの薬買わなくちゃ。この頭痛何とかしなきゃ。
居間のカーテンを静かに開くと、夏の太陽の光が差し込んで来た。
今の僕にとっては痛いくらい眩しい。
仏壇に目を向けると、差し込んだ光に照らされて美咲の姿が見える気がした。
見えたとしても、それは幻影。美咲はもうここにはいない。
「おはよう、美咲。ごめんね、約束破っちゃったよ」
語り掛けても答えが返ってくる事はなく、僕の言葉は消えていったけれど。
幻影の中に見えた美咲は、呆れたように笑っていた。
薬局で二日酔いの薬を買って、きくいちに向かう。
なんかドキドキする…。何やったんだろ、きっとろくな事してない。
伊吹くん怒ってるかな…。とにかく家まで連れてきて貰ったのは間違いないみたいだし、迷惑かけたなら謝らないと。
ガラガラ、と音を立てて、きくいちの入り口の戸を開いた。
「こんにちはー…」
「おや、瀬野ちゃん。いらっしゃい」
「…いらっしゃい」
店にはおばちゃんと伊吹君の姿があった。さゆりちゃんはいない。
いつもと変わらない店内。いつもと変わらない店員さん…の筈なのに、伊吹君が目を逸らした気がする。…ホントに何かした?
とりあえずいつもの席に腰を下ろしたら、伊吹君が水を持ってきてくれた。
「あの、伊吹君。昨日はごめんね」
「いえ…、ごめんって昨日の事覚えてます?」
「いや、それが全然…。伊吹君と居酒屋入ったのは覚えてるんだけど…。そこから記憶がないんだ」
正直に話すと、伊吹君は何故かほっとしたような顔をした。
何を思ったのかな…、とりあえず怒ってる訳ではなさそうだけど。
「ねえ、僕お酒飲んだの?」
「はい、俺のウーロンハイを間違えて…。でも、大して飲んでないですよ。直ぐ酔っ払って店を出ましたから」
「そうなの?すっごく頭痛いんだけど…。記憶飛んでるし」
「本当に飲めないんですね」
そう言って伊吹君は笑う。苦笑いって感じで。
そういえばさゆりちゃんが言ってたっけ、『伊吹君は笑うと可愛い』って。
確かに可愛いかもしれない。むすーっとしてるより、笑ってる方が全然良いよ。
でも、これはどうなんだろう。笑われてるんだよね?僕。
ホントにお酒はろくな事がない。
「僕、なんか変な事しなかった?」
「へ、んな事ですか?」
「したの!?」
「いえ、別に…。泣いて叫んで暴れて、大変でしたけど」
「うう…、ごめんなさい…」
泣いて叫んで暴れてって、酒乱の典型的な例だね。
おまけに年下の男の子に介抱して貰って…、情けなくて恥ずかしい。
「いえ。とにかく瀬野さん、お酒飲まない方が良いですよ。もう二度と飲まないで下さいね」
「はい…」
もう二度とって。そんなに酷かったのかな。扱いに困るくらいに?
…ホントにもう二度とお酒は飲まないでおこう。
飲もうと思って飲んだ訳じゃないけどさ。
頭も痛いし…。そうだ、薬。
僕は買ってきたばかりの薬の封を開けて、伊吹君が持ってきてくれた水で飲み干した。
「何だい、あんたら随分仲良しになったじゃないか」
「ああ、うん。色々あって…」
「いや、仲良しってほどじゃ…」
おばちゃんの言葉に、僕達はほぼ同時に返事をした。返事は正反対だけど。
ていうか、伊吹君冷たい!迷惑かけたけど、一緒に飲んだ仲じゃないか!
軽く睨み付けると、伊吹君はまた苦笑いを浮かべた。
おばちゃんはそんな僕達を見て、けらけら笑っている。
「仲良しなのは良い事だ。瀬野ちゃん、あんた何にすんの?」
「店長、この人二日酔いですから」
「ああ、味噌ラーメンを」
「…食べるんですか?」
「食べるよ。ラーメン屋さんに来てラーメンを食べずに帰れないよ?」
何で伊吹君はそんなにびっくり!って顔をしてるの?
当然じゃないか、ラーメン屋さんはラーメンを食べる所なんだから。
伊吹君はびっくり!って顔のまま、ため息を吐いた。
「…俺はあんたの食生活が本気で心配になってきました」
「そ、そう?何ともないよ、平気平気」
「平気じゃないですよ…。二日酔いでこんな重い物食べたがるなんて」
「きくいちのラーメン美味しいんだもん」
「美味しい物だけ食べて、生活するのが駄目だと言ってるんです」
「伊吹君、お母さんみたいだよ?」
からかうようにそう言うと、伊吹君に思いっきり睨まれた。
僕が少したじろぐと、伊吹君はもう一度ため息を吐く。
僕、そんなに悪い事してるのかな?よく分からない。
美咲がいた頃は…美咲が全部やってくれていた。料理を作るだけじゃなく、栄養管理も。
だけど、一人じゃそんな事に気を配る気にもなれなくて。
それは美咲の所為じゃない、でも美咲がいないから生きようとする気にはなれないんだ。
美咲がいなくなった時、僕は死んだも当然になってしまったのかもしれない。
最終更新:2010年03月20日 20:02