18
瀬野さんは案の定、昨日の事を何も覚えていなかった。
心底ほっとした。もし覚えていたら、瀬野さんが俺にキスした事が事実になる気がしたから。
いや、キスしたのは事実だけれど、本人が覚えていないのならなかった事に出来る。
俺さえ忘れてしまえば、何もなかった事になるんだ。
…そうは思っても、直ぐには忘れられないのが現状で。
瀬野さんの顔を見ると余計に鮮明になる。あの時の言葉、唇の感触、そして涙。
忘れなければならないと思った、瀬野さんの為にも。
みさきさん、という人がどういう人なのか、気にならない訳じゃない。
だけど、聞いてはいけない事だと思った。あんなに取り乱した瀬野さんを見たのは初めてだ。
いつも笑っている瀬野さんの秘密に触れてしまった、そんな気がした。
人には秘密にしておきたい事が一つや二つある。それが瀬野さんにとってみさきさんという人なら、聞いてはいけない事なんだろう。
だから、忘れなくてはならない。
何も見なかったし、何も聞かなかった。昨日は瀬野さんを家まで送り届けただけだ。
泣いて叫んで暴れて、大変だった。でも、それだけだ。それで良いんだ。
瀬野さんは二日酔いに苦しみながら、それでも笑ってる。それが救いだった。
「そういえば、今日はさゆりちゃんいないの?」
二日酔いなのに味噌ラーメンなんて重い物をすすってる瀬野さんは、唐突にそう尋ねてきた。
さゆりさんがいなければそう尋ねてくる瀬野さんに、さゆりさんに対する特別な感情はない。
少しでも特別に思っているなら、さゆりさんの気持ちに気が付く筈だ。
きっと『顔が見れなくてさみしいな』ぐらいにしか思っていない。
瀬野さんは社交的で親しみ易い人だけど、時々空気読めよと言いたくなるぐらい残酷だ。
だけど、天然でそういう性格なんだから仕方がないのかもしれない。
「さゆりさんなら出前に行ってますよ。例の爺さんの所に」
「あー、伊吹君のライバルの」
「はい。そろそろ帰ってくる頃だと思いますけど…」
本当のライバルに、爺さんをライバル扱いされてもな…。
本当に鈍いな…。どうにかならないのか、その鈍さ。
何もかも洗いざらい話したら、きっとすっきりするんだろうけれど。
そんな事を考えていたら、店の戸が開いて本当にさゆりさんが帰ってきた。
「ただいまーっ。あーっ、瀬野さん!いらっしゃい!」
「こんにちは、さゆりちゃん。昨日はお疲れ様」
にこにこと笑い合って会話を交わす二人を見ても、不思議と前のような苛立ちはあまり起こらない。
何故だろう、状況的には何も変わっていない筈なのに。
…という事は変わったのは俺だという事だ。
確かに瀬野さんの印象は変わった。前ほど嫌悪は感じなくなった。
さゆりさんに対しては…?どうして『変わっていない』と言い切れないんだ。
少し前まではさゆりさんが変わらなければ、俺は変われないと思っていたのに。
何が俺を変えようとしてるんだろう。分からないけれど、少し不安になる。
ただ、手の届かない人を想い続ける苦しみからは逃れたいとは思っていたけれど…。
「伊吹、どうかしたのかい?」
「…え?」
「悩んでますって顔して。なんかあったんなら話してごらんよ。おばちゃんが何だって答えてやるよ!」
「いえ…、何でもないですよ」
どうしてこの人は、何だってお見通しなんだろう。年の功ってやつか?
だけど言えなかった、店長にも。
店長は俺がさゆりさんを好きな事もお見通しだろう。言った記憶はないけれど。
だからこそ言えなかった。さゆりさんへの気持ちが変化しつつあるなら、それを知られるのは後ろめたかった。
「そうかい?なら、良いけど…。そういえばあんた、瀬野ちゃんに謝ったのかい?」
「ああ、あの日の事は謝りましたよ。どうでも良さそうでしたけど…」
「そうかい。それでこんなに仲良しなったって訳か」
「だから、別に仲良しって訳じゃ、」
「でも、瀬野ちゃんは良い子だって分かったんだろ?」
にこにこと笑みを浮かべる店長は、本当に何だってお見通しだ。少し怖い。全部見透かされているようで。
だとしたら、俺のさゆりさんに対する気持ちにも気が付いているのかもしれないから。
「そうですね…、良い人だと思います」
だからこそ、瀬野さんの事は俺は素直に答えた。隠していたって無駄なんだ。
瀬野さんは良い人だ。空気が読めないし、鈍感だし、天然だし…、でもそんな事を含めたって良い人だと思う。
仲が良くなった…と言っても、きっと嘘じゃない。
それでも、仲良しって言われる度に否定するだろうけれど。
瀬野さんとさゆりさんは俺達の話は耳に届いていないらしく、昨日のライブの話で盛り上がっていた。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
瀬野さんは財布から千円札を取り出して立ち上がった。
さゆりさんがそれを受け取り、お釣りの三百円を渡す。
三百円を財布に閉まった瀬野さんは、何か思い出したように顔を上げた。
「そういえばさ、明日からまた来れなくなるかも」
「えー!?何でー!?」
「締め切り近いんだー。売れっ子作家は辛いよ…」
「うそー。瀬野さん、全然売れてないじゃん!」
「…うっ、そんなはっきり言わなくたって…。売れてないよ、どうせ!」
さゆりさん…、瀬野さんに会えなくなるのが嫌なのは分かるけど、そんな風に言う事ないんじゃ…。
まあ、売れてないけどな…。瀬野さんの小説、見た事ないし…。
瀬野さんが『釣りはいらないぜ』と言う日はいつになるんだろう。…というか、そんな日がやってくるんだろうか。
まあ、ペンネームを使っているなら、見た事なくて当たり前だけど。
「ごめんごめん、そんな意味で言ったんじゃないって!」
「じゃあ、どういう意味?」
「…来てくれないとちょっと寂しいなって意味よ」
「あ、ホント?ごめんねー。でも、執筆が進むと周りが見えなくなっちゃうんだよね。でも、生きてるから!進まなかったら、顔出すと思うし」
…という事はこの店に来たら、進んでないって事だよな…。
来ませんように…と願うべきなのか?
飯を食う時ぐらい、外に出たら良いのに…。ただでさえ、料理が出来ない上に栄養管理も出来ないんだから。
「何それー!ウチに来たら、駄目な証拠じゃん!頑張ってよね!」
「うん、ありがとう」
「…飯だけはしっかり食べて下さいね」
「もー伊吹君、お母さんなんだからー」
「あんたは酷すぎるんですよ…」
お母さんって…。大人として当たり前の事だ。出来ない瀬野さんが子供なんだろ?
これ以上言っても無駄のようだし、言わないけど。
「頑張りな!作家は小説書いてなんぼだ。働いて、しっかり稼ぐんだよ!」
「うん、ありがとう。じゃあ、またね」
バイバイ、と手を振りながら帰っていった瀬野さんを皆で見送る。
瀬野さんが去ると、さゆりさんの目がまた俺の方に向いた。
「うそつきーっ。やっぱり仲良しになってるじゃん、瀬野さんと伊吹君!」
「だから、仲良しって訳じゃないですから」
さゆりさんまで…。そして、仲良しなんて言われてやっぱり否定している俺がいた。
最終更新:2009年12月10日 10:40