19
少しだけ仮眠を取って、僕が目を覚ましたのは夜中の二時頃だった。
草木も眠る、なんて言うくらいだから、世界の全てが寝静まった時間帯なのかもしれない。
だけど、僕にとってはそういう事はあんまり関係ない。僕は本来、時間や日にちの感覚がないんだ。執筆中は特にそうだ。そんな僕の為に、美咲が買ってくれた電波時計は七月二十三日を示している。最後にきくいちを訪れた日から三日ほど経っていた。
執筆は思うように進まなかった。ついこの間はすらすらと書けた文章も、今は迷いがある。
書いているのはこの間益岡さんに渡した小説の続き…というか、益岡さんに『四、五ページほど書き足してくれ』と頼まれたものだ。
締め切りは二日後。殆ど進んでいないだけに間に合うかどうか分からない。
そういえば昨日、益岡さんから電話があったんだっけ…。曖昧な返事をした僕に、執筆が難航してる事にきっと気が付いているだろう。
書かなきゃって分かってるけど。書かなきゃって思えば思うほど進まない。
調子が良い時は書かなきゃ、なんて思う暇もなく書いてるんだから結構重症だ。
だけど、書かなきゃならない。締め切りは待ってくれないんだから。
僕はようやくパソコンのデスクに腰を下ろした。
進まなかったら顔を出すね、なんて言ったのにきくいちには行っていなかった。
ああいう風に言ってしまった手前、ホントに進んでないと逆に顔を出し辛い。
皆元気にしてるかな…って、数日顔を合わせてないだけで、そうそう変わる訳ないよね。
元気にしてるならそれで良いけど…。むしろ、心配させてるのは僕の方だろう。
『…飯だけはしっかり食べて下さいね』
ふと伊吹君の言葉を思い出した。
冷たいようで優しい伊吹君。お母さん…っていうか、美咲に似ているかもしれない。
いや、美咲はもっともっと優しかったけどさ。ただ僕に『ちゃんとご飯を食べろ』なんて言ったの、美咲と伊吹君だけだ。
もし美咲が今もここにいたら、案外伊吹君と気が合ってたかもしれないな。
そんな姿を想像したら、笑いが込み上げてくる。やばい、怪しい人だ、僕。
伊吹君はああ言ってたけれど、そういえばちゃんとご飯食べてないな…。
料理はあまり作らないし、面倒だし、ついついレトルト物やカップ麺に手を出してしまう。
身体に悪いのは分かるけれど、そんな事どうでも良いと感じる。
美咲がいたら、こんな僕に『駄目よ』と優しく嗜めたんだろう。
…まただ。一人きりになると、いつも美咲の事を考えてしまう。執筆が進まない時は特にそうだ。
考えない方が良いのに。忘れてしまえれば楽なのに。
忘れたくない、いつまでも心に残しておきたい――それは嘘だ、僕は忘れてしまいたいと思っている。
美咲が心の中から消えていく事を願っている。
だけど、僕の意思とは関係なく、美咲は僕の心に残ったままだ。
それは、美咲といた日々が僕にとって幸せそのものだったから?
それとも、今も変わらず美咲を愛しているから?
どちらも正解で、どちらも不正解だと思う。
美咲が忘れられない一番の理由は、美咲を殺したのが僕だからだ。
僕の罪は償っても償いきれない。
だからこそ、美咲の面影がいつまでも僕の心から消えていかないんだ。
どんなに許しを乞っても、美咲は僕を許してはくれない。
永遠に、僕が死ぬまで続くんだ、この苦しみは。
当たり前だ、僕はそれだけの事をしたんだから。
だから、これで良いんだ。僕は永遠に美咲を愛し続けて、この苦しみに身を置く。
許してくれなくて良い。何も変わらなくて良い。
じゃなければ、僕がこうして生きている意味がない。
美咲以上に愛せる人を、僕はきっと見つけられないから。
電話の音が響いて、僕は身体をびくりと震わせた。
時計を見れば朝の九時を過ぎたばかりだった。
かなり時間は経っているけれど、パソコンを見ると書き始めてから二、三行程度しか進んでいない。
もしかして寝ちゃってたのかな?ぼんやりしていただけだろうか。記憶が曖昧だ。
電話は途切れる事なく、鳴り響いている。出なきゃ、と重い腰を上げた。
電話は苦手だ。相手の顔を見る事なく、声のみで話をしなきゃならないから。
声だけだと、相手の感情が読み辛い。何を考えているのか、僕をどう思っているのか分からない状態で話をするのはある意味恐怖だ。
携帯電話は持っていない。だからこそ、家の電話にかけてくる相手はよほど僕に用事がある人ばかりだ。
僕は居間に置いてある電話の受話器を手に取った。
「はい、瀬野です」
『あ、日光出版の益岡です。』
「ああ、はい。お世話になってます」
電話の相手は益岡さんだった。執筆が進んでるかどうか、ってところかな。
すいません…、進んでいないです。
『どうですか?調子は。締め切りまであと二日ですが』
「うーん、えーとぼちぼちですね」
『そうですか。それでは、今晩辺りお伺いすると思いますので、宜しくお願いしますね』
「は、はーい。お待ちしてます…」
僕は何とも言えない返事をして、電話を切った。
結局、執筆が進んでいない事は言えなかったものの、益岡さんはきっとお見通しだ。
なのに、今晩家に来ると言ったのは、僕にプレッシャーを与える為だろうか。『今晩までに少しは形にしておけ』と言われた気がしてならない。
やっぱり電話は苦手だ。相手の言葉を悪いように受け止めてしまう。
益岡さんはそんなつもりで言ったんじゃないかもしれないのに。
書かなければ――やっぱり思う事はただ一つ。
本当は作家なんて辞めてしまいたいんじゃないか。そう思う事がある。
作家になる事は僕の夢だった。そして、作家になったからこそ僕は美咲の命を奪ってしまった。
僕が普通に働いてお金を稼いでいれば、美咲は死ぬ事もなかったのに。
だから、辞めてしまいたい時もある。逃げ出したくなる。
だけど、それは出来ない。
僕が小説を書く事を止めてしまったら、美咲が死んだ意味がなくなる。
どうせ諦めるなら、美咲が生きている内に諦めてしまえば良かったんだ。
そうすれば美咲は、今も僕の隣で笑っていた筈なのに。
こんなところで諦めてしまっても、何の意味もない。
だから、今は書くしかない。書かなければいけないものを。
それが僕に出来る、美咲への償いの形だ。
償ったとしても許される事じゃない、それは分かっているけれど。
最終更新:2010年03月20日 20:13