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瀬野さんが店に来なくなってから、三日が経った。
本当に来ない…。
執筆が進むと周りが見えなくなるんだ――この間と、前にも似たような事を言っていた。
それが本当だとすると、あまり良い事ではない気する。作家としてはともかく、人間としては身体に良くない。
瀬野さんはきっと俺の言った事なんか守ってないだろう。
忙しくない時だって、ラーメンばかり食べている人だ。そんな人が忙しい時に、ちゃんと飯を食べている筈がない。
心配だ…と素直に思った。少し前の俺なら考えられない事だけれど。

どうしてこんな気持ちになるんだろう。少し不思議だった。
俺は今まであまり他人の事を気にする方じゃなかった。
人は人、俺は俺。突き放している訳じゃないけれど、他人には他人の生き方があって、それを否定したり自分の考えを押し付けるべきじゃないと思っていた。
いや、今でもそう思っている。他人の考えに左右されない、そのかわり自分の考えを他人に押し付けない。それが俺のモットーみたいなものだ。

それなのに、瀬野さんにあんな事を言ったのは、きっと瀬野さんが普通の人間とはどこか違うからだ。
生きている感じがしない――少し大袈裟かもしれないけれど、そんな言葉が一番合っている気がする。
瀬野さんはちゃんと息をして、笑ったり怒ったりするけれど。
それはいつも同じ表情で、作り物のように見えた。
人形のようだ――最初の頃はそう思っていた。それは今も時々そう思う。
だから、不安になる。あの人はいつか本当の作り物になるんじゃないかって、馬鹿な事を考えてしまう。
そんな訳はないのに…。瀬野さんの何がそう思わせるんだろう?

「瀬野さん、ホントに来ないね…。お仕事、上手くいってるなら良いんだけど…。ちょっと心配だな」

さゆりさんが、いつもより沈んだ声でそう言った。


夜の九時過ぎ。閉店作業をしていると、店長が何故か俺をじっと見つめてきた。
あまり見ないで欲しい…。
また俺の考えてる事が分かったんだろうか。何故分かるんだろう。
あまりに視線が煩いから、俺の方から尋ねる事にした。

「あの…何か用ですか?何かしてない事、ありましたっけ」
「いや、ないけどさ。心配なら、様子見に行ったらどうだい?」
「…誰の事ですか」
「そんなの、瀬野ちゃんに決まってるだろ。ホントに三日も来ないから、心配なんだろ?」

気付いているのかも…と思ったの確かだけれど、本当にそう言われると驚いてしまう。
この人は本当にどこまで知っているんだろう。どうして分かるんだろう。俺は何一つ口に出した事はないのに。
まあ、確信しているなら否定するだけ無駄だ。
俺は諦めるように溜め息を吐いた。

「…俺よりさゆりさんの方が良いんじゃないですか」
「どうしてそう思うんだい?」
「こういう場合、男より女が来てくれた方が嬉しいでしょう、瀬野さんも」

ただ単純に思った事を口にすると、少し間を置いてからけらけらと笑った。
何がおかしいんだ。普通に考えたら、女のさゆりさんの方が良いに決まってるじゃないか。
さゆりさんだって、瀬野さんを心配している訳だし…。
じろり、と睨み付けても店長はまるで動じない。

「そんな顔しないどくれよ。しかし、馬鹿な事言うねぇ。それじゃあ、敵に塩を送るようなもんじゃないか」
「確かにそれは…そうですけど」
「それに、さゆりちゃんは駄目だろ。あの子は煩いからねー。瀬野ちゃんの小説のアイデアがぶっ飛んだら困る」
「俺なら良いんですか?」
「あんた、無口だからね。それにぱっと行って、ぱっと帰るだろ?あんたは」
「勿論瀬野さんの邪魔になるような事はしませんけど…」

仕事中なんだから、それは当たり前だ。
店長は、さゆりさんにはそれが出来ないと言ってるんだろうか。
確かに騒ぎそうな気がするけれど、そんなさゆりさんに周りが明るくなる。それがさゆりさんの良いところだ。

「それに…さゆりちゃんは駄目だ。瀬野ちゃんとはどうやっても上手くいかないよ」
「…どうしてですか?」
「あの子には瀬野ちゃんを変えられない。助けてあげる事は出来ないよ」
「助ける?」
「瀬野ちゃんは過去に何かあったみたいだからさ。それに縛られて、前に進めなくなってる。さゆりちゃんはそんな瀬野ちゃんの姿が見えていないのさ」

やっぱり店長は何かを読み取っている。俺だけじゃなくて、さゆりさんの事も、瀬野さんの事も。
本当に不思議な人だな。

「それは…俺なら助けてあげられると言ってるんですか?」
「そうは言わないけどさ。まあ、伊吹の方が分かってあげられるんじゃないのかい?」
「どうして…」
「そりゃおばちゃんが長年培ってきた勘、ってヤツさ」

そう言って、店長はにんまりと笑った。


店長の言ってる事が分かったような、分からないような…。何だか複雑な気分になった。
だけど、瀬野さんには過去に何か辛い事があって、それをさゆりさんは気が付いていないっていうのは、俺にも分かる。
気が付いていなくて当然かもしれない。俺だって、あの夜の事がなければ気が付かなかったかもしれないんだ。
俺が瀬野さんの過去に少しだけ触れたから理解出来る、と店長はそう言いたかったんだろうか…。
…それだけじゃないんだろうな。

店長の話を聞いていて、思い出した事がある。瀬野さんが初めてきくいちに来た時の事だ。
瀬野さんが帰って行った後、さゆりさんは瀬野さんを王子様みたいだ、と大騒ぎしたんだ。
綺麗な顔をしていて、茶色い髪がさらさらで、瞳の色も薄くて、肌も白くて、まるでお伽噺に出てくる王子様みたいだ、と。

その時は瀬野さんに反発する気持ちがあったから、どこが王子様だよ…、なんて思ったけれど。
今でも王子様なんて思えない。そんな乙女チックな考えに賛同出来ないとかじゃなくて。
あの人は人間だと思う。絵本から出てきた王子様なんかじゃない。れっきとした人間だ。
笑ったり泣いたり怒ったりする。だから、人形のように見える表情に違和感があるんだ。

さゆりさんが瀬野さんを王子様だ、なんて思っている内は、さゆりさんには瀬野さんの心を分かってあげられない。
王子様、なんて思うのは、芸能人に恋をするのと変わらないからだ。
店長はその事を言いたかったのかもしれない。
だとすれば、店長が言っていた事は当たっている気がする。

瀬野さんは人間だ。だけど、完全じゃない。
瀬野さんの過去がそうさせているなら、どうしたら完全な人間になるんだろう。

そんな事を考えながら、俺は弁当を作っていた。
店長に言われたからって訳じゃないけど…、やっぱり心配だから瀬野さんの様子を見に行ってみようと思って。
手ぶらで行くのも何だし…、だからって弁当は変だけど少しでも栄養のある物を…と考えて、こういう結果になった。
これを食べて、元気になってくれればそれで良い。

弁当が出来た頃には夜の十時を回っていた。
人の家に行くには、あまりに非常識な時間じゃないだろうか…。
だけど、明日バイトに行く前だと早朝になる。それに弁当ももう作ってしまったし。
非常識だと思われるのを覚悟して、俺は家を出た。

瀬野さんの家に行くのは三回目だ。もうさすがに道は覚えた。
俺が住んでるアパートからは五分程度、と結構近い。
きくいちの近くと思えば、意外でもないけれど。

瀬野さんの家は部屋の灯りは点いていた。
何となくほっとしつつ、俺は呼び鈴を押した。
少し間があって、玄関の灯りが点く。玄関ごしにはい、と返事をしたのは瀬野さんじゃない男の人の声だった。

「夜分にすいません、伊吹と申しますが…」

名乗ったから安心したのか、男は玄関の戸を開けてくれた。
スーツ姿の男だった。眼鏡を掛けていて、真面目そうな。出版社の人だろうか…。

「あの、えと、どちら様でしたっけ?」
「伊吹です。あの、瀬野さんは…」

どちら様ってこの人に名乗ってもあまり意味がないような…。
そう思いつつも、名乗ると男は何故か嬉しそうな顔した。

「いますよ、呼びましょうか?」
「いえ…、出版社の方ですか?」
「僕ですか?はい、日光出版の者です」
「…という事は、瀬野さん仕事中ですよね。なら、良いです。これ渡して貰えますか」

男に弁当が入った紙袋を渡す。
立ち去ろうとすると、男に呼び止められた。

「でも、折角来たんだし、顔ぐらい!」
「いえ、良いんです…あ、伝言したい事があるので、書く物とかあったらお借り出来ますか?」
「ああ、はい。どうぞ」

男にメモ帳とペンを借りて、俺は携帯の番号を記した。
何となく…心配だからだ、瀬野さんがきくいちに来ない日々が続くのは。
メモ帳を一枚だけ破り、男に手渡す。

「ありがとうございます。これも渡しておいて下さい」
「はい、分かりました」
「じゃ、これで…。夜分にすいませんでした」

そう告げて、男に背を向ける。
…とまた背中から男の声が響いた。

「先生、頑張ってますからー!これからも応援してあげて下さいねーっ!」

…ちょっと待て。何だ、それ。
これじゃあ、俺が瀬野さんのファンみたいじゃないか…。そうだ、ファンだと勘違いされたんだ。
そう…だよな、この状況。相手は作家だ。勘違いされてもおかしくはない。
だとしたら俺、物凄く恥ずかしい事したよな…。
今度瀬野さんに会った時、何て言われるだろう…。

それでも良いんだ。瀬野さんが頑張ってるって事が分かったから。
それが分かっただけでも来た意味があった、なんて思った。


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最終更新:2010年03月20日 20:18