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「うーん…」
「駄目…ですよね、こんなんじゃ」
「う、うーん…」
「良いんです、はっきり言って下さい。書き直しますから」
「うーん………駄目ですねぇ」
僕の原稿を唸りながら読んでいた益岡さんは、やがて顔を上げて苦笑いを浮かべた。
そんな益岡さんを見て、思わず溜め息が零れる。
分かってたけど…、分かってたつもりだけど、やっぱりショックです…。
「うーん、この間は良い感じに仕上がってんですけどねぇ。やっぱり書き足した部分がちょっと…」
「そうなんですよねー…。いや、分かってはいるんですけど…」
「どうかしたんですか?何か心境に変化でも?」
「いや、特に何もないですよ。ただ、僕の小説の神様がご機嫌ななめみたいで…」
「あー、なるほどねぇ」
益岡さんはまた苦々しく笑う。
心境が変化…するような事はなかったと思う。
強いて上げるなら、あのライブの日の事かなぁ。
さゆりちゃんに好きな人がいる。それは伊吹君じゃない。
だって、伊吹君ならあの歌はあんな歌詞じゃない筈なんだ。
あの歌は、明日は会えるかな?――そんな歌詞で締め括られていたから。
相手が伊吹君なら、明日会えるかどうかなんて、僕には分からなくてもさゆりちゃんは知ってる筈なんだ。
この小説を書き始めた時、僕はその事を知らなかった。
だから、最終的にはハッピーエンドにするつもりだったんだ。
伊吹君とさゆりちゃんをモデルにした二人は結ばれる――そんな結末を思い描いていた。
だけど、伊吹君の恋が実る事がないんだとしたら。
『応援してもらっても、上手くいきませんけどね』
それが本当だとしたら…、本当に駄目なんだとしたら、この小説は伊吹君にとって嫌味でしかないんじゃないかな?
小説なんだから、実際と違っていたって構わない。いや、実在の人物をモデルにしたって、事実と異なる結末にした方が良いのかもしれない。
現実は小説のように甘くない。だからこそ、読んでくれる人に夢を抱かせないと。
それでこそ夢を売る商売ってやつだ。
そもそも伊吹君にもさゆりちゃんにも読んでもらうつもりなんかないんだ。
僕の事を知らない人に読んでもらうのは平気だけど、知ってる人には読んで欲しくない。だって、恥ずかしいじゃないか。
僕のペンネームを教えなければ、絶対にバレる事なんかないし…。
だったら、どうして書けないのかな?書けない理由が別にある?
伊吹君とさゆりちゃんが結ばれるのが嫌なのかな…。どうして?
ふと頭の中に浮かんだ疑問が大きくなっていく。答えを出そうと思っても、何も出て来なかった。
ただ、何故か伊吹君の笑顔が頭の中に浮かんだ。
伊吹君は笑ったら可愛いと言ったのはさゆりちゃんだった。
実際に僕がそれを見る事が出来たのは最近で、確かに僕も可愛いと思った。
むすっとしてるより笑っていた方がずっと素敵だ。
伊吹君は確かに格好良い。女の子にモテないなんて、絶対嘘だ。
そう思ったら、何だか胸の中がもやもやしてきて気持ち悪い。
意味が分からない…。伊吹君がモテる事に何でもやもやしなきゃならないんだ。
これじゃあまるで――
「と、とにかく、書き直してみますから。新しい話を書く時間なんかないし、書き直せば良くなるかも」
「橘川先生、その意気です!締め切りまであと二日ありますから、絶対間に合いますよ!」
ふと浮かんだ感情を打ち消す為に、僕は益岡さんにそう告げた。
益岡さんはにこにこ笑顔。…でも、間に合うかどうか。
だけど、本当に新しい話を書く時間はないし、売れっ子でもないのに締め切りを待ってもらう訳にはいかない。
迷いがあるとか、神様がご機嫌ななめだとか、そんなの理由にならないんだから。
でも…、書かなきゃって思うと余計駄目なんだよなぁ…。
それでも、パソコンに向かって奮闘。
うんうん、唸りながら出てきた文章はさっきに益岡さんに見せた物よりマシかなー?ってぐらいの文章だった。
それでも、書き始めた僕に益岡さんは安心したみたいだ。
「とりあえず、今日はこの辺で失礼しますね。明日また電話します」
「あ、はい。出来てなくて申し訳ないですけど…。お疲れ様でした。」
「いえいえ、今日は様子を見に来ただけですから。じゃ、頑張って下さいね」
と益岡さんが立ち上がり掛けた時、玄関の呼び鈴が鳴った。
誰だろう、こんな時間に…って、今何時だっけ?
時計を見ると、十時を過ぎた頃だった。
「お客さん…ですかね?こんな時間に」
「誰だろ?」
「あ、良いです良いです、僕が出ますから。先生は書いてて下さいね」
「あ…、すみません」
僕に気を使ったのか、益岡さんが玄関に向かって歩き出す。
僕が出ても大した時間ロスにはならないと思うけど…。
まあ、来たのが隣に住んでるおばちゃんだったら、話が長いからなぁ。
益岡さんが玄関に行って暫く、小さな話し声が聞こえた。
来客は男の人…?のような気がする。
それから、益岡さんが叫ぶ声がはっきりと聞こえてきた。
「先生、頑張ってますからー!これからも応援してあげて下さいねーっ!」
な、何だそれ…。本当に誰が来たんだろ?
そんな益岡さんの声が聞こえて直ぐに、益岡さんは戻ってきた。
「あ、誰でした?お客さん」
「橘川先生のファンの方です!差し入れですって!」
「ファンの人!?嘘でしょ!?」
にこにこと笑顔で渡されたのは紙袋。受け取って中身を見ると、お弁当らしき物が見えた。
「嘘じゃないですよ。なかなかの好青年でしたよ。礼儀正しいし、男前で」
「男の…?いや、本当にファンだったら、男性でも嬉しいですけど…」
「本当ですってば!あ、これも渡しておいてくれって言われました」
そう言って益岡さんが差し出した物は、二つ折りにされた一枚のメモ用紙だった。
開いてみると、右肩上がりの綺麗な文字。見た事がある文字が並んでいる。
『何かあったら、連絡して下さい。
伊吹』
名前の横には携帯の番号が書かれてる。
家に来たのは伊吹君だった。思わず笑ってしまう。
だって伊吹君、益岡さんに僕のファンだと思われてるよ?
さっきの益岡さんの言葉を言われた伊吹君はどんな気持ちだったんだろう。想像するとちょっと面白い。
思わず笑い声を上げてしまって、益岡さんが不思議そうに僕を見た。
「橘川先生?どうしたんですか?」
「益岡さん、彼は僕のファンじゃないですよ」
「え?だって、差し入れ…。お弁当みたいですよ?」
「いや、そうだと思いますけど。彼は友達…みたいなものです」
友達…?自分で言ってて首を傾げそうになる。友達で良いのかな…。
でも、伊吹君はもう僕を嫌いじゃないと言ってくれたし、ライブも一緒に行ったし一緒に飲んだ仲だし。迷惑かけたけど。
そう考えたら、やっぱり友達で良いのかな。…やっぱり変な感じ。
そっか…、伊吹君だったんだ…。会えば良かった、話がしたかったな…、いや。
「益岡さん、もう少しここにいてもらえますか?彼にお礼だけ言いたいんです」
「え、はい、良いですけど」
「すみません、直ぐに戻ります!」
少し不思議そうな顔をしている益岡さんを背に、僕は家を飛び出した。
僕に会わないで帰って行った伊吹君の気持ちは分かる。
きっと僕が仕事をしてるから、邪魔になると思ったんだ。
だけど、僕は伊吹君に会いたかった。少しだけで良いから、話がしたかったんだ。
「伊吹君!」
僕は見つけた伊吹君の背中に声をかけた。
振り向いた伊吹君は驚いたって顔をしている。
「伊吹君、お弁当ありがとう」
「いえ…。そんな事よりあんた、仕事しないと。何の為に俺が顔も見ないで帰ったと思ってるんですか」
「うん、分かってるんだけど…」
「分かってるなら、仕事して下さいよ」
「分かってるんだけど、上手く書けないんだ。どうしてかな?」
…って、伊吹君に聞いてもね。伊吹君が困るだけじゃないか。
伊吹君は暫くの間、何も言わず僕を見つめていた。その表情はないに等しい。
それから伊吹君が口を開いて言った言葉は、僕の問い掛けに対する答えではなかった。
「…進まなかったら顔を出すって言ってませんでしたっけ?」
「え?あ、そうだね…。でも、ああ言った手前、逆に顔を出し辛くて…」
「気にしなくても良いのに、そんな事。気分転換すれば書けるかもしれませんよ」
「そうだね、そうかもしれないけど…」
でも、やっぱり行き辛い。さゆりちゃんは心配するだろうし、おばちゃんは『しっかりしろ』って怒るかもしれない。そう思ったら…。
どうせきくいちに行くなら、綺麗さっぱり原稿を終わらせてから行った方が良い。
何も言えなくなった僕をどう思ったのか、伊吹君はふっと微笑んだ。
思わずどきりとしてしまう。
「雑誌に載ったら読ませて下さい。楽しみにしてますから」
そう言った伊吹君は僕に背を向けて歩き出した。
…プレッシャーを与えられたとしか思えないんですけど。
ああ…、やっぱり書かなきゃ。あんな事言われたら書くしかない。
だけど、読まれるのはやっぱり恥ずかしいなぁ。
その日、伊吹君にドキドキした事は心の奥底に閉まっておこうと思った。誰にも知られないように。
さゆりちゃんにもおばちゃんにも伊吹君本人にも――美咲にも。
最終更新:2009年12月10日 23:25