25
商店街の夏祭りは金土日の三日間開催らしい。
あれから、さゆりちゃんと話し合って一番空いてる筈の金曜日に行く事にした。
さゆりちゃんはきくいちの出店の店番をしなくちゃならないし、僕は人混みが嫌いだし、一番空いてる日が良いと思ったんだ。
おばちゃんにも許可を貰って――当初の予定ではさゆりちゃんは三日とも出店に入る予定だったらしいから――準備はばっちりだ。
「瀬野さん、浴衣着る?私も着るから、一緒に着よ!」
にこにこ、と笑顔でそう言われて、僕はそれすらも拒む事が出来なかった。
拒んだらさゆりちゃんを傷付けてしまうようで。
人を傷付ける事が怖かった。
夏祭り当日。
僕は桐のタンスに閉まってある筈の浴衣を出そうとしてた。
もう開ける事はないと思っていた桐のタンス。ここには美咲との思い出の品が詰まっている。
開けるのには少し勇気がいる。美咲との思い出まで引き出してしまうから。
軽く深呼吸をしてから、僕はタンスの引き出しを引いた。
僕の浴衣はタンスの下の方に入っていた。
丁寧にろ紙で包んだのは美咲だ。
ろ紙を開いてみると、綺麗な濃い紫色の浴衣があった。
「ああ…、変わらないな」
色褪せる事なく、紫色を保った浴衣。綺麗だな、と素直に思った。
もう見たくないと思っていたけれど、物には罪はない。そして、思い出も綺麗なままだ。
ただ、もう一枚の浴衣を着る人がもういないというだけ。そう思うと悲しくなる。
何で僕を置いていったんだ、美咲は。
いつまでも僕の傍にいてくれれば良かったのに。それが出来ないというなら、僕も連れて行ってくれたら良かったのに。
そうしたら、僕はこんな思いをせずに済んだのに。きっと今も幸せでいられたのに。
苦しいよ、美咲がいない現実は。
怖いんだ、生きていく事が。
どうやって生きていけば良いのか、分からなくなる。
それでも、僕は苦しいまま生きていかなくちゃならなくて、自然と時間が流れていく。
僕が意思とは関係なく時間だけが過ぎて、気が付けば三年が経っていた。
だけど、昨日の事のように思い出せる。あの日の、美咲が死んだ日の事を。
美咲と知り合ったのは僕が大学一年の時の事だ。
子供の頃から作家志望だった僕は、誘われるまでもなく文芸サークルに入った。
そのサークルには一つ年上の美咲がいた。
美咲は優しいけれど、強い人だった。
お人好しと言えば聞こえは良いけれど、気が弱くて嫌な事を頼まれても引き受けてしまう僕と比べて、美咲は違う。
嫌な事は嫌だと言う、だけど相手に不快な思いをさせないような心配りが出来る人だった。
そんな美咲に僕は惹かれた。これが恋だと気が付くのに、そう時間はかからなかった。
好きだと言葉にするまでは時間がかかったけれど――小説を書く事しかない僕と、優しくて気立てが良くておまけに美人な美咲。どう考えたって不似合いだ。
それに、美咲を狙う男は沢山いた。美咲目当てでサークルに入った男だって沢山いたんだ。
駄目でも良い、告白しよう――そう決めた僕は美咲を食事に誘った。
文学の面では美咲とは気が合う方だったからか、美咲は快く誘いに乗ってくれた。
食事中は凄く楽しくて。あの作家さんの小説は良いだとか、この小説の結末には少しがっかりしただとか――話す事は小説の事ばかりだったけれど、美咲も楽しそうだった。
僕は美咲の事ばかり見ていた。仕草や透明感のある声や小さな気遣い。どれを取っても、美咲が好きだと確信した。
この人と一緒に時を過ごせたらどんなに幸せだろう、とその時既に幸せ気分でそう思ったのは今でも忘れられない。
美咲を家まで送る帰り道、僕は美咲に好きだと告げようとした。
なかなか言葉が出て来ない。気が付けば、美咲の家まであと少しだった。
言うなら今だ、こんなチャンスは二度とないかもしれない。そう思って、僕は掌をぎゅっと握り締めた。
「僕、濱田さんが好きなんです」
余計な言葉はいらない。どうせ振られるなら、男らしくはっきり告げて振られようと思った。その方が諦めがつくから。
美咲は驚いたようで大きく目を見開いてから、頬を真っ赤に染めた。
今までに見た事がない表情をしていた――美咲はいつだって淡く柔らかい笑みを浮かべていた。そんな美咲が頬を赤らめながら、戸惑うように目を泳がせている。
それが何を意味しているのか分からない僕には、不思議な光景に思えた。
「…私も瀬野君が好きです」
暫く立ち止まったまま沈黙が続いてその末に返ってきた答えに、僕は夢を見ているのかと思った。信じられなかったんだ。
それから、この状況を理解した僕はこれ以上の幸せなんてない、とそう思った。
美咲と付き合い始めて半年、僕達は結婚した。
それが短いのか長いのかは分からない。ただ、学生結婚に踏み切ったのは、僕の人生に於いて最大の冒険だった。
本当は大学を卒業してから結婚するつもりだったんだ。学生の身分で美咲を幸せに出来るかなんて分からなかったから。
早く結婚したい――そう言ったのは美咲の方だった。その理由を知ったのは、かなり後になってからだった。
美咲との生活はやっぱり厳しかった。僕も美咲も学生だったから、二人でアルバイトをして生活を賄った。
貯金どころか、少しの贅沢も出来ない状態が続いた。
それでも、僕は幸せだった。おそらく美咲も同じ気持ちでいたと思う。
そんな頃、僕は日光出版のコンクールで賞を取った。
大賞ではなかったけれど、それから日光出版で書かせてもらえるようになった。
僕はバイトを辞めて、作家と大学生という二つの生活を送るようになった。
バイトは続けた方が生活は楽になったかもしれない。
だけど、バイトを辞めて創作活動に専念する事を強く奨めたのは美咲だった。
「生活が苦しいなら、私が仕事を増やすわ。あなたは小説を書くべきよ」
そう言われた時、僕は何の疑問も持たなかった。
その時、気が付いていれば良かったのに…。美咲はその時既に、かなり無理をしていた事を。
生活は少しも楽にはならない。
幾ら小説を書いても売れない僕は悩んでいた。
売れないなら諦めるべきか、それとも売れるような小説を書けば良いのか――それが自分の書きたいものではなくても。
そんな事を口にする僕を、美咲は優しく嗜めた。
「暁はそのままで良いのよ。そのままで、自分の書きたい事を書いていけば良いのよ」
美咲はいつだって優しかった。大きく強い心で、僕を包んでくれるようだった。
そんな美咲に僕は甘えきっていたと思う。
僕が大学卒業間際という時、美咲はバイト中に倒れた。
駆けつけた病院で担当医は、美咲はもう長くはない、とはっきり僕に告げた。
その時初めて知ったんだ、美咲が心臓を患っている事を。
小さい頃からの病気で、本当は二十歳まで生きられるか分からなかった身体なのだ――お義母さんにそう聞かされた。
それまで僕にその事を言わなかったのは美咲に頼まれたからで、美咲の好きなように生きて欲しかったから結婚も反対しなかったのだ、とお義母さんは涙ながらに語った。
美咲が入院してから、僕は毎日見舞いに行った。
僕は美咲を元気づけようと必死だったけれど、美咲は自分の死期が近い事に気が付いていた。
「ごめんなさい、病気の事を隠していて。私、どうしてもあなたの傍にいたかったの。あなたの傍であなたが作家として成功する為のお手伝いがしたかったの」
「…言っていたら、僕が結婚しなかったって思ってるの?」
「ええ。あなたの妻として隣を歩いて行きたかったの。その為にはこんな身体はいらないの。こんな身体だって事を忘れたかったの」
確かに病気の事を知っていたら、結婚まで踏み切れなかったかもしれない。
僕みたいな経済力のない男と一緒になったら、苦労するのは目に見えている。
それでも一緒になりたかった。傍にいたかった――そう言った美咲に僕は涙を流した。
これほどまでに美咲は僕を想ってくれていた。それに気が付いた時にはもう遅い。
「勘違いしないでね、私は幸せだったの。あなたの傍にいれて、これ以上なんてない幸せを手に入れたの。だから、幸せなまま私は逝くわ」
「僕を置いて?僕は美咲がいなくなったら、幸せなんてもう二度と得られないよ」
「そんな事言わないで。あなたはあなたの幸せを、これから先見つけていくのよ。きっと出来るわ、あなたなら」
「……………」
「だから、私の事は早く忘れて。でも、時々は思い出してくれたら嬉しいな。小さな事で良いの、時々思い出してね」
美咲は最後まで微笑みながら、息を引き取った。
美咲が二十三歳になったばかりの頃だった。
美咲が死んでから、僕は泣いてばかりいた。
悲しみに明け暮れて、美咲の後を追う事ばかり考えていた。
だけど、死ぬ事を選ばなかったのは、僕が夢を叶えていないからだ。
作家として成功する事――それが僕の夢。そして、その所為で美咲は死んだのだから。
だから、僕は小説を書き続ける事を選んだ。
美咲が死んだ意味をなくしたくはなかったんだ。意味のある事にしたかった。
その為に、今も躍起になって書き続けている。
今だに夢は叶えられないけれど。
僕は夢を叶える事が出来たら美咲の後を追おうか、と今でも思っている。
美咲はああ言ったけれど、やっぱりもう幸せなんて見つけられないんだ。
美咲がいないなら、この世界に幸せなんてある筈がない。
心にぽっかりと穴を開けたまま、生きていくしかない。
最終更新:2010年03月20日 22:28