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『私は夢を諦めたくないよ。瀬野さんの事を諦めてでも、歌手になりたいの』
『だから私、行くよ』

さゆりさんが東京に行くなんてまだ実感が湧かない。
ただ、さゆりさんの言葉が頭から離れなかった。


「…ちゃん?こーちゃん!」

隣にいた東堂に声を掛けられて、はっと我に返る。
東堂は怒っているのか、眉間に皺を寄せていた。

「何だよ」
「何だよ、じゃねーって!お前、どんだけ焼くつもりだよ!?焦げてるっつーの!」

気が付けば鉄板の上の焼そばが悲鳴を上げながら、鉄板に張り付いていた。
確かにこれは焼き過ぎだ。客に出せる焼き加減は当に越えている。
東堂は眉間に皺を寄せたまま、鉄板返しでそれを綺麗に取ってゴミ箱に捨てた。

「こーちゃん、ぼけっとし過ぎ!なんかあったのかよ」
「いや、別に…。何もないけど」
「嘘吐けー。さゆりとなんかあったんじゃねーの?あったんだろ!良い事?悪い事?」
「勝手に決め付けんな。…別に何もないよ」

何だ、つまんねーの――不貞腐れたようにそう言って、東堂は新しい焼そばを焼き始める。
東堂は割りと勘が良い方だ。気を付けないと直ぐにバレる。知られたくない事は特に。
現に俺がさゆりさんの事を好きなのも、東堂にはバレている。隠しているつもりだったのに。
東堂に悪気がある訳じゃないし、仕方がない事だと思うけど。

「でもさー、何で今日、さゆりいねーの?」
「ああ…、祭りに行きたいんだって」
「あ、そーなの?ていうか、お前が誘えよー!祭り行こって言えば良いじゃん」
「何でだよ…、俺とさゆりさんが抜けたらやばいだろ、この店」
「でも、誘えよー。さゆりはさ、絶対はっきり言わないと分かんねーって」

それは分かってる。ただ、俺は言わないつもりでいただけだ。
言わなければ伝わらない。それで良いんだと思っていた。
さゆりさんの傍にいれるだけで良い。俺の事を弟のように思っていようが、友達のように思っていようが、笑顔を見せてくれるならそれだけで良いんだ。

だけど、本当にそれで良いのか?さゆりさんがいなくなるっていうのに。
さゆりさんは瀬野さんに言うと言ってるのに、俺は何もしなくて良いんだろうか…。
言ったってどうにもならない。だけど、自分の気持ちの整理は出来る。
だったら、やっぱり言うべきなのか…。

「こーちゃん、またぼけっとしてる!ちょっと、こいつどうしちゃったの?何とかしてよ、美知子ー」

いきなり話し掛けられた店長は、せっせっとラーメンを作っていた手を休めて顔を上げた。
店長はこの暑さと鍋から上がる湯気で汗だくだ。俺も東堂もあまり変わりはないけれど、店長が一番暑そうだ。

「あらら、駄目だね、伊吹。ちゃんと仕事してくれないと給料から差し引くよ!」
「そうだそうだ、差し引いてやれ!その分俺に回してくれりゃ言う事ねーよ」
「それは出来ない相談だけどね。しかし東堂、毎年毎年助けてもらっちゃって悪いね、感謝はしてるよ」
「何言ってんだよー、俺と美知子の仲じゃん」

そんな会話が繰り広げられて、どこをツッコもうか悩む。
とりあえず…、かなり年配の女性を名前呼び捨てで呼ぶ東堂はどうなのか、といつも思う。
それでも、店長は何も言わない。東堂はそういう奴だ。
誰とでもある程度は親しくなれる。でも、本性はあまり人には見せないみたいだ。

高校の頃はよく我儘を言ったり泣いたりして、よく東堂に振り回されたもんだ。
最近はそういう事がなくなった。大人になったのか、と思っていたけれど、そうでもないらしい――東堂の恋人に話を聞く限りでは。
おそらく彼の前ではそういう面を見せているんだろう。
でもまあ、彼以外にはそんな姿を見せなくなったんだから、それだけ大人になったって事かもしれないな。
彼は苦労してるんだろうけれど。

「まあ、伊吹もね。色々あるんだろうさ」
「え、マジで?色々あんの?何、悩み事?」
「そりゃあ、悩みもあるだろうさ。若いんだから。良いねー、青春ってのは。おばちゃんももう少し若かったらねー」

…と店長はけらけら笑っているけれど。
店長はもう話を聞いたんだろうか、さゆりさんが東京に行くって事を。
…分からない。ただいつものように、勘だけで俺の感情を察しているだけかもしれない。あの人は何だってお見通しなんだ。
だけど、聞いていてもおかしくない。さゆりさんが東京に行くという事はバイトを辞めるって事だ。困るのは俺より店長の方だろう。
さゆりさんが辞めたら、店員に穴が開く事になる。どうするつもりなんだろう。
店長は最近腰痛が酷い。俺がシフトを増やすには限度があるし…。
新しいバイトを入れるのかもな…、それも嫌だけど。

さゆりさんはきくいちの看板娘だ。あの笑顔を見にきくいちに来る客だっている。
さゆりさんファンでよく出前を頼む爺さんだって…、きっと悲しむ。
さゆりさんが抜けたら困るんだ、きくいちは。
本当にどうするんだろう…。

色んな事を考えてしまって、仕事に集中出来ない。困ったな…。
そろそろ昼だ、出店が混み始める。集中しないと…。

「こーちゃん、マジでどうかしたの?」
「…いや?」
「嘘吐けー、悩んでる事あんだろ。なんかあんなら言えよ、相談くらい乗るよ」

東堂は本格的に心配そうな顔つきになって、俺の顔を覗き込んできた。
俺は基本的に悩み事は人には相談しない主義だ。
人に相談しても何もならない、俺の悩み事は俺が解決しなきゃいけないと思っているから。
俺は他人の意見を聞いてしまうと流されてしまいがちだ。
そのためにも、極力他人の意見を聞かないように心がけている。
だから、

「…何でもないよ」
「ホントにー?こーちゃん、秘密主義だかんなー」
「そんな事ない。それより手を動かせ」
「今のこーちゃんに言われたくねー」
「…分かったって。俺が悪かったよ」

俺は敢えて東堂には相談しなかった。
俺の言葉に東堂は納得したような、していないような顔をして、それ以上は聞いてこなかった。
多分納得はしていない、だけど東堂は俺の性格をよく分かっている。これ以上聞いても無駄だと思ったんだろう。
そういう面で東堂との付き合いは凄く楽だ。
東堂とは趣味も合うし一緒にいて楽しい、だけど馴れ合う事はしないから。
高校の頃からの関係が続いているのは、多分そんな理由だと思う。

とにかく、東堂に余計な心配をかけさせないためにも、今は仕事に集中しないと――そう思った矢先、ズボンのポケットに入れた携帯が鳴った。
携帯を取り出して見ると、知らない固定電話の番号が表示されている。
誰だろう?――思い当たる人が一人だけいた。

「ちょっとすみません」

店長に断って、裏の方に移動する。焼きそばの方には東堂がいるから大丈夫だろう。
鉄板から離れると、空気が幾らかは涼しく感じられた。

「もしもし?」
『あ、伊吹君?瀬野ですけど』

電話の主は思い当たる人物――瀬野さんだった。
瀬野さんかもしれないと思ったのは俺の携帯番号を知っていて、向こうの電話番号を知らないのが瀬野さんだけだからだ。

「どうかしました?さゆりさんとの約束、今日ですよね?」
『うん、そうなんだけど…』
「…まさかこの期に及んで用事が出来たから行けない、とか言うんじゃないでしょうね?」

電話口の瀬野さんは何だか焦っているような気がした。
まさか本当に行けないから、さゆりさんに伝えてくれとか言うんじゃないだろうな?嫌だ…、またさゆりさんに恨まれる…。
さゆりさんの不貞腐れた顔を想像していると、瀬野さんは意外な事を口にした。

『そんなんじゃないよ、行く準備してたんだけど…』
「…行きたくなくなった、と?」
『そうじゃなくて!浴衣の着方が分からないんだよ。これ、どうやって帯結ぶの?』
「……………」

俺は呆れて、言葉を失った。
着れないなら着なきゃ良いのに…。あんたには無理だ、俺でも分かるよ…。
…面倒だ。俺は仕事中で、もうすぐ混み始める頃だ。
だから、『そんな物着ないで、いつも通りで行け』って言おうと思った。だけど、

『伊吹君、助けて』

切羽詰まった声で助けて、なんて言われて、何だか断る事が出来なくなってしまった。
助けてあげなきゃいけない気になる。だって、この人が他人に助けを求める事なんてそうそうない筈なんだ。

「…分かりました。そっち行きますから、ちょっと待ってて下さい」
『え、来てくれるの!?』
「浴衣着たいんでしょう?俺、帯の結び方分かりますから。ちょっと待ってて下さい」

ごめん、ありがとう――そんな瀬野さんの声を聞いて、俺は通話を切った。
急がないと…。とにかく、昼までには戻らないと。
ここから瀬野さんの家まで十分。往復で二十分だから、急げば間に合う筈だ。

「すみません、店長。ちょっと抜けても良いですか?」
「何だい?急用かい?」
「はい、でも昼までには戻りますから」
「仕方ないねぇ。急いで戻っとくれよ」
「はい、すみません」
「こーちゃん、どこ行くの?」
「悪い、直ぐ戻るから」

東堂には敢えて言わないでおいた…にも関わらず、

「瀬野ちゃんに宜しくねーっ!」

走り出した俺の背中から、店長の声が聞こえてきた。
東堂にバレたな…。きっと今頃東堂は『瀬野ちゃんって誰!?』って、店長に問い詰めてるだろう。だから、言わなかったのに…。
色々面倒な事になりそうだ――そう思いながら、俺は瀬野さんの家までひたすら走り続けた。


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最終更新:2010年03月20日 22:47