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どうして伊吹君に電話したんだろう。
伊吹君との通話を切ってから、ふと思った。
男の子だし、浴衣の着方なんて分からないかもしれない。大体伊吹君は今、出店の仕事をしている筈だ。
着れないなら、諦めていつものシャツで行けば良いのに。

『分かりました。そっち行きますから、ちょっと待ってて下さい』

伊吹君ならそう言ってくれると思った?きっと助けてくれるって。
僕は最近少しおかしいかもしれない。
どこが?と自分に問い掛けてもよく分からなくて、だからこそ不安になる。
美咲が眠る仏壇に視線を送った。そこにはいつもと変わらない美咲の笑顔が見えて、少しは安心出来た。


それから、十分くらい経った頃だろうか、呼び鈴が鳴って僕ははっと我に返った。
伊吹君だ――僕はそうだと決め付けて、玄関に向かった。

「はーい」

一応声を掛けてから玄関の戸を開けると、そこには予想通り伊吹君が立っていた。
伊吹君は汗だくで、息を切らしていた。多分走って来てくれたんだろう。
そんな伊吹君の姿に感動して、言葉に詰まってしまう。

「あの、ありがとう、わざわざ…」
「本当ですよ、全く…」
「ごめんね」
「はあ、それより…」

伊吹君はそこで言葉を切って、僕の姿をじっと見つめて、それから吹き出すように笑い始めた。

「な、何がおかしいの?」
「いえ…、何だか色っぽいんだかだらしないんだか、分からない格好してますね」

そう言われて、改めて自分の姿を見下ろす。
…確かに。一応浴衣には袖を通しているけれど、帯を締めてないから前が全部はだけている。
下着までしっかり見えてるもんだから、急に恥ずかしくなって僕は慌てて浴衣の前を合わせて隠した。
…でも、もう遅いよね。全部見られた…。
伊吹君は大して気にしてないようで笑い続けているけれど。
ま、まあ、男同士だしね!気にする方がどうかしてるかも。

「と、とりあえずどうぞ」
「はい、お邪魔します」

伊吹君を居間に通す。今日で何回目だっけ?伊吹君、家に来るの。
でも、仲良くなってから数週間しか経ってないんだよなぁ。
そう考えると色々あったな、この数週間。

「あ、帯これですよね?」

伊吹君はそう言って、さっき僕が結ぶの諦めて床に落とした帯を拾い上げた。

「うん」
「じゃあ、早くやっちゃいましょう。時間もあまりないですから」
「うん」

伊吹君に言われて、僕は慌てて浴衣を合わせを直そうとしたら伊吹君に腕を掴まれた。

「な、何?」
「逆」
「え?」
「合わせが逆です。それじゃあ、死んだ人ですよ」

そう言って伊吹君は、僕の浴衣を合わせた。右側を先に身体に付けて、次に左側…あれ?

「ねえ、和服って右が前じゃないの?ほら、『右前』って言うじゃない」
「それは右を左より前に身体に付けるから、『右前』って言うんですよ。確かに分かり辛いですけどね」
「そうなんだ?」

…そういえば、昔美咲に同じ事を聞いた気がする。一緒に夏祭りに行った時だ。
懐かしい記憶――伊吹君が助けてくれなかったら、きっと忘れていた。
思い出して良かったのか、思い出さない方が良かったのか…。

「ほら、締めますよ。腕上げて」
「うん」

言われた通り腕を上げたら、伊吹君は帯と一緒に僕の腰に腕を回した。
なんかちょっと…抱き締められてる気分なんですけど。
抱き合うよりは距離はある、でも普段伊吹君と接する時よりはかなり接近した距離。
汗の匂いがする…。それが嫌とかじゃなくて、少しどきりとした。
間近にある伊吹君の顔を横目で見ると、頬を流れる汗がぽとり、と胸元に落ちて白いタンクトップに染み込んでいくのが視界に映る。
その光景が何だかとても綺麗で…。

「…向いて」
「え?」
「後ろ向いて下さい」

伊吹君にそう言われた時、酷く残念な気分になった。
それでも、言われた通り後ろを向く。
何考えてるんだろ…。そうは思っても心臓は高鳴っていた。
何か話さなきゃ、そう思った。
伊吹君は帯を結ぶのに夢中になっているけれど。

「伊吹君、自分で浴衣着れるんだね。凄いね、男の子なのに」
「ああ…、祖母に習ったんですよ。浴衣ぐらい一人で着れなきゃ駄目だって。俺、おばあちゃん子だったんで」
「へえ、おばあちゃん子かぁ。あー、でも分かるかも。なんかお母さんっぽいもんね、昔の」
「止めて下さいよ…。ほら、出来ましたよ」

そう言われて、振り向けば綺麗に帯が結ばれていた。
凄い…、早いし、綺麗だし。
お母さんっぽいって言われても仕方がないよ、伊吹君!

「ありがとう、ホントに」
「いえ…。瀬野さん、似合いますね、この紫の浴衣」
「あ、ホント?これを作ってくれた人もね、『紫が一番似合うね』って…」
「誰に作ってもらったんですか?」

それは伊吹君にとって、何気ない問い掛けだったのかもしれない。
だけど、即座に美咲の顔が浮かんで、僕はびくり、と身体を震わせた。
息が詰まる。今だ間近にある伊吹君の顔を見上げた。
伊吹君は笑っていた――だけどそれは唇だけで目が、笑っていない。

「誰に作ってもらったんですか?この浴衣」

伊吹君は同じ問い掛けを繰り返した。
澄んだ瞳――見透かされている気がする。
誰にも知られたくない秘密を、知られた気分になる。

「………お、母さんだよ、僕の」
「へえ、瀬野さんのお母さんの方が凄いじゃないですか。浴衣を作れるなんて」

何とか絞り出した答えに、伊吹君はあっさり納得してくれたみたいだ。
その事に安心して、ほっと息を吐く。
美咲の事は知られたくなかった、伊吹君には特に。
真っ直ぐで綺麗な伊吹君は、僕の本性を知ったらきっと醜いと思うに違いない。
伊吹君にはそう思われたくなかったんだ。

「俺、もう行きますね。昼までには戻るって言って来たんです」
「え、うん…。あ、ちょっと待ってて!」

居間を出ようとする伊吹君を引き止めて、僕は洗面所に向かった。
棚に入れてある洗濯したばかりの白いタオルを一枚引っ掴んで、居間に戻る。

「何ですか?」
「伊吹君、汗だくだよ?タオルあげる」
「あ、俺汗臭いですよね。暑いし、走ってきたし…」
「ううん、そういう意味じゃないけど。大丈夫?喉乾いてない?お茶ぐらい…」
「いえ、本当に時間ないんで。それよりあんた、さゆりさんとの約束は?」
「うん、大丈夫だよ」
「遅刻しないで下さいね、デートに遅刻するなんて男じゃないですよ」
「大丈夫だって!ホントにありがとうね。今度奢るよ」
「それなら、ラーメン以外にして下さい。じゃ、また後で」

伊吹君は僕が渡したタオルを手に走り出した。
ホントに時間ないんだ…。時間ないのに来てくれたんだ。
優しい伊吹君。やっぱり伊吹君には知られたくなかった。
美咲の事、過去の事、そして僕の本性。
それなのに、伊吹君の事がもっと知りたいって思う自分がいて、僕は何だか我が儘だ。

「………ん?デート!?」

伊吹君の言葉を思い返して、僕は一人呟いた。
で、デートじゃないよっ!夏祭りに遊びに行くだけだってばっ!
…それって一般的にデートって言うのかな?
もしかして僕、誤解されてる…?


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最終更新:2009年12月10日 23:30