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瀬野さんの家を出てからも、何だか笑いが止まらなかった。
だって…、怒ったらあんな顔するんだな…。
前にも瀬野さんを怒らせた事があった。あの時は俺が悪かったし、罪悪感だけで瀬野さんに対しては特に何も思わなかったけれど。
瀬野さんを怒らせるのが楽しいと思ったのは、あの人がいつも人形のように張りついた笑みを浮かべているからだ。
それを壊すのが楽しい。いや、楽しいっていうか嬉しいんだ。
それに壊した方が良いんだと思う。あの人が抱えている暗い何かなんて、全て壊れてしまえば良い。
それで俺が嫌われたとしても、瀬野さんが変われるなら。
それにあの人は俺を嫌ってなんかいないだろう。
今は怒っているかもしれないけど、次に会った時きっと何でもない顔をしている。
いつものあの笑みに戻っているかもしれないけれど…。
夕べ言おうとしていた言葉の続きを言ったら、瀬野さんはどんな顔をするんだろう。
困るだろうな…。困って、俺を拒絶して、二度と会ってくれなくなるかもしれない。
だけど、俺にとってはそれからが勝負だ。そこから全てが始まる。
だから、その言葉は俺にとっての切り札なんだ。
朝の空気を深く吸い込む。清々しい夏の匂いがした。
まだ何も終わってないし、始まってもいないのに、何だか妙にすっきりした気分だった。
その日の祭りの帰り、俺はさゆりさんを送っていく事にした。
一人で帰れると言ったさゆりさんに話があるからと告げると、さゆりさんは少し困ったような、戸惑っているような顔をしていた。
「お祭りもあと一日だねー…」
「そうですね」
「なんかさみしいな」
「九月にはまだ時間がありますよ。…そういえば店長には言ったんですか?」
「うん…、頑張ってこいって、売れるまで帰ってくるなってさ」
「そうですか…」
店長ならそう言うと思っていた。店長は誰よりさゆりさんの夢を応援していたから。
例え寂しく思っても、店が存続危機に陥ろうと、店長はさゆりさんを引き止めたりはしないだろう。
「ね、私抜けても大丈夫だよね?きくいち…」
「大丈夫…ではないでしょうけど、何とかすると思いますよ。俺も今より入るようにしますし」
「そっか…。なんか迷惑かけてごめんね」
「迷惑なんかじゃないですよ。さゆりさんが東京に行くのは…俺は良い事だと思います」
聞いた時は驚いたけれど。
本当に良い事だと思ってるんだ。さゆりさんが歌手としてプロを目指すなら。
確かにこの町にいたんじゃ、それは叶わないだろう。音楽に関して学ぶにしろチャンスを掴むにしろ、こんな小さな町より東京みたいな都会の方が良いに決まっている。
俺は…東京みたいな都会は嫌いだけれど、それは俺の主観で東京には東京の良い所があるだろうし。
少し前だったらそんな風に思えなかった気がする…。
少なくともさゆりさんに東京に行く事を告げられたあの夜は、そんな風には考えられなかった。
さゆりさんを引き止めたい――それしか考えていなかった気がする。
それなのに、こんな風にさゆりさんを応援する気になれたのは多分あの人のおかげなんだろうな。
あの人は別段変わった事はしていない。俺が変わったんだ。
さゆりさんに対する気持ち、そして瀬野さんに対する気持ちが。
「ホント~?実は恨んでるんじゃないの~?」
「恨んでませんって。行くからにはやっぱり…歌手として売れるまで帰ってこないで下さいね」
「もー!皆して冷たいなー」
さゆりさんは言葉とは裏腹に笑っていた。
少しもそんな事思っていないのが分かる。
そして、俺も少しもそんな事思っていなかった。帰ってくるな、なんて。
辛くなったらいつでも帰ってくれば良いと思う。
この町はいつまでもここにあるし、きくいちだって店長は死ぬまで続けるつもりだろう。…殺しても死ななさそうだし、その点は大丈夫だ。
さゆりさんだってそんな事分かっている筈だ。
だから、何も気にする事なく全力で走って。迷う事なんかないから。
「伊吹君」
「はい?」
「話って…何?」
立ち止まったさゆりさんは、くるりと俺に振り返った。
その表情はさっきと同じように戸惑っているように見える。
何を言おうとしているのか、分かっているのかもしれない。
そうだ、瀬野さんの気持ちにも気が付いていたさゆりさんが、俺の気持ちに気付いていない確証なんてどこにもない。
…知っていたのかもしれない。なのに、知らない振りをしていた?俺の気持ちに応えられないから?
さゆりさんの心情を知っても、不思議と怒りは込み上げてこなかった。
逆に言い易くなった、なんて不謹慎にも思ってしまう。
さゆりさんは困るかもしれないけど…言うんだ。
終わらせるために言わなきゃいけない。
「さゆりさん…」
「はい」
「俺、貴方の事が好きでした」
「…うん」
「引き止めたい訳じゃないんです。終わりにしたいから言おうと思いました。貴方が瀬野さんに言ったように」
「そっか…」
さゆりさんは呟くようにそう言ったきり、何も言わず俯いた。
泣くんじゃないか、そう思った。
泣かないで、さゆりさんが泣く必要なんかないんだ。
だけど、こんな風に言われるのが辛いのは分かる。さゆりさんはいなくなってしまうんだから、当然だ。
「…答えた方が良い?」
「いいえ、分かってますから」
「…そっか。…ね、今はちょっと違うんじゃない?」
そう言われて、何の事かと一瞬思考が止まる。
それから瀬野さんの顔が頭に浮かんで、俺は驚きに目を見開いた。
「そこまで知ってるんですか…」
「当然じゃない、いっつもあの人ばっかり見てたんだから…。いっつもヤキモチ妬いてたんだよ?」
「いや、妬かれるほどの事はしてません…。ていうか、好きだって言った相手に言う事ですか、それ」
「それもそーか。ごめん…」
さゆりさんが申し訳なさそうな顔をしたのが、何だか面白くなって俺は小さく笑った。
そうしたらさゆりさんも笑い出して、俺達は顔を見合わせて暫く笑っていた。
こんな風に笑えて良かったと思う。振られたら、普通はこうはいかないから。
これも瀬野さんのおかげかもな…。
「頑張ってね。伊吹君だったら、きっと瀬野さんを変えられる」
「…まあ、どうなるかは分かりませんけど、やれるだけの事はやってみます」
「その意気よ!」
先の事なんか分からない。
瀬野さんはずっとあのままなのかもしれない。
だけど、俺は瀬野さんを変えたいと思っているから、やれるだけやってみようと思う。
俺は瀬野さんの事が好きだ。あの人が欲しい、あの人を手に入れたい。
それには見ているだけじゃ駄目だ、想っているだけでも。
「ねー、私ってバカかなー?」
「え?」
「伊吹君みたいな良い男を振って東京に行こうとしてるなんてさ、バカな女だって思ってる?」
…何だ、そんな事か。
そんなの、決まってるじゃないか。
「…最高に良い女ですよ」
俺が笑うと、さゆりさんはありがとう、と言って綺麗に微笑んだ。
ありがとう、はこっちの台詞だ。
貴方のおかげで、俺も前に進んで行ける。もう迷いはない。
ありがとう、さゆりさん。
最終更新:2010年03月19日 23:32