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久しぶりにきくいちに来て、何も食べずに帰って行った瀬野さん。
瀬野さんが去って行った後にはまだ温かな湯気を出している醤油ラーメンと、カウンターに置かれた七百円だけが残っていた。
『何でもない!』
『用事思い出したから、今日は帰るね…』
それは明らかに嘘で、その嘘には何が隠されているのか、俺は考えていた。
瀬野さんは多分本気で困っていた。いつものあの笑顔を忘れるくらい、本気で動揺していた。
何があったのか、なんて…。そんなの、この場にいた者にしか分からない筈で。
俺が呆然としているさゆりさんと東堂に振り返った時、二人はびくりと身体を強張らせた。
…今の俺はよっぽど人相か悪いらしい。いつもだって良いとは言えないのは、俺自身がよく知っている。
「…な、何にもしてないよ?ね、漣君!」
「うん、何もしてねーよ?普通に話してただけだってば」
「…何もしてないのに、どうして帰るんですか?頼んだラーメンを食べずに、お金だけ払って」
「そんなの、俺らが聞きてーって!なー、何の話してたっけ?」
「えー?だからさー、女の子が好きな男を落とす時のテク………そうだ、伊吹君!」
女が男を落とす時のテク…?何だ、それ。
さゆりさんは話の途中で何かを思い出したように声を上げて、俺を手招く。
何なんだ、と思いながらさゆりさんの近くまで行くと、東堂には聞こえないように耳打ちされた。
「大変よ、伊吹君。ライバル出現」
「は?」
「だから!瀬野さんを狙う女の子が現れたのよ」
…ますます分からない。どういう事なんだろうか。
瀬野さんを狙ってる女がいる、と瀬野さんが言ったんだろうか。その話をしていた…?
それで、どうして瀬野さんが動揺するんだ…?瀬野さんがその女に気があるって事か?
…それはない気がするけれど。だって、瀬野さんは今も想ってるんだろう、みさきさんという人の事を。
だとしたら、さゆりさんの時と状況は同じだ。
…考えれば考えるほど分からない。
「…話が見えません」
「あのねー?瀬野さん、誰かに『慰めて』って言われたんだって。でもその人、落ち込んでる訳じゃなかったらしいのよ」
「……………」
「それで瀬野さん、悩んでてね。『どうしてそんな事言ったのかな?』って私達に聞いてきたってわけ」
「……………」
さゆりさんの言葉に、今度は俺の方が固まった。
何故ならそのシチュエーション、物凄く覚えがあるからだ。
覚えがあるっていうか、それは俺が昨日瀬野さんにした行為そのものだ。
「それで、私が『女の子が好きな男を落とすテクでそういうのあるよねー』って言ったら瀬野さん、固まちゃって…。ちょっと伊吹君、聞いてるー?」
「…聞いてます」
聞こえているけれど、何も言えない。言いたい事はいっぱいあるけれど。
それは俺にライバル出現なんかじゃない。それは俺がした事だ。
何で寄りによってこの二人に言ったんだ…、瀬野さんは。
たったあれだけの事で、あんなに悩むなんて…。悩んでくれたのか、少しは脈ありって事だろうか。
でも、さゆりさんの話から察するに、俺の気持ちはバレた…って事だよな?
「もー!伊吹君、やっぱり聞いてないじゃない!一大事だよー?だいじょぶなのー?」
「…それ、一大事なんかじゃないです」
「えっ、何で…あー!」
さゆりさんは店内に聞こえるくらい大きな声を出して、俺を指差した。
隠そうかとは思ったけれど…駄目だ、隠せないだろ。俺は嘘が下手だ。
「…伊吹君なの?」
「…はい」
途端にさゆりさんは笑い出す。そりゃそうだろ…。俺がしたのは『女が好きな男を落とす時のテク』だそうだから。
勿論そんなつもりで瀬野さんに『慰めて下さい』と言った訳じゃない…いや、同じか。そう言ったのも、抱き締めたのも下心があったからだ。
それに瀬野さんが気が付いてくれなくてイライラした。だけど、バレてしまった訳で。
バレたらバレたで今後、どんな風に瀬野さんに接すれば良いんだろう。
「何だー、伊吹君だったんだー」
「大きな声出さないで下さいよ…。東堂に聞こえる…」
「聞こえてっけど」
後ろから声が聞こえて、東堂が何食わぬ顔で立っていた。完全に聞こえていたらしい。
「つまり、『慰めて』っつったの、こーちゃんだった訳だ?こーちゃん、瀬野っちの事、好きなの?」
「そーいう事!何よー、私達全然悪くないんじゃん!」
「だよなー。瀬野っちはこーちゃんが自分の事好きだって知って、動揺したんだよ」
「そーよ!伊吹君、脈アリなんじゃない?」
「それは…そんな事ないと思いますけど」
瀬野さんは少なからず俺の事を思っているかもしれない。動揺するくらいには。
だけど、それであの人に勝てるとは到底思えない。それくらい深い気がする…、みさきさんという人は。
俺はみさきさんを知らない。瀬野さんは聞いても答えてくれない気がする。
…でも、知りたい。みさきさんという人はそんな人なのか、瀬野さんとどんな関係を持った人なのか。
それとも、俺には知る権利もないだろうか…。
「じゃあとりあえず、はい」
何がとりあえずなのか、分からないけれどさゆりさんが笑顔で俺に何かを手渡した。
掌に乗せられたそれを見ると、それは七百円だった。瀬野さんが置いていった…。
「はいって」
「伊吹君の所為なんだから、責任持って瀬野さんに返してきてね!」
「うん、そんぐらいやれよー!こーちゃんの所為なんだから」
「でも、これは」
「きっとおばちゃんならこう言うよ。『一口も食べてない客から、金は受け取れないよ!』ってね」
…確かに。店長ならそう言うだろうな。その前に食べるまで店から出さない気もするけれど。
でも、あの様子じゃ瀬野さんが会ってくれるかどうか、分からないな…。
「あのねー、伊吹君がどう思おうと私は絶対脈アリだと思うんだー」
「俺もそう思う。マジ半端ねー動揺っぷりだったしー」
「後はアタックよ!とにかく押せ押せよ!」
「そうだそうだ!押し倒しちまえ!」
「いやー、それはどうかなー…。そういう意味じゃないしー…」
「んだよっ!そんぐらいやんなきゃダメだって!あーゆータイプはー」
押し倒す…は論外だとしても。
確かに積極的になるしかないんだろうな…。
両想いになるとか考えられないけれど、せめてみさきさんという人の事を含めて瀬野さんの過去に何があったのかを知りたい。
何も出来なくても知りたい。出来るなら傷を癒してあげたい。
そのためにはまず二人の言う通り、この七百円を届ける事だろう。
「…分かりました」
「その意気よ!頑張れ、伊吹君!」
「貞操、奪ってこい!」
「もー!漣君はどうして直ぐそういう事言うかなー。真剣な話をしてるんだよ?」
「俺だって真剣だっつの!」
二人の喧噪を余所に、俺は掌の七百円を握り締めた。
とにかく会いたかった。会う理由なんて何でも良いから。
会って何も変わらなくても、拒絶されても…、それでも顔が見たいから。
最終更新:2010年03月20日 18:14