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どうしてこんな事になったんだろう。
伊吹君に押し倒されてシャツを引き裂かれた時、ただ驚く事しか出来なかった。
本当に分からなかったんだ。伊吹君がどうしてこんな事をするのか、伊吹君がどうして美咲の事を知りたがっているのか。
そして、どうして美咲の名前を知っているのか。

伊吹君の気持ちを軽く見ていた…かもしれない。それは確かに伊吹君の言う通りだと思う。
伊吹君は僕を好きだと言った。それはさゆりちゃんが僕に抱いた恋心と、伊吹君がさゆりちゃんに抱いていた想いと同じだと思っていた。
だから、憤りを感じたんだ。美咲を忘れさせてあげる、なんて…。
そんな簡単なものじゃない、美咲の存在は僕にとってそんな簡単なものじゃないんだ。

だけど、違うの?伊吹君は本当に美咲の事を忘れさせようとしたの?
美咲を忘れさせようとするほど、伊吹君は僕を好きなんだろうか。
そして…、こんな事するほど僕が欲しいんだろうか。
だって、こんな事をしたら誰も幸せになれない。僕はきっと伊吹君に二度と会わなくなる。
二度と会えなくても良い――そう思っているの?

伊吹君が僕の首筋に唇を付ける。
その感触が僕を現実に引き戻した。

「嫌だっ、止めて!お願い、こんな事しないで!」

僕は必死で伊吹君の身体を押し返そうとした。
だけど、伊吹君の身体はびくともしない。押し返そうと伊吹君の胸に触れた手は、簡単に掴まれて床に押し付けられる。
抵抗しても無駄で、身動きも取れなくて僕は恐怖を感じた。
本気なんだ…、伊吹君は本気で僕に抱こうとしている。
男同士だからとかこれからの事とかそんなの関係なく、本当に無理やりするつもりなんだ。
そう思ったら涙が溢れて、目尻を伝って床に零れ落ちた。

本当は嫌な訳じゃない。
伊吹君が好きだと思ったから。こんな事されても、やっぱり好きだから…。
だけど、伊吹君にはこんな事して欲しくなかった。こんな事をする人だと思いたくなかった。
好きだから、思いたくなかったんだ。

「な、んで…。こんな事しても、誰も幸せになんかなれな、い…っ」
「…だったら、どうすれば幸せに出来るんですか?」
「い、ぶきく…っ」
「あんたを幸せにするためなら、俺はどんな事でも出来るのに…。あんたがみさきさんを忘れてくれるなら、何だってやるのに…!」

伊吹君が苦しいくらいの激情を僕にぶつける。
その気持ちを僕は受け取る事が出来ない。
僕は美咲を忘れる事が出来ない。忘れられないんじゃない、忘れてはいけないんだ。
美咲を殺したのは僕だ。僕は一生その罪を背負っていかなければならない。
一生かけて償いをする――それが美咲を殺してまで僕が生きる意味なんだと思う。
だから、伊吹君の気持ちは受け入れられない。例え、僕が伊吹君を好きだとしても。

僕は今凄く酷い事を言おうとしている。伊吹君を傷つける、きっと絶対に僕を許してはくれないだろう。
それでも、他に方法が思いつかないから…。

「分かった…、好きにしてい、いから…」

両腕で顔を覆う。伊吹君の顔を見ながら言えそうになかったから。
それでも、伊吹君が息を飲んだのが分かる。
そして、伊吹君は動きを止めた。

「伊吹君の、好きなようにして良いから…。だから、それで諦めて」
「な…」
「伊吹君のしたいようにして。その代わり二度と会わない。きくいちにはもう行かない。伊吹君もここにはもう来ないで…」

最低だ、と自分でも思う。諦めさせるために、自分の身体を差し出すなんて…。
伊吹君は僕の気持ちに気が付いていない。好きでもない相手に身体を差し出していると思っている。
そうじゃない、でも言う事が出来ない以上、同じ事なんだろう。
だけど…、それでも。

僕の言葉は僕自身に言い聞かせているようだった。
これが最初で最後だ、だから諦めなきゃいけない、と。
諦めなきゃいけないのは伊吹君だけじゃない、僕もだ。
抱いてはいけない感情を抱いてしまった。だから…。
どんな事をしてでも自分を止めないといけない。

「…最低だ、あんた」
「………っ…」
「諦めさせるために、身体を差し出すんですか」
「ご、めん…っ。でも、僕にはこうする事しか出来ないから…」
「本当に最低です。…それでも、俺はあんたが好きです」

伊吹君の言葉にはっとして、顔を覆っていた両腕を外す。
伊吹君はまだ怒っているようだったけれど、僕の腕を引いて身体を起こしてくれた。
そして、肌けたシャツを合わせる。
それはもう何もしないと言っているようだった。

「俺が今あんたを抱いたら、俺はあんたを諦めなきゃいけない。それなら…、抱かなければ諦める理由はないですね」

…え?
それは確かにそうかもしれない。僕が言った理屈ではそうなるんだろう。
だけど…、諦めてくれないのは困る。だって、僕にはどうする事も出来ないから。
僕が伊吹君を好きでも、それは叶う事がない。
好きになった事自体が罪なんだから。

「どうして…?」
「俺は絶対にあんたを諦めません。あんたがそれをどう思おうと、諦めたりしません」
「だから…、好きにして良いって言ってるのに!」
「あんた、本当に分かってない。俺の気持ちをそんな簡単に見ないで下さい。一時、身体だけでもなんて思えるくらいなら言う前に諦めてます」
「……………」
「俺はあんたが欲しいんです、あんたの心も身体も全てを。あんたが抱えてるもの全てを知りたい。傷があるなら癒してあげたいし、忘れられない事は忘れさせてあげたい」

伊吹君が真っ直ぐに僕の目を見つめて言う。
この澄んだ瞳が僕は苦手だった。全てを見透かされいる気になる。
だけど、その瞳に見つめられたら、僕はもう目を逸らす事なんか出来ない。

「困っているなら助けます。みさきさんの代わりにしたいなら代わりになります。それが嫌だとは思いません」
「どうして…、そんなのおかしいよ…」
「言ったでしょう、俺はあんたがみさきさんを忘れてくれるなら、どんな事でも出来ます。おかしくないです、それが好きだって事だと思います」

そう言って、伊吹君はもう一度僕の頬を撫でた。
愛おしいというように、そっと。
さっきまであんな事をしていたとは思えない。そして、あんな事を言った相手にする事じゃない。
そんなに…僕が好きなの?
そう思うと、顔が熱くなるのが分かった。

「…そういう顔をするって事は脈ありだと思って良いんですか」
「…え!?」
「顔、真っ赤ですよ」
「は!?み、脈なんてないよ!諦めてもらわないと困るって言ったでしょ!?」
「あんたが困っても諦めません」

そう言って、伊吹君は立ち上がる。
帰るのかな…。僕は何だか寂しいような気持ちになって、伊吹君を引き留めたくなった。
だけど、引き留める事は出来ない。伊吹君に僕の気持ちが分かってしまう。
それに、美咲の事を考えたら、僕は諦めなくちゃいけないんだから…。

「今日は帰りますね、また来ます」
「…もう来ないで」
「嫌です」
「伊吹君…!」
「お邪魔しました」

何事もなかったかのようにそう告げて、伊吹君は帰っていった。
僕が何を言っても聞いてくれなかった。
諦めて、困るからと何度も言ったのに。好きにして良いからとまで言ったのに。
それでも好きだ、諦めないと伊吹君は言った。
好きだと思った人にこんなにも愛されている事を、僕は不謹慎にも幸せだと感じていた。
そんな彼がやっぱり好きだと思う――それでも美咲の事を考えると…。

美咲の事を思うと、僕は今でも胸が痛くなる。罪悪感でいっぱいになる。
美咲を殺したのは僕だ。だって、僕と結婚しなければ美咲は今もきっと生きていた。
僕が安定した収入を得られる職業についていれば、今も美咲は僕の隣で笑っていたかもしれない。
そう考えたら、やっぱり美咲を殺したのは僕なんだ。

僕は美咲に償うためだけに生きていて、だから伊吹君の気持ちに応える事は出来ない。
どんなに彼に想われていても、どんなに彼が好きでも。
再び涙が込み上げてくる。僕は一人取り残された部屋の中で、声を上げずに泣いた。
伊吹君が触れた所が熱くて、その反面身体が冷えていた。
ぎゅっと自分の身体を両腕で抱き締める。

いっその事、抱いてくれたら良かったのに。
好きにして良いと言ったんだから、伊吹君の好きなように抱いて欲しかった。
そうしたら、僕はこの気持ちに諦めがついた。
最初で最後の、しかも幸せな行為ではないかもしれないけれど、一時でも彼のものになれば、それだけで諦められたのに。
だけど、伊吹君は抱いてくれなかった。伊吹君の言葉は優しいようで残酷だ。
僕は結局捨てきれなかった想いを抱える事になった。

ねえ、伊吹君。本当は僕も好きだよ。
美咲との事がなければ、彼の手を取る事に迷いなんかなかったのに――


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最終更新:2011年12月04日 01:44