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瀬野さんの家を出て、俺は走った。まるで逃げているようだ、と思った。
走って走って、走り続けて、瀬野さんの家が見えないところまで辿り着いた時、振り返る。見えないところまで来てから振り向いたところで何にもならないのに。

まさか、と思った。
まさか自分がこんな事をする人間だったなんて。こんな事が出来るなんて思わなかった。
好きだと思った人を押し倒すなんて…。
勿論東堂に言われて、押し倒した訳じゃない。そういうつもりで瀬野さんに会いに行った訳じゃないけれど。
でも、実際はやってしまった訳で…。瀬野さんにどう思われても、東堂やさゆりさんに責められても仕方がないな…。

それでも、どうしても我慢出来なかった。あの人があまりにも分からず屋で。
俺の気持ちを受け入れられないなら、それは仕方がない事だ。それでも俺は知りたい。
この気持ちにピリオドを打つために、あの人の大切な人がどんな人なのか知りたいだけだ。

俺は少しも間違った事を言っていないと思う。俺が嫌いだとか気持ち悪いと思うなら、俺は納得して諦めないといけないと思うけれど。
あの人の答えは『忘れられない人がいるから』だったんだから。

…ただ、その後にした事は確かに間違っていた。冷静にならなければ、出来ない話もある。
だったら、どうすれば良かった…?どうすればあの人はみさきさんの話をしてくれただろうか。
それはあの人の傷を抉じ開ける事になるんだろう。それはきっと痛い。出来れば傷つけたくないんだけど…。
…いや、傷つけてでも知りたい。どうしても俺はあの人を諦めきれない。好きなんだ…。

俺は俺が思っていた以上に瀬野さんを好きになっている事に気が付いた。自分でも驚くほどに。
それを考えると、学生の頃に付き合っていた女は好きではなかったんだな、と思う。心に残る思い出も、顔さえも今では思い出せないから。

さゆりさんの事は…好きだったけれど、それは本物じゃなかった。諦める事が出来たし、上京するような事にならなければ告白だってしなかった。多分憧れに近いものだったんだろう。
だけど、瀬野さんの事は…。

瀬野さんの事を思うと、今までに芽生えた事がない感情が芽生える。
痛々しい表情をする事が歯痒くて、どうにかしたいのにどうにも出来なくて…。

大切にしたい、守りたい、慰めたい、変えたい、壊したい――そんな矛盾したような感情を抱いてしまう。
多分本物なんだ、この気持ちは。

瀬野さんは今頃、少しは考え、悩んでくれているだろうか。俺の気持ち、俺が犯した過ちの意味を。
考えてくれているなら、意味はあったと思う。あの人の中に俺の痕を残せたなら。
…また会ってくれるだろうか。会いに来てくれるだろうか。
無理矢理でも会いに行くつもりだ…けど。
そうだ、『もう会いたくない』と言われてそうですか、なんて言える気持ちなんかじゃない。
どれだけ拒絶したって、俺は手を伸ばし続ける。あの人に触れられるまで。
そう決めたんだ。



次の日。
今日もきくいちは昼食時を終えると、閑古鳥が鳴いている。それは割といつもの事だが、そろそろ何か考えた方が良いと思う。
まあ、それはひとまず置いておくとして、暇だからこそ東堂とさゆりさんの視線が気になるんだが…。

「…煩いんですけど」
「ま、まだ何にも言ってないよー?ね、漣君」
「うん、まだ何にも言ってねーもん。なー、さゆり」
「視線が煩いって言ってるんです。聞きたいならはっきり聞けば良いじゃないですか」

『まだ』って何だ。つまり聞くんだろう。だったら、さっさと聞いてくれれば良いのに…。
二人が聞きたい事は分かってる、昨日の事だ。
別に隠すつもりはないし…、隠してまた瀬野さんの口から言われてもな…。

「じゃー、聞いちゃおっかなー。どうだったの!?」
「押し倒した?押し倒した?」
「もー漣君はどうしてそういう事ばっかり…」
「…押し倒しましたよ」
「「はああ!?」」

二人の声が重なって、店内に響く。
まあ、予想通りの反応だ。誰もいないからって、店内で大声を上げるのはどうかと思うけど。
さゆりさんはともかく、東堂でさえ俺がそんな事をするとは思ってなかったらしい。
そりゃそうか、東堂の方が付き合いが長い。高校の頃からの俺を見ていれば、そんな事するとは思えないだろう。

「嘘でしょ!?何で!?」
「こーちゃんサイテー。ゴーカンって犯罪じゃね?」
「漣君が変な事ばっかり言うから悪いんでしょー!?」
「俺の所為かよ!あんなの、ただの冗談だろ!だって、まさかこーちゃんがそんな事すると思わねーだろ!?」
「「もー、どうすんの!?」」

…相変わらず息の合ったコンビだな。さゆりさんが上京すればこれも見られなくなるんだな…。
それはともかく。

「未遂です、一応」
「何だー、未遂かよ…」
「未遂なら良いってもんでもないでしょ!?何でそんな事したのよー!男ってやっぱそういう事しか考えてないのー?」
「それだけじゃねーけど、70パーそれじゃね?」
「もうっ、漣君は黙ってて!伊吹君は違うと思ってたのにー!」
「いや、別にそういう事をしようと思ってた訳じゃなくて…」

あの人があまりにも分からず屋で、何とかしてあの人に俺の気持ちを分からせたくて。
どうにかしてあの人の心に入りたくて…。それが痛みになっても憎しみになっても構わなかったんだ。
好きになってもらえなくても、何か残したかったんだ。
未遂で終わらせたけれど、一応目的は達成した…と思う。
むしろ未遂で良かった。これで俺があの人を諦める理由はない。

「じゃあ、何ー?なんか理由があるのー?」
「ありますけど…、言えません」

あの時の瀬野さんの事、みさきさんの事は人には言いたくなかった。瀬野さんの気持ちを考えると言えなかった。
何か事情があると察してくれた二人は、その事にはそれ以上触れてこない。それに少しほっとした。

「で?押し倒して、瀬野さんの反応は?」
「…身体を差し出されました」
「「は!?」」
「『好きにして良いから、それで諦めて』って」
「「はああ!?」」

だから、大声出すなよ…。客は相変わらずいないけれど。
そろそろ二階に自宅で静養してる店長が怒鳴り込んでくるかも…。
でも、確かにそんな反応だよな…。俺だってそうだったよ。
諦めさせるために自分の身体を差し出すなんて。自虐的にもほどがある。
どうしてそんな事を言ったのか、俺は今でも分からないんだけど。

「やっぱり瀬野さん、伊吹君の事が好きなんだね」
「…はい?」
「だってさ、好きでもない相手にそんな事言えると思う?一回だけでもさー。漣君は言える?」
「好きでもない人に?ムリ!とりあえずぶん殴る!」
「だよねー。私だってそんな事されそうになったら、殴って蹴って、泣いて暴れてでも逃げるもん」

…そういうものだろうか。いや、確かにそうかもな。
俺だって好きでもない人と身体を繋げる事なんか出来ない。無理矢理だって何だって、無理なものは無理だ。
でも、あの人は逃げなかった。一度だけ、身体だけは受け入れようとしたんだ。
…やっぱり少しは望みがあるのか。

「漣君、修一さんにそういう事されたらどうする?」
「絶対しねーけど、『好きにしていーよ』って言う。デヘヘ…」
「やらしー想像しなくていーの!ほらね?こういう事よ、やっぱり瀬野さんは伊吹君の事が好きなのよ」
「うん、間違いねーよ?」
「……………」
「難しく考えないで。瀬野さん、過去に何かあったって気が付いてるでしょ?その所為だと思う。伊吹君を好きでも、好きだって言えないの」
「そこんとこ、こーちゃんが変えてかなきゃなんねーんじゃね?」

俺が瀬野さんを変える。本当に出来るんだろうか、そんな事。
でも、少しでも望みがあるなら…。いや、望みなんかあってもなくても、俺は諦めないって決めたんだ。だから。

「伊吹君、絶対諦めちゃ駄目だよ。瀬野さんを変えられるのは多分伊吹君だけだから」
「…諦めるつもりはありません」
「その意気だぜ、こーちゃん!諦めなかったら、きっといつか報われるって!」

二人の言葉に、俺は強く、深く頷いた。
この二人に知られて少し困っていたけれど、こんな風に応援してもらって少なからず救われている。
同性の恋人がいる東堂はともかく、さゆりさんには同性愛に偏見があってもおかしくないのに。
諦めるつもりは毛頭ない。それでも二人に背中を押されて、俺は勇気づけられていた。
とりあえず差し当たっての問題は、次に瀬野さんに会うための口実を作る事だが…。

「…あのさ、『好きにして良い』って言ったのってさ、瀬野っちがとんでもねー淫乱ちゃんだって可能性は、」
「「ない」」

珍しく俺とさゆりさんの声が被って、俺は思わず笑みを浮かべた。


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最終更新:2011年12月04日 01:16