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もう会わない――そう決めたつもりだった。
なのに、きくいちに行かない日々が三日、五日と経っていく内に、僕は伊吹君の事ばかり考えるようになっていた。
僕にはもう関係ない筈なのに。いや、関係ない、関わらないって思わなきゃいけないのに。
だけど、僕は気が付けば伊吹君の事を考えていて、我に返るとやっぱり伊吹君が好きなんだと実感してしまう。
いつものちょっと怖い顔も、時々見せる笑った顔も。
低く物静かな声も、僕をからかう時の楽しげな声も。
掴まれた腕の痛み、抱き締められた時の体温、僕を好きだと言った時の真っ直ぐな眼差しも。
全て鮮明に思い出せる。その度に美咲との思い出が薄れていく。
こんなの駄目だ、僕は美咲を忘れては駄目だ。
僕が美咲の事を忘れたら、美咲が僕のためにしてくれた事、そして僕の所為で命を落とした事が全て無駄になってしまう。
なかった事になんか出来ない、それが真実だから。
伊吹君の所為じゃない、きっかけは伊吹君かもしれないけれど。
僕の心が揺れ動くのは僕が弱い所為だ。
幻想の中で美咲はいつも僕に微笑みをくれる。だけど、温もりは与えてくれない。
温かく満たされたいと僕が願うから、それを与えてくれる伊吹君に心が動くんだ。
強くなりたい――なれない。だから、こんなにも苦しい。
僕はきくいちに行かなくなってから、スーパーのお総菜とかコンビニ弁当ばかり食べるようになっていた。
前もそういう物ばかり食べていたけれど…、何故かあまり美味しいと感じない。
勿論きくいちのラーメンや伊吹君が作ってくれたご飯の方が美味しくて、酷く寂しい気持ちになる。
それでも、きくいちには行けないし、伊吹君にも会わないと決めていたから。
そして、今日もご飯を買いにコンビニに入る。
出版社に行った帰りだから、いつものコンビニとは違う少し家から離れたコンビニだった。
そのコンビニはお弁当やお総菜、デザート類が美味しいとネット上で評判のコンビニ。家の近くにもあると良いのに…。
自動ドアが開いて、明るい店内に入る。
「いらっしゃいませー、あーっ!!」
聞いた事がある声、間延びしたような口調。そして、叫び声に僕は声の主を見た。
そこにいたのは見覚えのある男の子――そうだ、伊吹君の友達の東堂漣君だ。彼が驚いたように、だけど少し嬉しそうな顔で僕を見つめていた。
「瀬野っちじゃん、久しぶりー」
「と、東堂君…」
「家、この辺?見た事ねーけど。最近きくいち来ねーじゃん。毎日来て、きくいちの売り上げに貢献しろっつっただろ」
「うん…、ごめん…」
「やー、謝るほどの事じゃねーけど。で、何買いに来たの?」
「え?お腹が空いたからお弁当を…」
この子と話してる気後れしてしまう。苦手というほどじゃないけど、得意なタイプではないかな…。
伊吹君とは全然違うタイプだけれど、高校時代から付き合いがあるって事は仲が良いんだよね…。
何だか不思議…、違うタイプだからこそ一緒にいるのが楽しいって事なのかなぁ…。
東堂君は僕の顔をじっと見つめて何かを考えているようだった。
「あのさ、これから時間ある?」
「…え?あ、うん、暇だけど」
「俺さ、あと三十分ぐらいでバイト終わりなんだ。あそこで飯、付き合ってくんない?」
「え…」
あそこ、と東堂君が指を指したのは、このコンビニの向かいにあるファミリーレストランだった。
確かステーキがメインのレストランで、この町にも何店舗かあるチェーン店だ。僕の家の近くにはないけれど…。
「どーせべんとー買うつもりだったんだろ?あそこ、結構美味いよ?」
「…うん、別に良いけど…、どうして僕と?」
「だって、家帰っても一人で飯だしさー。あんたもだろ?誰かと食った方が楽しいし、美味いじゃん。それに…」
「それに?」
「話したい事、あっから」
そう言った東堂君は妙に真剣な顔をしていた。
話したい事――伊吹君の事だ。それ以外に彼から話したいなんて言われる節は思い当たらなかった。
僕が伊吹君を避けてきくいちに行かないからだろうか?それとも…、伊吹君から何かを聞いたんだろうか…?
そう思ったら一気に血の気が引いていく。逃げ出したい、と素直に思ってしまった。
「ダメなのー?俺の事嫌いなのー!?」
「い、いや、嫌いじゃないよ。そんな事、全然」
「じゃあ、いーじゃん。決まりね。先に行って待っててよ、後三十分くらいだから」
「う、うん…、分かった」
結局、東堂君は僕に断る隙を与えず、勝手に決めてしまった。
自分勝手と言えばそれまでだけど…。この場合、断る事が出来なかった僕が悪いのかもしれない。
僕は結局、何も買う事なくコンビニを後にした。
それから、向かいのレストランに入った。
お冷やを運んできたウェイトレスにコーヒーだけ注文し、連れが来たらまた注文します、と伝える。
どうして待っているんだろう…、そう思いながら僕は東堂君を待った。
怖い、帰りたい…。向こうが勝手に決めたようなものだ、帰ったって僕はきっと悪くない。
でも、嫌だったなら断れば良かったんだし、そう出来なかったのは僕の悪いところだと思う。
ここは腹を括って、東堂君の『話したい事』を聞くしかない。
それから、長い長い三十分と少し。私服に着替えた東堂君がやってきた。
「おー、ちゃんといるじゃん」
「…え?」
「帰ったかと思った」
「だ、だって、君が…」
「うん、でも帰ったかと思ってた」
「どうして?」
「ただの勘。待ってないような気がしたの」
そう言って、東堂君は何食わぬ顔で僕の向かいに腰を下ろした。
それって…、帰っても良かったって事?…いや、違う。きっと言葉通りだ、彼は僕の心情を読み取って僕が待ってないような気がした、と言ったんだろう。
勘が鋭い子なのかもしれない…。気を付けないと。
「あの、話って…」
「まず食おーぜ、俺腹減った!」
「あ、そうだね…。何にしようかな…」
東堂君に言われて、僕は初めてメニューを開いた。
メニューを見てみれば、割とリーズナブルな値段で安心した。そういえば、お金の事とか全く考えてなかったな。
東堂君はステーキのセットを、僕はハンバーグのセットをウェイトレスに注文した。
「で?最近どうよ?」
「ど、どうって?何の話?」
「いや、仕事の事とかさー。あんた、作家さんなんだろ?ちゃんと仕事してんの?」
「い、いやあまり…。元々そんなに売れてないから…」
「そんなんで食ってけんのかよ、だいじょぶなのー?つか、顔色あんま良くねーけどちゃんと寝てんの?」
「そ、そんなには寝れてないかな…?」
注文した物が来るまでの間、東堂君は普通の世間話を始めた。
あまりにも普通の話題で、僕は戸惑いつつも東堂君の問いかけに答える。
話ってこんな話じゃないよね、きっと…。
やっぱりご飯を食べ終わるまで話を切り出さないつもりなんだろう。
ステーキとハンバーグが運ばれてくると、東堂君は殆ど無言になった。
食べるのに集中しているみたいだ。がつがつとした食べっぷりが微笑ましい。
「…何笑ってんだよー」
「え?いや、良い食べっぷりだなぁって思って」
「腹減ってんのー。瀬野っちもとっとと食え!沢山食わないから顔色も良くねーんだよー」
「は、はい」
東堂君に怒られて、僕はフォークを口に運ぶ。
彼が言った通り、このレストランのハンバーグは結構美味しかった。
だけど、伊吹君が作ってくれたご飯の方がずっと美味しかったな…。
…やっぱりふと伊吹君の事を考えてしまう。諦めないといけないのに。
食べ終わって、皿を下げに来たウェイトレスにコーヒーのおかわりを頼んだ。
コーヒーのおかわりは東堂君が食後に頼んだアイスティーと一緒に運ばれてくる。
ごゆっくりどうぞ、と言われ去って行ったウェイトレスを見送ると、東堂君は僕の顔をじっと見つめてきた。
「で、話だけど」
「うん…」
「分かってると思うけど、こーちゃんの事」
「こーちゃん…」
「あ、伊吹の事ね」
「うん…」
やっぱり…。そうだよね、他に話をするような事なんかない。
伊吹君は彼にどこまで話したんだろう…。
「ごめん、聞いちゃった。こーちゃん、あんたの事好きなんだってね」
「…どこまで聞いたの?」
「こないだ告ってー、押し倒しちまったとこまで?」
うわあ、何でそんな事まで言うんだ。凄く恥ずかしい。
僕は顔を隠すように両手で顔を覆った。頬が熱くなっている、きっと赤くなってるに違いない。
「いーじゃん、別に。未遂だったんだろ?」
「良くない…っ。僕は凄く恥ずかしい…」
「その反応ってさー、あんたこーちゃんの事、やっぱり好きだったりする?」
東堂君の問いかけに、僕ははっと顔を上げる。
そんな事まで知ってるの?それは困る、否定しないと。
「ち、違うよ!そんなんじゃな…っ」
「いや、別にいーじゃん?あんたがこーちゃんを好きでもさ。俺、別にこーちゃんに言ったりしねーよ?」
「そんなんじゃないってば!どうしてそんな事言うの!?」
「でも、事実なんだろ?こーちゃん好きなの…」
「ちが…っ」
「だから俺が言いたいのはー、こーちゃんを好きだけど、付き合う付き合わないは瀬野っちにとって別問題なんでしょって事」
東堂君に図星を指されて、僕は言葉を失った。
そうなんだ、僕は伊吹君が好き。でも、恋人になる事は出来ない。だって、美咲はもういなくても、僕は美咲の事を忘れてはいけないから…。
「あんた、過去に何かあったんだろ?それを聞く気はないけど…」
「……………」
「こーちゃんを好きなら付き合えって強制するつもりもないんだけどー…、言いたいのは一個だけ」
「な、に?」
何を言うつもりなんだろう。僕は内心怯えながら東堂君を見つめた。
すると、東堂君は綺麗に、幸せそうに微笑んだ。
それはいつもの彼から想像出来ないような優しくて、本当に綺麗な微笑みだった。
「人を好きになってね、その人に好きになってもらうのって超幸せなんだよ」
「……………」
「なんかふわふわしてね、あったかいの。すっげ気持ちいーんだよ」
そう言った東堂君は本当に幸せそうで。
きっと彼は今幸せな恋をしてるんだろう。彼の言葉通り、ふわふわして温かくて気持ち良くなるような恋を。
そう思ったら、彼が羨ましくなった。僕はそんな気持ちを味わう事はないんだ――もう二度と。
東堂君と話をして、余計に寂しさが募った。伊吹君に会いたくなった。
彼の言っていた通り、人を好きになってその人に想ってもらうのはきっと幸せなんだろう。
いや、好きだと思った人に『好きだ』と告げるだけできっと…。
何だか泣きたくなった。慰めてくれる人が欲しい、なんて自分勝手な事を思ってしまう。
だから…、レストランを出て家に辿り着いて伊吹君の姿を見つけた時、僕は抑えていた気持ちが溢れ出しそうになったんだ。
「こんばんは」
「……………」
「ごめんなさい、来ちゃいました。きくいちに顔を出さないから皆心配してます」
「……………」
「…嘘です、俺が心配だったんです。会いたかったんです」
「……………」
僕はきっと相当情けない顔をしていたと思う。
だけど、かける言葉も見つける事が出来なくて…。来ないでとか、僕は会いたくなかったなんて嘘をつく事すら出来なくて。
伊吹君は僕の腕を掴んで引き寄せた。力強く抱き締められて、身動きも取れない。…抵抗する力も今の僕は持っていなかった。
「ごめんなさい、どうしても会いたかったんです」
抵抗しない僕の耳元に、伊吹君は静かに声を注ぎ込む。
僕は伊吹君の腕の中で、東堂君の言葉を思い出した。
――人を好きになってね、その人に好きになってもらうのって超幸せなんだよ。
それは望んで手を伸ばせば手に入る事を、本当は僕も知ってるんだ。
最終更新:2012年02月23日 01:17