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その日の瀬野さんは何だか変だった。
俺の顔を見るなり泣きそうに顔を歪めて…、だからなのかもしれない、俺は思わず瀬野さんの身体をきつく抱き締めてしまった。
もう必要以上に触れない、あんな事をしてしまった後だしきっと怖がらせるだけだから――そう心に決めていたのに。
そんな俺に瀬野さんは何も言う事なく、抵抗する事なく俺の腕の中に収まっていた。
何かがおかしい。もっと抵抗したり、帰ってだとか僕は会いたくなかっただとか言われると思っていたのに。

「…瀬野さん?」
「……………」
「抵抗されないとこのまま先に進んじゃいそうなんですけど」
「……………」
「嫌だったら嫌って言って下さいよ」

瀬野さんはやっぱり何も言わない。
それはこのまま先に進んでも良いって事だろうか。…いや、そんな訳ない。
少なくとも雰囲気や相手の態度に流される人ではない。意思が弱そうに見えるけどな。
…何かあったんだろうか?聞きたいけれど、聞いて答えてくれるとは思えないし…。

このまま抵抗されないと、本当に先に進んでしまいそうだ。
もう二度と取り返しのつかない事をする訳にはいかない。そうなる前に、俺は瀬野さんの身体を離した。

「駄目ですよ、そんなんじゃ。俺を拒みたいなら強い意思がないと。流されてとんでもない事されますよ?」
「……………」
「あんた、力なさそうだし…力ずくで、なんて簡単だと思うんで」
「……………」
「今日はこれで帰りますね、顔見たかっただけだし…。皆心配してますから、また店に来て下さいね」

どうしてそんな事を言っているのか、自分でも分からないけれど…。流されてくれれば、それはそれで楽なのに。
そうだよな…、俺は馬鹿かもしれない。だけど…、この人が俺に流されて行為に及んだとしても、俺は嬉しくないと思う。
やっぱり俺が欲しいのはこの人の全てなんだ、身体だけなら手に入らない方が良い。
きっと余計に虚しくなるだけだから。

瀬野さんに背を向ける。名残惜しいと思う気持ちを抑えて。
それが出来る分、今日の俺は理性的だ。
それなのに足を踏み出した途端、俺は足を止めた。何かに引っ張られて。
振り向くと、瀬野さんが俺のTシャツを掴んでいた。震える指先で。
その指先に驚いて、俺は瀬野さんを見た。瀬野さんはぽろぽろと涙を流しながら、俺を見ていた。


暫くの間、俺は瀬野さんと見つめ合っていたと思う。
驚いて声が出なかったんだ、瀬野さんがそんな事するとは思わなくて。
震えるその指先と涙にどんな意味があるのか、分からなくて。
どうして良いのか分からない――だけど、瀬野さんが泣きながら声を上げた時、俺ははっと我に返った。

「…泣かないで」
「………う、」
「…帰らないで欲しい?」
「………っ…」
「あんたがそう望むなら帰りません」

こんな言い方、ずるいだろうか…。
でも、俺はこの人のために今日は帰ろうと思ったんだし、それでもこの人が俺を引き留めようとするなら。
言って欲しかった、行動だけじゃなくて言葉で俺を引き留めて欲しい。
俺はもうとっくに瀬野さんのものなんだ。瀬野さんが自分で求めれば、俺は拒む事なんて出来ない。
それを分かって欲しいんだ、だから、俺を求めて。

俺は泣いている瀬野さんをただ見つめていた。
それからまた沈黙が続いて、やがて瀬野さんは消え入りそうな小さな声で、

「行かない、で」

そう言った。
俺は再び瀬野さんを抱き締めずにはいられなかった。
だって、瀬野さんが俺を求めてくれたのは初めてだったんだ。



それから、瀬野さんは俺を家の中に迎え入れてくれて。
俺達は暫くの間、抱き締め合っていた。
何があったんだろうか、聞きたかったけれど瀬野さんが泣いている内は聞きづらくて、俺は黙って瀬野さんの頭を撫でる。
そういえば、こんな風に頭の撫でられて瀬野さんに怒った事があった。
あの時は腹が立ったな、子供扱いされているようで。だけど今はそんなつもりはないし、あの時の瀬野さんだってそんなつもりはなかったと思う。

暫くして瀬野さんは泣き止んだのを見計らって、俺は話を切り出した。

「…何かあったんですか?」

瀬野さんは何も言わずに首を振った。俯いていたから表情は分からない。
何もないのに、どうして泣くんだ…?

「じゃあ、どうして泣くんですか?」
「…分からない、でも苦しくて…」
「…どうして?」
「……………」
「言ってくれないと分かりません」

瀬野さんはやっと顔を上げて、俺を見た。
その瞳はまだ赤く潤んでいたけれど、俺から視線を逸らさない。
その姿は何かを決意したように見えた。

「伊吹君は…どうして僕を好きだって言うの?」
「理由が欲しいんですか?」
「だって僕は困るって言ってるのに…。どうして好きだって言うの?」
「気持ちに理由なんかないですよ。ただ俺はあんたが好きなんです、あんたが困っても」
「お願いだから…、これ以上僕の中に入ってこないで…。僕を惑わせないで…!僕は一生美咲に償わなきゃ…」
「『償う』?」

俺は思わず瀬野さんの言葉を聞き返した。
償う――それはつまり相手に何かをしたから、それに対してお返しをしなきゃいけないという事だ。
それが『忘れない』って事だとしたら…。そうだ、この人はあの日確かに言った、『忘れられないんじゃない、忘れないんだ』だって。
だとしたら…、みさきさん対して何か罪を犯したんだとしたら…。

「どうして償わなきゃいけないんですか?」
「美咲は…僕の妻だった人だよ」
「……………」
「僕が殺したんだ」

ようやく知る事が出来た瀬野さんの秘密に、俺は目を見開いた。
妻だった――それは何となく分かっていた。
家に仏壇があって、遺影はないけれどそれが家族のものであるのは間違いないだろうし、結婚もしていないのに左手の薬指に指輪をしている。
おそらく妻だった人、そして亡くなってる事までは予想していたけれど…。
瀬野さんが殺した――いや、まさか言葉通りじゃないだろう、そんな事をする人じゃない。
だけど、この人はそう思っている。『自分が殺した』と。

それから、瀬野さんはぽつりぽつりと小さな声で、みさきさんの事を話してくれた。
大学のサークルでみさきさんに恋をした事、告白して付き合うようになって半年で学生結婚をした事、生活は苦しかったけれど幸せだった事…。
作家になっても生活は苦しく、みさきさんをパートの仕事を増やす事になった。

「その時はまだ知らなかったんだ、美咲が心臓を患っていた事…」

みさきさんはおそらく瀬野さんにわざと言わなかったんだ。言ったら引き離される、苦労をしても離れたくないと思ったんだろう。
そして、みさきさんは無理が祟って倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

「僕が作家なんて夢を捨てていれば、美咲に苦労をかける事はなかった。無理をしなければ、美咲は今も僕の隣で笑っていたかもしれない」

それはそうかもしれない。だけど…、きっとみさきさんは…。

「美咲は死ぬ間際に言ったよ、『幸せだった』って。でもそんな筈ない、苦労して倒れて…、幸せだった筈ないんだ」
「いや、それは…」
「幸せにするって約束したのに…、僕が美咲を殺したんだ…!作家なんて辞めてしまえば良かったのに!」
「瀬野さん!」

俺は瀬野さんの言葉を遮るように、瀬野さんの名を叫んだ。
そんな俺に瀬野さんは驚いたような顔して、それから顔を歪める。
俺が自分を責めると思っているんだろうか?
責めたい訳じゃない、ただ救ってあげたいと思った。そのためにはどんな言葉をかければ良いだろう?
俺がみさきさんと同じ立場だったらどうだろう?俺が生まれつき身体が弱かったら…。それでもこの人を好きだったら。

「みさきさんは…多分幸せだったと思います、僅かな間だけでもあんたの傍にいれて」
「どうして…、そんな事」
「病気の事をあんたに言わなかった気持ちも分かります。病気だって知れば、あんたは実家に帰して静養させるなり、入院させるなりしたでしょう?それか、作家になる事を諦めていたかもしれない」
「そうだよ…。作家になる事が美咲の命より大切だとは思えない。知っていたら、美咲を楽にさせてあげる事は出来たんだ」
「だから、みさきさんは言わなかったんです。あんたの夢を叶えるために、そのためだけに生きた。俺はそれが間違っているとは思いません」
「どうして…っ、僕はそんな事望んでないのに…!」
「あんたの事が好きだからですよ。そして、あんたの書く小説が好きだったんだ。きっと誰よりも楽しみにしてたんですね」

多分間違っていない。みさきさんの気持ちはこんなところだろう。
会った事もない人だけど、俺は誰よりも分かり合えそうな気がした。
俺は瀬野さんの小説を読んだ事がないから、憶測も含まれているけれど。

「そんな事…伊吹君に分かる訳…」
「分かります、俺がみさきさんの立場だったら、きっと同じ事をしたと思います」

しっかりと瀬野さんの目を見てそう言うと、瀬野さんははっと目を見開いた。
瀬野さんが何に驚いたのかは分からないけれど。
これだけは断言出来る。

「あんたはみさきさんを殺してなんかいません」

そう、殺してなんかいない。
みさきさんが選んだんだ、瀬野さんといる事を。
例え命を落とす事になっても、離れない事を。


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最終更新:2011年12月04日 01:19