1960年代のヤシカ
50年代後半まで2眼レフ機をメインに製造販売していたヤシカは、1959年のニッカ(日本カメラ)買収に伴い同社の35mmカメラ技術を吸収し、35mm
レンジファインダー機及び一眼レフ機にも進出を開始した。しかしながら、同時期にSR-3/SR-1を販売して一眼レフメーカーとしての地位を確立したミノルタに対し、ヤシカ製一眼レフであるペンタマチック及びJシリーズは商業的成功に至らなかった。
35mmカメラの花形となりつつあった一眼レフ市場において大きな成功こそ収められなかったヤシカだが、それ以外のジャンルでは独創的な機種を次々と発売して注目を集める事となる。
- ハーフ判モータードライブカメラ「セクエル」 (後の京セラ・サムライの母体とされる)
- ストラップを引いて素早く撮影準備できる「ラピード」
- LV値に基き、素早いマニュアル設定が可能な遊星ギア機構を搭載した「ミニスター」
- フラッシュ閃光電球をカメラ本体に直接装填できる「フラッシュオーセット」
一流メーカーとの評価こそ得られなかったものの、持ち前のコストパフォーマンスの高さと独創性が幸いし、ユニークな機種のみならず堅実な高性能機・普及機も多数発売しており、カメラ市場においてもある程度の存在感を示していた。
そんなヤシカの転機となったのが、累計500万台を売ったとされる
エレクトロ35の大ヒットである。
エレクトロ35の優れた電子技術は「電子技術のヤシカ」との評価を欲しいままにし、当時既にヤシカの子会社となっていた富岡光学製レンズ「ヤシノン」の写りも更なる好評を呼んだ。
やがて、ヤシカへの高い評価はカールツァイスとの業務提携へと繋がり、ヤシカ・カールツァイス・ポルシェデザインの3社共同による「コンタックス」復活という誇るべき成果を生む事となるのである。
しかしながら、ヤシカという企業は良くも悪くも「豪快さ」が企業カラーを左右していたともいえる存在であった。貪欲に斬新なメカや発想を取り入れ、早い時期から輸出にも力を入れ、社長自ら派手なパフォーマンスで新製品を売り込む等の「良い豪快さ」が数々の伝説を生んだ一方で、金銭的信用問題の続発、経営者の親族による麻薬事件、運営方針の誤り、新規事業(テレビ事業)参入失敗など、その「豪快さ」が裏目に出たと思われる不祥事や経営ミスによって、75年にヤシカが経営破綻したのもまた・・・残念ながら事実なのだ。
とはいえ、60年代の「黄金期」ヤシカの製品が大変魅力的な事には変わりない。
ヤシカの豪快さとチャレンジ精神なくして「傑作」エレクトロ35誕生はなかったであろう。
最終更新:2009年11月30日 03:16