※注意事項 元号表記は西暦を補足するが、月日は旧暦のまま。
※注意事項 生年について直接の資料は無いが(没年-死亡年齢+1(数え年の調整))で算出した。
※注意事項 出典は幕府史料>藩史料>地域史料>その他の順で優先する。
※注意事項 兄弟、子息など、改名などで判らず重複する可能性はある。
※注意事項 現代語訳の間違い誤記等の存在は否定できない。



二階堂行秋(にかいどう ゆきあき)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】二階堂因幡守(寛永諸家系図伝
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】従五位下因幡守(石ヶ谷家家系図
【役職】
【属性】
【実父】?二階堂下総守光貞(続群書類従)、?二階堂左衛門尉行朝(石ヶ谷家家系図
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】二階堂行晴の母(寛永諸家系図伝)、二階堂貞宗(頓阿)、二階堂行秋、二階堂行豊(続群書類従
【子息】
【養子】二階堂行晴(寛永諸家系図伝
【法名】行欽(寛永諸家系図伝
【略歴】
【備考】
続群書類従』に記載される二階堂下総守光貞(二階堂貞宗(頓阿)の父)の子の二階堂因幡守行秋は法名を行欽とする。泉田氏の家祖である二階堂貞宗の嫡男二階堂因幡守行秋(法名道欽)は、応永元年(1394年)に没したとされる。『石ヶ谷家家系図』では二階堂左衛門尉行朝(二階堂筑前守行兼の子)が二階堂因幡守行秋の父とされている。この二階堂行秋が遠江国に居たとは特に記載されていない。行秋以前を考察するに当たっては、記録される官位・法名が同じである『続群書類従』に拠るのが無難であろうか。ただ、『石ヶ谷家家系図』にある二階堂左衛門尉行朝の後裔というのも、二階堂行朝が陸奥国に進出している事を勘案し、且つ二階堂氏家臣団に遠江出身の家臣が散見される事を考慮すると、信憑性が無いというわけでもない。いずれにしても二階堂氏の系譜は多数存在し、混乱も多く不明瞭である。(図書助論考)



二階堂行晴(にかいどう ゆきはる)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】右馬允(寛永諸家系図伝
【生年】応永25年(1418年)(逆算)
【没年】文明16年(1484年)(寛永諸家系図伝
【寿命】67歳(寛永諸家系図伝
【知行】
【官位】従五位下右馬介(石ヶ谷家家系図
【役職】
【属性】
【実父】西郷民部少輔(寛永諸家系図伝
【実母】二階堂行秋の妹(寛永諸家系図伝
【義父】二階堂行秋(寛永諸家系図伝
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】西郷行清、二階堂行捷(寛永諸家系図伝
【養子】
【法名】宗印(寛永諸家系図伝
【略歴】
遠江国西郷荘の住人西郷民部少輔の二男であったが、母である二階堂行秋の妹が二階堂行晴を産んだ後に死亡したので、二階堂行秋が養子として家督を継がせた。(寛永諸家系図伝
【備考】
絶対にありえないというわけでもないが、『続群書類従』の二階堂行秋とこの二階堂行秋が同一人物だとすると、二階堂行晴の母は二階堂行秋の妹というよりも、年代的には娘の方が合う。母親の父親が記録されておらず、兄とされる二階堂行秋のみが記録されているのも聊か不自然。(図書助論考)



西郷行清(さいごう ゆききよ)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】太郎大夫(新訂寛政重修諸家譜)、民部少輔(寛永諸家系図伝)、西郷太郎太夫行清(袖師町誌
【生年】文安3年(1446年)(逆算)
【没年】永正元年9月13日(1504年)(寛永諸家系図伝
【寿命】59歳(寛永諸家系図伝
【知行】1600貫(袖師町誌)、遠江国佐野郡石谷西郷五明1006貫。城附近に都合3万石領有。(石ヶ谷家家系図
【官位】朝散太夫(従五位下?)(石ヶ谷家家系図
【役職】
【属性】
【実父】二階堂行晴(寛永諸家系図伝
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】西郷行清、二階堂行捷(寛永諸家系図伝
【子息】二階堂清長(寛永諸家系図伝)、石田左衛門尉行俊(石田家資料)
【養子】
【法名】三休(寛永諸家系図伝
【略歴】
二階堂氏を改め、西郷氏を称する。(寛永諸家系図伝
祖父の西郷民部少輔と同じ民部少輔を称する。(寛永諸家系図伝
【備考】
上西郷村は掛川城の北部にあり、1677石9斗2升の石高である。(遠江国風土記伝
※『(石ヶ谷家家系図)』に記載の所領3万石というのは信憑性に乏しい。しかしながら、遠江国佐野郡西郷は西郷荘が置かれる比較的肥沃な土地であり、寛政11年(1799年)頃に記録された『遠江国風土記伝』にあるように、石谷氏の史跡が残る上西郷村だけでも1677石9斗2升の石高があるので、石谷、西郷、五明の所領を合わせると、1006貫、1600貫、3千石(桁間違いで)と言うのであれば、あり得ないとは言えない。(図書助論考)



二階堂清長(にかいどう きよなが)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】左馬助 (寛永諸家系図伝)、行長、左馬介(石ヶ谷家家系図
【生年】文明5年(1473年)(逆算)
【没年】天文2年2月9日(1533年)(寛永諸家系図伝
【寿命】61歳(寛永諸家系図伝
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】
【実父】西郷行清(寛永諸家系図伝
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】石田左衛門尉行俊(石田家資料)
【子息】石谷政清(寛永諸家系図伝
【養子】
【法名】宗月(寛永諸家系図伝
【略歴】
遠江国佐野郡西郷庄石谷村に生まれる。(寛永諸家系図伝
祖父の二階堂行晴に養育され、元服の際に太刀を譲り与えられて二階堂氏を称した。(寛永諸家系図伝
神石9つを以って家紋とした。(石ヶ谷家家系図
【備考】



石谷政清(いしがや まさきよ)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】十郎右衛門尉(寛永諸家系図伝)、十郎右衛門(干城録)、石谷重郎左衛門政清(新編武蔵風土記稿)、石ヶ谷十郎左衛門政清(袖師町誌)、石谷十郎左衛門尉(石ヶ谷家家系図)、西郷政清(看板
【生年】文亀3年(1503年)(逆算)
【没年】天正2年4月15日(1574年)(新訂寛政重修諸家譜
【寿命】72歳(新訂寛政重修諸家譜
【知行】
【官位】
【役職】西郷十八士の長(干城録
【属性】今川家家臣、徳川家家臣(新訂寛政重修諸家譜
【実父】二階堂清長(寛永諸家系図伝
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】
【子息】入澤行重、呑説、石谷政信、石谷清定、桑原與三右衛門の妻、石谷清重、乗松彌次右衛門の妻、井伊掃部頭家臣小野田小一郎の妻、桑原政重(新訂寛政重修諸家譜)、高天神城城主小笠原与八郎の妻(石ヶ谷家家系図
【養子】
【法名】龍月道隆(寛永諸家系図伝)、和光院殿盛山道隆居士(霊栄大明神社?)(掛川市誌
【略歴】
遠江国佐野郡西郷庄石谷村に生まれる。(寛永諸家系図伝
遠江国佐野郡西郷庄石谷村に居住しており、石谷村の西南方向に大岩があり、その側に八幡の廟があり、石谷政清はこれを崇めて、二階堂氏から石谷氏に改姓した。(寛永諸家系図伝
今川義元の勢力拡大に伴い、その勢力下に入り、西郷十八士の長となった。(干城録
今川氏真に仕えた。(干城録
永禄12年1月26日(1569年)、徳川家康より遠江国飛鳥内一色名の采地を安堵する御黒印を与えられた。(新訂寛政重修諸家譜
元亀2年3月10日(1571年)、嫡男の石谷政信と二男の石谷清定を伴い、徳川家康に召されて仕えた。(寛永諸家系図伝
西郷局の呼称に憚り、石谷を家号とした。(干城録
【備考】
若宮八幡宮との記載がある。(石ヶ谷家家系図
侍中由緒帳』から推測すると、小野田小一郎とは小野田為盛と考えられる。(図書助論考)



入澤行重(いりさわ ゆきしげ)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】五右衛門(新訂寛政重修諸家譜)、入沢五右ェ門清宗(石ヶ谷家家系図
【生年】
【没年】
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】武田家家臣(新訂寛政重修諸家譜
【実父】石谷政清(新訂寛政重修諸家譜
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】入澤行重、呑説、石谷政信、石谷清定、桑原與三右衛門の妻、石谷清重、乗松彌次右衛門の妻、井伊掃部頭家臣小野田小一郎の妻、桑原政重(新訂寛政重修諸家譜)、高天神城城主小笠原与八郎の妻(石ヶ谷家家系図
【子息】
【養子】
【法名】
【略歴】
入澤を称し、武田家に仕えたという。(新訂寛政重修諸家譜
【備考】



呑説(どむせつ)(新訂寛政重修諸家譜

【呼称】孤峯呑雪(新編武蔵国風土記稿)、種松(出典不明)
【生年】
【没年】文禄3年7月3日(1594年)(新編武蔵国風土記稿
【寿命】
【知行】
【官位】
【役職】
【属性】太平山天釣院龍淵寺、十二世の住職(新訂寛政重修諸家譜
【実父】石谷政清(新訂寛政重修諸家譜
【実母】
【義父】
【妻室】
【後妻】
【兄弟】入澤行重、呑説、石谷政信、石谷清定、桑原與三右衛門の妻、石谷清重、乗松彌次右衛門の妻、井伊掃部頭家臣小野田小一郎の妻、桑原政重(新訂寛政重修諸家譜)、高天神城城主小笠原与八郎の妻(石ヶ谷家家系図)
【子息】
【養子】
【法名】呑説(新訂寛政重修諸家譜)、呑雪(新編武蔵国風土記稿
【略歴】
西郷氏を称しており、徳川家康が三河にいた際に御乎習の相手を勤めたという。(新編武蔵国風土記稿
出家して武蔵国成田龍淵寺の住職となった。 (新訂寛政重修諸家譜
天正18年(1590年)、石田三成率いる軍勢が忍城を攻めた際、龍淵寺の僧は一人も篭城に加勢しなかった為、忍城城代成田泰季が三河国出身である住職呑雪の内通を疑ったが、呑雪は、武術は巧みではなく兵糧を減らすだけで役に立たない、敵味方問わずに死者を弔うのが僧侶の務めである、と拒否し、その回答に成田泰季は納得して疑惑を晴らしたという。(龍淵寺だより第34号
天正18年(1590年)、忍城攻めの際に浅野長政と大谷吉継が呑雪が高徳な僧であるとの噂を聞いたという。大谷吉継の兵が龍淵寺へ強盗に入った際に、呑雪らしき僧が悠然と現れ、欲しいものがあればなんでも持っていきなさいと心地良さそうに言ったため、兵達は何も取らずに帰ったという。これを聞いた浅野長政が徳川家康にこの件を報告したところ、徳川家康より御朱印が下されたが、呑雪は成田氏菩提寺の住職としては敵から御朱印を賜るわけにはいかないと拒否したため、徳川家康の使者は兵達の乱暴狼藉を防ぐためのものであり、新領地の安堵状では無いと言い換えた為、呑雪は御朱印を受け取り、結果龍淵寺が戦禍を受ける事は無かったという。(龍淵寺だより第35号
天正19年(1591年)、徳川家康が狩りの際に太平山天釣院龍淵寺に立ち寄った際に、古馴染みである住職呑雪と再会し、寺の名前の縁起が良い事を合わせて、曹洞宗一派の総録を許すと言われたが、呑雪は総録の職になると仏道に支障があると辞去した。徳川家康は代わりに100石の寺領を許す御朱印を与えたという。(新編武蔵国風土記稿
碧雲山梅岩院を開山し創建した。(新編武蔵国風土記稿
【備考】



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最終更新:2022年11月12日 19:42