同一性イデア

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同一性イデア


「お前は誰だ?」
 お互いの存在しかない空間でラヴに語りかけるのは、決して目をそらすことなくただ口角を釣りあげているだけの黒い影。単なるアバターに過ぎない、データの輪郭しか見えない、けれど確実にソレは、気色悪い笑みを浮かべているーーラヴと目が合っている。
 いつもの通りに、帰ってくるかも分からない鳳龍の帰りを待っていたラヴのもとに現れたこの影。次の瞬間には、ラヴは外見をそのままに、「中身」だけが小さくなっていくような感覚に陥った。視覚が、聴覚が、嗅覚が、全身の肌の触覚が、同じ縮尺で同時に遠ざかっていく、内側に縮んでいく、そんな感覚。影に何かされたのだと思った。闇に落ち、閉じ込められたのだと気づいた。一瞬だけ身体のチャンネルが戻って、荒れた暗い部屋で、テレビに照らされた、目を見開いた鳳龍の顔があって、「助けて」と叫んだのもつかの間、またこの闇に引きずり込まれた。
 それから長い時間がたった気がする。自身とは違う別の「存在」が現れて、軽々しい挨拶とともに「ブランカ」と名乗った。聞いたことある、全ての元凶、黒幕と名高い男。こんなに真っ黒な影なのに、名前が「白」だなんて変だとラヴは思った。その流れで「お前は誰だ」と聞かれたのなら。
「……ラヴ」
「ああ、そう。うん、いや、そうじゃなくて」
 そしてカラカラと笑う。ラヴは実に奇妙な心境だった。会話が成立していないのではないかとすら思った。ひとしきり笑って、なおヒクつくような笑いを引きずりながらブランカは言う。
「名前は知ってるんだ、ラヴ。いや、名前以外もよく知ってるーーまあついこの間までは存在すら知らなかったんだけどな」
 そうしてブランカは、ラヴとは誰なのか、ありったけの情報を陳列し始めた。名付け親は自分自身、空っぽの全く新しいØ(ラヴ)の存在というのが由来、鳳龍のN◎VA拠点に居候して、たまに帰ってくる鳳龍の身の回りの世話を買ってでて、彼がいないほとんどの時間はN◎VAでの福祉・人権活動家の手伝いをしている等々、ラヴが知っているラヴについてのことを事細かに、余すことなく。そして、ラヴが知らない、ラヴについてのことにも話が及んだ。
「そう、お前には、前身がある。鳳龍がお前に最低限の、この街で生きるための知識をそこそこの時間をかけて教えたのは、お前の前身に対する責任感があったからだ、そうに違いない」
「……知ってる」
 それは、知っている。前身がいること、鳳龍とは長い仲だったこと、彼の仕事を何度も手伝っていた相棒だったこと、そんな中で事故に遭って死んだこと、その残骸ーー生まれ変わりがラヴであること。
 ーーその名前を「紫音」ということ。
「Xionーー、そう紫音。俺は紫音の方とはそこそこの付き合いだった。いや何、随分と便利そうな『道具』だったもんだからな」
 そこから先は、知らない。天上にいた不死の化け物、普通の人間と恋に落ちて生まれた、普通の人間の子供。それを永遠の存在とするために、電脳化する施しをしたーーそれが紫音。元人間のマキノイド。
「いや、俺も元はその『化け物』の方が興味あったんだ。ちょっとした同族意識っていうのかな。あと絶世の美女だったらしい」
 紫音を下界へ堕天させた張本人であるブランカは、紫音を餌にその化け物を釣り出すつもりだったらしい。それにしたって、同族意識などと。
 ーーまるで自分も不死身だと、言うかのように。
「死なないってのは、どういうことだろうな。終わりのないものがあったとして、じゃあそれは何故始まったんだ? なあ、『道具』も似たようなもんだろ。考えたことはないか?」
「ーー私は、道具じゃない」
「一度、他の奴の見解を聞いてみたかったんだ。死なないっていうのは、どんな気分だ?」
 ブランカは流れを読まない。空気を読まない。ラヴがなんと答えよが、あるいは答えまいが、まるで台本を読み上げるように、小説の地の文のように、ただ一方的に話をする。なのに通い合う、視線。どうしようもなく不安で、不安定なコミュニケーション。そんな妙な焦燥感を払拭したくて、ラヴは答えてしまう。
「マキナだって、死なないわけじゃないでしょ。実際に私の前身、紫音はーー」
 死んだ。「殻」の外に飛び出して、バラバラの散り散りになった。
「そうそう、『道具』だって壊れる」
 ブランカはようやく、スラヴから文脈を受け取る。否、これはブランカの文脈だ。これでは、ラララ縺ヴも台本の役割通りではないか。
「つまりは、そういう死も含めるのなら、死ぬって言うのはバラバラになるってことなんじゃないか? 真っ当な人間は生きながら少しずつバラバラになっていくーー新陳代謝? テセウスの船ってしってるか?」
「ーーもうこんな意味の無い話、続けてられない。私をここから、出しなさいよ」
 rrァvヴは今度は明確な拒絶を試みた。様子を見るのはもうやめだ、いつまでもこの影の話に付き合う義理も価値もない。果たしてブランカは、ついにラ��から目を逸らした。俯きながら、ブツブツと不貞腐れたように呟く。「こういう話を気兼ねなく聞いてくれる女は後にも先にもアイツぐらいだったなぁ……」
 あまりにも唐突な人間らしさに逆に面食らってしまうラ��だった。捉えどころが無さすぎるのは、まさに影そのものといったふうだった。そして斜め上の方を仰ぎながら、
「オーライ、話を戻そう。お前は誰だ?」
などと。ラ��は呆れてしまった。「そうじゃなくて、私を早くここからーー」
「だからその話だよ、ラ��。お前は何者だと訊いてるんだ」
 再び、目が合う。そして離さない。繝ゥ繝エの顔全体をぼんやり見るとか、おでこや胸元の方とか、そういった細かな揺らぎすらない。常に視線が繋がっている、通いあっている。
「お前は��イ繝、それに違いはない。なら同じように、紫音も紫音だった。そうだよな?」
「だから、そういう話ーー」
「で、紫音はどこに行ったんだ?」
 バラバラの、散り散りに。
 死んだ。
「バラバラになった、そのどれが紫音だったんだ?」
 どれでもない。バラバラになったデータ、それら一つだけでは紫音だとは言えない。
 ーーひとつだけある、バラバラになっていないもの、もしかしたら紫音と呼ばれるかもしれないもの。
「そう、この『殻』だ。邏ォ髻ウ、君の外見。不死身の化け物が作った人格圧縮技術『アイデンティティ』」
「違う」
 違う、絶対違う。だってそうだとすると。今その殻に収まっているs邏ォンは、紫音だってことになってしまう。
「私は紫音じゃない。私はlovヴviオnだから、違う」
「……そうか」
 なら見つけてみろよ、とブランカは最後にsイオnnを睨みつけて、さっと背を向けた。「これがあるから、自分は紫音だって言いきれる何かを、な。時間切れーーというかもう十分だな。時期にここから解放されるよ。じゃあ、またな」
 影が、ゆらりゆらりと消えていく。歩いて、遠くへ行くようだった。そしてブランカの言う通り、影が消えていくにつれて外の世界の感覚が戻っていくのが分かった。
 自分を自分と言いきれる、アイデンティティ。前身の面影を自分に重ねる鳳龍。なかなか帰ってこないとか、連絡のひとつもないとか、そういうことにいちいちイライラしていたけれど、鳳龍のどこか自分を他ならない自分だと見てくれていないようなところが、引っかかっていたのかもしれない。
 言われるまでもない、自分の中の、自分を自分たらしめる要素がある。それを認めてもらって、前身と完全に決別してみせる。
 眠りから覚めているような感覚のなかで、その決意だけは忘れられない夢のように、紫音の奥底に残っていた。

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