端島大和市史

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 端島大和市史では、端島大和市の歴史を詳説する。
 端島の歴史は、一般に下表の6つの時期に分けて説明される。

 現在執筆中につき、記述が不足していたり流動的であることがあります。

時期 年代
出航 洋暦前10年頃
官僚制期 洋暦前10~3年頃
紛争期 洋暦前3~洋暦元年
民政期 洋暦元年~13年
内紛期 洋暦13~15年
海軍政期 洋暦15~現在[洋暦55年]

出航(洋暦前10年頃)

 日本は急速に進行する『大洪水』の影響を深刻に被っていた。かつての大都市は皆海面に沈み、山間部などの僅かな地域に大量の避難民が押し寄せ、社会は完全に機能不全へと陥っていた。居住区域の急激な減少やインフラの壊滅、そして治安の崩壊により多くの命が失われていく中、日本国富士臨時政府は大和級複合都市要塞艦一番艦・端島の出航を宣言、国内各地から生存者を乗せて旅立った。
 この時期の端島はまだ建造が完了しておらず、現在の横須賀区と呉区の一部のみが存在する状態で、甲板上も仮設住宅が殺風景に並ぶのみという状態だった。

官僚制期(洋暦前10~3年頃)

 出航当初の端島は内閣府の出先機関である端島開発庁のエリート官僚による合議を通じて意思決定が行われる、文字通りのビューロクラシーがとられていた。これは艦の拡張と都市開発を一刻も早く推進しなければならない事情によるものとされ、一種の開発独裁の形態と解釈することができる。
 官僚主導のもと、石楠造船などの企業が開発を進め、効率的な物資の配給も行われていたが、国際的な紛争に巻き込まれていくなかで徐々に彼らの実権は弱まっていった。


紛争期(洋暦前3~洋暦元年)

 詳細は大洋戦争も参照。

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 『大洋戦争』『第三次大戦』とも呼ばれたこの国際紛争は、後の世界秩序の形成に大きな影響を与えた。
 きっかけとなったのは、大イランの成立だった。混迷する中東情勢の中、端島の出航とほぼ時を同じくして、アブー・バクル・イヴン・アブドゥッラーと名乗るスンナ派ムスリムの一団がイスラーム原理主義勢力アルカマル(月光団と訳されることもある)と結合して台頭し、カリフ(イスラーム指導者)への即位と大イラン゠イスラーム帝国の建国を宣言。無政府状態に近かった中東各地を武力で制圧し実効支配を広げていった。アブー・バクルはシャリーア(イスラーム法)の厳格な運用を唱え、非ムスリムへの弾圧が厳しく行われていた。
 アルプス連合北アメリカ合衆国など諸外国は取り残された自国民の解放と国境封鎖の解除を再三にわたり要請したが大イランはこれに応じず。二国は『人道上の重大な危機』を題目に大イランと開戦。
 更に隣国・西蔵民主共和国の新喀省(旧アフガニスタン域)でもアルカマルに呼応したイスラーム過激派が蜂起。西蔵建国の父・王蔣文総裁の暗殺に端を発する内戦から、大イランの暗殺幇助の認定を経てこちらも参戦。
 阿米西三国が物量でこそ上回るものの、不安定な情勢ゆえ兵力の練度では大イランに劣り、互いに決定力に欠ける中で戦闘は泥沼化の様相を呈していた。その混迷の隙を縫うように各国から海賊(私掠船)が多発し、各地の港湾や漁船・商船が被害を受けた。それは端島も例外ではなく、幾度となく海賊の襲撃を受け、自衛隊による排除行動を行ってきた。逆に端島でも住吉水軍などの海賊が他国を襲撃する事例も少なくなかったことに留意する必要がある。
 その中で海賊の存在を公に認定せず、端島が民間船を一方的に攻撃したとする声明のもと報復を受ける事例が発生。端島は専守防衛に努めたものの被害は少なくなく、この時期は開発もほとんど停滞していた。また、自衛隊や現行臨時政府の弱腰な対応への不満や配給の停滞などから、世論は徐々に不信感を募らせていく。各地で私兵集団が組織されはじめたのもこの頃で、後の海軍政府成立の遠因ともなった。本来であれば私兵組織は厳しく取り締まられるべきところ、警察力の低下や防衛力としての実際的な貢献などからほぼ黙認されるような状態であった。

民政期(洋暦元年~13年)

民主政権樹立まで
 膠着状態に陥っていた大洋戦争は、旧大国に代わって存在感を発揮し始めたカラーリット共和国(旧グリーンランド)の介入により一応の終結を見る。同国首都ヌタラク・ヌークで発効されたヌーク和平条約を端島大和市を含む8ヵ国・地域が批准。共同安全保障の枠組みとして大洋聯盟の設立と加盟、在外邦人の解放、戦争によって得た領土支配権の放棄とそれに伴う各国の領土画定、海賊行為の禁止と各国共同の取り締まりなどが規定された。また、新時代の到来と世界の結束を記念し、洋暦(Oceanic Era)へと改暦された。
 終戦に伴い、端島ではリベラルな勢力が中心となり民主政治への移行を求める運動が本格化。私兵組織を抱きこみ、疲弊した自衛隊を放逐する形で権力を奪取し、普通選挙による指導者と議会の公選が行われた。その結果、初代市長として端島民主党代表の菊川瑞樹が選出された。
菊川政権
 政権の滑り出しは順調だった。何しろ海面上昇の被害を被った旧日本の選挙制度は事実上崩壊し、端島出航からのこの約十年も官僚による直接統治が続いており、民主政治への市民の渇望は頂点に達していたのだ。この気運の高まりに加え、選挙区が狭く政党へ過度に依存することなく選挙活動が可能だったこと、初回の選挙に限り供託金制度を導入しなかったために立候補への障壁がほぼなかったこと、それに雇用が安定しておらず、就職活動の一環として立候補する者も少なくなかったことなどから立候補者数・投票率ともに過去最高クラスを記録した。
 また、選挙結果としても民主党の圧勝であった。旧日本の既存政党は軒並み基盤を失っており、民主党を除いてはほとんど政治結社としての体を成すものはなかったためである。時流を最大限に生かした結果、民主党とそれに近しい政党・議員で圧倒的多数を確保することに成功した。
 菊川政権では旧日本から独立した一つの『国』として端島が機能していくよう様々な制度設計が試みられた。その軸となったものが開発基本法である。旧日本の日本国憲法に代わる最高法規として制定されたもので、憲法の基本理念である人権擁護・平和主義を踏襲しつつ時代背景に適合した形に改められている。
 他にも、未だ建造の完了しない端島の開発を急ピッチで進めるとともに、市内の雇用確保を目的とした都市開発ニューディールと呼ばれる一連の公共事業の立ち上げも目玉政策の一つに挙げられる。
 盤石な基盤を作り上げたかに見えた菊川政権だったが、次第に綻びが見え始める。
 その発端となったのが民主党の保革分裂である。前述の通り、第一回端島大和市市議会選挙・市長選挙の時点では民主党が事実上唯一の政党であったため、菊川に比較的近しいリベラルはもとより彼と全く信条の異なる保守派も包摂していた。ゆえに結党以来左右の意見対立が続いていた。菊川はその点のバランス感覚に優れた人間であり、意見の折衝に努めてきたが派閥間の争いは激化する一方となる。
 また、政治経験に乏しい者が多く立候補することとなったことが裏目に出る部分も目立った。議会運営にほぼ関与することなく碌な政務活動もしないまま遊びに耽る者、議員という立場を悪用し不当な利益を得る者など政治家としての自覚や資質に欠ける者が相次いでメディアを通して糾弾された。結果として、最大勢力である民主党が批判の矢面に立たされる場面も増え、民主党の支持率低下や政治そのものへの不信感に繋がっていった。
 洋暦3年、第二回選挙を前にして高橋銀次を筆頭とする保守派閥が民主党を離党し、保守政党である政友会が結党された。これにより民主党は議会における安定多数を喪失し、党内での折衝という歯止めを失った左右両派閥の先鋭化を招いた。以前は事前の根回しを元に粛々と進められていた議会も激しく紛糾するようになり、尚も過半数を維持する民主党による強行採決も目立つようになる。
金城政権
 洋暦4年に行われた第二回市議会市長選では、所属議員の相次ぐ不祥事や保革分裂による政治の停滞の責任を取る形で菊川は不出馬を表明。副代表の金城雅英が新代表として選挙に臨むこととなった。選挙の争点としては『菊川政権の4年間に対する評価』『日本国からの完全独立の是非』『国防政策の方針』などが挙げられた。
 リベラル色の強い民主党は、端島の行き先を決めることができるのは端島の住民だけだとして、日本から完全なる独立を勝ち取る端島共和国構想を軸に、貿易による経済成長と非武装・平和主義の徹底によって新時代の国際社会の舵取りを担うことを訴えた。対する保守派の政友会は日本からの独立には消極的であり、端島の高度な地方自治の維持は大原則であるとしつつも民主党政権樹立以降悪化しつつある日本との関係の修復と協力体制の構築を呼びかけるとともに、未だ不安定な世界情勢に鑑み本格的な軍備の推進を訴えた。この他、四年の準備期間の中で結党された様々な政党が候補者を擁立した。
 選挙の結果、議員定数80に対し端島民主党が34議席、政友会が25議席、新政党である端島共産党が8議席、はしま平和の会が4議席、その他政党及び無所属が9議席を獲得することとなった。また、市長選では僅差で金城が当選という結果になった。既存政党への不信感が新政党への追い風にもなり、投票率自体大きく下落した上民主党は初の過半数割れを喫するなど、単独過半数となる政党が不在という事態に陥った。民主党は同じ左派である端島共産党、はしま平和の会と連立することで議会与党の座を維持した。
 金城政権は以前にも増して政策課題に対して急進的な姿勢を見せるようになる。右派を党外へと追いやったことや菊川というバランサーを失ったことに加え、法案成立のために共産党の協力が不可欠であったためという点が大きい。特に経済に対する介入が重視され、結果的に端島開発庁時代のような統制経済への回帰の動きも見られた。

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