空。

海。

太陽。

風。

木漏れ日。

鳥。

朝。

星。

花。

夜。

木。

枯れ葉。

水面の煌き。

波紋。

潮の音。

草いきれ。

霜。

雪。

水たまり。

夕焼け。

霧。

雷。

虫の音。

家。

路。

灯かり。

笑顔。

乱れない世界の旋律。軌跡の確率で生まれたこの世界。
漠然と存在するその世界に、彼らは包まれていた。

多幸感。

神充。

彼らは今、満たされていた。
苦難を乗り越え、共に勝ち取った未来に酔いしれていた。
誰も彼もが笑顔で、次々と運ばれてくる美味しい料理に、美味なお酒に舌鼓を打つ。
大人数が集まったその宴会は会話が途切れることはない。

幸せの縮図。

それを一人の少女が、優しい笑みを浮かべて見守っていた。


「ねぇ、ムヴァ
「はい?」


大人数に回るほどの料理と酒の数々を、やっと出し終えて一息ついたところで、少女もまた同じ仕事をしていた己の家政夫を見上げた。
家政夫……ムヴァはいつもどおり微笑みを湛えているが、その縮図を見つめる琥珀色の瞳には、少女と同じような優しさが籠っていた。


「私ね、夢ができた。今までは漠然と、できたらいいなって、思ってただけなんだけど」
「はい」
「私、また旅籠を始めたい」


小宇宙を閉じ込めたような、きらきらとした眼を、更に輝かせて少女は言った。


「もちろん、今すぐって訳じゃないわ。ちゃんと勉強して、お金をためて……具体的にどうすればいいかさっぱり解らないけど、しっかり準備しておかないと、ほんとにただの夢になっちゃうってことくらいなら解る」


でもね、と少女は話を続ける。
未来を臨む、星をちりばめた瞳は、どこまでも綺麗だった。


「こんな風ね、いろんな人が集まって笑顔になれる空間を作りたい。おいしいものをおいしいって言える、楽しいことを楽しいって言える、誰かが誰かとつながっている空間を、いろんな人に提供したいの」
「……ええ、とても素敵ですね」
「その為には、ムヴァに沢山助けてもらわなきゃいけないけど……頼っていい?」
「勿論ですとも。どこまでもお供致します」


家政夫はそう破顔したところで、宴会の騒ぎが更に盛り上がりを見せた。
わっと囃す声が聞こえてくる。


「よっしゃ誰か歌え歌え!」
「歌ならやっぱティマフたちでしょー!」
「おいおい主役は最後だろ、まずは前座だ前座!!」
「ちゃんと盛り上げろよー!?」


そうしてまた、どっと笑いが沸き起こる。
酒とその場の雰囲気で、飲酒者もそうでない者も、完全に出来上がってしまっている状態だ。
その完全に解放されたかのような彼らの笑顔が、唯々嬉しい。
だから少女もまた、くすくすと笑って、その人の名前を出したのだ。


「こういう時こそ、『その人』の出番ね」
「おや、そのような御方がいらっしゃるので?」
「もう、ムヴァったら」


いつものからかいだと思ったのだ。親しい二人だったからこそ交わされるやり取りの一部だと思ったのだ。
その人は先ほど、手洗いに行くと席を立ってこの場を離れた。そういえば戻ってくるのが少し遅いな、とも思ったが、もしかしたらこの雰囲気に巻き込まれぬようにと少し隠れているのかもしれない。
それでその人はここに戻ってきたら、この家政夫の男にこうやってからかわれて、怒り、笑うのだろう。
だから。


「まぁ、テト様のお知り合いなら、そのうち会うことになるでしょうねぇ」


演技でもなんでもなく、するりと出てきたその言葉に、少女の表情が強張った。その予感を感じ取れたのは本能に近かった。
まさか、と思うのと同時に、そんなのはあり得ない、と否定する。だってこれも、いつものからかいの筈だ。
これは杞憂だ。自分の思い違いだ。嫌な予感にざわついた胸を抑える。
やがて周りでは誰かが歌いだし、更に別の誰かが躍り出した。笑い声と口笛が飛び交う。その場面に、少女が思うその人はいない。
ぞくり、と背筋が凍る。だって、こういう時は必ずと言っていいほど、誰かがその人の名前を出すのだ。その場で全員が、すべて、その人をからかうために知らないふりをすることなど、ましてやあり得ない。だってその人の歌声は、何時だって誰かの傷を覆う布だった。
……ここに欠けているものなど何一つない。そんな笑顔を浮かべてる彼らの様子が、少女は急に空恐ろしくなった。
世界は無慈悲に美しい。例え、誰か一人が傷ついても。


「……寒いのですか?」


無意識のうちに、身体が震えていたのだろう。家政夫が心配そうな表情を浮かべて少女に問いかけてきた。
聞きなれた、それでも聞けばいつも落ち着く、優しい声音。その音色すら、今の少女には響かない。


「おう、どうした?」

「ああ、ディプスさん……テト様の調子が優れないようなのです。風邪かも」

「そうか。最近急に寒くなったもんな。大丈夫か?」


笑い声の中から、かけてくる声があった。
いつもみんなの中心にいる、強くて優しい男だ。
……この人なら、嘘はつかない。
男が心配そうに顔を覗き込んでくるタイミングで、少女はそっと耳元でその人の名を尋ねてみた。


「……いや、その名前は聞いたことない。ごめんな」


男は訝しげにしながらも、心底申し訳なさそうな表情で謝ってきた。


(そんな)


世界が一瞬だけ引き離されたような感覚。


(そんな、莫迦な)


自分だけが何ともつながってないような感覚。


(だって、ついさっきまで、ここに、いたのに?)


何もかもが、遠くなった感覚。
予兆なんて、何も無かった。


「テト様?」

「……ごめん、大丈夫」

「毛布を」

「いい。ちょっと、騒ぎに酔っちゃっただけみたいなの。だからちょっと静かな所に出かけてくるね」


言うやいなや、少女は駈け出し、己の召喚獣を呼び出してあっと言う間に飛び立った。
少女を呼び止める声には見向きもしない。出来なかった。頭が混乱していた。
ぐんぐんと遠ざかる宴会、家、街並み、港……気づけば眼下には海だけが広がっていた。
風を切る音と波踊る音だけが聞こえる。聞きなれている筈のその音ですら、今は全く違う世界のものに聞こえた。


「……いかがなさいましたか?何やら、ご様子が」


騎乗していた召喚獣が問いかけてくる。気付けば心配した他の召喚獣たちも姿を現して、少女に寄り添っていた。
召喚獣が飛ぶままに任せ、俯いていた少女は、そこでやっと顔をあげた。戸惑いに揺れていた瞳が、少しだけ落ち着いたようで、それでも元気なさげに微笑んだ。


「……ごめんね、平気」

「とてもそんな風にゃ見えません!」

「シャドー!」

「それより、楽しんでいた皆さんに失礼な行動をとっちゃった」


後で謝らないと、と元気なさげに微笑む少女を見て、彼女に仕える者達は眉を顰める。
その様子を見て彼女は更に確信してしまう。嗚呼、この子たちすらあの人の事を忘れてしまっているのだと。
……まるで、その人は最初からこの世に存在していなかったかのように。
けれど、何時までも戸惑っているわけにはいかない。その場でまごついているだけでは、何も変わらないし何も解らないのだから。
そうして気を持ち直そうとした少女がふと視線を横に見やる。
……見た事のない白銀の塔が、島の一つに鎮座していた。


「クロノスの時計塔が見えるよ」

「嗚呼、もうこんなところまで来ていたのだな」


召喚獣たちがその塔を見て、普通に喋り出す。まるで最初から知っていて、最初からあの塔がそこに存在していたかのように。
勿論少女はその時計塔の事なんて知らなかった。確信もあった。あんな塔は存在していなかったと。


「降ろして」


気付けばそう呟いていた。召喚獣たちは直ぐにその命に従い、少女と共に塔の島へ降り立つ。
その人にとってかわったように存在し始めたその時計塔は、その人を彷彿とさせる淡い白銀の色をしていた。
よろよろと歩み寄って、その塔の白銀の壁にそっと触れてみる。
クロノス。あの人。どう考えても、この時計塔が……ひいてはクロノスと言う名前が―……少女はクロノスと言うのが名前だと言う事は知っていた、出逢ったことがあるから……―あの人がこの世界から忘れ去られた事と無関係だとは思えなかった。


「知らない」


誰に言うでも無く、少女は茫然と呟く。


「わたし、こんな塔、知らない」


今度こそ彼女は途方に暮れるしかなかった。帰らなければ、でも、何処へ?


「此処は何処なの?」


……彼女は紛れもなく、異邦人だった。












「おお……」


そうして突如聞こえた声。それは思わず漏れた感嘆のようだった。低い老人の声だった。
まるで気配が無かった。少女が濡れた目を見開いて振り返り、召喚獣たちはざっと音が聞こえるほど殺気立つ。
其処にいたのは矢張り、一人の老人だった。しかし老人と言うには長身で、鎧の上からでも屈強な肉体の持ち主である戦人であると言うのがよく解かる。傍には老人に仕えているのだろうか、様々な種族のヒトが何人かいて、更に様々な騎獣を従えていた。


「マリア!!」


そして、その武人は感極まった表情を浮かべて、両腕を広げて駆け寄ってきた。安易に想像がつく、少女に抱き着こうとしたのだ。
しかしそれは叶わない。彼女を守るべき存在たちが立ちはだかり、老人を妨害した。
たいそう驚いたようだが、それでも己らの使命を果たしている。


「頭領!?」

「頭領はロリコンでしたの!?いやー!不潔ですわー!!」

「お前は黙れ」


たいそう驚いたのは老人に仕える連中も同様だったようで、エルオラン族らしき幼女に至っては悲鳴に近い声をあげている。
それらを気にすることなく、頭領と呼ばれた武人は少女から歓喜に満ちた目を逸らさない。対する少女は困惑の表情を浮かべたままだった。


「何と言う僥倖。世界の特異点と成ったこの場所で、再び貴女と逢えるとは」

「訳の解らぬことを!我々は貴様なぞ知らぬ!!」

「何者じゃ貴様!!」


そう言われたものの、召喚獣たちの言うとおり、少女はこの武人に見覚えは無かった。
解らないことが多すぎる。消えたあの人、突如現れた時計塔、マリア、特異点、此処は誰、私は何処?
それでも、相手のムルゲン族の女から殺気の籠った視線を受けて少女は我に返り、気を引き締めて凛と顔をあげた。


「ごめんなさい。私は貴男を知りません」

「解らずとも良い。まさか貴女がこの世にいようとは思いもせんかった。お慶び申し上げる」


武人は胸に左手をあて、左肩を突き出すような動作でお辞儀をする。
少女はこの言葉は決して自身に向けられたものではないのではないかと想い始めた。自分を通して、他の誰かを見られている。


「人違いではありませんか?」

「まさか」


一礼を終えた武人は破顔する。見間違えるはずが無い、という絶対的自信に満ち溢れている表情だ。
そうして男は、先程まで己の胸にあてていた左手を差し出してきた。


「参ろう。貴女にはもっと相応しい玉座(ばしょ)がある」

「………ッ!!」


ざわり、と少女をとりまく力が殺気を惜しむことなく発した。そうして真っ先に男の左手に降り注いだ羽が赤い線を作る。
それに咄嗟に男は手を引っ込めたが、物怖じした様子もなく、邪魔をする存在を睨みつけた。


「ふざけるなッ!いきなりごちゃごちゃ訳の分からないことをぬかして、挙句共に参ろうだと!?」

「新手のナンパのつもりならそのやり方は止めるこったね!」

「急性すぎるのは嫌われるぜおっさん!」


口調こそは軽いが、臨戦態勢の整った召喚獣たち。少女もまた、着いていく気などないといった意思を、星の目に宿していた。
自分たちの主を傷つけられたためか、老人に仕えているらしき者達もそれぞれ獲物を構えている。
一触即発。正にその言葉が相応しい。波が静かに打ち寄せる音だけが遠く聞こえていた。
やがて、その静寂の中に呵呵大笑が響く。それは老武人のものだった。


「成程。確かに、まだ早いかの」


まじまじと少女を物色するように、無遠慮に眺める。そして。


「……十年後じゃ」


す、と片手をあげると、それが合図だったのか、殺気立っていた彼の部下たちが武器を下ろして後退し、己の騎獣にそれぞれ跨る。
そうして同じように老武人も騎獣―……虹色の光沢が美しい、最高と言われる星彩という騎獣だった……―に乗り込み、飛び立ちながら叫んだ。


「十年後、貴女を迎えに参ろう!!」


その声がはっきりと降り注ぐと、逃がさんとして空を飛べる召喚獣たちがその後を追おうとした。
しかし相手は最高の速度を誇る騎獣。更に相手の魔術師らしき男が、両手から深い霧を発生させてその場を包み込む。
その姿が見えなくなって、後を追うにも出来ない。風の召喚獣がすぐに追い風を発生させて霧を払ったが、連中の姿は既に何処にも無かった。


不気味な沈黙が訪れる。それを唯々、真っ白な時計塔は見下ろしていた。














その日、何の前触れも無く世界は生まれ変わった。







最終更新:2012年10月10日 21:57