「――なるほど、この子がどういう生命体なのか大体わかったよ」

にわかには信じ難いけどね、と付け足しながら眼鏡を上げるオタコン。
彼の周囲の街並みは凄惨なものへ変わっていた。津波が過ぎ去った後、といえば伝わるだろうか。
電柱はへし折られ、住居は半壊し、ベンチなどは跡形もなく破壊されている。さらに言えばアスファルトの至る箇所が凍りついていた。
この惨状を引き起こした原因は他ならない、つい先刻彼らを驚異に包み込んだダイケンキその人だ。

「……まるで兵器だな。使い方を間違えると危険じゃないか?」
「そうだね。シェリーに預けておくのは少し不安だよ。……巻き添えを食らいかけたし」

気難しげな表情を見せる桐生と裏腹にシェリーははしゃいだ様子でダイケンキと戯れていた。
その様子は一見すれば微笑ましいものの、ダイケンキの恐ろしさを知っている者からすれば危なっかしくて仕方がない。
とりあえず一度ダイケンキをボールに戻し、オタコンが管理することとなる。その際にシェリーに「ダイケンキと一緒にいたい」とねだられるがなんとか堪えた。
あんな危険な生命体を常時出しておくなど大人二人組の心臓が持たない。

「ダイケンキを使うのは非常事態の時だけにしよう、シェリー。きっと君を守るために支給品として配られたんだから」
「……うん」
「まぁそう落ち込むな。話し相手なら俺達がなってやる」

桐生の不器用な優しさに当てられてかシェリーの顔にパッと明るさが灯る。
ゾンビの蔓延る世界を生き延びたシェリーにとって今の状況は幾らか落ち着くことが出来た。桐生とオタコンは頼りになるしダイケンキというパートナーもいる。
レオンやクレアに守られていたときも思ったが、やはり誰かが傍にいるというのは心強い。
だからこそシェリーは安心していた。心のどこかできっと今回は誰も死なずに生き残れると思っていた。
だって相手は話の通じる人間なのだから。問答無用で襲いかかってくるゾンビとは違い、話せばきっと分かり合えるはずなのだ。




だからこそ思い知らされる。
この殺し合いという現実の無情さを。




「――――オタコン!!」

突然の桐生の叫びに反応できた者はいない。
衝撃をオタコンが襲った。しかしそれは襲撃と呼ぶにはあまりに弱い。
その衝撃の原因はすぐに理解できた。今しがたオタコンの名を呼んだ桐生が彼を覆い被さる形で突き飛ばしたのだ。
何を――紡ごうとした言葉は出ない。つい数瞬まで自分がいた場所に鋭い剣戟が走るのを見たからだ。

「おらぁッ!!」
「ッ……」

襲撃者の姿を確認するなど悠長なことはしていられない。
桐生はすぐさま立ち上がると同時に強烈な裏拳を放つ。咄嗟の反撃とは思えぬほど鋭いそれはしかし襲撃者が後方へ跳躍することで空振った。

そこで初めてオタコン達は相手の姿を確認することとなる。
月明かりに照らされた銀色の長髪と端正な顔立ちは一種の神秘ささえ感じて、同時にうっすらと帯びる淡色の哀愁にオタコンは息を呑んだ。

「……お前、何もんだ?」
「答える必要はない。今からお前は私に殺されるんだからな」

すらりと風を切る剣が桐生に向けられる。
滲み出る殺意は人の感情に鈍感なシェリーでさえも震わせた。
銀髪の剣士、A2はそれ以上の問答は不要と切り捨てるかのように剣を袈裟に薙ぐ。
白い軌跡に反して剣は獲物を求めるかのようにどす黒く、刃の赤い染みを強調させていた。

刹那、A2の姿が掻き消える。
瞬きなどしていない。しかし次にオタコンが見た光景は刺突を繰り出すA2の姿と、それを間一髪屈んで回避する桐生の姿だった。
まるで見えなかった。超人という言葉すら軽く感じてしまう彼らの一瞬の命のやり取りは自身の知る限り最も人外に近い存在、サイボーグ忍者を彷彿とさせた。

「オタコン!! シェリーを連れて逃げろ!!」
「――っ! 君はどうするつもりだ!?」
「こいつの相手をする。いいか、絶対に逃げ切れ!」

屈んだ体勢のまま拳を打ち上げ、またもやA2がバックステップで桐生のリーチから離脱する。
そうして出来た僅かな時間の中で未だ呆けたままのオタコンの意識を引き戻し要点を伝えた。
しかしオタコンはすぐに離れようとしない。恐怖で固まるシェリーを一瞥し、ダイケンキの入ったモンスターボールをポケットから取り出した。

「ダイケンキ!」
「ガァァッ!」

ボールから解放された途端ダイケンキは威嚇の声を上げ戦闘態勢へと移った。
只事ではないと察してかその行動は早い。指示されるよりも先に桐生とA2の間に割って入り睥睨をA2に浴びせた。
突然の乱入者に驚いたA2は一瞬動きを止める。その隙を見逃すほど桐生はお人好しではない。

「ッらぁっ!!」
「ぐっ!?」

踏み込んだ桐生の拳がA2の胸元を捉え強制的に数歩下がらせる。
拳の重さにA2が驚いたように桐生もまた驚愕していた。まるで鉄の塊を殴ったかのような感触と痺れが右手を走っていたのだ。
互いの心境を知らぬオタコンは立て続けにダイケンキに指示を下そうとする。が、それは桐生自身によって止められた。

「馬鹿野郎!! 逃げろって言っただろうが、オタコン!」
「! ……けど、ダイケンキを使えば僕も――――」
「てめぇが狙われたらどうするんだ!」

ハッと目を見開いた。
ダイケンキは立派な戦力だ。指示さえ的確に送れば戦いを優位に進められるだろう。
しかしその指示を送る人間は? ――ダイケンキという防衛線を掻い潜られ、オタコンやシェリーを狙われれば一瞬にして命を刈り取られるだろう。
今になって自分が命の危機に置かれていることに気がついたオタコンは背中に冷たいものが走るのを感じた。
ポケモントレーナーの器量を持ち合わせていないオタコンはその恐怖に支配され次の指示など既に頭になかった。

「……そのアシカはお前の切り札だ。こんなとこで使う必要はねぇ」
「なっ……本気なのかい!?」
「ああ。代わりと言っちゃなんだが、お前の銃を渡してくれ。俺にはそれで十分だ」

戦えないのならばせめてダイケンキを桐生に預けよう。そんなオタコンの思考は桐生の言葉に打ち消される。
正気とは思えなかった。ダイケンキがいるのといないのとでは戦力に大きな差が出る。それは桐生も理解しているはずだ。
しかし、A2も生半可な相手ではない。オタコンが攻撃の瞬間を視認すら出来なかったことからそれは痛いほどに思い知らされている。
おそらくダイケンキがいても無傷では済まない。下手をすればダイケンキが肉盾となり死亡する可能性も十分にあるだろう。

桐生一馬という人間はそれを良しとしなかった。

「……受け取れ、桐生!」

デイパックからデザートイーグルを取り出し桐生の元へと地面を滑らせる。
A2に警戒の視線を向けながらそれを受け取れば、「ありがとよ」と一言残しそれきり桐生はなにも言わずA2と対峙する。
自分のやるべきことを理解したオタコンは震える手でダイケンキをボールに戻し、未だ動けずにいるシェリーの元へ駆け出した。

「桐生! 君の頑固さはこの短い間で思い知らされた。今は何を言っても僕の負けだ! ……だから研究所でまた会った時、君が折れるまで説教してやるからな!」
「……、……ああ。楽しみにしてるぜ」

背を向けたまま僅かに横顔を見せる桐生の口元はにやりと笑っていた。
相変わらずの不器用な笑みだ。けれどそれはオタコンの決意を固めるには十分すぎる。

「お、オタコン……! カズマは、……カズマはどうするの!?」
「桐生は僕らを守ってくれている。……だから僕たちは、守られなきゃいけないんだ」
「ま、まって! オタコン! ダメだよ、カズマが死んじゃう!!」

オタコンに抱きかかえられ我に返ったシェリーが桐生へと手を伸ばす。
しかしその手は届かない。遠ざかる背中にシェリーは涙を含ませた声を荒げた。
遠ざかる足音とシェリーの声を聞いて安堵するのを感じる。心のほつれが取れた桐生は思い切りA2を睨み、拳を構えた。




「律儀じゃねぇか、待っててくれるなんてよ」

桐生の言葉通り、A2はオタコン達の姿が見えなくなるまで攻撃を仕掛けずにいた。
その気になればオタコンやシェリーを優先的に殺そうとできたはずだ。もっともそれは桐生が許さないが。
A2なりに思うことがあったのか否か。どちらにせよ、それを知ったところで両者のやるべきことは決まっている。

「……関係ないさ。お前を殺して、あいつらも殺すだけだ」
「ならあいつらは心配ねぇな。――――俺がお前をぶっ飛ばせばいい話だ!!」

疾呼。同時に肉薄を終えた桐生が鋭い右フックを放つ。
咄嗟に首を引き直撃は避けたものの顎先を掠める拳にA2は舌打ちを鳴らす。反撃の刃を翻すも桐生はそれをスウェーでやり過ごした。

――速い!

A2をしてそう言わしめる身体能力はもはや並の機械生命体を超えている。
鈍重な動きしかしない機械生命体を当たり前のように狩ってきたA2は桐生の持つテクニックとスピードに戸惑いを隠せなかった。
リーチで勝っている分距離を取ろうとしてもすぐさま詰められる。近接と呼ぶには近すぎる距離感は折角の剣も振るえず動きを阻害するだけの枷に成り果てる。
それを知っていて絶妙な距離感を保っているのならば、よほど刃物を持った相手と戦い慣れているのだと認識を改めざるを得ない。

「おッらぁッ!!」
「――!」

耳をつんざく気合と共に目前へ迫る拳。
避ける? ――いや、いい。一発ぐらい食らってやろう。
回避するために身体を動かしてしまえば反撃の手が出せない。いつまでも守りに回っていて戦いが長引き必要以上に時間を浪費するのは避けたかった。
たかが一発程度直撃したところで大したダメージにはならない。金属で出来たアンドロイドの肉体は並の衝撃など寄せ付けないのだから。
確かにこの男の拳は重い。だがそれまでだ、手応えを与え油断させたところで心臓を貫いてやれば――――


瞬間、A2の画策が弾け飛ぶ。
灰色に染まる視界にはノイズが走り、状況を理解するのに時間を要した。
重い。重すぎる。機械生命体から放たれるそれとは比較にならない威力だ。
拳大の質量とは思えない衝撃は、有り得ないと思いつつもあの巨大機械生命体のエンゲルスを思わせる。
反撃? 馬鹿を言うな。体勢を立て直すので精一杯だ。

ノイズ混じりの視界が辛うじて桐生が追撃を仕掛ける様子を映し出す。
回避に全力を注いだA2は急いで後方へ跳んだ。空いた距離は必要以上、剣の間合いより二回り以上大きい。
訂正しよう、この男からの攻撃は一撃も貰ってはならない。狩られるのは自分なのかもしれないのだから。

「お前は、何者なんだ?」

奇しくもA2は自身が投げられた問いを返すこととなる。
それを受けた桐生はぴたりと追撃を止め、暫しの会話という休息に意識を注いだ。

「ただのカタギさ」
「カタギ……?」
「要するに、ただの人間だ」

嘘をつくな、とA2は内心毒づく。
彼女の記憶データにある人類とは脆弱で、狡猾で、何よりも自己の欲求を優先する存在だ。少なくともアンドロイドと殴り合えるような化け物じみた能力は持っていない。
なのにこの男ときたら史実にあるそれとまるで逆だ。仮に人類という言葉を信じたとしてもよほどの突然変異を遂げたとしか思えない。

「そういうお前は一体なんなんだ? その身のこなしといい頑丈さといい、普通の人間ってわけじゃないだろう」
「……アンドロイドだ。ヨルハのプロトタイプの、な」
「アンド……ロイド? ……つまり、ロボットってことか?」

ロボット。その無骨な響きにA2は自嘲する。
機械生命体がそうであるようにアンドロイドもまた生物ではない。
図らずもそれを己の創造主である人類に突きつけられる形となり、A2は再び刃を桐生へと向けた。

「お前達人類には言いたいことは山ほどある――が、やめだ。言葉を交わすよりもこうする方がよっぽど有意義だからな」
「俺もちょうどそう思ってたところだ。それにロボットだってんなら、遠慮なくぶっ飛ばせるってもんだ!」

荒ぶ風をゴングに第二ラウンドが始まる。
残像を描くA2の肉薄を目で追い続く薙ぎ払いを紙一重で躱す。切っ先から生じた真空波が頬に赤い筋を走らせた。
お返しとばかりに桐生は更に間合いを詰め脇腹を狙い打つ。が、咄嗟にA2が剣の腹で受け止めたことで不発に終わる。
甲高い音が鳴り響いた。構わず桐生の追撃がA2の胸元を抉らんと迫るも、即座にA2は身を引くと同時横薙ぎを放つ。
しかしそれを予測していた桐生は屈みながら踏み込みA2の顎をかち上げる。予想通り常識外の衝撃が襲いかかり思考回路に火花が散るのを感じた。

A2は既に二度、ダイケンキの介入の件を含めるなら三度桐生の攻撃を貰っている。
当の桐生は掠りさえすれど一度も直撃はしていない。身体能力でも装備でも勝っているのにだ。
その理由は一重に戦闘経験の差。喧嘩のテクニックを知らない機械生命体を無造作に狩ってきたA2と、様々な格闘技を持つ敵と戦い技を盗んできた桐生とでは決定的な差がある。
このまま真正面からの殴り合いを続けていてもA2のダメージが蓄積していくだけ。彼女自身それを理解していた。

(なにか、策を――――)

既に何度と繰り返した後方への跳躍。しかしその距離はいつもよりも大きい。
だがその程度の距離桐生が全力で駆ければ二秒で肉薄されるだろう。
ゆえにこの策は――いや、策とも呼べない賭けはこの二秒間の行動で決まる。

桐生が力強い一歩を踏み出す。同時にA2は地面を踏み抜き、アスファルトの破片を散りばめる。
知性を得た獣ほど脅威なものはいない。既に半分ほど距離を縮め終えた桐生へ向けてA2は破片を蹴り飛ばした。
散弾銃の如く襲いかかる破片の雨。常人ならばそれだけで致命傷は免れないが桐生は当然のようにそれらを殴り飛ばしやり過ごす。


そのわずか一瞬、桐生はA2を視界から外した。


ひゅっと風を裂く音が聞こえた頃には桐生の右脇腹に熱と激痛が宿っていた。
見ればA2の剣が深々と脇腹を貫いている。しかし肝心のA2はあの場から一歩も動いていない。
――投げたのだ。桐生が破片に気を取られた瞬間の隙を突き、外せば武器を失うというリスクを冒してでもA2はそれを実行したのだ。

結果、A2は賭けに勝利した。

血を吐き悶える桐生へ無遠慮に迫り、突き立てられた剣を握り締めがら空きの胸板へ思い切り足刀を叩き込む。
吹き飛んだ拍子に桐生の身体から剣が引き抜かれた。じとりと刀身を覆う鮮血から仲間外れとなった雫がぽたりぽたりと地面を染める。
重傷の身でありながらも咄嗟に身を引いたためか手応えは薄い。現に桐生は吹き飛ばされこそしたものの未だ倒れず、両の足を地に着けて肩で息をしている。

誰がどう見ても瀕死だ。
感情を殺したA2は特に何の感慨も覚えぬまま、トドメを刺さんと疾走した。



■ □ ■ □



オタコンは研究所への最短ルートを導き出しその道を必死に走っていた。
なるべく早く、なるべく遠くへ。運動などしない身体が悲鳴をあげるのも構わずに忍びシリーズの恩恵をフルに活かして宵街を抜ける。

「――コン! ねぇ、オタコンっ!」

腕の中でもがくシェリーが糾弾に近い呼び声を向ける。
しかしオタコンは答えない。普段の穏和で優しいオタコンからは想像できないほど必死な形相にシェリーは恐怖を覚えていた。
そうした一方的なやりとりはオタコンの体力が尽きるまで続いた。

「オタコン! 戻ろうよっ! 私、カズマが心配だよ……死んじゃうかもしれないんだよ!?」
「シェリー」

シェリーの心からの訴えに対してオタコンの声は酷く冷静だった。
いや、冷静を装っているだけでその実微かに震えている。それを裏付けるかのように深い呼吸を繰り返すオタコンの顔は泣きそうなほどに歪んでいた。
そんな彼の表情を見てシェリーはなにも言えない。幼いながらも自分の言葉のせいでオタコンを困らせているのだと確信した。

「僕らは……無力だ」

シェリーを見つめるオタコンはもう声の震えを隠すつもりもない。
隠すことなどできるわけがない。自分がいかに無力な人間なのかを告解するのに感情を押し殺せるわけなどないのだ。
ましてやそれが原因で桐生一馬という一人の人間を命の危機に晒している。その事実は冷徹にオタコンを見下ろしていた。

「力がないから、僕らは力のある桐生に助けられている。力のない僕たちが今するべきことは引き返すことじゃない……助けられることなんだ。桐生は僕たちが逃げることを望んで、あの場に残ってくれたんだから……僕たちは、逃げなきゃいけない!」
「……オタ、コン……」

己の状況を噛みしめるオタコンの表情は暗い。
唇の震えは恐怖からではなく無力感からか。気がつけばシェリーの声もか細く掠めていた。

「だからシェリー、逃げよう。……大丈夫、また会おうって約束したんだ。研究所へ着いたら桐生の帰りを待っていればいい」
「……、……」

押し黙るシェリーは頷かない。
オタコンの言うことはもっともだ。それに自分が戻ったところでなにもできない事はわかっている。
けど、だからって桐生を見捨てたくない。子供という立場ゆえにオタコンの言うことを聞くことしかできない自分が悲しかった。

シェリーの無言を了承と捉えたオタコンは彼女を抱き直す。
と、踏み出したオタコンの足は止められることとなった。新たなる来訪者の姿を目撃してしまったから。


「こんばんは」


親しげな挨拶とは裏腹にその声は氷のように冷たい。
声の主は帽子を被った少年。一見無害なように見えるがその背後では恐竜を思わせる二足歩行の怪物が従者のごとく付き添っている。
だがそれよりも異常なのは少年から放たれる威圧感と殺気。少年兵よりも鋭く明確なそれはオタコンとシェリーに容赦なく突き刺さる。
オタコンは確信した。この少年は危険だ、と。

「……君は?」
「トウヤです」
「トウヤ、か。僕はハル・エメリッヒだ。……一体、何の用だい?」

考えろ、この状況を打破する策を。
いきなり襲いかかってこない辺り何か目的があって近づいたはずだ。
不安げにオタコンの服を握るシェリーは何も言わず小刻みに体を震わせている。賢明だ、とオタコンは思った。
言葉一つが刺激となりえない状況では迂闊に攻め入れない。シェリーの一言が琴線に触れる可能性は潰しておきたかった。

「ハルさん。貴方の腰に提げたそれ……頂けませんか?」
「――モンスターボールか」

トウヤの指差す先はオタコンの持つモンスターボール。
オタコンにとって切り札であり、桐生の守るべき対象であるそれは簡単に渡せるものではない。
これを渡してしまえば自分達を守る最後の存在を、桐生の意志を捨ててしまうことになるのだから。
ゆえに迷う。すぐに返答を返せずにトウヤの念押しを許してしまった。

「断ろうとは思わないでください。貴方がポケモントレーナーじゃないことくらいわかっています。……それとも、そのポケモンでオレと戦いますか?」
「……っ、……」

選択肢が潰される。ダイケンキを呼び出しあの恐竜に不意打ちを食らわせれば逃げ切れるかもしれないという希望は幻想と果てた。
この少年には隙がない。ダイケンキを出そうものなら即座に攻撃を加えてくる――言外の警告がオタコンから選択権を奪った。

「わかった、君に渡そう」

えっ、と腕の中でシェリーが驚愕の声を漏らす。
当然だ。オタコンは今、仲間を売ったのだから。自分の命欲しさにダイケンキというシェリーのパートナーを見ず知らずの少年の手に渡したのだ。
なんで、というシェリーの疑問にオタコンは答えない。額に汗を滲ませながらダイケンキの入ったボールをトウヤへと投げ渡す。
それを受けとったトウヤは興味深そうにボールを見つめ、ダイケンキを解放した。

「へぇ、ダイケンキか。これは中々使えそうだ」

咆哮を上げるダイケンキは己の主となったトウヤを睨む。
まるで積年の恨みが込められているかのような眼光をそよ風のように受け流して、トウヤはオタコンと向き直った。

「ご協力ありがとうございます。貴方が聡明な方で助かりました」
「……これで、僕たちを見逃してくれるのかい?」
「はい。どうぞ、行ってください」

トウヤの言葉に従いオタコンはダイケンキに見向きもせずに踵を返す。
自分を裏切ったと言いたげなダイケンキの目をこれ以上見たくなくて。一刻も早くこの場から立ち去りたいと目を背けたのは至って正常な判断だろう。


「――待って!!」


だがシェリーは違った。
オタコンの肩口から顔を出しトウヤを、ダイケンキをまっすぐに見つめるシェリーの目は水の膜を張らせながらも決して逸らされることはない。
まずい、とオタコンが彼女を止めようとした時にはすでにトウヤの瞳はシェリーへ向けられていた。

「その子をどうするの!?」
「……君のような少女も殺し合いに呼ばれているんだね。意外だよ」
「答えてよっ!」
「使うんだよ、戦うためにね。……ポケモンってそういう生き物だろう?」

シェリーはポケモンという存在に触れて間もない。彼らがどういう生態なのかも分からない。
けどトウヤの言うことはちがうと自信を持って言えた。少なくとも、トウヤに従うのを嫌がっているダイケンキは戦いを好むような性格じゃないはずなのだ。
それを無理やり戦いの道具にしようとしている。個々の意志を無視して他者を襲わせるなんて、まるでゾンビだ。

「ちが――」
「駄目だシェリー!」

けど、シェリーの思いがトウヤに届くことはなかった。
シェリーをより強く抱き締めることで言葉を遮ったオタコンは十分に休息の取れていない足を無理矢理に動かしてトウヤとの距離を離していく。
プライドなんて捨てた。みっともないと笑われたって構わない。それでもオタコンは生きなければならない理由があるのだから。
腕の中でシェリーがオタコンの名前を呼びながら暴れ回る。
オタコンは聞こえないふりをして、近い二度目の限界が訪れるまで己の身体を痛めつけた。




「…………」

オタコンの背中を見送ったトウヤは唸りを上げるダイケンキを睨み返す。
ここまで反抗的なポケモンは初めてだ。イッシュ最強のトレーナーという肩書きは伊達ではなく、ほぼ全てのポケモンを従わせる力がある。
だというのにこのダイケンキはそんな素振りを見せない。
さぞ前の持ち主に可愛がられていたか、自分という存在に恨みがあるか。そのどちらかだろう。
考えられるのならば前者か。自分に恨みを持つトレーナーにダイケンキの使い手はいなかったはずだ。

「ベルのダイケンキ、というわけでもなさそうだしね」

ダイケンキを手持ちに加えているトレーナーで一人思い当たる人物の名を口にする。
彼女の持っていたダイケンキは穏和な性格だった。本当に戦えるのか、と疑問に思うくらいに。
だがこのダイケンキは見るからに気性が荒く、闘志を剥き出しにしている。どちらかといえばチェレンのほうが当てはまるかもしれない。

「まぁいい。ダイケンキ、お前は今からオレのポケモンだ。……いいね?」

モンスターボールの持ち主には逆らえない。
その枷を与えられたダイケンキは横に首をふることができない。
せめてもの抵抗で無言を貫くものの、トウヤはそんなのお構いなしとばかりにオタコン達が逃げてきた方向へ歩を進めだした。

彼らが逃げてきたということはそれほど危険な存在がいるということだ。
胸が躍る。ゲーチスのような”小物”ではなく自分がまだ知りえない存在と出会える可能性があるのだから。
規則正しくアスファルトを鳴らす足取りはまるで執行人のように、着実に混沌へ向かう。


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最終更新:2020年08月07日 18:16