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金の獅子の背に乗って
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金の獅子の背に乗って

第10話

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「灯の綱(後)」


街中に流れる水路の影響か街全体が幻想的に朧掛かったように見える。その街の一室のベッドで朝日を迎えた1人の人物がひょっこりとその小さな頭を起こす。
「うーん。眠い…」
差し込む日差しを恨めしそうにしつつ、まだ開ききらない目を擦りながらまどろみの時間を過ごしている。
ここはヴェネツィア。多くの文化と美術と戦争と宗教が重なり合って後世に名を残すほどに美しく発展した街である。長靴に例えられるイタリアの国でその根元に位置するこの街は東のアラビアと西は欧州のちょうど分け目に位置している。伝統と革新が繰り返されてきたこの街では数多くの喜劇と悲劇が繰り広げられてきた。「戦禍は近くとも街は美しい」この地を評したこの一言がなにより全てを物語っていた。

寝起きで統制を知らない髪をさっと櫛で流し、きゅっとリボンで2つに結い上げる。淡い栗色に光る髪が縦に巻くように整えられ、部屋を歩くたびにその房が軽やかに弾んでいる。
身を整える一連の動作は慣れた手順を追っているだけのようにもみえ、その顔にはまだ完全には思考が覚めきっていない事を思わせるように時折瞼が視界を奪おうとしている。
彼女が起きた後の枕もとには「考古学、発掘学総論」と題打つ書籍が置かれている、夜遅くまで手に取っていたものだが、つい夢中になって就寝が遅れ、いつもはスッキリと起きられる彼女が普段通りにならないのが最近の悩み種だった。
「んと、忘れ物は・・・ないね。」
ようやく綺麗に片付けられた部屋を見渡し、体の割には大きな鞄を手にとって彼女は部屋を出た。
「いよぅ、レナータ。もぅ出発か?」
宿の主人が階段を下りてくる彼女を見つけて挨拶してくる。同じくらいの娘を持つ彼にとって彼女が忙しく発掘で駆けずり回る姿がたまらなく愛しく、彼女がここへ宿を取る時には我が子のように接してくれている。とは言うものの、彼女とて少女でもなくれっきとした1隻の船の提督なのだが、宿の主人はそんな事も構わず彼女を少女扱いしていた。
「ウチの娘もな、レナのように強く、美しくなってもらいたいんだがな。」
この言葉が彼の口癖だった。
「でも、親父さん。私と同じだと会えない日が続くのよ。1ヶ月、ううん1年以上も会えないかも知れないのよ。」
「それは、困るな。娘に会えなくなるとワシは皺だらけの爺さんになってしまう。」
「ふふふ。親父さんみたいな人に愛されてる娘さんはとても幸せね。」
「そうだな、こう言ってはなんだが。ウチの娘は街一番だと思っとる。」
「なら、強くなくても。きっと守ってくれる人が現われるよ。」
「なに?イカン、イカン!娘は誰にもやらん!」
「そんな事言ってると娘さんに嫌われるんだよ~。『好きな人を許してくれない』てね」
「嫌われるのはイカン、でも娘は誰にもやらん。」
「うーん。悩む事一杯だね。親父さん、宿代置いとくよ。」
「おぅ。気をつけてな、今度は何処へ行くんだ?」
「マルセイユ経由してイスパニアへ行こうかなとね。」
「分かった、また泊まりに来てくれ。あぁそうだ、あっちに朝食があるから食べていくといい。」

いつも面倒見の良い宿屋主人の心遣いを受けながら、香草を練り込んだパンとベーコン、そしてこの宿自慢のフルーツジュースをゆっくりと堪能する。ごく一般的な料理だがこの素朴さと宿の雰囲気、そしてあの主人だからこその味だと出された料理を綺麗に片付ける。
「アンタはいつ見ても美味しそうに食べるねぇ。」
他のテーブルから食器を下げてくる宿の夫人が嬉しそうな顔を浮かばせている。
「うん、ごちそうさま。また来るね。」
頷きながら返事する夫人、大きな鞄を提げてレナータは宿を出た。
「さてと船の準備はできてるかな。」
ヴェネツィアの街も彼女が動くに合わせるように行く道先で店が開いてゆく。縦横に張り巡らされた水路はこの街では陸路以上の通行手段である。それゆえ、ヴェネツィアは「水の街」」とも「橋の街」とも呼ばれるのである。また、街中にはいたる所に先達の偉業を称える美術品が並び近郊からは良質の大理石が採掘される事でも有名で今もミケランジェロを始め多くの芸術家が互いにその腕を競い街中に数え切れぬほどのアトリエと工房がひしめき合っている。そんな環境がまた新たに功成らしめんとする芸術家を呼び寄せ「芸術発端の街」としてもその名をあげつつあった。その背景には多くの貴族、王族が惜しみない金銭を彼らに与える為で、逆を言えば良いパトロンを得ようとする欲望が渦巻く街と現しても過言ではなかった。そんな街の通りをレナータは港へ向かって歩いている、どことなく吹き過ぎる風がせせらぐ水音を運んでくるように彼女の耳を掠める。往来は徐々に人の数を増し、出来立ての菓子を運ぶ者、花を売る者、慌しく駆け抜けてゆく者、水路を使って移動する荷運び、それらはレンガと石畳と白い壁と見事に調和し見るもの全てが一枚の絵画のように映る。港まで数本の水路を渡り、そびえる大聖堂の裏手を通り抜け、工房群が立ち並ぶ区域でノミ打つ音を聞くいつもの道順をいつもの歩調で歩きぬけ港へと到着する。
「おはよー。船の準備できてるかな?」
「ばっちりです。と言いたいんですがねぇ」
「あら?」
「ここ連日で海軍が出撃したとかで、物資の集まりがイマイチ・・・」
「あちゃ。また足止め?」
「シラクサかナポリぐらいまでなら風向きと節約次第では十分いけますが。」
腕を組んで何かを考えるレナータ、報告どおりにシラクサまで出るというのも一つの手でもあるのだが。
「今回の出陣は対オスマン?それとも他のこと?」
「前者のようですな。まぁ、毎度の事と言うべきでしょう。」
「うーん…」
彼女にとって今回の出航は特に急いだ事ではなかったが、全く用件が無い訳でもないが、出航に時間を取られては数ヶ月先に始まるカルネヴァーレまでには事を片付けたいと思っている。
「どうしやす?」
そんな提督の気持ちを察してか否か船員の声は普段と変わらない。
「これは困ったゾ。」
しっかりと腕組みをして考えるレナータと同じく港で同じく考えている提督もチラリホラリと見え隠れしている。さっぱりと諦める者や、航路を変更して港を出る者それぞれ半々と言ったところだろうが、レナータにはどっちも選択肢として選ぶに困っている。
「対オスマンだとチュニスが近場ね…そうするとシラクサかカリアリが溜まり場になっちゃうし…ねぇ、もっと情報ないかな?」
首を振る船員を見てレナータは少し項垂れる。
「よしっ。あと2日で集められるだけの物資を集めて頂戴。そうしたら海軍だろうがオスマンだろうが関係なしに出発しましょう。」
「了解でさ。」
レナータは港を後にした。来た道をそのまま戻りながら角度が変われば景色が違って見えるこの街の不思議さをいつものように感じている。くるりとその足の向きを変えると広場を通り抜けて1軒の建物へと入っていく。
「こんにちわっ。」
明るい声が響く。その一室はとある女性が主催するサロンの場である。レナータもここへ良く出入りし、歴史や文化について論議、検証する輪に加わっている。
事の経緯を軽く説明すると、今回の出征に関しての情報や憶測が返って来る。そして、憶測は歓談となり鼎談となり議論へと発展した。
「そもそも、今回の出征は国家の財政を逼迫するにしか至らず、国策として…」
「オスマン帝国によるわが国への挑発は甚だしく、威厳と信念を持って…」
「大儀なくして出征の筋は通らない。国家に利益なくしては…」
この一室に集まる見識者は思い思いの言葉をつなげている、どれを取っても微妙なバランスを要求されるヴェネツィアを愛すればこその発言でもあったが、レナータにとっては退屈な議題だった。
「(今日は国ネタか…これなら書庫へ行けばよかったかな…)」
少しつまらなさそうに手元の紅茶を味わっている。
「諸君らの愛国心はよく分かった。この議論はここまでにして…」
ようやく話が纏まりそうになって、ほっとするレナータ嬢。
「時にレナータ。最近、商会に入ったそうじゃないか。どんな感じだい?」
いきなりに入室からこれまで大して発言していない彼女へ向けて質問が飛んでくる。
「え?あ、えぇ…まだお会いしてない方も多いですが。」
目を丸くするように受け答えするレナータ。
「商会ってなに?」
「ここのサロンを抜けるの?」
サロンという独特の文化を持つこの国には「商会」というシステムは馴染みが少ないようだった。それに対してレナータは一つずつ丁寧に答えていく。レナータのように航海を生業とする者はそんな受け答えを捕捉しつつ、いつの間にか室内は異国文化論についての議場となっていた。レナータもその中心として各国での見識を披露しつつ思想や文化の違いを誰とも負ける事無く口を動かし続けている。
「さてさて、皆さん。議論は尽きぬとも体力は持ちますまい。ここら辺りで休憩をいれませんか?」
朝に始まった議論はいつの間にか正午を過ぎている。
手持ちの紅茶は切れ無く注がれているが、その一言を聞いて一堂そう言えばと空腹を確かめる。
レナータは周囲と挨拶を交わし部屋を出る。後半は充実した時間を過ごすことができたとその顔も満足そうに見える。
「食事が終わったら書庫でも行こうかな」
僅かな披露にも関わらず足取りは軽い、食事はなじみの食堂。地元の人に愛される郷土料理を食べさせてくれる店へと向かう。
「商会って…こんな感じなのかな~」
道すがらレナータの口から率直な疑問が突いて出る。本格的に商会員として活動をしたわけでもなく、面識のある人も指折りほどでは心許なさが先行して彼女を支配している。
「2日後か、少し頑張ればセビリアまで行けるかな…」
決まった足取りで通りを抜け、決まった店へと入っていく。
思わぬ空腹に運ばれたパスタを口いっぱいに頬張る。
「ん…美味ひぃ。」
幸せそうな顔を満面に湛えている。
「ホントに怖い人が居たらどうしようかな…」

「…クシュッ!」
「あら、珍しいわね貴女が風邪?」
「ん…」
アテネの路地を歩くライラはアンレーデを笑いながらからかっている。
「んー。いきなり…なんなのかしら。」
「日頃の不摂生が祟ってるんじゃない?」
「不摂生は否定しないけど、これはそれと違うわよ。」
「どうかしら?」
肩を竦めるようにライラの言葉を否定するアンレーデ。
2人はベイルートでの調査を終えてこの地に代理報告の手続きで上陸していた。学術的に貴重な遺跡が北欧のそれを凌駕するほどにそこらかしこに点在するこの地は2人に大きな刺激を与え、そしてその刺激は学術的欲求を多いに盛り上げ、知らずにこの地へ逗留する日数が増えていた。
遺跡の規模はもとより、この地の学者の知識は驚くほどに高く。またその影響はこの地域の住民にも及ぼされていた。今はイギリスの領地としているものの、東地中海を挟んだ先には広大な砂漠が広がるアフリカ大陸も控えている。さらには黒海へと続いた先にはオスマン帝国の本拠地イスタンブールもあり、大規模な軍事作戦が過去に幾度も繰り広げられているが、微妙なバランスの元に今は遺跡保護が成り立っている。無論、それはその遺跡に関してなんら価値を見出せない事も重要な要因でもあったが、学者にとってその行為は賞賛に値すると価値観の相違が双方に利益を与えるという不思議な関係が成り立っていた。
「酒ばかり煽ってるからそうなるのよ。」
「それだったら、ライラ。貴女の方が加減なしじゃないの。」
「私は適量よ。」
「どこにあれだけの量が入るのかしら。生物学者として非常に興味あるわね。」
「あら、私は研究対象なの?」
「いつでも誰でも対象よ。」
「よろしい本懐である。」
それは軍人のような口調だった。
「なにそれ?」
学者としての名声が高まるライラの言葉はアンレーデの笑いを誘い、笑いの止まらないアンレーデは口を押さえつつ必死に我慢している。
「こう見えても元軍人よ」
「それは知ってるけど…ダメ…笑いが止まらないわ。」
「ふふふ」
しめしめと拳を握るライラは少し勝ち誇ったような顔をみせている。
2人は酒場で手馴れた代理報告の手続きを完了させると、そのまま空いている席へ着く。
「セイジから手紙が届いてたわね。」
「あらそうなの?」
「アンレ…貴女、学者でしょ。それで重要書類を紛失したらどうするのよ。」
「今の所それっぽい形跡ないから大丈夫よ。」
「相変わらず前向きと言うのか…なんとも…。」
「それで、セイジ君は何って?」
「新しいメンバーが正式に許可降りたって…、これって重要書類よね?」
「あ、すいませーん、お茶をくださいな。」
「殴るわよ…」
「…ゴメンナサイ」
アテネは特に魚介類を使った料理がつとに評判なのは航海者のなかでは通説で、2人の前にもその例に漏れずスズキを香草と共にグリルした料理が置かれている。
あれこれと料理の薀蓄と感想と世間話に耽る。
「商会も良い方に恵まれたわね。」
「アンレ勧誘部長のお陰よ。」
「何言ってるの、一番の功労者は商会長よ。」
「そう言われてみればそうね。」
「普段はあんなに飄々としてるのに…姫もガンバッテね。」
「それなりにはやってるわ。」
スズキの香草グリルは綺麗に片付けられ、酒が入っていないことに少し物足りなさを覚えるもののまだやるべき事が残っている、否、これから作ろうとしている2人には今の所酒は欲しくても飲めない理由があった。
今もこの海域は西と比べて全く安全というわけでもない、街の角々で聞こえる海賊の噂は尾ひれがそこらかしこに装飾されかくもこの近隣の海域が全て海賊に支配されているようにも聞こえている。しかし当の海域をコレまでどおり往来する2人にはそんな情報を得つつも西のそれと変わらないように探索の旅を楽しんでいた。考古学的食指を動かされるには十分なこの地はアンレーデにとっても十分魅力を感じているものの本来は生物学者としての生業を立てている為、正直に言えば専門外といえばそうであった。こうやってライラという強力な相方の存在がなければとっくにこの地を見切っていたのだろうと香草の余韻の残る口腔感と印象を食後の茶と共に感じ取っている。
「ねぇアンレ、なにしよっか。」
表情に余裕を感じさせる面持ちを見せるライラに対しアンレーデは手荷物から資料を取り出しライラへと手渡した。
「これは?……うん、あぁ。うんうん」
資料へ目を通しながら1人で納得するようにライラは数回頷いて考えている。
「以前、ロンドンの貴族からの依頼を受けたでしょ、それに関連するかどうかはまだ分からないけど、探してみるには面白そうなネタじゃないかしら?」
ざっくりと資料に目を通したライラの表情には十分に自らの探究心を刺激されたという証拠として大きな瞳に輝きを湛えている。
「(私はこんなにも純粋に輝きを保たれているのだろうか…)」
ライラの表情に気圧されつつアンレーデが抱いた感情はその心に小さな影を落としていた。
「これは考古学的にも貴女の専門的にも十分すぎるほどの意味を持たせることが出来るわね。」
その思考の先にはすでにこれからの航路や手順計画が着々と組み上がっている事を感じさせるように、時折言葉を止めては何かを確認するようにじっと考えふける。そして「うんうん」と頷くとまだ何も進んでいない状況にも関わらず楽しげなリズムで口を動かしている。
「アレクからか。楽しそうね、他にぱっとした依頼もなかったし、これに行きましょうっか。」
好奇の心を抑えきれぬような軽やかな言葉がライラから聞こえる。
「でも、さっきまでの依頼と違ってこれは少し本格的な準備が必要になるわね。うん、これからでも準備に取り掛かる?」
「そうね」
ライラの勢いに押されてアンレーデは一言二言の返事を返すのがやっとという感じになっている。彼女の思惑以上にライラの反応が過剰でその戸惑いと新発見がどこか嬉しくまた寂しくも感じていた。
「そうと決まれば…」
そう言うなりライラの顔が俄かに真剣味を帯び、すっとその視線が宙を凝視する。
まだ何かあるのかとアンレーデは気付かれぬように身構える。
「船倉の魚肉を卸さなければね。」
その真剣さとは裏腹な発言内容に何をどう返して良いのか躊躇するアンレーデ。
「ふふ、とりあえず準備ができたら連絡を頂戴。私は並行して魚肉と闘ってるから。」
了承の旨を確認し合い2人は店を出た。
紺碧に染め抜かれた空と対照するように白壁の街がその日差しを浴びて美しく広がっている。エーゲ海は静かなその容姿を絶やす事無く、白く延びる水平線でようやく空との境界を保っている。周囲には活火山を含む島々が多くその優美なる景観が時折損なわれる時節もあるものの、ここ数ヶ月は小康状態を保ちその美観を堪能することができた。アンレーデはそんな街並みの美しさを見慣れるまでにはまだ少し掛かるなと自答しながら港へ向けてゆっくりと歩いている。
船中はいつもと変わらず片付けと掃除と整備に往き来する船員の靴音が規則的なリズムを刻んでいる。船員との挨拶も軽く済ませるとその足は倉庫へと向かった。今度の調査は石の中に眠るものを探し出す大掛かりな事になるため、相応の準備が必要だった。冒険稼業を続けてきた彼女の船にはその生活に見合うほどの器材が準備されているものの、やはり本職外の仕事に当たるには若干の甘さがあると本人は考えていたが、一角を占領する器材を見ては海を行くために必要不可欠な物資を積み込む余裕すらなくなるとやりきれないジレンマに駆られていた。
「ふむ、仕方ないな。やはりこれ以上は増やせられないしね…」
使い込まれて整備されていてもボロと分かる部品、修理の痕も所かしこに見える誇らしげに次の出番を待つそれらの前で軽い溜息を一つ漏らすと無愛想に振舞う器材を背に向けて船倉を出た。
「副長!」
アンレーデは胸のモヤモヤを吹き飛ばすように語気強く声を出した。提督の声に動じる様子も無くゆっくりと現れた副提督に次の調査内容を伝える。
「そうですな…」
顎鬚で遊ぶような仕草を見せながら考えている副提督に向けて必要なものがあればその由をリストアップするように言い残すとアンレーデは自室へと向かった。

エーゲ海にゆっくりと沈む太陽の日差しがエーゲ海に反射して街を朱色に染め抜いている。昼間の喧騒も沈静を取り戻す準備に取り掛かっているように人の足並みをゆっくりに変化している。街中のカフェに少しずつ明るさが灯され始めている。と同時に昼間とは違った賑々しさがひっそりとその店内から見え始めている。
そんな街の様相とは逆にまだ若い船員が船中を駆け回り提督を探していた。
「あれ、どこに…。」
昼には戻って着ていた提督の姿が何処にも見当たらない、普段は広いと感じない船中もこうやって誰かを探す為に動き回ると存外に広く感じるものだと額に汗を滲ませて甲板に辿り着いていた。そこには一日の仕事を終えた中堅の船員が仲間と夕刻を肴に歓談している。
「あの、提督は何処に?」
「今日は街中の宿に泊まるってよ。どうした?」
「ライラさんの船から伝言が来たのでお伝えしようかと、提督の宿はどこに?」
「止めとけ、今行ったらぶん殴られるどころじゃ済まんぞ」
「え?」
「今日のように大きなカバンを持って街宿に泊まる時は何かしら機嫌が悪いときさ、近寄ったらタダじゃ済まねぇぜ。」
「そうなんですか…。」
「戻られた時にお伝えすりゃ良いだろ。」
「はぁ…」
「まぁ、有事の際には提督不在ってのは不安だが、悪いことばかりでもないぜ。」
「どうしてですか?」
「こういう時は俺らに酒代を置いてってくれるのさ、一晩飲むには十分すぎるほどのな。」
「え?ボクはまだ貰ってないですが。」
「副提督のオッサンが持ってるからよ、貰ってくると良いや。俺らはこれから飲りに行くところよ。」
「あ、ちょっと待ってくださいね!ボクもっ!」
今まで見せたことのないような駆け足で若い船員は船中に戻って行く。
「さて、提督サマは何を悩んでいるのかねぇ。昼間はそんな風に見えなかったが」
「さぁね。それより提督サマの悩みより今晩の酒が俺には大事だが」
「違いない。」
そう笑っている船員のもとに若い船員が戻ってきた。
「お待たせしました!」

窓の外には街が夕刻から夜へと移り変わる準備を整えている。そんな街の動きを全く気にすることなく部屋のテーブルにはコルクが抜かれたワインが次の役目を待っている。
カバンを手に街へ降りたアンレーデは何処が定宿と言うわけでもなく、適当に目に付いた宿のドアを叩いていた。大通り近くはなにかと五月蝿いと少し小道に入った所にあるこじんまりとはしていても瀟洒な宿だった。
「最近はお嬢さんのような1人旅が流行っているのかい?ここら辺はそれほど安全じゃないよ。」
と少し怪訝な表情を浮かばせながら呟いていた。
「ありがと。でもお嬢さんって呼ばれるほどの歳でもないしね。」
さらりと笑顔で答えるアンレーデをみてまだ何か言いたげな顔を見せたが、渋々に彼女を部屋へと案内した。
ベッドに小さな机、テーブルに2脚の椅子があるだけの極ありふれた一人部屋にアンレーデは通される。
ワインをお願いと部屋を離れる主に告げて、手に持つバッグをベッドへと投げ置きながら椅子に座りワインの到着を待つ。僅かに耳にへと入ってくる街のざわめきを静かに楽しみながら自らの心にある動揺に近い黒い蠢きを同調させまいと深く深呼吸する。
届けられたワインはマルセイユから持ち込まれた一本だった。
早速に封を切り夕日と宵闇が交錯しながら映り込むグラスを深紅へ染めるように注ぎ込む。
洒落た店ならグラスの下3割ほどに注ぐのが作法とされているが、今の彼女にとってはそんな事に構う事無く8割ほどに満たされている。一頻り沈静の時間を持ったアンレーデはルビー色のワインを一気に流し込んだ。

自分以外誰も居ない部屋の中でアテネの街風を取り入れながら何をするわけも無くじっと押し黙っている時間が過ぎている。外はしっとりと暮れて往来する人々の数もめっきり減っている、窓から望む景色にも建物からもれる灯が満天に広がる星空に似て地上に広がっている。彼女が干したワインは2本目になろうとしている、見かねた宿の主が軽いつまみを差し入れしてくれたが彼女はそれを一口二口と手を付けただけでもっぱらワインを手にする時間の方が多かった。酒で火照った体にベルベットジュストコールが邪魔で浅黄色のシャツ姿での晩酌を続けている。
「トーレスに姫、イザ、ケン、アイメル、ゴーダ、セイジ、マッテン、ヒロッチ…」
ゴールデン・ルーヴェに所属するメンバーの名前を指折り数えている。
椅子を部屋の中心から窓辺へと移して、往来の人々を見ながらワインは彼女の喉へと消えて行く。
「どの人もみんな輝いているわね。私は今何をしてるんでしょうね…」
アンレーデの少し青色掛かった瞳が月の光の加減で少し潤んでいるように輝いている。いつもと変わらない無造作に整えられているシルバーグレイの髪を櫛上げながらさらにワインを呷る。アンレーデの心情を他所にゆっくりと流れ入ってくる街の風が彼女を飾る水晶の耳飾を揺らす。月光を湛えて揺れる耳飾はその命を精一杯に生きようと自らを光らせる蛍のようにその光跡を部屋の中に留めている。
「ねぇアンレ。貴女って背負い込みすぎる感があるわよ。折角、皆との繋がりがあるんじゃない、自分で掴んだ綱を忘れちゃだめよ。」
不意にライラの言葉が脳裏に浮かぶ。
「はは…」
力ない言葉が漏れる。
頬に伝うものは紛れも無く手に覆われた先の瞳から溢れたものだった。
たまらず手元のワインを飲み干す。そしてそのグラスに自らの顔を映しこむ。
「情けない顔…他人を妬んでる嫌な人の顔だわ。」
自らの顔に向かって払拭しきれない胸の夾雑物がそうさせるのよと言い訳とも苦言とも取れる言葉を独り言のようにつらつらと並べ立てる。しかしどれも彼女の気を晴らす決定打にはなっていなかった。
「この手に掴んだものはこんなにも脆弱だったとはね…」
頼りない両手、決して綺麗とは言えない傷だらけの両の手を握り締めながら彼女は視線を窓外へと移した。
そこには良い具合に出来上がった人がチラホラと見えている。その中には彼女が知っている者もいるだろうが強いて探すほどの余裕は彼女には無く、ただ悪戯に見ているだけであった。
グラスに付いた指の跡がその酒量を思わせる、シャツのボタンを外してともすれば胸元がはだけそうな格好になっている。無為な時間とも思える半日を一室で過ごした後、彼女は投げ置いていたバックを手に取ると隅の机に就くと便箋を取り出した。
「親愛なるケンケーンへ…」

(灯の綱 完)
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